『ザ・サークル』
1958年、チューリヒ。教師を目指すエルンスト(マティアス・フンガビューラー)はパーティーで歌う若いドラァグ・クイーン、ロビー(スヴェン・シェーカー)に魅了される。エルンストの不器用だが誠実なアプローチで結ばれるふたりだが、ゲイであることを家族に受け入れられているロビーは、恋人が両親になかなか紹介してくれないことが理解できずにいた。
戦前に発刊し1960年代まで欧米のゲイ・コミュニティの中心を担った地下雑誌「ザ・サークル」の歩みを背景に、スイス初の同性結婚を果たした実在のカップルの愛の軌跡を描く。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞。
よく考えたらスイス映画ってあんまり観る機会ない。記憶にある限りでは、ドキュメンタリーを別にしてスイス映画って初めてかもしれない。
そのなかでもゲイのための地下雑誌の話ですからまあ地味です。マニアック。
それを現代の本人インタビューを交えながら淡々と描いてるんだけど、この手法がなかなかおもしろい。スイスでは同性愛は犯罪とはされていなかったものの、それでも当時は世間に知られればたちどころに社会的地位を失うほど差別意識は充分に根強く、美容師のロビーはまだしも教師のエルンストにとって「ザ・サークル」の仲間たちとの繋がりは生き甲斐でもありながらリスクでもあった。エルンストは一本気な堅物ではあっても決して要領がいい方ではないから、観ていてものすごくドキドキする。いつバレる、どこからバレるんだろうと常にはらはらさせられる。
その一方でかわいいロビーとのあつあつぶりは観ていて微笑ましい。客席全体がなんだかにやにやさせられてしまうくらいである(見たわけじゃないけど)。地下雑誌のアイドルだった若い歌姫とマルチリンガルのインテリ。きっとお互いに自慢の彼氏だったんだろーなー。
性的少数者であるというハンディキャップを抱えて孤独に生きるゲイたちの心を支えあたため、互いを結ぶ重要な役割を果たした地下雑誌の歴史は、そのままスイスのゲイたちが市民権を獲得していくまでのまがりくねった長い道程に重なっている。違法ではないにも関わらず当局の弾圧を受けながら2,000人の会員たちの拠りどころであり続けた「ザ・サークル」だが、やがてその役目を終えるときがやってくる。残酷ないい方だが自然な時代の流れの結果だし、ある意味では決して悪いことではない。
しかしいちばん大切なことは、いまを含め、後の時代に生きる人々は決して、彼らの苦しい闘いの年月を、その嵐の中で燃やし続けた魂の灯火を忘れるべきでないということだろう。そうして流されて来た血と汗と涙のうえに、われわれは暮しているのだから。
劇中、インタビューで「ザ・サークル」を主催したロルフ(シュテファン・ヴィチ)についてインタビューで語られる部分がとても印象的だった。ゲイの自由や権利だけでなくゲイたるプライド、ゲイのあるべき姿を真摯に追求していたロルフは「ホモ・セクシュアリティ(同性愛的指向)」という表現を嫌い、「ホモ・エロティック(同性愛)」といいたがったという。同性愛は指向のひとつではあっても決して特異ではない。相手が誰であれただ愛する人のそばにいたいという、人としてごくふつうの愛情だからといったそうだ。
確かにそれはその通りで、インタビューに登場する現在のエルンストとロビーは長年連れ添ったごくふつうのカップルでしかない。ロビーが果物をきり、エルンストがテーブルを整える。何十年もそばにいていろいろなことをともに乗り越えてきて、いっしょにいるのが当たり前、それぞれの役割によって相手を支えあいながら暮している家族であって、性別は特に問題じゃない。昔、香港の映画監督・關錦鵬(スタンリー・クァン)が自分とパートナーとの話をしていたのを思いだして懐かしくなった。彼もパートナーがいるオープンリー・ゲイだ。食事中にテーブルクロスが汚れたら、監督が汚れを拭いて、パートナーが汚れを拭いたティッシュをかたづけるといっていた。ふつうだ。
ふつうの人たちの地味にふつうの話なのに、劇中では大勢の人がばたばたと命を落とす。暴力もある。弾圧もある。悲しい。
彼らは何のために死ななくてはならなかったのか。何が彼らを死なせたのか。
人は違いを理由に簡単に人を誹り蔑むことに躊躇しないけど、そのことで、これまでにどれだけの人が無惨に殺されて来ただろう。彼らにも人生があり、夢があり、大切にしているものがあった。当たり前に、ふつうに。
現在のエルンストとロビーの笑顔が幸せそうなだけに、亡くなってしまった人たちにも、こんなふうに幸せになる権利があったのになと思えて、せつなかったです。
1958年、チューリヒ。教師を目指すエルンスト(マティアス・フンガビューラー)はパーティーで歌う若いドラァグ・クイーン、ロビー(スヴェン・シェーカー)に魅了される。エルンストの不器用だが誠実なアプローチで結ばれるふたりだが、ゲイであることを家族に受け入れられているロビーは、恋人が両親になかなか紹介してくれないことが理解できずにいた。
戦前に発刊し1960年代まで欧米のゲイ・コミュニティの中心を担った地下雑誌「ザ・サークル」の歩みを背景に、スイス初の同性結婚を果たした実在のカップルの愛の軌跡を描く。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞。
よく考えたらスイス映画ってあんまり観る機会ない。記憶にある限りでは、ドキュメンタリーを別にしてスイス映画って初めてかもしれない。
そのなかでもゲイのための地下雑誌の話ですからまあ地味です。マニアック。
それを現代の本人インタビューを交えながら淡々と描いてるんだけど、この手法がなかなかおもしろい。スイスでは同性愛は犯罪とはされていなかったものの、それでも当時は世間に知られればたちどころに社会的地位を失うほど差別意識は充分に根強く、美容師のロビーはまだしも教師のエルンストにとって「ザ・サークル」の仲間たちとの繋がりは生き甲斐でもありながらリスクでもあった。エルンストは一本気な堅物ではあっても決して要領がいい方ではないから、観ていてものすごくドキドキする。いつバレる、どこからバレるんだろうと常にはらはらさせられる。
その一方でかわいいロビーとのあつあつぶりは観ていて微笑ましい。客席全体がなんだかにやにやさせられてしまうくらいである(見たわけじゃないけど)。地下雑誌のアイドルだった若い歌姫とマルチリンガルのインテリ。きっとお互いに自慢の彼氏だったんだろーなー。
性的少数者であるというハンディキャップを抱えて孤独に生きるゲイたちの心を支えあたため、互いを結ぶ重要な役割を果たした地下雑誌の歴史は、そのままスイスのゲイたちが市民権を獲得していくまでのまがりくねった長い道程に重なっている。違法ではないにも関わらず当局の弾圧を受けながら2,000人の会員たちの拠りどころであり続けた「ザ・サークル」だが、やがてその役目を終えるときがやってくる。残酷ないい方だが自然な時代の流れの結果だし、ある意味では決して悪いことではない。
しかしいちばん大切なことは、いまを含め、後の時代に生きる人々は決して、彼らの苦しい闘いの年月を、その嵐の中で燃やし続けた魂の灯火を忘れるべきでないということだろう。そうして流されて来た血と汗と涙のうえに、われわれは暮しているのだから。
劇中、インタビューで「ザ・サークル」を主催したロルフ(シュテファン・ヴィチ)についてインタビューで語られる部分がとても印象的だった。ゲイの自由や権利だけでなくゲイたるプライド、ゲイのあるべき姿を真摯に追求していたロルフは「ホモ・セクシュアリティ(同性愛的指向)」という表現を嫌い、「ホモ・エロティック(同性愛)」といいたがったという。同性愛は指向のひとつではあっても決して特異ではない。相手が誰であれただ愛する人のそばにいたいという、人としてごくふつうの愛情だからといったそうだ。
確かにそれはその通りで、インタビューに登場する現在のエルンストとロビーは長年連れ添ったごくふつうのカップルでしかない。ロビーが果物をきり、エルンストがテーブルを整える。何十年もそばにいていろいろなことをともに乗り越えてきて、いっしょにいるのが当たり前、それぞれの役割によって相手を支えあいながら暮している家族であって、性別は特に問題じゃない。昔、香港の映画監督・關錦鵬(スタンリー・クァン)が自分とパートナーとの話をしていたのを思いだして懐かしくなった。彼もパートナーがいるオープンリー・ゲイだ。食事中にテーブルクロスが汚れたら、監督が汚れを拭いて、パートナーが汚れを拭いたティッシュをかたづけるといっていた。ふつうだ。
ふつうの人たちの地味にふつうの話なのに、劇中では大勢の人がばたばたと命を落とす。暴力もある。弾圧もある。悲しい。
彼らは何のために死ななくてはならなかったのか。何が彼らを死なせたのか。
人は違いを理由に簡単に人を誹り蔑むことに躊躇しないけど、そのことで、これまでにどれだけの人が無惨に殺されて来ただろう。彼らにも人生があり、夢があり、大切にしているものがあった。当たり前に、ふつうに。
現在のエルンストとロビーの笑顔が幸せそうなだけに、亡くなってしまった人たちにも、こんなふうに幸せになる権利があったのになと思えて、せつなかったです。