落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

闇を見る目

2017年01月22日 | movie
『ブラインド・マッサージ』

南京でマッサージ治療院を営む沙(秦昊チン・ハオ)のもとに、同級生の王(郭暁冬グオ・シャオトン)が雇ってほしいと恋人の孔(張磊チャン・レイ)をつれて引っ越してくる。都紅(梅婷メイ・ティン)や小馬(黄軒ホアン・シュエン)など他のマッサージ師たちと寮で共同生活をすることになるふたりだが、やがて王の弟に借金があることが判明、家族のもとに取り立て屋が押しかけてくるようになる。美貌で指名客を得た都紅の評判に、院長の沙は自分の目には見えない彼女の美しさの虜になるのだが、自らの容貌を知ることのない彼女はただ困惑するだけだった。
『パープル・バタフライ』『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー(旧題:春風沈酔の夜)』の婁[火華](ロウ・イエ)監督の2014年の作品。

上映時間115分、長かった・・・。
物語は少年時代の交通事故で視力を失った小馬のエピソードからスタートする。光がぼやけ、かすみ、暗闇に落ちていく過程を映像で表現したシーンを導入に、視覚障害者独自の感覚が繊細に再現される。目で映画を鑑賞している観客の視覚障害感覚の追体験が題材になっているため、過剰に情緒的かつ感覚的なエピソードが緻密にかつ複雑に積み重ねられる。なにしろ映画は“映像”と音でできていて、見えない感覚を画面でそのまま再現するわけではない。ときおり画面の露出が急に上がったり下がったり、フォーカスがズレたりゆがんだりするトリッキーなシーンがアクセントとして差し挟まれはするが、この作品全体においてはそうした視覚的要素はごく一部分でしかない。
それよりも、視覚以外の触覚や嗅覚・聴覚など他の感覚に鋭敏で、人によっては視覚そのものの存在自体を体験したことがなく想像することもできない登場人物たち同士にしか共有できない価値観を、論理ではなく彼らの生き方によって表現している。
だから2時間弱なのに要素めっちゃてんこもりっす。もりっもり。

ナレーションで、「視覚障害者にとって健常者は別の動物」というくだりがある。
障害があっても少数者であっても人間は同じ人間、平等だという一般論は誰にでも当たり前に口にできる簡単な美辞麗句だが、事実はそうではない。
人間は平等ではないし、障害がある、少数者であることだけでなく、人間には皆それぞれに違う感覚と価値観がある。重要なのはそれをうけいれゆるし、むかいあって共存することであって、互いの差異をないものとして無視するのはむしろ差別だ。
この物語のものすごいところは、マッサージ店で働く視覚障害者たちのどこが健常者と違っているのか、視覚障害者にもそれぞれに視覚を失った経緯も症状も異なり、全員の感覚や価値観も一様ではないことを、ひたすら生々しく激しくくどく追求している点である。
そりゃもう生々しいです。激しいです。くどいです。観てて若干疲れます。ちょこちょこ観てられないシーンすらある。それでもそこまでして差異のディテールを明確にすることで、人間性の根源的な普遍性がよりストレートに伝わってくる。究極の逆説表現です。
個人的に知る限りでは、こんな表現にトライした映画はいままで他になかったんじゃないかと思います。文字通り唯一無二の作品ではないかなと。

大好きな婁[火華]作品、前作の『パリ、ただよう花』を観逃したのが悔しかったので、今作は観れてほんとによかったです。
秦昊は『スプリング・フィーバー』でセクシーなゲイを演じてた彼ですね。もうまるっきりぜんぜん違う人物造形に若干ショック。というかこの映画、けっこうなスターがボロボロ出てるけど、全員本気で視覚障害者にしか見えないぐらい気合いはまった演技で畏れ入る。これ演技派ばっかり集まっちゃって、誰がいちばんホンモノっぽいかお互いぐいぐい攻め込みあってるよね。たぶん。それぐらい容赦ない熱演です。熱過ぎて微妙に観客置いてかれます。いいけどね。いいけどさ。
とはいえできあがった作品は疑いようのない大傑作。映画が好きなら、間違いなく絶対観ておくべき映画のひとつだと思います。

物語自体すごくおもしろかったんだけど字幕が短過ぎてわかりにくいところもあったので、原作も是非読んでみたいです。

関連レビュー
『ブラインドサイト〜小さな登山者たち〜』
『Show The BLACKⅡ イウ コエ オト』



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空よりもまだ青く

2017年01月22日 | movie
『海よりもまだ深く』

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15年前に新人賞を受賞した小説家の良多(阿部寛)。その後は大したヒット作を書くこともできず、興信所で探偵をしながら離婚した元妻(真木よう子)と息子(吉澤太陽)の姿を遠くから盗み見る日々を過ごしていた。
月に一度の面会日、別れがたさに真悟を連れて母(樹木希林)の家を訪れるが、折りから接近していた台風の影響で、迎えにきた妻も帰宅できなくなり・・・。
『そして父になる』『歩いても歩いても』『空気人形』『花よりもなほ』『誰も知らない』の是枝裕和監督作品。

なんかものすごい猛烈にイタい。
むっちゃくちゃリアル。生々しい。夢も幻想もへったくれもない。よくこんな映画商業映画で撮れたよね。日本でさ。
しかも主演・阿部寛。いまや好感度ぶっちぎりナンバーワン(出てるCMが住宅メーカーに銀行に生保にミネラルウォーターです)の阿部寛が、月5万の養育費やら家賃すらろくに払えないギャンブル狂いの50男役。せこいわだらしないわ未練たらしいわ器小さいわ、ふりきりすぎやろ。
他のキャストも全然芝居が芝居に見えない。樹木希林しかり真木よう子しかり小林聡美しかりリリー・フランキーしかり池松壮亮しかり。邦画ってホントに演技ウマい人いーっぱいいるんだよね。だから逆にいえば、邦画がもしイケてないとしたらそれは役者のせいというより演出側とか制作側の問題なんだよなという妙なところを痛感させられる映画だったです。

物語そのものはあまりにも身につまされ過ぎてちょっとしんどかったです。
主人公は50にもなって「なりたい大人」どころかまともな大人にすらなれていないバカ男なんだけど、彼の愚かさには人間誰しも大なり小なり心当たりがあるのではないだろうか。
失ってからしかたいせつなものに気づけない。絶対に似たくないと思っていた親そっくりにいつの間にかなってしまっている自分への自己嫌悪。勝算などない賭けについ夢を見てしまうのが現実逃避だとわかっていてやめられない。
でもそれをいちいちひとつずつリアルに再現されて「ほれどや?どないや?」なんて突きつけられても、ちょっとしんどいだけなんですけど。

悪い映画ではないよ。いい映画だと思うよ。
是枝さんはこの描写力を活かして、もうちょっとメッセージ性のある広がりのある作品を撮ってくれないかなあ。もういいかげんホームドラマはいいでしょう。
舞台になった清瀬周辺は学生時代に何度かいったことあるんだけど、あまりに雰囲気変わってなくて逆に驚きました。東京にも変わらない場所ってあるんだね。懐かしかったです。
テレサ・テンいいよね。彼女の歌ってホントに映画によく似合う。なんでだろう。



4月25日のタカアシガニ

2017年01月22日 | movie
『湯を沸かすほどの熱い愛』

ステージ4の末期がんで余命宣告を受けた双葉(宮沢りえ)。
死ぬまでにやるべきことを果たそうと奮起した彼女はまず、いじめられて不登校寸前だった娘・安澄(杉咲花)に「大事なときに着る下着」をプレゼント、興信所に依頼して1年前に蒸発した夫・一浩(オダギリジョー)をみつけだし、休業中だった銭湯の営業を再開する。
一浩が連れ帰った浮気相手の娘・鮎子(伊東蒼)と安澄を連れて静岡に旅行にいった彼女には、これまででもっともつらい告白が待ち受けていたのだが・・・。

正直「余命もの」の映画は基本的に観ない主義なのですが、身内が観て「感動した」といっていたので観てみました。
まず宮沢りえが死にそうなお母さんってヤバいでしょ。その夫がオダジョーってなんなのそれ。旅先で出会う若者が松坂桃李なんかあり得へんやろ。
もうだから設定は完全にファンタジーだし、物語そのものは徹頭徹尾メロドラマです。
ただ脚本はすごいよくできてるし、出演者の芝居はほんとにすごい。全員そんなそこまで必死のぱっちで根性振り絞ってたら、そのうち脳味噌どっかぷっちんいってしまうんやないか?とはらはらしてしまうような大熱演ばっかりなんだよね。そこに感動しましたよ。そんなに限界こえて真に迫れる演出力ってなんでしょうね。スゴイです。

宮沢りえが熱演なのは毎度のことなのであまり意外性はないんだけど、オダギリジョーは改めて演技うまいなと感心してしまった。二枚目過ぎて損してるクチだよね。ほんとにいつまでも老けなくて綺麗で、できる役が限られるのって大変だなと同情してしまう。この映画でもあくまでオダジョーはオダジョーのままなんだけど、それでもどこか大人になりきれない、優し過ぎてちゃらんぽらんなお父さん役はうまくはまってました。
最近注目の杉咲花にはまたぶっとんだ。ものすごく幼く見えるのは役づくりなのか、高校生役なのに中学生にしか見えない。実際は撮影当時すでに18歳を過ぎてたはずだけど、衣裳やヘアメイクだけでなく、声音まで完全に「子ども」になりきってるのが怖いなと思いました。
子役の伊東蒼は台詞回しはまったくうまくないのに、芝居が芝居に見えないのにビビる。いわゆる美少女でもないんだよね。そのへんによくいる非印象的な平凡な子。そういう子をこの「お涙頂戴」役にもってきたキャスティングに、制作者側の気合いを感じた。
松坂桃李はスクリーンで観るのは初めてだったんだけど、こんなに器用な人だったんだね。あんまり知らなくてすみません。個人的にはなんでこの人がこんなに売れてるのかがいまひとつわかってなかったんだけど、とりあえずプロポーションがマンガみたい。すみません。
でも終わってみたら探偵役の駿河太郎がいちばんめだってました。なんでしょうね。強烈っていうんではないんだけど、台詞に説得力があった。

観終わってやっぱり「余命もの」って好きになれないなって思ってしまいました。
余命宣告されなきゃ確かめられない愛の話って、なんだか貧乏くさいじゃないかと思ってしまう。表現として、もっと豊かな愛の伝え方があるだろうと思ってしまう。
ただそれはそれとして、映画として物語として頑張れるのびしろが、日本映画にこれだけあったんだってことはすがすがしく感じました。



It was to be trampled on by men that I was born into this world.

2017年01月22日 | movie
『沈黙—サイレンス—』

1643年、イエズス会に日本で布教活動をしていた宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が棄教したとの報が届き、恩師の裏切りが信じられない弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルベ(アダム・ドライヴァー)は日本まで彼を探しに旅立つ。マカオで出会ったキチジロー(窪塚洋介)の案内で辿り着いたトモギ村では指導者を失った隠れキリシタンに歓迎されるものの、間もなく彼らの存在は奉行に露見、信徒ともども囚われの身となる。
遠藤周作の『沈黙』を原作にマーティン・スコセッシが映像化、2016年度アカデミー賞の最有力候補とも目される力作。

虫の音が非常に象徴的に使われた映画だ。
日本には虫の声を愛でる文化があるが他国にはそれはなかなかないというけど、この映画に関していえば、重要なメタファーとして虫の声が繰返し登場する。冒頭にも、エンドロールにも大音量の虫の声。
日本に暮らす人にとっては季節や風情や草いきれの中の小さな命たちを感じさせる音だが、この映画を製作した海の向こうの国々の人にはどう聞こえるのだろうか。
ミステリアスでエキゾチックなノイズ、それとも沈黙する神との対比に聞こえるのだろうか。
ここにいる、いつもあなたのそばにいる、愛していると囁く神の声に聞こえるのだろうか。

原作では何度も何度も神に「なぜあなたは黙っている」と問いかけるロドリゴだが、映画のなかでその問いはあまり強調されない。
映画のロドリゴとガルベの心は、仕える主である神よりも常に目の前の信徒たちに縛りつけられている。ただでさえ貧しく、寄るべなく憐れな隠れキリシタンたちが、はるばる海を越えて旅してきたロドリゴたちにわずかな食物をわけるシーンが非常に象徴的である。食べるより先に祈りを捧げる村人たちをみて、渡されたものをそのまま口に押しこんだ宣教師たちは慌てて食べ物を吐き出す。
神に仕える身でありながら、神よりも目の前の現実に主体性もなく振り回されてしまうのは、彼らが未熟だからなのか。見知らぬ異国での心細さからなのだろうか。
ではなぜ、もっと神に厳しく激しく迫らないのだろう。こんなにも信徒が苦しみ痛めつけられているのに、どうして助けてくれないのか。あなたの救いはいったいなんなのかと。

10代の頃から何度読んだか数えてはいないし今回の公開にあたって読み返しはしなかったけど、それでも原作にかなり忠実な映像化だと思う。
それだけに、この物語が語ろうとするテーマの多面性に改めて気づかされることが多い作品だった。
台詞のほとんどが英語なのだが、いやというほど何十回も「苦しみ(suffering)」という単語が使われる。迫害の苦しみ。裏切りの苦しみ。拷問の苦しみ。孤独の苦しみ。無力さの苦しみ。背教の苦しみ。世の中の“苦しみ”によくもこれだけのバリエーションが存在するものかと感心させられるほど、次から次へとあらゆる苦痛が宣教師の前に差し出される。
ロドリゴは神に仕える者にとって苦しみは幸いだというのだが、彼に棄教を迫る井上筑後守(イッセー尾形)は宣教師がいちばん我慢できないことが何かをよくしっていた。神に仕える者の究極の苦痛。

果たして神はほんとうに黙っていたのだろうか。信仰のために虫けらのように命を落とす信徒たちのいまわの際に、神は愛の言葉を聞かせてくれたのだろうか。
ロドリゴが胸の中に聞くたった一度の声は、彼や彼の目の前で命を落としたキリシタンたちの苦しみに対してあまりにも矮小すぎた。
それでも、どれほど抑圧されても決して縛られないものを人は誰でももっている。魂のなかのそのまた奥の、ほんとうに誰の目にも触れないところは、いつどんな時代にどこに生まれても人は自由だし、信じる者のその領域には間違いなく神はおわすのではないか。
まあ私は宗教を信じたことがないので、正直よくわからないんだけど。

テーマのひとつでもある社会的弱者の象徴・キチジローを演じた窪塚洋介の演技が注目を浴びてるみたいですが、実際ホントに原作のキチジローそのままです。窪塚くん自身は非常に美しい人のはずなのに、とにかく下品で醜悪でただただ弱い人というキャラクターに驚異的にがっちりハマってました。
イッセー尾形の筑後守は惜しかったかもしれない。「恐ろしい拷問方法を編み出した鬼のような人物」という“設定”と本人とのギャップにロドリゴがショックを受けるくだりがあるんだけど、話の流れで衝撃が完全に緩和されちゃってるんだよね。演技そのものはスゴイと思うんだけど。
浅野忠信の通詞役はちょうどよかったんじゃないかな。当初この役は渡辺謙に決まってたのがクランクインが延びてブロードウェーの『王様と私』とかぶっちゃって降板したんだよね確か。この役、渡辺謙だったら相当映画全体の雰囲気変わっちゃってたと思う。存在感強過ぎて。浅野くんはどういう役をやってもその人そのものになっちゃうウマさがあるもんね。
アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライヴァーは痩せ方が尋常じゃないんだけど、昨今ハリウッドでは名演=異常なダイエットみたいなの流行ってるんでしょうか。あまりにあまりなガリガリっぷりで痩せ方にしか目がいかないのが残念すぎます(過去記事)。

私にはキリスト教のことはよくわからない。
弱きもの、虐げられたもの、軽蔑されたもののためにキリストが地上に遣わされたのであれば、そうしたものたちをただ排除し、排斥し勝者だけ、強者だけの現実社会はいったいなんのために築かれていくのだろう。
それがほんとうならなぜ、神は黙っているのだろう。
信仰は確かにゲームではない。約束ごとをまもりさえすれば叶えられる天国なんかない。
じゃあなぜ信仰が必要なんだろう。正義ってなんのためにあるんだろう。
そういうことを、じっと深く考えさせられてしまう映画でした。159分があっという間だった。原作、読み返そっと。



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