落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Never surrender.

2017年02月19日 | movie
『未来を花束にして』

1912年、ロンドンの洗濯工場で働く24歳のモード(キャリー・マリガン)は、同僚のバイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)の代理で公聴会で証言をしたことをきっかけに女性参政権運動に巻き込まれていくが、運動のリーダー・パンクハースト夫人(メリル・ストリープ)の演説現場で逮捕され夫(ベン・ウィショー)から家を追いだされてしまう。
100年前のイギリスで女性の人権を求めて戦った“サフラジェット”の活動を描いた伝記映画。

私はもともと参政権をもってなくて、25歳で日本国籍を取得して初めて参政権を得た。
21歳までは無国籍だったし、韓国籍を取得した後も、韓国国内に居住した事実がなければ参政権は得られない。だから日本国籍になってから、日本で得た参政権が最初の参政権だった。以降、選挙に行かなかったことは一度もない。
参政権だけじゃない。
自分で行きたいところに行く権利。仕事を選ぶ権利。教育を受ける権利。病気や怪我をしたら医療を受ける権利。綺麗な水にアクセスできる権利。読みたい本が読める権利。いいたいことを発言する権利。
こうした権利はすべて、決して当たり前のものではなく先人が努力して獲得し積み重ねてきたものだ。そこには長い時間と多くの血と汗と涙が流れてきた。
地域によってはまだ、こんな権利にさえ当たり前に手が届かない女性はまだまだたくさんいる。生まれた場所が違っていたというだけの理由で、選挙にいけないだけでなく人としての尊厳のすべてを蹂躙されるままに生まれ、搾取されるがままに人生を終えていく女性たちもいる。
過去と現在の多くの犠牲の上に成り立っているすべての権利は、その犠牲の上にあるからこそ責任をもって行使されるべきで、かつ行使する者によってまもられていくべきだと思うからだ。

でも多くの人が、その事実には気づかない。少なくとも、選挙に行かない人、行かないで平気でいられる人はおそらく気づいていない。
そんな人たちが、この国の半数以上を占めている。とても怖いことだと思う。
なんでそれで平気でいられるんだろうと、単純に不思議に思う。

この映画では50年もの平和的な運動の末に、イギリスの女性たちがテロ行為にはしるようになった後の過激な活動を描いている。
女性たちは商店の窓ガラスを割ったり、ポストを爆破したり電話線を切ったりして世間の注目を集めようとする。暴力的といっても直接人を傷つけたりはしないものの、彼女たちは何度も警察に拘留されたり刑務所に入れられたりしながらも、決して折れることなく勝利を信じて戦い続ける。それは当時すでにニュージーランドやオーストラリア、フィンランドやノルウェーなど他国で次々に女性参政権が認められていて、世界的な流れが出来上がっていたからだろう。あとはタイミングの問題だったといえる。
それでも彼女たちは実力行使に訴えざるを得なかった。それは、彼女たちが求めたのが単なる“参政権”ではなかったからではないだろうか。子どもの養育権。職業選択の自由。教育の権利。自分の身体をまもる権利。彼女たちにとって“参政権”はそうした女性の人権の象徴だった。人として男と対等でないことを否定するために、参政権が必要だった。
いま現在、参政権をもっていてそれを行使しない人は、おそらくはそのことを理解していないのではないかと思う。
参政権を行使しないということは、人として享受できるはずの人権の価値にも気づいていないのと同じではないだろうか。
そんなのめちゃくちゃ怖いと思うんだけど、気づいてなくてよく平気で生きてられるよね。不思議です。

主人公モードが何も知らない、ごく平凡な若い貧しい女性という設定で、それでいて素直に純粋に自分の目指すべき目標に気づいて立ち上がっていくという過程がとても自然に描かれていて、歴史ドラマとしてもヒューマンドラマとしてもよくまとまった秀作だと思います。
すごく大事な話だし、もっと大規模に公開してもっとたくさんの人に観てほしいと思います。



地獄のかけら

2017年02月19日 | movie
『愚行録』

1年前に起きた未解決の一家惨殺事件を取材する週刊誌記者の田中(妻夫木聡)は、ネグレクトで逮捕拘留中の妹・光子(満島ひかり)の担当弁護士(濱田マリ)から、責任能力を量る目的で精神鑑定を勧められる。光子は鑑定医(平田満)に促されるままに幼少期の虐待を詳細に語りだす一方で、兄は取材で被害者一家の関係者から過去の交流を聞き出し・・・。

ほんとうにつらいとき、つらい、苦しいといって泣いたり誰かに助けを求めたりできる人は、幸せな人だと思う。
人生、ほんとうにほんとうにつらいとき、困っているとき、必ずしもそれを他人に告白する機会や手段があるとは限らない。
ないときもある。どうしてもそれができないことだってある。どうすればできるのかわからないことだってある。
わからないとき、人は笑って誤摩化したり、何でもなかった風を装ってやり過ごそうとしたりもする。
だから外見上はとくにそれほど傷ついていないようにも見える。
といって、苦しみが軽減されるわけでは決してない。
その痛みは、腫瘍のように目に見えないところでじわじわと人間性を蝕む。自らそれを乗り越えない限り、その醜い傷はどこにもいかないで、ずっとそこにある。
そして、人間誰でも、生きている限りはどこかにそんな傷を負っている。あとは、本人がどれだけ意識するかしないかの差でしかない。

冒頭、バスの座席にひとり腰かけている妻夫木聡の横顔はひどく苦しそうで、それゆえに悲愴な美しさに満ちている。
エキストラ演じる満席の乗客の群れのなかで、異質にさえ映るような美貌。
彼の傷は目に見えてわかりやすい。父から受けた虐待。両親の離婚後、残された唯一の家族だった妹が犯した罪。
彼は一見それを他人事のように棚上げして、事件の被害者たちの友人たちを訪ね歩き、たわいもない昔話を聞いてまわるだけである。なので物語の後半まで、主人公であるはずの彼は画面のなかではほとんど何もしない。黙って他人の話を聞いているだけである。不気味なくらい表情も薄い。
その彫刻のように整った顔面が、ラストシーンでは驚くほど醜悪に変わるのが無茶苦茶怖い。怖過ぎて、台詞では説明されない結末に、アタマがちょっとついていかない。信じたくない、わかりたくないと思っている間に、エンドロールが画面を流れていく。

田中や光子を含めて、登場人物全員はみんな、平凡で一見どこにでもいそうな「普通」の人々だ。
大学時代から女を利用し手玉に取ることになんの罪悪感ももたず、それでいて親友(眞島秀和)には「いいやつ」と信頼されていたエリートサラリーマンの田向(小出恵介)。妻の友季恵(松本若菜)は名門私立大でマウンティングの名手だった美人なんちゃってお嬢様。そんな彼女にボーイフレンド(中村倫也)を寝取られ妬んでいた淳子(臼田あさ美)。
お金が欲しい、ちやほやされたい、ただそればかりに必死に知恵をしぼるのが幸せになる唯一の方法だと信じて疑わない人々。それぞれに身勝手で愚かではあるが、だからといって罪になるほどの悪人でもない。彼ら程度の身勝手さや愚かさは、若さゆえの未熟さでもあるし、無知ゆえの特権の範囲内だと思う。
ただ問題は、彼らがそれをまったく未消化のまま大人になってしまったことだろう。
学生という身分を抜け出し、20代が過ぎ去り、年齢を重ね社会的責任を負う過程で、若かりしころの狭いプライベートコミュニティの評価はいっさいの意味を失う。むしろそれは自ら捨て去るべきもので、でなければ致命的に人格を損なう重荷にすらなってしまう。
ところが彼らにはそれができなかった。できないまま30代も半ばまで引きずり続けたことが、彼らの不幸だった。
ひとりひとりが抱えたそれぞれは些細な不幸かもしれない。ところがそのなかに、物心ついたころからとんでもない不幸を地雷のようにかくしもっていた存在が混じっていたら、どうなるだろう。

最近『永い言い訳』やら『海よりもまだ深く』やらイヤな人がでてくる邦画ばっかり観てるような気がするけど、この作品は極めつけだったね。だって超リアルだもん。全員そこらへんにいるもん絶対。そのリアリティがマジきつかった。
まだまだいい人イメージの妻夫木くんはなかなかの新境地だと思うけど、満島ひかりは正直もう一歩だったかな。ぶっちゃけ長ゼリフ向きの女優さんではないかも。あと彼女に「美人」設定はちょっと無理あるね。かわいいけどいわゆる美人ではないからさ。
映像が「銀残し」風に暗部がぎゅっと締まった色調で、ふわーんと不安定にゆっくり滑るようなカメラワークが独特で、すごく色っぽかったです。音楽もよかった。
石川慶監督はこれが劇場用長編は初作品だそうですが、今後も楽しみですね。

ところで弁護士役の濱田マリさんには四半世紀以上前、大阪の予備校で絵の勉強をしていたころ、モデルさんとして何度かお世話になったことがある(彼女を描いた絵が実家のどこかにまだあるはずである)。モダンチョキチョキズがメジャーになるより前だったと思うけど、当時すでにかなり印象的なキャラクターで、他にもたくさんいた若くて綺麗なモデルさんたちのなかでも飛び抜けて目立っていた。
いままでもたまにテレビで観かけるたびにそのことを思い出してたんだけど、今回の弁護士役は意外性あり過ぎて驚きました。いや懐かしい。