落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

星と雨の天蓋

2010年05月01日 | movie
『クロッシング』

北朝鮮代表の元サッカー選手のヨンス(チャ・インピョ)は炭坑夫として働きながら、妻子と3人で貧しいながらも幸せに暮していたが、身重の妻(ソ・ヨンファ)が結核にかかり、入手困難な薬を要する容態に陥る。
11歳の息子ジュニ(シン・ミョンチョル)に留守を頼み、意を決して豆満江を渡り、中国で薬を手に入れようと奔走するのだが・・・。

10年以上前に観たTVドラマで、どうしても忘れられない台詞がある。
「あのころは、今日楽しいと、明日も楽しいと思ってた。でも今は、今日楽しいと、今日で人生終わればいいと思う」。
そういった女性は、若くして裕福な男性と結婚し子どもをもうけるのだが、夫は妻子を置いて愛人と蒸発してしまう。経済的な基盤をなくし、夫の実家に子どもを奪われそうになった彼女は息子を連れて逃げ出し、夜の仕事を始める。そして、独身時代の恋人に絶望的な心情を吐露する。
家庭、家族、というと誰にとっても何よりも普遍的なもののように感じるが、実はそうではない。所詮は人と人との寄せ集めに過ぎない。血をわけ、何年も生活を共にしていても、それぞれに思惑は違うし、互いを思い通りにすることなどそう容易くはない。
ふとしたことでいとも簡単に、あっけなく壊れ、消えてしまう、危うく、脆いもの。それなのに、誰もが求めてやまず、愛おしく思う、ある意味とても厄介な代物でもある。

ヨンス一家も、妻の病気という出来事さえなければ、おそらくは何事もなく、貧しくても安穏と暮していけたはずだった。
しかも、結核そのものは現代では死の病でもなんでもない。きちんとした治療を受ければ回復する。それなのに、一家は全員が命をかけてその病と闘わねばならない運命にあっさりと転がりおちてしまう。映画の舞台とされている2007年の北朝鮮には、人が人として生きていくための最低限の自由と教育と医療が、国民に保障されていないからだ。
北朝鮮という国が犯している現実の犯罪を、今ここでひとつひとつあげつらったところで意味はない。
少なくとも、この映画の中の北朝鮮には、自由も教育も医療もない。人間が地上に生まれおちたなら、誰もに平等に与えられるべき権利であるはずのものが、この映画の中の国には、ないのだ。
ところが、主人公たちは決してそれを恨んだり悲しんだりはしない。ただただ互いを守るためだけに命を削り、自らを責める。彼らが望んだのは、一家揃って傍にいて、いつまでもいっしょに暮す、単純にただそれだけだったのだ。

北朝鮮の庶民の生活風景や強制収容所の様子、市場の描写のあまりのリアルさにひたすら息を飲む。
ぐりが知っている北朝鮮はTVのドキュメンタリーなどで観た映像に限られるが、活動家たちが隠し撮りしたそれらの映像に写っていたものと、映画の中のそれは恐ろしいくらいぴったり同じである。実際の脱北者をスタッフにくわえて再現した究極のリアリズムに、この映画をつくりだした製作者たちの並々ならぬ意気込みをひしひしと感じる。おそらく彼らはただ「映画」をつくろうとしたのではないのだろうと思う。この作品を世に送り出すことで、映画以上の何かを成し遂げたかったのだろう。それは製作者ひとりひとりによって違うのかもしれない。そのそれぞれが交じりあって、観る者の胸に鋭く突き刺さって来る。
だがこの作品は決して政治的な映画ではない。
人が人として自然に求める愛情の力、その強さと美しさと儚さを、ひと組の家族の姿を通して訴えかけている。

政治的な映画ではないにも関わらず、この映画の日本公開は2年も遅れた。
2008年に東京国際映画祭に招待されたときは、確かシネカノンの配給で公開が決定していたように記憶している。その後なぜか公開の予定はとり消され、シネカノンは今年になって倒産している。公開が中止された経緯については、例によってあれこれと噂がある。
それでも紆余曲折あってこうして公開されてほんとうによかったと思う。公開に尽力された各方面の方々に敬意を表したい。
それにしても子役のシン・ミョンチョルの演技はものすごかった。電話越しに父親にひたすら謝りながらわんわんと泣きじゃくる表情と声、あれはもう演技ですらないような気がした。
そういう面でも、やっぱりこの映画は、政治的な映画なんかじゃないと思う。是非ひとりでも多くの人に観てもらいたい。


関連レビュー:
『ハンミちゃん一家の手記 瀋陽日本総領事館駆け込み事件のすべて』 キム・グァンチョル家・文国韓著