ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

初年兵時代 5 ~終戦と混乱の始まり~

2010年08月15日 | 人生航海
艇長は、それ以後も試運転は何回も行い、その度ごとに、循環水の出が悪いとか、エンジンの熱が高いとか言い、難癖をつけていたのである。

特に、クラッチの調子は悪かったので、艇長は、完全になるまで絶対に良しと言わず、受け取りを拒み続けて、本隊には帰ろうとはしなかった。

今になって、あの当時の事を考えてみると、如何に私達は無知であったのかと思う。

唯、軍部の大きな権力に操られていたに過ぎない。

特殊艇と言っても出来損ないの船であって、もし実戦で敵艦に遭遇していたならば、戦わずして撃破されたのは明らかであった。

艇長は、その事もよく知ってのうえで、本隊に帰る事を拒んだのだろう。

そうしている間にも、何処となく周囲の雰囲気も変わり始めていたのも確かだった。

広島に新型爆弾が投下されて可也の被害があった模様だとも知らされたり、ラジオニュースでも放送したとか・・。

日本は、既に降伏したとか、嘘か誠か分からぬデマが飛んだのである。

ある部隊は、もし戦争に負けて降伏する事になれば、日本軍は皆殺されるので、「最後の一兵になるまで戦い続ける」というような話も出た事も事実であった。

それも無理からぬ事で、軍人勅語や戦陣訓に「死すとも敵の捕虜になる事は決して許されず」・・そのような事は知り尽くしていた。

そして、突然、ポートセッテンハムの本隊に急遽帰ることが決まった。

シンガポールをあとにして、時速25ノットの全速力で本隊に向かったのである。

初年兵時代 4 ~中隊の猛者~

2010年08月15日 | 人生航海
艇長の小田軍曹と一緒に、シンガポールの船舶工作部に着いた。

その後、生死をともにするかも知れない艇は、シンガポールで押収した英国軍のP38型戦闘機のV型エンジンを船舶用に改造して、既に艤装中であった。

完成すると、高速特殊艇として敵の艦船に全速で接近して、魚雷の発射や爆雷攻撃するのが任務だと聞いていた。

もし、引き返す事が不可能である場合には、敵艦船に体当たりをして、自爆し、諸共に、敵艦を沈める特攻隊との事であった。

しかし、如何に専門の技術者でも特殊な改造なので、何回も試運転を繰り返しながら改造を加えた。

そして、艇長である小田軍曹は、完全に出来上がるまで受け取りを拒否した。

納得がゆかねば、試運転を何度でもさせて、直させて、僅かなミスでもダメで、強硬に拒んだのであった。

完全を求めていたが、試運転だと言っては、港外に出ると、現地人のいる魚柵に行って、魚を買って来たりしていた。

夜ともなれば、チャイナ服に着替えて、夜中まで遊んで帰る事が多かったのである。

その遊ぶ金は、いつも甲板上に並べてある燃料のガソリンのドラム缶を現地人に闇で売り渡して得ていた。

日が暮れると、ジャンク舟で取りに来る事になっていたので、ドラム缶二本位を渡したが、その役割を私に言いつけて、その代金も私が受け取るようにしてあったのである。

もし万一、その事が発覚すれば、間違いなく厳罰処分を受けて、罪を免れる事は出来なかった筈であったが、其れは其れなりに秘密は守られた。

その仕組みも、艇長は、十二分分かっていたようであり、その頃は、既に日本の戦争の行方を知っての行為であったとしか思えなかった。

時々、艇長から、日本の将来を聞かされて、流石は、大学出と感心したものであった。

そして、中隊の猛者と呼ばれた艇長と運命を共にする事になっても、悔いはないと思っていた。

初年兵時代 3 ~昭南島(シンガポール)へ~

2010年08月14日 | 人生航海
一日中、朝から晩まで休む暇もなく、厳しい訓練と演習が続いた。

とりわけ辛かったのは、食事と睡眠である。

腹が減る事は、勿論であったが、その日がどうにか終わって、室内の整理整頓を済ませたあと、やっと就寝する時間がくる。

消灯ラッパを聞く暇もなく、疲れが一度に出るのか、ぐっすりと寝込んで、あとは何も判らなくなった。

その侭夜が明けずに、寝かせて欲しいと、いつも思ったが、他に何が辛いと言っても、腹が減った時のひもじさである。

睡魔や空腹以上の生命維持の飢餓状態の辛さは、経験した者でないと分からないであろう。

たとえ、残飯や人の食い残しであっても、人間は生きるため、ひもじさに勝てず、夕食後の食器洗い場での新兵たちは、恥も外聞もなく、手づかみで食缶の残飯を取り合うほどだったが、惨めだったと云う他なかった。

さて、船舶工兵隊と言っても、本来は工兵部隊であり、一通りの教練科目も完全教えられた他に、塹壕掘りや高所での結束等、一応実地訓練も行われた。

このような厳しい訓練と演習が、炎天下の暑さの中で繰り返されたのである。

さらに突撃演習や実弾射撃も行われたあと、強行軍等の過酷な訓練を終えて、そのうちに一期、二期の検閲を終わる事が出来たのである。

そして、二つ星の一等兵に昇進した。

しかし、その年は、既に昭和20年に入り、時期が時期だけに、すぐに各方面へと出向命令が下った。

私は、特殊艇の乗組員として、昭南島(シンガポール)の船舶工作部に配属となり、そこで特攻艇の艤装を行う事になった。

艇長は、小田軍曹以下四人の乗組員であった。

艇長は、中隊の猛者であり、早稲田大学卒の知識も豊富な人格者のように思えた。

その為、皆に一目置かれていたらしかったのである。

初年兵時代 2 ~教育訓練演習~

2010年08月14日 | 人生航海
その後、「隣りの第一中隊に百島出身の赤松曹長殿がいるので、知っている人ならば直ぐに会いに行っても良い」と言ってくれたが、その時には、会いに行けなかった。

その人は、赤松伊勢夫さんで、その頃には兄嫁の兄さんであったのだが、その当時の私は、まだ何も知らなかった。

そうして、初年兵の教育が始まったが、入隊時の優しさとは打って変わって、毎日、厳しい日々が続くことになった。

我々クチンからの入隊者18名と少し遅れて入隊してきた初年兵30名の計48名を新規に教育班として構成されたのである。

第二中隊の初年兵の教育担当者は、今でもよく憶えている。

教官三宅少尉以下、班長井上文七軍曹、その補佐の巽兵長、溝辺上等兵、加藤上等兵の五名からなり、私達初年兵の教育係であった。

そして、愈々本格的に厳しい教訓を受ける事になる。

その後、私達のあとで入った初年兵には、沖縄の人達が多く、言葉に訛りがあり、話し難い点もあり、当分、その点で気を使ったものであった。

初年兵当時の教練の厳しさは、今更言うまでもないが、配属された船舶工兵は、特殊な部隊であった。

専門的な訓練も多く、普通の工兵とは違った。

大発艇・小発艇等の船舶の扱い方や機械の分解・組立まで習うので、当然、舟艇の操縦から取り扱いを全員が出来るようになるまで訓練が行われた。

その他に、船舶工兵の必須科目に手旗信号があって、毎朝の朝礼後には必ず訓練があったが、皆は苦手であった。

手旗信号は、自慢でもないが、私の得意であった。

軍属時代に、中支から南方においても、スラバヤやラバウルで、その仕事に従事していたので、教育班の中で誰よりも手旗信号は、一番上手であった。

その為、手旗の訓練は、私に任せられて、軍隊でも、特技は大事だと思ったものである。

初年兵時代 1 ~入隊時~

2010年08月13日 | 人生航海
船舶工兵第十連隊本部の第二中隊が、正式な配属先名である。

部隊長は、陸軍中佐横尾紋太郎、中隊長は岡本良春中尉、小隊長はクチン以来の教官でもあった三宅少尉で幹部候補出の若い将校であった。

入隊日は、中隊から盛大な歓迎を受けて、軍隊とは思えないほどの親切さであった。

班長や教育兵からも色々と優しく教えられて、その日は、赤飯と頭付きの魚で祝ってくれたのである。

その晩は、初年兵の名簿を見て知ったのか、下士官や古年兵からの呼び出しもあった。

何の用事かと思い、大声で「班長殿に言われて参りました・・・・」と言って何人かの下士官を訪ねた。

「お前は百島の生まれか。俺は福山だから今後何かあった時には、心配せず俺に言って来い。悪いようにはしないから」と云い、「三班には沼隈の武田班長もいるから、今度会いに行って来い」とも云って呉れた。

他にも何人かの上司にも呼ばれたが、皆からも同じ様な事を聞いたのである。

その晩は、早く休ませてくれた。

翌日、教育班長の井上文七軍曹から、入隊時に持っていた貴重品は、全て預けるようにとの通達があった。

私も、自分の腕時計や野戦郵便貯金の通帳等を預けることになったのである。

あの時、班長が、私の通帳の預金高を見て、ひどく驚いたのである。

「お前には、何故こんなにお金があるのか? 部隊の将校でも、これ程の貯金はない」と言われて、説明するのに困った。

「私は、入隊前の会社でダイヤモンドを持っていたのですが、入隊して持っていても仕方ないので、売却して貯金したのです」と云った。

その為、貯金が三千円以上になったと、入隊前の事情を説明したのである。

ボルネオ編 11 ~初年兵~

2010年08月13日 | 人生航海
まもなく入隊日も決まり、愈々バリックパパンを出発する際には、会社関係者、船長、船員の皆に見送られて、軍人として、永の別れを告げて、前線に向かったのである。

日本軍人としての誇りを持って、国の為とか陛下の為とか云って、皆が表向きは、喜び勇んで出征して行ったのである。

それまでは、民間人として自由に過ごしていたが、それからの先の軍隊の厳しさは、誰もが知る処でもある。

覚悟は出来ている積もりでも、本心は、不安だった。

現地入隊者は、バリックパパン地域の方面から約30名ぐらいいたと思う。

客船で、ボルネオ島西部の赤道直下のポンチャナに一旦上陸して、そこでまた多くの現地入隊者が集まった。

そこで改めて、配属先と部隊名も決まった。

私たち初年兵が配属された班部隊は18名だったが、内17名が、大学卒や中卒又は専門学校卒であって、私のみが、小学校卒であった。

その為か、教官は、その班を幹部候補生班として訓練と教育を行うとした。

教官は、「君一人資格は無いが、決して差別しないから。皆と一緒に頑張れ」と私に言ってくれた。

初年兵への訓練と教育は、想像もつかぬ程に厳しかった。

そんな厳しい日々を辛抱して、まもなく当時の昭南島(シンガポール)に渡ったのである。

そうして、ジョホール駅から汽車に乗り換えて、マレーシアの現在の首都クアランプール駅に着いた。

愈々本隊の部隊があるポートセッテンハムにある本隊の第二中隊に配属されることになった。

ボルネオ編 10 ~現地徴集令 クチンへ~

2010年08月12日 | 人生航海
時期は過ぎて、私達は毎日の暮らしにも慣れていった。

当時の戦況等さえも、詳しく知らぬままに暮らしていた。

いつどこで何が起きているのか関係ないが如く、他国の戦争のことのように呑気に過ごしていたものであった。

特に軍事に関しては、当然総てが極秘であったので、不利な情報等は入るはずもなかったのであろう。

だが、日本軍の旗色は、確実に変り始めていた。

海外現地で働く日本からの邦人は、特別に徴兵検査の延期が認められていた。

が、遂には昭和19(1944)年に廃止となった。

そして、現地で徴兵検査を受けるように、私にも通知が届いたのである。

昭和19年度の徴集兵と昭和20年度の徴集兵が、日本での最後の徴集及び徴兵検査である。

結果は、甲種合格となった。

年末には、現地入隊が決まり、ボルネオ島北部のクチンに入隊する事になったのである。

ボルネオ編 9 ~別れ~

2010年08月12日 | 人生航海
そうして、幾多の困難を乗り越えて、運命を共にして、そこ迄一緒だった人達と別れることになった。

寂しい別れとなったが、乗組員は、少しの間休養を貰った。

会社の指示があるまで、当分待機をしていたが、希望する仕事を自分で選んで働く事も出来た。

ある程度は、本人の希望が叶えられて、或る者は青果市場に、又は、港内船に乗る人もいた。

船長は、再就職も出来て、当分の間は、会社の事務所に上がって仕事を手伝い、ゆっくりと仕事をしていた。

機関長は、港内船に責任者として乗り込んだ。

他にも仕事は幾らでもあり、ある程度の希望は叶えて貰い、皆其々の仕事に就いたのである。

ボルネオ編 8 ~灘吉丸~

2010年08月11日 | 人生航海
その頃も、海軍の浮流機雷の掃海作業は続いていた。

私が退院して間もない頃である。

灘吉丸は、掃海中に機雷に触れる事故が起こり、火災を起こして、まもなく沈没した。

その際、水兵二人が負傷したが、他に死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。

しかし、日本を離れて生死を共にして、そこまで一緒だった灘吉丸との別れは、仕方なく諦めても辛く悲しかった。

そして、皆、自分の希望を述べて、其々がまた別の仕事を選んで、当分は働く事になったのである。

時勢は、既に日本軍の戦況も大きく変っていた頃である。

ボルネオ編 7 ~ハートとダイヤ~

2010年08月10日 | 人生航海
そんな或る日、私は、急に脚が立たなくなった。

診察を受けると、心臓脚気と診断されて、会社側は早速病院に予約を入れて入院する事になった。

担当の先生は、前の先生とは違い、脚気という病名はなく使ったことがない不思議そうに首を傾げた。

その頃は、脚気という病名を知らない医者もいたらしい。

いずれにしても、入院して治すようにと会社から言われて、当分は入院生活をする事になる。

その病棟は、ほとんどが野村殖産の患者で、野村病棟と皆が云っていたくらいだった。

そこで知り合った隣りのベッドの若い患者と親しくなった。

彼は、ボルネオ奥地のダイヤの鉱山に勤めていた。

話しているうちに、彼から、折角ボルネオまで来たのに「一個二個ぐらいのダイヤを持てば」と言ってくれた。

私が退院するまでに「何とかするから」と言って、約束をしてくれたのである。

そして、彼とは別々に退院をしたが、彼は、その後、約束通りに二個のダイヤを持ってきてくれて、私は、ダイヤモンドを安く手に入ることが出来たのである。

ボルネオ編 6 ~掃海作業~

2010年08月09日 | 人生航海
日本海軍からの指示命令が下った。

灘吉丸が、臨時徴用されて、浮流機雷の掃海作業を行う事になったのである。

機雷の掃海は、長いワイヤーに幾つもの磁器を取り付けて、半速でゆっくり曳いて、機雷を爆発させる仕組みだった。

毎日毎朝、海軍の兵曹以下、水兵達が十数人が船に乗ってくると、掃海の作業が始まるのである。

海軍の人たちも言ってたが、それほど危険な作業だとは思っていなかった。

船員は、何もする事はなく、万一の時のことを考えていればよかったのである。

そして、操船と機関の運転だけで、その他に何もする事がなくなったのである。

退屈なので、皆で話し合ったうえ、交代で下船して休む事になった。

ボルネオ編 5 ~久しぶりのスラバヤ~

2010年08月08日 | 人生航海
その後、久し振りにスラバヤ港に穀物を積んで行くことになった。

以前、軍属時代に二年近く、スラバヤの港にいたので、懐かしくて岸壁に立って、あの頃を思い出した。

部隊の司令部や信号所に、自然と足が向き行ってみたが、僅かの間に、すっかり様子が変わり知った人達はいなかった。

街に出て、あの頃に通った店を訪ねると、顔見知りの店主が、私を見て、ゆっくりと近づいて、懐かしそうに、話しかけてきた。

当時が甦り、話が弾んで、とても嬉しかった。

久し振りのスラバヤでの多くの思い出が浮かんできたが、その後は、何処かの戦地で、誰かが活躍しているのかと思うと、自由な民間人として、済まない気もしたものだった。

そんな過ぎし時を思いながら、バリックパパンを基地にして、一年近く運航を続けて過ごした頃、日本海軍からの指示が下ったのである。

ボルネオ編 4 ~マッカサル~

2010年08月07日 | 人生航海
ジャワ島やセレベス島など近隣の諸島が、我々の主な航行区域だった。

積荷は、穀物類や海産物、他に雑貨を積む事もあったが、時には、軍需品を積む事もあった。

バリックパパン港は、当時の日本軍には、やはり重要な港だった事は間違いなかった。

あの頃を振り返ってみると、日本は、本当に小さい国であるのに、南方の何処の港や街に行っても、日本の商社や商人がいない処は無かったように思えた。

中国の華僑ほどではないにしても、それに劣らない商魂の逞しさを見た思いであった。

しかし、私達には何の拘りもなく、その後も尚、戦勝国だと信じて、我がもの顔で威張り、現地人を意のままに使いこなして、贅沢に過ごしたのは事実であり、反省せねばならない事である。

その頃、セレベス島のマカッサルに行った時、船のエンジンのクランクが破損して、修理の為、長い滞在となったので、毎日、街に出たこともあった。

そこでも、日本人が大勢いたのには驚いた。

マカッサルの街は、鼈甲細工が有名で、その鼈甲を色々と買って集めたが、品物は多くても、細工は、あまり感心する程ではなかった。

結局、新しいクランクシャフトを取り寄せるまでに随分と日数がかかり、約一ヶ月ぐらい待ったのである。

その間は、ほんとうに退屈して街に出て遊ぶ他何もなかった。

鼈甲細工の珍しい物を探しまわって時間を過ごしたりしていたのである。

ボルネオ編 3 ~バリックパパン~

2010年08月06日 | 人生航海
バンジェルマシンに到着後、私達船員の待遇は予想外によく、皆は来て良かったと喜んだ。

しかも、私達乗組員全員に、衣類他多くの品物が支給されて驚いた。

その時は、民間人だったので、軍隊とは、こんなに差があるのかと思ったものである。

これが、至り尽くせりの待遇というものかと思ったである。

そして、灘吉丸も見事に改装されて、見違えるほどに綺麗な船に出来上がったのである。

軍属時代にマレー語は、少しぐらい話せるようになっていたので、その点は便利だった。

だが、会社の人が言うのには、「ここでは、日本人は威厳を持ってふるまうように。たとえ自分の手が届くものでも、使用人に命じるように」との事だった。

戦争とは、惨めなものであり、ここまで人間性まで変えるものかと思うと、何だか気が引けた。

今だから、言える事かもしれないが、その後、戦争殺人に加担した私も、日本人の一人として反省しなければならないのは当然だろう。

そして、一段落して、現地人の船員を四人増やして、いよいよ、ボルネオ島東部に位置するバリックパパンに向けて、出港する事になった。

バリックパパンの港は、軍事的にも重要な港であり、石油の生産地で積出港であった。

そこでも、大変な歓迎を受けた。

その後は、このバリックパパンの港が、我々、灘吉丸の主な積み出し基地となっていた。

ボルネオ編 2 ~バンジェルマシン~

2010年08月05日 | 人生航海
その大時化の為、止むなく支那大陸の沿岸伝いの航路を余儀なくされた。

随分と遠廻りする事になったが、それ以後、あれほどの大きな時化に遭う事も無かった。

毎日、平穏な海を、ベトナムの沿岸を南下して、サイゴンにも寄港した。

サイゴンは、珍しい鰐皮製品や象牙細工した品等が豊富にあって、皆多少の買い物をしたのを思い出す。

サイゴンを出てから、シンガポールまでは少し長い航海であったが、海上は穏やかで、無事にシンガポールに入港できた。

当時のシンガポールは、日本の占領下であり、その名も昭南島と改められて南方随一の大都会だった。

入港後、機関のパイプの修理を頼んだり、ジョホール水道の海軍工作部に溶接を依頼した。

ジョホール水道には、当時世界一を誇る浮きドッグがあり、それを見て驚いたものである。

この機帆船(灘吉丸)なら何隻ぐらい入るか?と誰かが言ったので、計算すると、横列六隻、縦列五隻並び、計三十隻が入る計算になると言って笑ったが、当時としては、それ程に大きな浮きドッグだった。

英国の植民地だったシンガポールは、高層ビルも多く建ち並ぶ大都会であったが、その時は、上陸して市街地見学をする事は出来なかった。

いずれ又来る事もあるだろうと思いながら、いよいよ最終港に向けて、シンガポールを出港したのである。

そして、数日後には、やっと全ての航海を終えて、最終港のボルネオ島南部に位置するバンジェルマシンに到着することが出来たのである。

野村殖産ボルネオ支社のあるバンジェルマシンは、川港であった。

両側にマングローブの木が生い茂り、その間を通り抜けて出入りする珍しい港街であった。

野村殖産での初めての社船であったので、我々は、到着後は大変な歓迎を受けた。

船長機関長は、ホテル住まいで、船員の宿舎も既に用意されていた。

船の仕事も、一切現地人に任せて、灘吉丸も、ドッグ入りした。

当分の間は、長い航海の疲れを癒すように、船も船員も、ゆっくり休養するようにと云われたのである。