ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百人一首 百番歌。

2020年10月25日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百人一首、最後の百番目となる和歌は、百敷から始まります。

鎌倉時代初期、選者の藤原定家の面持ちを推し測ると、見事としか言い様がありません。

百番歌
百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにも なほ余りある昔なりけり
(順徳院)

〈意味〉
百敷とは、宮中(大宮)を意味します。
宮中の古い軒端に忍ぶ草を見て、遠く華やかだった昔の往時を偲ぶ刹那さ。

作者の順徳院は、第84代の天皇です。
父親の後鳥羽院と朝廷復権を旗印に「鎌倉を討て」と承久の乱を起こしますが、鎌倉側の武士に敗れて、後鳥羽院は隠岐の島に、順徳院は佐渡島へと流刑の身となります。

平安貴族の権力の終焉でもあります。

政治の実権は鎌倉幕府へと変わり、幕府と朝廷の力関係に配慮して、当時は、後鳥羽院、順徳院親子が詠んだ和歌も封印されたとのこと。

にもかかわらず、政治的立場を超えて、藤原定家(京極中納言)は、優れた歌人百人の中に、九十九番目に後鳥羽院、百番目に順徳院、流刑された二人を選んでいます。

現代風に例えるならば、政治力学よりも芸術文化を優先させたのでしょうが、それよりも、人間としての定家は、敗者にも弱者にも、必死で生きた者に対して、平等な立場の選者でいます。

優越的な上から目線で嘲笑う事はしていません。

僕の個人的な興味視点に戻ります。

昔昔、百人一首で「百敷」という言葉を見ても、余り深く考えもしなかったのですが、この頃、「百」が付く各地の地名を調べたりしていると、近くに大宮神社とかも現れます。

「百」という文字には、古くから宮中(大宮)に関連した「まつりごと」の意味合いもある事が判ります。

でも、「百」には、桃太郎の「桃」のように、鬼を退治して、人様を助けるようなパワーがない❗

昔を偲ぶだけの「百」では、寂しくなります。

先日、普通救命士講座に参加しました。

人様を助けるのには、体力もハートの強さも必要です。

災難に遭うときには、災難に遭うのがよい、これが災難から逃れる唯一の妙法と言ったのは、良寛和尚さんでした。

人間は、この世に裸で生まれてきたから、何も所有していないとのこと。

だから、人生には、不要なものが多すぎて、その不要なものを、何故か人間は多く必要とします。

剣の達人になると、刀で人を殺すことはしなくなり、剣術を教え人を生かそうとするようです。

つまり、人目のつかないところで、よい行いをする事に繋がるのでしょう。

平安時代の貴族の言葉、文字の情感に、驚かされてしまう小倉百人一首です。

17番歌
ちはやぶる神代(かみよ)もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
(在原業平)

99番歌
人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故にもの思ふ身は
(後鳥羽院)

百は、表意文字です。

文字、言葉は、素晴らしい❗

その時の気持ちが、何百年過ぎた後も、文字通り今に伝わって来ます。



十六夜月に想う。

2020年10月02日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今宵の十六夜月、澄み渡っています。

昨夜は、琵琶湖湖畔の高月町で、中秋の名月を眺めていました。

冴え渡っていました❗

考えること、整理すること、淀む心が、浄化してゆくような面持ちでした。

さて、近江八幡市の百々(もも)神社に参拝。



宮司さんと1時間ほど談笑。

いろんな事を伺い教えていただきました。

織田信長が築城した安土城から、車で10分か15分程度の距離に百々神社があります。

信長が滅亡したあと、豊臣秀吉の時代には、百々神社の裏手の八幡山に城を築いたのは、この地を治めのが養子で甥である秀吉の跡継ぎとなる予定だった太閤豊臣秀次でした。

この界隈、かなり重要な地域だったのでしょう。

近江八幡の歴史を含めて、整理中です。

加えて、愛荘町の百々を訪ねました。



この近くには、荒神山があります。

思い出すのは、百島小学校のグランド前、坂上(さこじょう)側にある小山です。

誰が名付けたのか、百島の荒神山です。

赤松一門の五輪塔なるものが残っています。

此れまた、この事実を整理中です。

・・・後日に続く。

今朝の中秋の名月です。





明るい月が沈んで、夜が明けました。

夕日と朝陽が同時に来たような不思議です。

秋と夏がひっくり返ったような不思議です。



何か起こるような期待と予感です。

琵琶湖湖畔、高月町にて。

百島 最北端。

2020年09月20日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島最北端の絵図。

先日、地元RCCテレビ(中国放送)の番組で使われた空撮映像です。



撮影は、百島ネットワーク代表のキャプテン。

・・・女男岩は、どこかな?

こういう場所で生まれ育ったならば、不便で、楽でもないけど、無垢な魂に戻ります。

偉い人間にはなれなくても、善い人間にはなれます。

理想の人間にはなれなくても、思いやりのある人間にはなれます。

百島からのメッセージが伝わりました。

百島ゴーリキ。

2020年06月18日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
一昨日、ふと百島に帰ろうと思い立ちました。

昨日は、朝一番の6時半のフェリー百風に乗り込みました。



実家の庭で、ちょっと剪定、伐採。

日帰りで、最終便のフェリーで帰福。

昨日一日、ハードな一日でした。



耳を済ませば、いくつもの鳥のさえずり、虫の音が聴こえます。

もっと心深く手繰り寄せるように目を閉じると、世界は言葉では表現できないほど蠢いています。

今回、急に帰省を思い立ったのは、旗手のおじさん(広島シッピンク会長)から戴いた手紙を読んだこと。

故郷は、心の拠り所になることを改めて認識しました。



さて、明日から東京、首都圏(から)への移動自粛が解除になるとか❗

正直、不安です❗

また全国に新型コロナウィルスが拡散するのではないかという危惧かな?

でも、日本中が、アフロヘアー状態になるのは、困った問題です。

経済上昇には、ショートカット(近道)も必要です。

40年昔(1980年)の百島の風景写真です。





まだ段々畑が残っていたのが、懐かしい❗

あの頃、汗水流して働いていたのが当たり前の生活でした。

今は、大国強権ばかり持ち出すアメリカも中国を含めて、かつては汗水流して働くことは世界の美徳でした。

でも、北朝鮮のように「人間のグズ」「八つ裂きにしてやる」というコメントを出す国家は、如何なものか?

いつから、日本も「補償」「請求権」ばかり求める国民性に変わったのかな?

戦争に負けて貧困のどん底だった日本が豊かになり始めた50年前。

誰もが言ってたのは、「日本は戦争に負けて良かった❗」・・・今でも重い記憶の一つです。

ゴーリキという言葉、百島では「頭の髪が伸び放題の状態」という方言です。

「おみぁ、ゴーリキじゃのう。髪切れ」という意味合いでした。

我々世代が最後の世代として、理解出来る百島の言い回しかもしれません。

剛力はタレント(才能)ですが、強力は、ほどほどにしないとね❗

早かれ遅かれ、誰もがあの世にいくのですが、その前に、地域のこと、国家のこと、世界のこと、地球のこと、この世のこと、あの世のこと、すべての全部の格差のこと、・・・百島ゴーリキは教えてくれます。

北前船発祥の地。

2019年07月30日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

福井県の山間部に位置する南条町(現:南越前町)の花はす公園から、日本海の見える河野村(現:南越前町)まで出掛けて参りました。


かつての河野村は、北前船船主の館のある港としても名を馳せていたようです。


ここは、右近家の裏手高台にある洋館から日本海の眺望です。


その後の船主右近家は、財を成す豪商と発展して、現在の損保ジャパンを創立したことでも名を残しています。






向こう側に島影のように見えるのが、敦賀半島の先端部分で、裏手には、夢のエネルギーとなるはずだった高速増殖炉「もんじゅ」が坐しています。


昔々、大昔、京の都のある畿内と越の国(北陸)との山間部での物資の移動(大量輸送)は、とりわけ冬の豪雪時季は、不可能でした。


それを回避したのが、この河野と敦賀までの廻漕ルート。


理にかなったルートだったと頷けます。


さらに、敦賀より向こうの京の都までの輸送ルートは、琵琶湖の水運を利用したとのこと。


その実質的な運送業を担ったのが、のちに商売の手本を示すようになる近江の人々です。


のちに「近江商人」と呼ばれます。


その近江商人が、商いの旗手として、さらにルートを進化、延長させたのが、江戸時代のこと。


北海道から日本海をぐるりと周り瀬戸内海に入り、大坂までの「北前船航路」です。



尾道も、北前船の寄港地として、大きく発展しています。


因みに、以前にも書きましたが、この「河野」という地名は、伊予の国(愛媛県)の河野水軍(村上水軍の源流)が謂れとなっています。


村上水軍が活躍するのは室町時代末期、それ以前、瀬戸内海を制覇していたのは、河野水軍でした。


鎌倉幕府を倒したあと、室町幕府を樹立する足利尊氏と新田義貞は、対立します。


足利軍の追われた新田義貞は、越の国(現在の福井市)の地で討ち死にします。


その際、先兵として戦に連れて来られたのが、河野水軍の水兵だとのこと。


そして、その末裔たちが、この地から船を操る「船乗り」として、全国津々浦々まで「北前船」の舵を取るようになったのが始まりだとのこと。


そう考えると、北陸と瀬戸内海は、大昔から案外と交流が活発だったのかもしれません。


越前海岸沿いにある河野村は、山間部の南条町と合併して、現在、南越前町となりました。


南越前町が誇る、もうひとつが、南条町にある世界の130種類にも及ぶ蓮が饗宴する「花はす公園」です。




子供の頃、「れんこん」の糸を引くのが大嫌いで、全く食べられない子供でした。


それが、何の切っ掛けは憶えていませんが、今は「れんこん」は、大好きです。


「蓮の根」と書いて、「れんこん」ですよね。


蓮の花は、鑑賞用とは言え、「れんこん」のイメージは、全くありません。


「はすうどん」、「はすそば」です。




 うどん文化圏の海沿部、そば文化圏の山間部。


よい一日を満喫しました。


「百」、千年先まで。

2019年04月05日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

幼い頃から、「百」という文字に異様に興味を抱いていた僕ですが、この歳になって気づいたこと。


百とは、めでたき文字で、万(まん)と朕(ちん)に相通ずるものだと確信しました。


万葉の時代、もも、百敷(ももしき)とは、帝(天皇)の御所、宮中を意味しておりました。


今日は、「令和」を引用した万葉集の梅花の宴の中で読まれた歌32首の中で、「百」がついた名の人物が詠んだ歌を取り上げます。


万葉集の中で、一番多く歌を詠んだのが、大伴家持・・・万葉集の実質的な編集者です。


その父親が、大伴旅人・・・今、話題となっている梅花の宴の邸宅の主なのです。


天平2年(730年)、今から1300年ほど昔の平城京(奈良)時代。



わが園(その)に梅の花散る ひさかたの天(あめ)より 雪の流れ来るかも(大伴旅人)


(わが家の庭に梅の花が散る。はるか空から、雪が降って来るのかも)


               ↓


これを受けての大伴百代の歌。


梅の花散(ち)らくは何処(いづく) しかすがに この城(き)の山に雪は降りつつ(大伴百代)


(梅の花が散っているのはどこだ? それにしても この城の山には雪が降り続いている)


散りゆく梅の花を、意図的に雪に間違えて、梅の花は、雪なり。と笑いを誘う、とばけて詠んだ歌です。


はて、大伴百代(百世)とは、どういう人物だったのかな?


万葉集に、他にいくつか歌を詠み残しています。


ミヒャエル・エンデの名作「MoMo モモ」・・・時間泥棒から時間を取り返す少女の物語を連想します。


時間の花(百花)が、天から降りてくるのです。




百島喜兵衛殿。

2019年03月17日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

ちょうど1年前の3月16日に投稿したものを、偶然見つけました。


再掲載します。


今回、茶臼山に登ったことと、何かしらの因果関係があるのかもしれません。


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タイトル 百島喜兵衛殿。(2018年3月16日)


百島喜兵衛殿をご存知ですか?


村上喜兵衛高吉・・百島 曹洞宗 萬松山 西林禅寺を建立。


瀬戸内海の覇者であった村上水軍の中でも、もっとも有名な人物が、能島村上の総大将であった村上武吉(1533年生)です。 この村上水軍の栄光盛衰の歴史推移は「武家万代記(能島、来島、因島の村上三島海賊家軍日記)」に基づいたものです。 それを口述証言したのが、村上武吉と同じく1533年生まれの百島村上再興を果たした村上喜兵衛高吉なのです。 強いて言えば、日本の歴史上の表舞台に村上水軍を登場させた第一人者(功労者)が、百島の村上喜兵衛高吉なのです。 「百島 喜兵衛」と書いて、「百島 よろこべぇ」と読むのかもしれません。 戒名は、安養院殿 春紅桃林大居士。 百島茶臼山城が居宅跡、西林禅寺のお墓に眠っています。 民泊新法(旅館業許可不要で民泊ができる制度である住宅宿泊事業法 施行日が2018年6月15日)のニュース。 昨日から、日本全国、誰もが、各自治体へ申請できるとのこと。 春紅桃林大居士、百島喜兵衛殿が、何事かを伝えようとしているような気配がしました。



百島 茶臼山登頂記。

2019年03月16日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

おはようございます。


百島で迎える朝に感謝。


朝起きて、泊の神社まで散策。



 



大正9年、百年昔、百島の先人の皆様が建立した「日御碕大神」の石碑に参拝、報告。





帰り道、御近所の京泉さんと少し立ち話。


太ったとの指摘あり・・痩せないとなぁ。


さて、昨日の午前中、出雲の日御碕から、百島に帰省。


墓参りのあと、百島一番のパワースポットとも言える茶臼山登頂に挑戦しました。


今まで一度も入っていない未知の領域です。


 


上り始めて、振り向けば、対岸の常石が見えます。



延々とジャングルのような道なき道を上ります。


格闘すること、30分後? 60分後?


頂上は、背丈を超えた竹藪の世界でした。


およそ50メートルぐらいの長細い台地があるかな?


二つの巨石があるのが、分かりますか?




僅かの間から、下界風景が垣間見えます。



しばらく、言葉がでないくらいのパワーを感じました。



62歳での初挑戦、茶臼山登頂成功❗


富士山登山に使った杖が頂上で折れました。


折れた杖は、巨石に供えました。


心は、折れません。


かつては、300度見渡せた極めて重要な場所。


(あと60度は、背後に十文字山あり。)


後ろは、十文字山、因島村上水軍のみ。


先人は、凄いよ❗


この茶臼山の所有権は誰? 西林禅寺かな?


真っ正面に、広島県有数の高級リゾートホテル、ベラビスタ境ガ浜を見下ろします。


靹の浦からの口無し瀬戸の船の行き来も丸見え。


左側に向島、松永湾、そして、石山、軍殿山がすぐ隣りに手の届く距離です。


右側には、横島、田島の睦橋が真下に、その向こう燧灘も見えて、遠く四国山脈の西日本最高峰石鎚山も見えるはず。


つまり、この場所は、尾道からも、靹の浦からも、燧灘からの船の行き来も丸見えなのです。

瀬戸内海の村上水軍盛衰の歴史は、この茶臼山城主村上高吉が、この場所で考え、口述したと伝わっています。


百島の茶臼山は小さな山ですが、目印を付けながら登らないと、降りる際は、ジャングル状態なので迷います。


西林禅寺の裏手の畑に無事下山、茶臼山登山終了です。


一泊40万円から100万円の超豪華客船ガンツウも停泊しているのが見えます。



茶臼山頂上は整備すると、瀬戸内海屈指の眺望を望めるかもしれません。


対岸のホテル宿泊客からも見上げる存在となります。


将来・・茶臼山にも登って欲しいものです。


唐突ですが、尾道のいちぱんの宝は、何だと考えますか?


リニューアルされた尾道の玄関となる尾道駅ではありません。


いちばんのは宝は、向島です。


さもなければ、尾道水道は、存在しないのです。


同じく、百島が存在しなければ、備後の国は、殺風景で、蘇民将来も存在しません。



北海道の北に千島。


鹿児島の南に十島。


真ん中に、百島と名付けた智恵ある先人は、どんな人物だったのかな?


百島の先人たちは、茶臼山頂上から、百の夢を見て、旅立ったのかもしれません。


今日は、百島からの発信でした。


百島ポート。

2017年11月07日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
はじめに、尾道港から百島経由、常石港までのフェリー百風、高速船びんごに関して・・一日乗り放題の乗船券があれば、嬉しいです。



さて、わが母校、百島中学校の思い出を辿っています。



まず、この校門を通って、自転車通学をしていました。

今は、雑草になっていますが、校門の横に、屋根付きの自転車置き場がありました。

その自転車通学の許可があったのは、泊地区の男子生徒のみ。

女子生徒は、一番遠い海老呑地区からでも徒歩通学でした・・今思うと、とても変、差別的な校則です。

福田地区の生徒は、学校裏手にある八幡神社からの石段を下りて、通学してきました。

本村地区は、あっちこっちの道から通学してきます。



なかなかの見栄えのよい学校でした。

こんもりと緑に覆われている場所には家庭科教室。

スロープの踊り場の中程に保健室。

体育館の裏手には、技術科教室がありました。

放課後のクラブ活動の合間に体育館の横で、あれこれと喋っている時間が、楽しかったなぁ。

百島中学校の各部活動は、それぞれに厳しかったです。

お蔭様で、尾道市内、近隣地区では、強豪チームというイメージがあったようです。

と、家内に自慢気に説明放題。



校舎の窓から見える風景・・長閑でした。

当時、向こうの小高い二つの山は、全部、段々畑でした。



青い空が、いつも一面の広がっているような光景でした。

とは言うものの・・いい思い出ばかりではありません。

裏手の八幡神社で、喧嘩やら殴られた思い出もあります。

当時は、引き籠りやら不登校・・そういうものは無かった。

学校史上最低レベルと言われた同級生は、仲が良かったです。

足を引っ張るよりも、手を引っ張る。

真面目だけど成績は悪い、よく騒ぐけど喧嘩は弱い・・人の弱み、哀しみ、いたわりを知るクラスでした。

同級生の中で「桃ちゃん」という絵を画かせると非常に巧い方がいました。

子供心に天才だと思っていたし、美術担当の女性教諭高垣先生が、絶賛していたのを憶えています。

ただ、中学校を卒業して以来、一度もお会いしていない・・中学卒業後、そのまま就職したとのこと。

百島の桃ちゃん・・どうしているのかな?

絵心・・ずっと持ち続けていたならば、嬉しいです。

およそ500年前、嘉吉の乱があり、赤松一党が逃げてきたのが発端という百島史の起源。

振り返ると、大変です。

されど、およそ500年後・・ひょっとすると、この界隈は、尾道、福山、府中がまとまって「BINGO city 」備後市となって、中国四国地方の州都になっているかもしれないし、日本の首都となっているかもしれません。

そうなると、百島は、空港エアポートとして、変貌しているかもしれません。

でも、未来社会は、空飛ぶ自動車が、いちばん利便性のある交通手段になっているはずです。

そして、巨大船が、動く海上住居、海上自治体となっているはずです。

桃ちゃんは、そんな未来のポートレート(絵)を描いていました。

・・もうひとつ。

中学3年生の時、生徒会の役員をしていました。

退任の挨拶の時に、二つ年下の1年生の女子生徒が、目一杯拍手してくれていたのを、ずっと憶えています。

・・感謝。

その方の息子さんが、今、百島に移住されて活躍されています。

・・踏ん張って欲しいものです。

百島は、人生の母港でもあります。



人生には、いつも百々風が吹いていて、その流れにうまく乗船できますように。

百島ハート。

2017年11月05日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
昨日の夕方、百島に到着しました。

郷土愛、母校愛、色んな形がありますが、百島は、ハート型、そして、ツィータの鳩の型に似ています。

向島の歌港(向東町)から乗船。



そうそう、夕食用に持ち帰り買った弥生寿司店(向東店)、握り、丼物も美味しかったです。

お奨めです。

フェリー百風から見る、百島の対岸にある道越地区(浦崎町)。



左端の白い建物・・とある情報源では、EXILE のヒロさん、女優上戸彩さん、ご夫婦の別荘だとか?

ヒロさんが、子供の頃、この界隈で暮らしていたとの事。

その背景事実確認はよく分かりませんが、これも彼の郷土愛なのでしょう。

さて、百島上陸。



初めに、五右衛門風呂のある家へ。





ここには、金沢在住、尾道出身の山本基さんの塩の作品が展示されています。

凄いの一言です❗



白いカーテンのレースでは、ありません。



塩一粒ひとつぶの集まり、銀河宇宙の世界を見るようでした。





山本基さんの作品を鑑賞するために、昨日一日で30人ぐらい来られたようです。

ここから見える対岸の道越の白い家。



基さんもヒロさんも、郷土愛溢れる持ち主なのでしょう。

それよりも驚いたのは、常駐されているボランティアの案内人の方は、泊地区の煙草屋界隈の佐藤兄弟のお兄様でした。

母からの話では、僕よりも十歳程年長の関東在住の方で、とても親孝行、そして百島愛溢れる方でした。

エール、元気を頂きました。感謝。

久しぶりの家内との百島散策。

若いカップルも何組か歩いていたり、自転車に乗っていました。



まるで、北鎌倉か京都大原の里を散策しているような雰囲気でした。



・・続く。



百島アートベースへ。

口無し瀬戸。

2016年04月18日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今夜のNHKスペシャル「老人漂流社会~しのび寄る老後破産」。

近い未来への・・老後の生きづらさを感じました。

熊本地震関連ニュース・・避難生活を強いられる方々が、熊本・大分両県で老若男女約20万人に膨らんでいるとのこと。

他人事ではなく、地震列島日本国に暮らしている限り、いつ何時誰もが遭遇する運命となるかもしれません。

去年、出席した市の防災会議での「井戸水・湧き水の確認と近所のコミュニケーションが大事」というのが、理解できます。

今回の熊本県の現状・・5年前の東北・太平洋沿岸部の大震災と異なる様相を呈しています。

ミニ都市型の震災・被災地のように映るのです。

首都圏での直下型大震災後の避難民のことを想像すると分かり易いかもしれませんが、復興までに全国からの官民による金銭的厚意、食糧支援活動が続くと思えないのです。

・・国家破産という大変自慢となるものです。

長期間の避難生活が続くならば、他県への広域避難も考えなければ、生活が成り立たなくなるのでは?

活断層・・日本列島の地下深くそこら中に走っているようですが、どうも瀬戸内海・百島界隈には、無いようです。

瀬戸内海には、燧灘(ひうちなだ)という瀬戸内海の中の「太平洋」みたいな海が広がっています。

近くて遠い隣りの島(内海町)・・田島や横島の南側に行けば、燧灘の大きさを見渡せます。

ちょうど中学二年生の秋に修学旅行で行った大分県、熊本県を思い出しています。

西鉄の観光バスで山口県の秋吉台、福岡県の宇佐神社、福沢諭吉の生家跡、別府、九重高原のやまなみハイウェー、由布院で宿泊、翌日、阿蘇山、熊本城、水前寺公園、ブリッジストン発祥地の石橋家の久留米、大宰府、博多のコースだったかな?

修学旅行から百島に帰った数日後、自転車を船に乗せて、田島・横島をサイクリングした中学生の頃の思い出があります。

帰りの船の時刻のため、田島・横島の島内一周は出来なかったですが、燧灘を眺めることができました。

島内一周出来なかったリベンジを果たしたのは、それから約30年後・・内海大橋も出来上がり、今から10数年前のことです。

新車を買って、百島へ帰省した折り、田島・横島を∞(8の字)コースで一周ドライブしました。

燧灘を望む田島、横島の南側には、ほとんど民家もなく、ほぼ誰も住んでいないのです。

しかも、実際、考えていた以上の悪路でした。

当木島方面の横島の西端海岸部分は、常石グループが買い取ったのかな?・・という状態でした。

田島の裏側の道は、百島一周道路の海老呑地区や草木界隈の道よりも狭くて暗くて、ぼくの新車は竹藪の中を走る状態で傷だらけになりました。

これ以上進めるのか不安になって、たまたま一軒家に暮らす年老いた方がいらっしゃたので尋ねました。

多分、独りで暮らしている方だと思うのですが、とても「丁寧な言葉による説明」でした。

それが今でも・・不思議な光景として記憶に残っています。

そのまま進めるということで、阿伏兎観音が見える田島の東側まで出ました。

その阿伏兎瀬戸を「くちなし(口無し)瀬戸」とも言います。

何故、陽当たりのよい南側で暮らさないのかと考えると、燧灘からの潮風も強く、大昔には大津波に遭ったのかもしれません。

例えば、鞆の浦の沖合にある燧灘に浮かぶ走島は、大昔、大津波によって一時、無人島になったようです。

以前、キャプテンが、「百島は、何かに守られているような気がする」と言っていました。

・・同感です。

台風や大嵐が来ると、大昔から、舟は、出口がないような「口無し瀬戸」に避難していたようです。

燧灘からの避難ルート、鞆の浦から「口無し瀬戸」をずっと抜けると、桃源郷のような島が現れます。

それが、百島です。

「口無し瀬戸」・・昨今の日常ニュースから、ふと思い出した記憶の1ページです。

人生「瀬戸際」の真逆となる人生安全航路が「口無し瀬戸」なのかもしれません。

ヒロシマ百年。

2016年04月10日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今日明日、広島では先進国の外相会議が開催。

オバマ大統領の広島訪問も可能性有りとか・・いいね!

各国首脳が、核兵器廃絶を声高々とアピールして欲しいものです。

そうそう、今日は、あの世界一貧しい大統領と呼ばれたムヒカ氏も、一市民として広島平和公園を訪問していました。

ヒロシマは、どうしても訪問したい地であったとか!

毎月、被団協からタブロイド判の新聞が届きます。

平和運動、反核運動に参加するだけで、幸せになれるならば・・参加するけどね。

・・考えさせられるね。

記事のなかに、原爆ドームの近くに「牡蠣小屋」がある・・と批判めいた記事がありました。

不謹慎になるのかな・・?

個人的には、厳島神社、宮島で食べたものを思い起こすと、焼き牡蠣のイメージが湧いてきます。

ところで、1441年の嘉吉の乱の頃までは(瀬戸内海を村上水軍が制覇する以前)、さまざまな海賊たちが群雄割拠していたとのこと。

その中でも、いちばん名のある海賊は、歌島(現在の向島)にある岡島(尾道駅前桟橋の対岸)を拠点とする海賊一味だったとのこと。

百島の祖となった赤松一党は、このルートを通って逃げ延びたのかもしれません。

その後、百年の間に、村上因島が、徐々に尾道、田島、鞆の浦まで支配下に置くようになりました。

百島村上水軍まで登場、存在するようになりました。

大阪の西淀川区に歌島、加島、百島という地名が残っているのも、歴史上の面白さかもしれません。

さて、今日から百年後、ヒロシマは、世界でどのような立ち位置、存在感になっているのか?

想像したくなるような今日一日でした。

南北朝時代。

2016年04月03日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
日本史の中で、最も稀有な時代といえば、鎌倉時代から室町時代へと推移する間の「南北朝時代」だと考えます。

何しろ、日本国に御二人の天皇が即位して、年号さえも二つ存在していたのです。

・・日本史のタブーとさえ言われています。

近代の明治になる頃には、北朝側の室町幕府を開いた足利尊氏が悪党になって、敗れた南朝側の後醍醐天皇に従った楠木正成や新田義貞が祭神扱いになっています。

現在の今でさえ、どちらが正統性があるのか謎だらけです。

ただ、その御蔭で興隆したのが瀬戸内海の水軍でした。

平家を滅ぼしたあとの源氏の鎌倉幕府は、瀬戸内海の水軍を徹底的に弾圧しました。

それほど、瀬戸内海の島々は、古代の時代から豊かでした。

その瀬戸内海の水軍の再興隆にチャンスがまわってきたのは、蒙古襲来の元寇の危機でした。

舟造り、舟操り、兵士としても、瀬戸内海の水軍が大動員されます。

その時、登場したのが前期の村上水軍です。

もともと、村上氏の祖となるのは「多田氏」です。

系図・・複雑迷路です。

その後、時代が過ぎて「南北朝時代」に信濃村上氏から師清という南朝側の人物が瀬戸内海にやってきます。

後期の村上水軍の祖となる人物です。

そして、後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上水軍三家の登場です。

考えてみれば、芸予諸島の海道を制覇・確保すれば、日本の大動脈だった瀬戸内海の航路を封鎖もしく管理できます。

軍事力というよりも「通行税」という売り上げによる経済力は、抜群の効果をもたらしました。

それも、南北朝時代の動乱、室町時代の末期の戦国時代だからこそ、村上水軍は大躍進したのです。

水軍というよりも、海賊という呼び方がいいのかもしれません。

はじめは、伊予守護職の河野家の配下、そして南朝側だった村上水軍も、室町幕府体制が確立したのちは、非常に複雑な動きになっています。

瀬戸内海のほとんどの島々が、村上水軍の拠点配下となります。

嘉吉の乱(1441)には、能島村上は、播磨守護赤松満祐の本拠地、播州白旗城攻めに参加しています。

百島の祖となる赤松一党は、どのような理由・方法で桃島へ逃げたのか?

・・話を戻します。

因島村上からの分家だった「百島村上水軍」は、本家を凌ぐほどの強大になりました。

それは、そうです。

鞆の浦と尾道、因島に行き交う舟に悉く、通行税を徴収すればよいのです。

百島村上水軍は、お隣りの田島村上水軍と組んで、因島の大浜に上陸して本家の因島村上水軍に攻撃を仕掛けたという内紛の歴史も残っています。

下剋上です・・しかし、敗北。

でも、百島村上水軍を再興されています。

当主の村上高吉は、なかなかの才覚人であり、村上水軍全体の重要な歴史を口述で残しているようです。

百島の曹洞宗西林寺に眠っています。

さて、豊臣秀吉が天下を制して「海賊停止令」を発して、各々の村上水軍の運命は分かれ消滅してゆきます。

その後の徳川幕府の260年間・・瀬戸内海の島々の経済力の豊かさは、漁業農業だけの貧しい島々に変って行きました。

南北朝時代が無ければ、瀬戸内海の村上水軍の成り立ち、興隆は歴史上に残らなかったのです。

百島 新・三名所。

2016年02月21日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
昨日、百島・軍殿山山頂から、キャプテンのメッセージが届きました。


(写真提供;百島ネットワーク)

嬉しいね♪

眺めが、素晴らしいです。

加えて、ぼくが子供の頃に思い出す場所と同級生から聞いた抜群に眺めのよい場所があるという伝言を思い出します。

明日の未来が、どうなるか分からないので書き残して置きます。

1)福田地区
 軍殿山の中腹に大きな岩のテラスがあるらしい。
 その岩テラスに座って眺める時間が何とも言えない至福感があるとのこと。
 ぼくは行ったことがないですが、抜群の眺望だとのこと。

2)本村地区
 福田桟橋から真正面に見える山。
 西林禅寺裏手の茶臼山の頂上にある百島村上水軍本拠地の茶臼山城跡です。
 ここも行ったことがないミステリーゾーン、パワースポットです。

3)泊地区
 源助橋から泊地区に向かって、泊道頂上で小さな細道を左側を登ります。
 道なり進むと海が見えて平坦な場所に出ます。
 ストーンサークルのような不思議な羅列した岩やら石が置かれていました。
 昔、むかし、この場所は狼煙を上げる場所だったとのこと。

以上、個人的に百島の新・三名所として推薦させて頂きます。

現在は、どこもジャングル状態になっていると思いますが、元気ある方に切り開いて欲しいものです。

感謝。

将来の島。

2015年10月21日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
昨晩は、防災会長会議なるものに参加して、とある講演も拝聴致しました。

世界一の防災都市を目指す福井市の一市民としては、興味深いものでした。

詳細は、後日に。

宇宙、地球、生命の視点から考えると、人類・人間の先史・歴史は、神様の一瞬の領域かも知れません。

この頃、全盲の方と話す機会が多くて、感覚について敏感になっています。

さて、日本は、世界一の災害大国です。

地震列島だとか火山列島だとか呼ばれますが、唯一火山が無い地域が、中国四国地方です。

その中心となる臍が、百島の十文字山となります。

百島の対岸に常石という地域があります。

造船所があり、クレーンやら大きな船が見えます。

あの景色が無ければ、百島から眺める周囲は、スコットランドやイタリアのベニスにも匹敵する風景になります。

ところが、見方、視点というのは不思議なものです。

僕にとっての百島は、僕の一部です。

時は、室町時代。

1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱を起こした赤松満祐の一族が、桃島に逃れて住み着きました。

京都大徳寺のスポンサーでもあった赤松一族です。

大徳寺と言えば作法、千利休しかりです。


(写真提供; 神原弥生子氏)

目を閉じて、想像を膨らませてみてください。

我々の祖となる赤松一党の落武者達が、この百島を初めて眺めた時、これこそ桃源郷と感じたのでは?

歴史の表舞台に出ない出来事です。

江戸時代、隠れキリシタンと同様に、先祖代々から延々と語り継がれた百島の継承されたルーツです。

百島の福田桟橋から眺めると山肌の中腹に白い建物が見えます。

ただの建物なのですが、向こう側から百島を眺めると、意味合いが変わってくるのです。

リゾートホテル ベラビスタ境ガ浜、名称を変えて、ホテル ベラビスタ スパ&マリーナ 尾道です。

一見、病院のような建物に映りますが、内側は、備後圏最上級のホテル、そこからの俯瞰は、日本全国トップクラスの魅力ある光景が広がります。


(写真提供; 神原弥生子氏)

このアングルが、いいですね!

以前は、芝生だったと思うのですが、このテラスの上に立てば、ひとつの神話が思い起こされます。

遥か太古の昔に出雲の国からやって来たスサノオが、前に浮かぶ桃源郷の島 桃島に立ち寄った神話が目に浮かぶのです。

そして、蘇民将来が暮らしていたのが桃島、現在は百島。

決して、伊勢志摩ではありません。

全国の茅の輪くぐりも、日本中の祗園祭りの発祥の地、その源が、百島となるのです。