この問題は国立大だけのものでなく、近々私立大学にも及ぶ事と予想される。現在学生の皆さん、また、これからその分野への進学を考えている高校生の皆さん、安倍政権は「人文社会科学系の学部は無価値だ」と廃止を求めている。君たちが、今学んでいる事これから学ぼうと思っている事を「無価値だ」と公言している。
文科省の国立大に対する「人文社会科学系学部の廃止」などを求める6月8日の「通知」に対して、「日本学術会議」が7月23日、反対声明を発表した。声明では「人文・社会科学のみをことさらに取り出して、『廃止や転換』を求める事には大きな疑問がある。社会的要請にいかに応えるべきか、一義的な答えを性急に求める事は適切ではない」「(自然科学との連携の重要性を強調し、)教育における人文・社会科学の役割はますます大きなものとなっている。軽視は、大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と訴えた。
大学の先生方やその分野の学者たちは、自己の使命や研究、学生への講義に対し価値の重要性を認識しています。今、当事者である学生自身も、何のために学んでいるのかを意思表示すべき必要があるのではないですか。それができなければ、自分自身が何のためにその分野に籍を置いているのか分かっていないという事になります。きちんとその事を安倍政権に知らしめてやるべきだと思います。安倍政権は、人文社会科学系の学問の価値を故意に知らんふりしているのだと思いますが。世界中で「廃止」をする国はないですから。「声明」にある通り、今日、人文社会科学系の学問は何よりも重要になっています。この分野なしでは、人間の歴史はどのようにして今日までたどりきたのかや、人間の生活を理解する事もできません。人間の生活を良くすることもできません。過去を研究しその成果を現在に生かし未来をよりよいものにするために存在価値を有しているのです。自然科学系の学問は人間の生活を扱わないためそれだけでは人間の生活を良くする事はできません。
とすると、安倍政権は国民を人間として見做していないという事になります。また、自然科学系の学生も人間として見做していない。ただの研究ができる利用できる動物と見做しているのである。そして、人文社会科学系の学問については実は安倍政権ワールドだけが彼らにとって都合の良い研究をし国民を支配統治するために利用するとともに国民に押し付けるつもりのようです。情報の統制をしようという事なのです。
これでは、18歳以上に選挙権を与える事になっても、社会や人間について正しい判断力を培う機会を奪われてしまうことになります。主権者教育をすると言っていますが、洗脳するための内容でしかないと思います。
歴史認識も、人間をどういう存在と見るかという事が重要なポイントになる。ただの動物のように見るのか、人権を持つかけがえのない存在と見るのかで異なったものになる。安倍政権は前者ですが。
文科省は「廃止などの理由」として、「自然科学系の研究は『国益』に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、人文社会科学系は『成果』が見えにくい、社会のニーズに応じた人材が育てられていない」と説明していた。そして、国立大学には「見返り」の大きいニーズのある分野に力を入れさせ、そこに補助金を集中させる考えである。しかし、大学はストレートに「国益」のために設置されているのではない。「成果が見えにくい」というが、自然科学系の実験成果などとは異なる内容を扱うのだから当然の事で、また一つだけの答えが出てくるというものでもないし、「社会のニーズに応じた」というが、「安倍政権のニーズ」ということではないのか。また、「ニーズに応えなければならない」という発想自体も人文社会科学系の学問に対しての「無知」を表しているし、人間を単なる「資源」として見做している。人間を「物質」や「動物」として見做している。本来ならば、日本国憲法下で安倍政権が提唱すべき「ニーズ」は「人権保障」や「民主主義」の充実に資する内容であるべきだ。
※この問題に関しては、以前に『これは愚民政策だ!!「国立大学の人文社会系の廃止や転換」通知』のブログでも取り上げたのでそちらも参照してください。
さて、ここでは別の視点から考えてみたい。「教育基本法」第7条「大学教育」では「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。②大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とある。
今回の通知は教育基本法第7条「大学教育」や憲法第23条「学問の自由」、第19条「思想及び良心の自由」に対する「弾圧」であるとみるべきである。(「国旗国歌斉唱の強制」については憲法第20条「信教の自由」に対する弾圧)。「弾圧」という言葉を使うと、それは敗戦までの大日本帝国政府が行った事で、敗戦により帝国政府は崩壊したのだから現在の安倍政権にはそんな事はできないはずだ、と考えていませんか。それは非科学的な「思い込み」なのです。
安倍政権は、日本国憲法を改正し、大日本帝国憲法への回帰を実現しようとしています。彼は、「安保法制」成立のための理由として、「国民の命と財産、幸せな暮らしを守るため」と、繰り返し強調していますが、「人権の保障」や「民主主義を守る」という言葉はまったく口にしていない。ここに彼らが目指す社会や国家がどんなものであるかが示されているのではないか。国民の望む「命と幸せな暮らし」と安倍政権のそれとは異なるようである。国民は動物ではない。衣食住が備わればよいというものではない。国民は人間であり、人間であるからには、人権の保障を大切にしたいし、民主主義を大切にしたい。しかし、彼らはそれに触れようとしないし、それを無視した対応をあらゆる面でとり続けている。そして、人文社会科学の学問をも、歴史修正主義の考えに基づいて、彼らにとって都合のよいように作り変えようとしている。そして、歴史修正主義に基づいた人文社会科学系の学問内容を定着させたいのです。そのためには現在の一般的な人文社会科学の成果を駆逐したいのです。また、人間生活やその歴史、社会問題についても国民には、「理解力」や「洞察力」や「判断力」を養えないようにし、かわりに歴史修正主義による見方考え方を正しいものとして身につけさせようとしているのです。こういう事から、「人権の保障」や「民主主義を守る」という言葉をまったく口にしていない事と、「人文社会科学系学部の廃止」は繋がっている問題であると考えるべきなのです。
現在の「人文社会科学系」を廃止しなければ、自らが批判の対象となってしまうのである。
しかし、グローバルな時代に、彼らのような偏向した考え方は通用しません。世界から孤立します。そのような孤立した考えをもつ安倍政権ワールドが現在国会で「安保法制」を成立させ「世界平和のために活動する」というが、国民はその言葉が「詭弁」であり、彼らが「偽善者」であると感じるのは当たり前である。人間を人間として認めていないのだから。日本国民の人権や民主主義を抑圧している彼らが、世界の人々の人権や民主主義を尊重するなどという事はありえないと思って当然である。
大日本帝国下での「学問の自由」に対する弾圧は、日本軍による謀略事件「柳条湖事件」によって始められる「満州事変」以後激化してゆく。軍部や右翼が台頭し、国家主義的思想が広まり、共産主義・社会主義のみならず、自由主義や民主主義的学問への弾圧も行った。その端緒となるのが、滝川事件である。
滝川事件1933年……刑法学の京都帝大(国立)教授に対する休職処分事件である。「司法官赤化事件」に端を発し狂信的右翼団体がパンフレット『司法官赤化事件と帝大赤化教授』を作り、司法官赤化事件の原因が、自由主義的法学者である東大(国立)の美濃部達吉らと京大(国立)の滝川幸辰らの法学思想にあるとして、攻撃した。これを受けて貴族院や衆議院の一部議員が第64議会で政府に帝国大学の「赤化教授」の追放を要求し、特に滝川教授の『刑法読本』を攻撃した。この議会での追及を政府は受け入れて、内務省が1933年4月11日、前記著書を発売禁止の行政処分とした。鳩山文相は京大総長に、滝川教授の前記著書の内乱罪や姦通罪に対する解釈は内乱を扇動し、姦通を奨励する危険思想であると非難し、教授に辞職か休職措置を要求した。総長は文部省の要求をいれず、法学部教授会は、問題は滝川個人の問題ではなく、「大学における学問研究の自由の問題」であり、時の政府の方針と一致しないとの理由で教授の辞職を要求するのは「大学の自治への介入」であると文部省に反論した。これに対し斎藤内閣は強権で対処し、教授の休職処分を決定した。
政府・文部省の処分に対し、教授会の全教授、助教授、講師、助手、副手の全教官が総長に辞表提出し抗議した。 また、法学部学生も学生大会で滝川教授の処分撤回、法学部全教授の復職を文部省に要求、総退学も辞さないと宣言した。抗議運動は全国に広がり全国大学生が団結し、「学問・研究の自由」「学園の自治確保」などを要求する「大学自由擁護連盟」が結成された。学生たちの行動は日本国憲法で考えれば、第26条「教育を受ける権利」の保障を要求したものでもあったといえる。
文部省は、文部省の意向に応じた新総長とともに、滝川教授ら6名の辞表だけを選び、6教授の辞任を決定した。他方、文部省の説得をいれて辞表を撤回した残留教官は、その後事態の収拾に協力し、学生組織の解散を命じるとともに、京都署の特高(特別高等警察、思想警察)を学内に入れて学生運動を一挙に弾圧した。半年間の大学の自治と学問の自由をめぐる政府と大学の間の最大の闘争であったが、政府権力側の勝利により、これ以後「非常時」の名のもとに全体主義的な思想弾圧を強化する前触れとなったのであり、日本ファシズムによる一連の自由主義思想の弾圧の端緒となった。(敗戦後、滝川幸辰は京大に復帰し総長となる。)
※自由主義的学問の弾圧…1935年美濃部達吉(天皇機関説問題)、1937年矢内原忠雄(矢内原事件)、1939年河合栄治郎事件、津田左右吉事件、
以上の事件では、帝国政府の方針(国家主義)と一致しない事(自由主義や民主主義)を理由に教授の休職辞職を要求したり、著書を発禁処分とした。当時は天皇制全体主義であり、もともと国民(臣民)のあらゆる自由は大日本帝国憲法により「法律の範囲内」に制限している上に、1928年「改正治安維持法」を施行していたので、「天皇制」を崩壊させると判断した「動き」に対しては、国家権力は何のためらいもなく徹底的に「弾圧」する事が可能であり、「個人」を「弾圧」する「手法」は一般的なやり方で、それによってまた、周りの人間に対する脅迫威嚇効果も狙うものであった。
今回の「通知」は個人を対象とせず、国立大学の人文社会科学系全体の教員を対象としているが、それは現在の国家体制が日本国憲法の示すように「民主主義」体制でさまざまな「自由」が保障されているため、敗戦前のような「露骨」な「個人的な」弾圧ができないのである。また、「自由」の保障に反すると受け取られるような「理由」をつける事ができないのである。そう考えると、この「大学の学部制度」を根底から覆す事を目的とする「通知」は安倍政権版「憲法違反無視」の「弾圧」以外の何物でもないである。また、この「大学改革」を、一片の「通知」で実施しようとする「手法」は、憲法を「改正手続」を経ず、「閣議決定」「解釈改憲」で変えてしまうという「手法」とまったく同じなのである。「立憲主義」を無視した「横暴」な「手法」なのである。この「改革」は国民の将来に係る重要な問題であるから、本来国会で法案の形で提起して議論をすべき内容なのである。極端にいうと、国立大では、人間の営みに目を向けず、「人権と民主主義」を発展させるための「思考力」「理解力」「洞察力」「判断力」など人間生活に重要な能力を培う機会や場は不要であるから「廃止」する、と言う事を「行政の独断」で決定し実行しようとするもので「政治のルール」「三権分立」「国会の立法権」を無視した手法である。他の国々には見られない「考え方」であり「改革の手法」である。
※自民党の教育再生実行本部が5月に出した「小中高教員の国家免許」提言の狙いも、安倍政権が実現を目指す「国家体制」にとって「思想的に」役に立つ「教員」を養成する事である。
在籍している学生はどう考えているのか、声をあげるべきだし、国民も意思表示すべきだと考える。また、私立大学にもこの影響が及ぶと予想して間違いないと思うが私立の教員や学生も己に突き付けられた問題として考え声を挙げるべきだ。学生には憲法第26条「教育を受ける権利」で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という事が保障されている。伝統的に設置されてきた「人文社会科学系」の学問を学ぶ権利を「既得権」として保障されているのである。また、第13条「幸福追求権」の保障とも関係している問題である。
人文社会科学系で学ぶ価値を意味をどう考えているのか。人間にとって必要のないものなのか。あらためて深く考えて学ぶ目的を明確にしよう。「声明」では、自然科学との連携の重要性を強調し、「教育における人文・社会科学の役割はますます大きなものとなっている。軽視は、大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と指摘している。
学ぶという事は行動する事でもある。教員は研究室で自己の満足のためだけに研究するのではなく、社会に国民にその成果を還元しなければそれは「死に学問」である。自己満足にしか過ぎない。それでは意味がない。しかし、「反対声明」の発表は教員が「学び」を自ら実践した画期的な事だと思う。学生も教員を見習って、学問を自分のためだけにするのではいけない。最高学府で学んでいるという事は、そこで身に付けた事を、国民に対してオピニオン・リーダーとして、伝え提供還元する役割があるのだという事に気づいてほしい。自己満足のためではなく、プライドを保持するためでもなく、家族の社会の国民の幸福のために、人権保障や民主主義をより充実したものに育てるために貢献する事だと気づいてほしい。
安倍政権では、「人文社会科学系の学部の廃止」を通知する反面、自然科学系に対して、「自然科学系の研究は『国益』に直接つながる技術革新や産業振興に寄与している」との考え方から、防衛省が、国の安全保障に役立つ技術を開発するとして、大学などの研究者を対象に研究費の支給先の公募を始めた。自然科学系の学問研究は、人間の健康や生命を守りより良く生きるためにこそ存在価値を認められるべきであって、人間をいかに効果的に病気に罹らせたり、殺す事ができるかが研究課題となってはいけないと思う。安倍政権の考え方は後者の立場に立って自然科学系の学問研究を重視しているが、敗戦前と同じ発想である。
滝川事件の翌年、1934年10月、陸軍省新聞班は『陸軍パンフレット』(正式には「国防の本義とその強化の提唱」)を発表した。「たたかいは創造の父、文化の母」で始まるものである。「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり」「国民は必勝の信念と国家主義精神を養い、それには国民生活の安定を図るを要する」「現在の日本の資本主義は誤っている、修正しなければならない」として、 1国家観念の強調……天皇制国家の強調。 ②社会政策の振興……資本主義をもう一度考え直す。 ③統制経済の提唱……のちに戦争に入ると統制経済が中心になる事を想定した。要するに日本が国家総力戦態勢、高度国防国家を作るためには自由主義ではだめである、ナチス・ドイツのように資本主義経済体制を壊して統制経済にしなければならないと説いた。つまり、軍が統制する国家をめざす事をアピールしたのである。安倍政権とそっくりである。
この先で若者たちを迎えたのが「特攻隊」であった。『きけ わだつみのこえ』より紹介。
「私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝ち戦は火を見るより明らかであると思います」(上原良司、慶大学生、昭和20年5月、特攻隊員として沖縄で米機動部隊に突入戦死)
(2015年7月31日投稿)