つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

ロシア国営TV編集者が生放送で「戦争反対」訴え罰金刑:神聖天皇主権大日本帝国政府下では特高が虐殺も

2022-04-03 12:14:32 | アジア・太平洋戦争

 モスクワ時間2021年3月14日、プーチン政権下の国営TV「第1チャンネル」ニュース生放送中に、編集者マリー・オフシャニコワさんが、「戦争反対 プロパガンダを信じないで ここではあなたにウソをついている」などと手書きした紙を掲げた。そして、彼女はスタジオで拘束され警察署に連行された。

 彼女は今回連行される直前にSNSにビデオ投稿し、「止められるのは、私たちの力だけ。集会に参加して」と呼びかけた件で、モスクワの裁判所が15日、「無許可の集会を呼びかけた」として罰金3万㍔を科した。

 この事件は今日の日本国民にとって、学問や言論、表現などの自由に対する弾圧、思想統制・思想統一政府による戦争への道につながるという事実を身近に学べる事件といえるが、かつての神聖天皇主権大日本帝国政府が、「戦争政策遂行」に反対する臣民(国民)の動きに対し、治安維持法と特高警察権力をもって今回のロシアの件に勝っても劣らぬ残虐な対処をしていた事を忘れてはいけないし、同じような体質をもつ政府が日本で存立する事を決して許してはならないと肝に銘じなければならない。

 鶴彬(1909~38)は生活苦や政治批判、そして戦争・軍隊に対する批判や恨みなどを川柳で訴えた。1928年(19歳)3月にはナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部結成。1930年(21歳)1月に金沢歩兵第7連隊に入営するが、3月1日陸軍記念日の連隊長訓辞に質問をしたため重営倉に入れられた。1931年には金沢歩兵第7連隊内で共産党青年同盟機関紙『無産青年』を勧め反戦反軍活動を行ったとされ治安維持法違反として軍法会議にかけられ刑期1年8カ月、大阪衛戍監獄(大阪城内豊国神社あたり)で監獄生活。除隊後の1933年に東京で通信社に就職し、労働者や農民、無産市民の生活地位向上を目指し無産運動に尽力するが、特高警察思想犯と見做され、1937年には11月15日発刊『川柳人』281号掲載作品「〇高粱の実りへ戦車と靴の鋲、〇屍のゐないニュース映画で勇ましい、〇出征の門標があってがらんどうの小店、〇万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た、〇手と足をもいだ丸太にしてかへし、〇胎内の動き知るころ骨がつき」などについて、12月3日治安維持法違反として検挙(第1次近衛文麿政府)され、東京都中野区野方署に留置された。そして、過酷な拷問や赤痢罹患により移送された新宿奥多摩病院で1938年9月14日死亡した。1933年2月特高に築地署で拷問虐殺(斎藤実政府)された小林多喜二と同じ享年29歳であった。ちなみにこの頃神聖天皇主権大日本帝国政府ファシズム政策を推し進め、1928年6月改正治安維持法(死刑・無期刑追加)を公布(田中義一政府)し、7月には未設置の県警察部に特別高等警察課を設置(田中義一政府)した。また、1929年3月には右翼が山本宣治を刺殺し、1929年4月には田中義一政府が、1928年の3・15事件田中義一政府が共産党員大検挙)につづいて4・16事件(共産党員大検挙)を実行している。1933年5月には斎藤実政府滝川事件を起こし、1935年2月には岡田啓介政府天皇機関説事件を起こし、1935年8月には岡田啓介政府が国体明徴声明を出している。

そして、1937年7月7日には第1次近衛政府盧溝橋事件を起こし日中全面戦争へ突入し、さらに太平洋戦争へと拡大させていくのである。

(2022年3月19日投稿)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする