最近、朝日新聞では「続 よみがえる沖縄 琉球から日本へ」と題して神聖天皇主権大日本帝国政府下の沖縄県の写真を掲載している。その中には、裏に「祝典余興の琉球大角力」と書かれているという、1936年頃の角力大会の写真があり、那覇市の波上宮の波上宮祭で開かれる角力大会と似ている、と説明されている。また、別の写真についての説明文の中には、1923年に首里城跡に「沖縄神社」創建が許可され、琉球王国の史跡が次々と国家神道に結びつけられていった、と述べられていた。
沖縄県は本来国家神道とは無縁の地域であった。では、沖縄県ではどのようにして国家神道=天皇教の組織が作られていったのだろう。それは沖縄古来から存在した民間の信仰や支配者の信仰を変質させ国家神道の神社組織に組み込んでゆく事であった。
まず、1890年1月には、大日本帝国政府は沖縄県民に、天皇に対する信仰心を起こさせる事を目論んで、「琉球八社」の中心であった那覇の「波之上宮」を国家神道における5段階の神社社格(官国弊社、府県社、郷社、村社、無各社)の中の「官幣小社」に列した。そして、1902年には、県当局が同宮に対して「国家安全、忠君愛国の士気を養う印」として天照皇大神宮(伊勢神宮)の大麻を県民に頒布する許可を与えた。そして、これと並行して、古来の「御嶽」や「拝所」は「村社」として整理統合し、「拝殿」や「鳥居」などを建てたのである。このような沖縄の歴史を知る事も今日の沖縄に起きている様々な問題を理解し解決してゆくうえで大切な事であろう。
(2021年4月26日投稿)