つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

関東大震災下「白色テロ」の原動力を教育に求めた秋田雨雀その➁

2023-09-06 19:18:23 | 関東大震災

 関東大震災時における朝鮮人らを対象とした大虐殺事件は、第一次世界大戦後、神聖天皇主権大日本帝国における独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「神聖天皇主権大日本帝国の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との、反日本帝国主義連帯の芽生えを摘み取ろうとした神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」とされている。

 劇作家・児童文学者であった秋田雨雀(1883~1963)は、関東大震災下に行われた「白色テロ」の原因教育に求め、1923年9月『民族解放の道徳』を読売新聞に発表している。以下に紹介しよう。

㈣「ある外国人が大震後日本人が大震によって何故に民族的という事を考えるのであろう。むしろ自然の圧迫を受けた時には自然に対して人類という事を考えるのは当然でなければなかろうが、といった事を聞いて私は非常に至言だと思った。自然の圧迫に対しては人間は人間としてお互いに手を握り合わなければならないはずである。しかるに事実はそれに反して私達日本人は自然から受けた大きな損害に数倍するほどの惨虐性を同じ人類である処の〇〇(朝鮮)人その他及び同民族に与えている。この不合理は何とした事であろう。この不合理は単に偶然の出来事として看過さるべき不合理ではない。恐らく私達日本人の民族的精神の誤謬が反省されない限り、度々繰り返される不合理であろうと思う」

㈤「しかしこの不合理の生む惨虐性は決して或る少数の人々の力によって生まれたものでもなければ、或る時の偶然の機会で生まれたものでもなく、私達全体のものを包んでいるところの一つの迷信から生まれたものであると思う。或る少数の人々が意識してやったと思われる行為でさえもそれは無意識的にその迷信の魅力に働きかけられている場合が多い。

㈥「民族の持つ惨虐性というようなものは必ずしも今日の日本だけが持っているものでないかも知れない。しかし日本のような戦争によって国家的地位を確立したと思われる国家では、恐らくその惨虐性が道徳の性質を帯びているのを当然の事だといわなければならない。親切、無邪気、相互扶助的な精神さえも、それは全く自己の民族にのみ限られたものであって、一歩利害を異にした民族に対しては、あらゆる惨虐、無残な行為を生んで来る。であるから単に日本ばかりとはいわないが、今日の各国民の持っている民族精神の陰には、今度の日本震災後において日本人の暴露したような醜い惨虐性が含まれている事を知らなければならない。国民道徳と私達の呼んでいるものから民族が解放されて、そこから本当の広い自由な新しい道徳が生まれて来るのでなければ、我々は自然というものに対して安心して対峙して行く事が出来ないばかりでなくて、人類は人類の敵となって絶えず苦しめ合うものである事を覚悟しなければならない。本当に民族を愛するいわゆる「国士」こそは、民族及び人類をこの誤った道徳の中から救い出して、人類共存の生活の方へ導くものでなければならない。そうしてそのために受けるあらゆる苦痛を甘受する人でなければならない。その人達こそ本当に「国士」を愛する人だという事ができる。」

(2023年9月6日投稿)

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関東大震災下「白色テロ」の原動力を教育に求めた秋田雨雀その➀

2023-09-06 18:30:24 | 関東大震災

 関東大震災時における朝鮮人らを対象とした大虐殺事件は、第一次世界大戦後、神聖天皇主権大日本帝国における独占資本主義の確立を社会的基盤にして形成された、「神聖天皇主権大日本帝国の労働者階級を中心とする日本人民の諸階級・諸階層と、朝鮮人労働者階級を中核とする朝鮮人民との反日本帝国主義連帯の芽生えを摘み取ろうとした神聖天皇主権大日本帝国政府によって強行されたものである」といわれている。

 劇作家・児童文学者であった秋田雨雀(1883~1963)は、関東大震災下に行われた「白色テロ」の原因を、教育に求め、1923年9月『民族解放の道徳』を読売新聞に発表している。以下に紹介しよう。

㈠「クロポトキンが西ヨーロッパの自由思想を称えて立った当時、クロポトキンはスラブ民族を滅ぼすものであるといって非難された事があった。その当時クロポトキンの答えた短い言葉を私たちは記憶している。『スラブ民族の持っている善良な性質、たとえば寛大、慈悲、人間的でしかし鈍重で質朴なそういう性質を持った民族を迷信と暗黒の中から解決しようとするのが非民族的か、それらの善良な人民を暗黒と迷信の中に屈従させて置こうとする方が民族を愛するものであるか』といった言葉は、今日の日本人の言っている愛国心、非愛国心という言葉を批評する場合にも適切に当てはまると思う。甘粕事件(大杉事件)に関して度々「国士」というような言葉が用いられているのを見て私達は微笑せざるを得なかった。「国士」とは国民の大部分を迷信の中に置いて、その国民の持っているあらゆる善良な思想感情の発達を阻害するものの上にかぶせられた名だとすれば、私達は先ず「国士」という様な言葉を最も恥ずべき名前の一つだと思う。真の意味の「国士」とは民族を一個の人類として自然な明るい道に導いてゆき、民族の上に行われている差別的な生活を打破し、その運動を阻害するものと勇敢に戦ってゆくものこそ、当の「国士」でなければならないはずである。こういう見易い事が、今日の日本人ばかりとはいわない一般の人類に理解されないという事は、今日の人類が全体として迷信の域を脱していないという事を証明するものである」

㈡「大震当時及びその後における日本人の生活行動を見ると日本人が果して新しい時代の教育を受けていたかどうかは疑わしくなる。我々が名付けて教育といったものはそれは本当の教育ではなくて民族の持っている迷信を保存し、民族をそのの中に閉じ込めようとしていた一つの運動に過ぎなかった。その結果がこの大震によってあまりに露骨に表れ過ぎたに過ぎないのだと思う。迷信を土台にした教育者は大震後における民族的な欠陥の暴露、例えば自警団の虐殺事件や甘粕事件やその他の惨虐な行動を見て自分達の教育の正しく効果を奏していた事を喜ばなければならないはずである。恐らくそういう人達はああいう惨虐な行為を生んだ原動力となったところの教育をますます涵養させようとしている事だろうと思う。」

㈢「しかし本当に国民の生活人類の生活と一元のものとして正しい発達を遂げさせようと思う人々にとっては、今日まで日本人の持っていた国民教育、民族精神に大きな欠陥のあるという事を気付き、一日も早くその欠陥から私達自身の生活を解放しなければならないという事を、この際痛切に感じなければならないと思う。もし今日の国民教育或は民族精神というようなものを是認し或は弥縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度も醜い惨虐性を暴露して、民族の持っている最も良い素質さえも失ってしまうであろう。民族の美点を発揮する事は民族を人類の生活から隔離する事でなくて同じ民族の中に行われる迷信や圧迫からその民族を解放して、広い人類の生活の上に働きかけてゆく事でなければならない。」   つづく

(2023年9月6日投稿)

 

 

 

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