石垣市や石垣市教委のホームページには、「オグデン道路」についての紹介説明資料を見る事ができる。「オグデン道路」について、いずれもよく似た内容となっている。しかし、その説明は事実を正しく反映しているのだろうか?疑問である。
沖縄県は、沖縄地上戦をへて連合国軍である米国政府軍の占領下にあったが、1952年4月28日以後は、その日に発効した日米安全保障条約(昭和天皇の要望と吉田茂首相の責任の下に締結)に基づいて、米国政府軍単独の占領下に置かれる事となった。その沖縄県を実質支配したのがオグデン氏で琉球列島米国民政府(USCAR)の副長官であった。
ホームページでは、その彼が資金援助し、ブルドーザーやグレーダーなどの機械力を導入し、西表島を東西に走る道路や石垣島を一周する道路などを造った事からその道路に「オグデン」の名前が冠せられたとの事。また、八重山庁長と石垣島住民一同の名で1955(昭和33)年に「オグデン感謝記念碑」を建てたとの事。その「感謝碑」には、「1953年6月琉球民政府副長官オグデン少将御来島の際八重山開発援助のため川平桴海道路工事費として百万円賜った御厚意に対し此の碑を建てて感謝の意を表します。1953年12月 八重山地方庁長高嶺世太 石垣島住民一同」と刻まれている。
またホームページでは、道路の整備がなされた背景については、戦後の開拓民の入植を挙げている。1953年当時、すでに石垣島の西部や北部にかけては、沖縄本島の読谷や宮古島からの琉球列島米国民政府(USCAR ・ ユースカー)計画移民が一部入植しており、東部(裏石垣)地域への入植住民のために石垣島一周道路(1955年11月13日完成)整備を急いだとの事である。
石垣市教委市史編集室ホームページではこの「オグデン道路」を、「戦後開拓の歴史と深い関りがあり、いわば、たくましく戦後を生き抜いた人びとの生活を拓いた道」であったと評している。
さて、このような「オグデン道路」についての紹介は、造られた事実を正しく反映しているだろうか?端的に言えば、「事実を正しく反映していない」というべきだろう。
それは、道路整備を急がなければならなかった、琉球列島米国民政府(USCAR)副長官オグデン氏側の最も重要な事情を紹介していないからである。
USCARは沖縄本島における基地拡大のため、沖縄県農村民の農地を強制接収しなければならなかった(軍用地として接収した土地は、読谷村では全村面積の74%。現在でも47%を接収されたまま)からである。そのため1952年に「政府計画開拓移民」という名目で、読谷村を中心に沖縄各地から多くの農民を石垣島東側(裏石垣)や西表島、海外では南米大陸のボリビアなどへ強制的に移住(移民)させようとしたのである。しかし、石垣島や西表島は戦後も「マラリア」の蔓延する島であり、それを退治しなければ、追い出す農民の収容は困難だったのである。つまり、沖縄本島から追い出す農村民の移住先を確保するためというのが、オグデン氏の「道路整備事業」の根本の目的だったという理解を伝えなければ正しく説明紹介した事にはならないし、現在の紹介説明内容では、オグデン氏、また琉球列島米国民政府(USCAR)に感謝し讃える気持ちを生み出す効果しか与えないからである。
(2022年5月2日投稿)