つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

関東大震災下、埼玉県内務部長の発した通牒と本庄町での朝鮮人虐殺の実態その➁

2023-09-10 20:36:23 | 関東大震災

 埼玉県内務部長が発した通牒をきっかけにして埼玉県でも朝鮮人の大虐殺が行われたが、なかでも本庄町はその数が突出していた。その実態を知る事が出来るものとして、当時『埼玉新聞』(1923年9月2日~4日)が掲載した、当時本庄町の町会議員であった中島一十郎氏の『本庄の虐殺事件を語る』を紹介したい。 

以下は、その➀、のつづきです。

「……武道場は七間半に四間程度の木造で中央が試合をするため少し高くなっており、入口は確か東向きでした。本庄署にたどり着いた人たちは早速、できるだけ人に知られぬように武道場内に移されたのですが、入り切れなかったためか、後から着いたためか、それと知って町民の一部が駆け付けた時には警察前の広場に(〇〇〇〇)その上にはまだだいぶ乗っている人がおりました。「警察に朝鮮人が来ている」と聞いて集まったのはもっぱら鳶職だとか大工、魚屋といった威勢のいい若い人たちでした。それにかまわず車の上に乗っている人たちに投石する。棒で叩く。ついに一人一人引きずり降ろしては殴り、蹴倒し、勢いに乗って殴り殺してしまったのです。止めようとする人があると「貴様も朝鮮人だろう」と逆に殴りかかる始末で警察の門前で集団的な大量殺人事件が公然と行われたのです。こういいますと多くの人は「警察は何をしていたんだ」とお尋ねになるでしょうが、残念ながら4日夜から5日朝まで続いた虐殺事件を通じ、警察は姿を現しませんでした。……ところで、血を見てますます狂暴となった群衆はますます勢いづき、トラックの上の女性や少年を含む全員を惨殺「東京の仇がとれた」と凱歌をあげたのですが、さらに門内を覗いていた者が武道場の中にいる人たちも発見したのです。「それっ」とばかり日本刀を抜いた連中が道場の入口に殺到したのですが、一方の壁側に固まった必死の人たちと向かい合ってしばらくは手が出なかったそうです。追い詰められて一人が机を差上げて抵抗しようとしたそうですが、この人たちは、後は全事件を通じほとんど抵抗は見せず、ただ手を合せて助けてくれと拝むだけだったのですから、随分酷い事でした。今の若い人たちなどには当時の事は話しても信じてもらえぬかも知れません。

 結局、その人たちの中に日本刀を振りかざして乱入し、とうとう夜明けまでに一人残らず殺害してしまったのです。床の下に隠れていると聞くと、力まかせに一寸もある厚い板を残らず引き剝がして、下に隠れている人を竹槍で突き殺す、天井にもいるというのでブスブス竹槍で突いておるという風で、一人だけ便所の汲み取り口から逃げた人がありますが、今の若泉公園の附近の崖から落ちて死んだそうです。その言語に絶する暴行は夜を徹し群馬県の人や児玉郡内の村部の人たちもまじえ、代わる代わる朝まで行われ、朝になってまだ息を吹き返した人があるとまた丸太で殴りつけるという有様で、警察の庭も道場の中も血の海で4日の夜から5日の朝までは、まさに地獄そのものでした。……死体は5日の午前中に荷馬車2台に乗せて町はずれの火葬場へ運びました。町の真ん中を通っただけにこの有様は多くの人の眼に触れたと思います。火葬場へ運んだもののあまりに数が多いので、焼く事も出来ず、付近の畑に大穴を掘り、その中に死体を投げ込んで焼き、そこに仮埋葬したのですが、後に市内長崎の共同墓地に合葬しました。氏名は一人も分かっていなかったようでした。今市会議員をやっている立花帝二君が事件の現場で扇子を拾いましたが、それには日本人を呪う漢詩が書かれてあったそうです。血があちこちにこびり付いていた武道場は、しばらく少し修理し使っていましたが、後に市営の火葬場へそのまま移して待合室にして今もそこに残されています。」

(2023年9月10日投稿)

 

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関東大震災下、埼玉県内務部長の発した通牒と本庄町での朝鮮人虐殺の実態その➀

2023-09-10 19:36:31 | 関東大震災

 

 関東大震災下の埼玉県では本庄町での朝鮮人虐殺数が最も多かったが、そのきっかけを作った埼玉県内務部長の発した朝鮮人に関する通牒を以下に紹介しよう。

「庶発第八号

 大正十二年九月二日

                 埼玉県内務部長

郡町村長宛

 不逞鮮人暴動に関する件

        移牒

今回の震災に対し、東京において不逞鮮人盲動有之、又その間過激思想を有する徒らに和し、、もって彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次その毒手を振わんとするやの惧れ有之候については、この際町村当局は、在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度、右その筋の来牒により、この段及移牒候也」

 この通牒をきっかけにして、埼玉県下でも朝鮮人の大虐殺が行われたが、なかでも本庄町はその数が突出していた。その実態を知る事が出来るものとして、当時『埼玉新聞』(1923年9月2日~4日)が掲載した、当時本庄町の町会議員であった中島一十郎氏の『本庄の虐殺事件を語る』を以下に紹介したい。

「震災当時わたしは、昭栄製糸の前身の山重製糸に勤め、原料仕入れ主任の仕事をしながら町会に議席を置いていました。震災は大正12年9月1日午前11時58分、地震被害は本庄ではほとんどありませんでしたが、大変なのはその日の夕方からでした。昼の明るいうちから東南の方角に異様な光が見え、暗くなるにつれ、空をこがすほどに赤く燃え、人々は三原山の噴火だろうなどと噂し、隣の深谷市が大火だと消防ポンプが深谷までかけつける始末でした。翌日東京の様子は続々と逃れて来る避難民たちの口から伝えられたのがあの、呪うべきデマでした。朝鮮の独立を願う朝鮮人社会主義者と一緒になって震災に乗じて東京を焼き払い無辜の日本人を大量に殺戮し徒党を組んで沿道を焼き払いながら中仙道を下ってくる、というのです。また彼らは夜陰に乗じて井戸の中に毒薬を投げ入れるというも飛び出しました。これらの噂は根も葉もないデマでしたが、当時の本庄町では郡役所門平文平氏らの幹部などが県庁からの達しだといって消防団在郷軍人分会などにそれを事実として伝え対策に乗り出すよう指示したという事もあり、政府や軍部の一部にはこれを機会に社会主義者独立を願う朝鮮人を一掃すべきだという意見もあったほどで、デマに雷同した町民だけに罪を着せるべきではないと思っています。…

 さて、2日、3日、4日と日が経つにつれ東京の惨状はますます広まり、例のデマもいよいよ真実味を帯び出したわけですが、そこへあの不幸な朝鮮人たちを乗せたトラックがやってきたのです。…… 

 本庄町を通り過ぎたトラックは群馬県高崎市の高崎15連隊へ送られるものだとも長野県へ行くのだともいわれます。そのトラックが今の上里村、当時の神保原村を抜けて群馬県の新町へ入る神流川の岸まで行ったところ、群馬側でその通行を阻止したというのです。……群馬県に入らず本庄に引き返したトラックですが、このトラックの上に乗っていた人たちが再び本庄の町に入って来た時にはもう半分近くは石で打たれたり、鳶口で叩かれたりして血だらけで沿道ではこの車を止めるために色々と妨害もされたそうです。でもとにかくどうにか車が本庄署にたどり着いたのがもう暗くなった頃でした。その頃の本庄署は今の市役所の裏にあって現在の検察庁の建物がそれでした。そして市役所の裏の現在市税務課の入っている建物のあたりに問題の武道場がありました。」その➁へつづく

(2023年9月10日投稿)

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