つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

金石範著「済州島四・三武装蜂起について」(「季刊三千里」1975年秋通巻3号より)その➀

2024-06-10 21:59:44 | 朝鮮問題

 1948年までの南朝鮮の歴史。8月15日に戦争が終ってから、8月26日に米軍が日本にやって来る。9月8日には朝鮮の仁川に上陸する。翌9月9日ソウル入城。そして済州島へは、9月中旬に上陸する。10月には米国に亡命していた李承晩の帰国。大日本帝国政府の朝鮮統治機構であった朝鮮総督府をそのまま受け継いだ米軍は、英語を公用語として強要し、南朝鮮派遣米軍司令官ホッヂ中将の「私が日本人の統治機構を利用しているのは、それが現在最も効果的な運営方法だからだ」という言明にも明らかなように、解放軍ではなく、日本の後釜に座るためにやってきた新しい支配者としての姿を人々の前に見せ始める。そして自らの支配を合理化するために、自国から李承晩を輸入し、その階級的地盤を地主資産家層に置いた。

 これより先、8・15直後、刑務所や地下から出てきた愛国者たちによって、南朝鮮は南朝鮮なりに人民委員会が済州島の村々にまで全国至る所に組織されたが、その人民委員会の代表1000名が9月6日ソウルに集まって大会を開いた後、「朝鮮人民共和国」をつくった。しかしまもなく米国政府は米軍政庁が唯一の統治機関だとして、これを否定解散に追い込む。このような事態の推移に大方の朝鮮人は目が覚め、米国政府が解放軍だという幻想を捨てるようになるが、しかし、今度逆に、解放後、民衆の報復を恐れて隠れていた者たちが、米国政府と結びついて新しい勢力を作り始める事になる。

 45年12月には、モスクワで三国外相会議(米英ソ)が開かれ、⑴朝鮮に臨時政府を樹立する。⑵臨時政府樹立のため米ソ共同委員会をソウルに設置する。⑶5年間の4カ国(米英中ソ)の信託統治を行い、その間に臨時政府を樹立する事などが決定される。翌1月、ソウルで三国外相会議決定実現のための米ソ共同委員会が開かれ、臨時政府樹立の討議を重ねるが、会議は進まず暗礁に乗り上げる。

 1946年は米国政府が南朝鮮にファシズムの道を切り開く、南朝鮮の人民にとって最初の大きな試練であった。大邱に端を発して全国的な闘いに広がった「10月人民抗争」は、この強まる米国政府の弾圧に対する民衆の集中的な抵抗である。

 47年5月、約1年ぶりに破綻したままだった米ソ共同委が開かれて、ソ代表は48年中に南北から双方の軍隊を撤退させ、朝鮮人民自身に政府樹立を任せようと提案するが、米国政府はこれを拒否、第3回国連総会に持ち込む(9月)。朝鮮問題は戦勝国の戦後処理の問題に属し、国連が討議する権限のないものだったにもかかわらず、当時米国政府の挙手機に化していた国連はこれを受け入れて、臨時朝鮮委員会をつくり、そこで朝鮮の統一問題が討議されるという変則的な三国外相会議決定にも違反する処置がとられる。こうして朝鮮人の意思とは全く関係のないところで、朝鮮の南北代表もオブザーバーとして参加させないまま、UN臨時朝鮮委員会(9カ国)監視下の総選挙が3月31日までに行われる事に決定される。

※朝鮮が38度線で分割されたのには一つの根拠がある。沖縄陥落後、米軍の朝鮮上陸に備えて済州島にも10万とも20万ともいわれた日本軍が終結するが、北の関東軍、南の第17方面軍の各防衛分担の境目が38度線で、それは大日本帝国政府の利権を守るための軍隊の配置の境界線だったものである。そして関東軍の武装解除をソ連が、第17方面軍の武装解除を米軍が担当した。従って、はじめ38度線は日本軍の武装解除のための便法に過ぎなかったものである。

(2024年6月10日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防衛省安保技術研究推進制度のテキストは「陸軍パンフレット」、戦争可能な国家体制整備で人権尊重平和主義自由主義を圧し潰す政策

2024-06-10 10:21:43 | 防衛

※「陸軍パンフレット」(陸軍省新聞班「国防の本義と其強化の提唱」1934年10月)は、戦争は創造の父、文化の母と述べ、軍国主義を賛美し、個人主義排撃と統制経済の実施によって国防国家建設と国民生活の安定がもたらされる、と主張した。

 政府文科省は、国立大学への「運営費交付金」を、法人化された2004年度以降16年度までに約1470億円減額し、私立大学への「運営費補助」の割合も2015年度には1割を切るまでに減額した。

 一方、安倍政府は、15年度に防衛省防衛装備庁所管の制度として、将来的に武器など防衛装備品に使える基礎研究育成を目的として「安全保障技術研究推進制度」を創設し、初年度予算は3億円であったが、16年度は6億円、17年度の概算要求では110億円を計上した。

 安倍政府は、自由な研究費(文科省)を減額する事により、大学が軍事的目的の防衛省の研究費に手を出すように仕向け(政府が重視する軍事研究分野に研究費を集中し、基礎科学研究などそれ以外を貧困状態にする)、大学の研究を政府の求める軍事面に誘導しようと狙っている。つまり、名古屋大名誉教授の池内了氏のいう「研究者版経済的徴兵制」である。

 しかし、日本学術会議会長である大西隆氏(豊橋技術科学大学長)などは、この制度の受け入れに対して積極的である。その理由として、技術は軍事と民生の「デュアルユース」であるとか、国民の多くは憲法の下で個別的自衛権を認め、自衛隊の存在を認めているとか、国連憲章にも自衛権に基づいた自衛組織を持てる事が明記されているといい、学術界もこの現実を直視する必要がある、と強く主張している。また、自衛とは自ら戦争を仕掛けず、戦争の機会を作らないことであり、そのための研究は1950年と67年の「日本学術会議声明」と矛盾しない、とも主張し、国際条約による自衛のための技術研究の制限がある事や、制度への応募は関係する三者が研究内容の説明責任を果たす事と条件とすべきであるとか、防衛省が、学問の自由を担保するために、研究成果を原則公開し(防衛省は公募要領に、「研究成果の公表を制限する事はない」と明記表明)、特定秘密保護法の特定秘密に指定しない事を明確にしている、などを挙げて制度を支持している。

 ところで、この手法は他でもなく、戦時中の新聞を中心とした印刷出版業界に対する「紙」の配給統制による「言論出版」弾圧の手法と同類であるという認識が必要である。

 そして、政府(国家)の権力というものは、大西氏の考えるような生やさしいものではない事も肝に銘じておくほうが良い。池内氏の「科学者は素朴に『家族を守るために自衛の装備が必要だが、自衛の一線を越えるなら参加しない』と考えがちです。自分ですべて差配できるつもりなのでしょうが、一度始めたらやめる事は困難です。戦争を止められないのと同じです」「戦前・戦中の科学者たちが、科学の発展や国を守るためと信じて、倫理の道を踏み外しました」という言葉を謙虚に受け止めるべきであろう。

 その最たるものは、広島県大久野島で製造された「毒ガス」、731部隊による「細菌兵器」と、東大と京大による「原子爆弾」の研究であろう。

 安倍政府による「防衛省安保技術研究推進制度」は、戦前の大日本帝国下、1934年10月に陸軍省新聞班から発表された「陸軍パンフレット」をテキストとした考え方である。正式には『国防の本義とその強化の提唱』という。これは、陸軍省軍務局軍事課員の池田純久中佐を中心とする統制派系中堅の手になるもので、有名な「たたかいは創造の父、文化の母である」という言葉で始まり、「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり」「国民は必勝の信念と国家主義精神を養い、それには国民生活の安定を図るを要する」「現在の日本の資本主義は誤っている、修正しなければならない」などとして、①国家観念(天皇制国家)の強調、②社会政策の振興(資本主義をもう一度考え直す)、③経済統制、を提唱したのである。

 つまり、日本が国家総力戦態勢、高度国防国家をつくるためには自由主義ではいけない、ナチス・ドイツのように資本主義経済体制を壊して統制経済、軍部の統制による国家にしなければならない、と説いたのである。

 当時の政府は、満州事変後の戦争体制の準備とともに、教育の反動的規制と軍国主義化をすすめるため、反政府運動の教育への影響を封じるとともに、自由主義思想にも弾圧を加えてきていた。神聖天皇主権国家における公教育は教育勅語に基づき「忠良なる臣民」を養成するためのものと位置づけられ、「国体」と相容れない教育運動を政府権力は危険視した。そして、思想対策機関を整備し、学生や教員、教授に対する弾圧や排除を強めていった。

 「陸軍パンフレット」が発表される直前と発表後の政治の動きを見ておこう。

 治安維持法の最初の適用が1926年「京都学連事件」であったのに続き、1928年の3・15事件で官僚養成の目的の官立大学学生が治安維持法によって検挙された事に衝撃を受けた政府は、学生運動の弾圧思想対策機関の整備を進めた。同年、文部省は学務局を設け、その指揮のもとに各大学、高等学校、専門学校に専任の学生主事、生徒主事をおき、学生と教員の思想傾向調査や思想善導を始めた。

 1931年7月、文部省は学生思想問題調査委員会を設置。委員会は学生運動の弾圧方針とともに、日本固有の文化の研究、国体観念の理論的闡明の必要性を答申した。

 1932年8月、政府は答申を受けて、東京に「国民精神文化研究所」(教員の再教育の場)を設立し、日本固有の文化・精神の研究とともに、教員に対する国体思想の注入、各学校を追放された学生への転向教育を行った。

 1933年には、反政府運動根絶と予防策を検討するために「思想対策協議委員会」を設立し、小学校国定教科書も改訂し、修身・歴史を中心に、日本は神国であるとする「国体」を強調し、天皇のために死ぬ事を最高の美徳とする忠君愛国思想の注入を体系的に行うようにした。そして、34年10月、上記の「陸軍パンフレット」発表。

 1935年には、実業補習学校と青年訓練所を合わせて青年学校を設置し、男女に軍事教練を実施した。

 同年、2月「天皇機関説事件」について、衆議院は満場一致で機関説否定決議。政府は8月「国体明徴声明」を発表した。

 ●衆議院決議「国体の本義を明徴にし、人心の帰趨を一つにするには、刻下最大の要務なり、政府は崇高無比なるわが国体と相容れざる言説に対し、直ちに断乎たる措置を取るべし、右、決議す」

 ●国体明徴声明「我が国体は天孫降臨の際下し賜える御神勅により昭示せらる(神勅はそれまで一般にはほとんど知られていなかったが、これ以降、小学校国史教科書改訂でにわかに重視され、子どもたちにその暗唱を強制した。)

 1935年11月には、文部大臣の諮問機関として「教学刷新評議会」を設置し、ファシズム確立期の体系的教育政策を答申させた。

 ●答申「我が国に於いては祭祀と政治と教学とは、その根本において一体不可分にして三者相離れざるをもって本旨とす。よってこの本旨を発揚し、教学の根基を明らかにするの方策を講ずるは、時勢に照らして緊要とするところなり」(最も警戒されたのは個人主義・自由主義などである。これらを西洋近代思想の基本と捉え、これが明治以降、国民特に知識階級の思想・学問に浸透した事を恐れ、その実状の批判を提案したのである)

 1937年5月、文部省は、評議会の答申に基づき、国民思想の統一のため『国体の本義』を刊行した。内容は「そもそも我が国は皇室を宗家とし奉り、天皇を古今にわたる中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。故に国家の繁栄に尽くす事は、即ち天皇の御栄えに奉仕する事であり、天皇に忠を尽くし奉る事は、即ち国を愛し国の隆盛を図る事にほかならぬ。忠君なくしては愛国なく、愛国なくして忠君はない」。

 1937年7月7日、近衛政府は、「盧溝橋事件」勃発をきっかけにして、日中戦争を開始したが、泥沼化し、そこから脱出するために太平洋戦争を引き起こしたのである。加害者神聖天皇主権国家は権力により国民を侵略戦争の更なる深みへ動員し、国内外に理不尽で残虐な被害を膨大に生み出したのである。

 さて安倍政府によるこの「制度」について思う事は、理系の学生や教師は安倍政府に先手を打たれ、その「研究の自由」について、囲い込まれつつある羊の群れのような状態になっているという事である。その状況下にあって現在、諸君は囲われた柵の中を仕方ないと諦めて進むのか、その柵を破壊して自己の思う道を進むのかという決断を迫られているという事である。

 筑波大の理系学生の場合、「制度」に対する賛成派は42.0%で反対派の倍で、賛成理由は「軍事転用を恐れたら、民生用の研究も自由にできない」が最多だったという。理系学生の何と奴隷根性の強い事か。倫理や理念を持たない科学者が何と多い事であろうか。

(2017年1月23日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする