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韓国ハンセン病療養所「小鹿島更生園」…朝日新聞「取材考記」が書かなかった事

2024-06-25 21:56:14 | ハンセン病

 朝日新聞2024年3月25日付「取材考記」「ハンセン病療養所 園歌の旅 韓国で見た威圧」記事に書かれた、韓国ハンセン病療養所「小鹿島(ソロクト)更生園」について、「ハンセン病 小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」発行のパンフレット「ソロクト・楽生院 Q&A」を基づいて以下に紹介したい。

 「小鹿島(ソロクト)更生園」とは、神聖天皇主権大日本帝国政府が「大韓帝国」を併合し植民地にし「朝鮮」と改称していた時代に、天皇の勅令によりその「朝鮮」につくったハンセン病療養所である。植民地支配をしていた大日本帝国政府は、植民地でも、ハンセン病は恐ろしい伝染病だと宣伝して、患者をあぶりだし、強制収容して生涯とじこめるための隔離施設としての療養所をつくったのである。「小鹿島(ソロクト)更生園」は、隔離政策実現のために設立したものであり、「らい予防法」とほぼ同一の法律つくったのである。

 故郷から強制的に連行し、収容専用の車両や船を使って有無を言わさず収容した。大日本帝国内の療養所と同じく、職員が絶対的に不足していたので、療養所運営のために「患者」にあらゆる作業を強制した。「療養所」とは名ばかりで「強制収容所」そのものであった。「患者」を、夜が明けぬうちから作業場に狩り出し、レンガ工場や「かます」作り、桟橋の建設、日本人園長「周防正季」の銅像つくりのために夜遅くまで働かせた。食事は貧しく、しばしば理不尽で容赦ない「懲罰」を加え、たまらず逃げ出した「患者」は「監禁室」に入れ、「懲罰」として「断種」した。数えきれないほどの「患者」が「懲罰」と「飢餓」のため亡くなった。韓国は、日本とは異なり、1960年代には政府が隔離政策を撤廃し、制度上では、ハンセン病は普通の病気となんら変わらない感染症となった。しかし、大日本帝国政府が、植民地支配時代に、徹底的な「ハンセン病は恐ろしい」という宣伝を行ったために、ハンセン病に対する社会的偏見差別が生まれた。故郷から強制隔離された「患者」は家族とのつながりを断たれているため、治癒しても故郷には帰れず、療養所での生活を余儀なくされている。2005年頃には700名超の「患者」が生活していた。

《小鹿島(ソロクト)略年表》

1910年 韓国併合条約調印

1917年 小鹿島慈恵医院開設

1933年 第1期拡張工事

1934年 小鹿島(ソロクト)更生園成立

1935年 朝鮮らい予防令施行

1936年 第2期拡張工事

1939年 第3期拡張工事

1945年 日本人職員退去(敗戦)

(2024年3月25日投稿)

 

 

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ハンセン病作家・北條民雄の本名公表へ

2024-06-25 21:50:51 | ハンセン病

 北條民雄(1914~37)の本名は「七條晃司」である。父は軍人で、赴任した朝鮮(もと大韓帝国で、1910年神聖天皇主権大日本帝国政府が「併合」し植民地化後に改称)の京城(もと大韓帝国の首都ソウルを改称)で生まれ、母の故郷である徳島県阿南市下大野町で育った。10代後半にはすでに友人と雑誌を発行し、小説を書いていたが、1933年、19歳ハンセン病を発病した。翌年、東京の全生病院(現・多摩全生園)に入院後、川端康成に師事し、本格的に執筆活動を始めた。差別が家族にも及んだため、「北條民雄」と改称を余儀なくされた。1936年に『いのちの初夜』を発表して注目されたが、翌1937年12月5日、腸結核で23歳で亡くなった。

以下に、小説『いのちの初夜』の一部を抜粋して紹介しよう。

「私にとって最も不快なものは、あきらめである。あきらめ切れぬ、という言葉は、あきらめを肯定してそれに到達しえぬ場合にのみ用うべくものである。が、私はあきらめを敵とする。私の日々の努力は、実にこのあきらめと戦う事である。あきらめる位なら自殺した方が余程ましである。というよりも、あきらめと戦うためには私は決して自殺をも否定しない。死んで勝つという事は絶対にないが、しかし死んで敗北から逃れるという事はあるのである。」

 2014年、「北條民雄」生誕100周年を機に、徳島県阿南市と市文化協会が、親族の了承を得て、郷土の偉人13人を紹介する冊子『阿南市の先覚者たち』に、「本名」の「七條晃司」を記載公表した。

(2023年11月12日投稿)

 

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