安倍首相は2017年10月17日、靖国神社の秋季例大祭に、再び「真榊」を「内閣総理大臣 安倍晋三」の肩書で奉納した。メディアは明らかなこの傲慢な「憲法尊重擁護義務違反」行為に対して、「忖度」して?大きく扱わないけれども、このようなメディアの対応が安倍首相に今日のような憲法に対する「不遜な」態度(これは主権者である国民に対する不遜な態度を意味する)を増殖させたのである。
※以下は2016年10月19日に投稿したものですが参考にして頂ければありがたいです。
安倍首相は2016年10月17日、靖国神社の秋季例大祭に、「真榊」を「内閣総理大臣 安倍晋三」の肩書でこれまでと同様に奉納した。18日には、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に属する衆参85人(自民党72人、民進党5人、日本維新の会2人、日本のこころを大切にする党3人、無所属3人)も参拝した。
彼らの行為は、言うまでもなく憲法第20条「信教の自由」の第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」の規定や、彼らが国民の税金を報酬(歳費・諸手当などの名目で)としている事から、第89条「公の財産の支出又は利用の制限」に規定する「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」に違反している事は明白である。
ところで、彼らは憲法違反と批判されながら(最近のメディアは行為だけを報道し批判もせず沈黙しており、彼らと共謀しているが)、なぜ執拗に繰り返すのだろうか。
それは、特に安倍政権自民党について考えると、「改憲草案」を実現するための国民世論を醸成する事にあるといえる。つまり、既成事実を作るという事である。
改憲草案の第20条「信教の自由」の第1項は、「信教に自由は、(削除)保障する。国はいかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない」と変更している。そして、第3項は大きく変更され、「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」としている。つまり、靖国神社や伊勢神宮や護国神社など「神道」を「特定の宗教」とみなすものではない、宗教ではない、布教活動(宗教的活動)をしない、社会的儀礼・習俗的行為なのだという解釈をしているのである。そして、国や地方自治体による宗教的活動の禁止の対象から除外しているのである。この考え方は敗戦まで天皇制政府(大日本帝国)が国民を精神的に天皇の政府の奴隷化し支配した荒唐無稽な作り話である「国家神道」(天皇教)の論理そのものなのである。詭弁なのである。その反省から現行憲法では政府に対して「政教分離の原則」を規定しているのであるがそれを元へ戻したい「取り戻そう」という事なのである。
また、それに関係して第89条の改憲草案「公の財産の支出及び利用の制限」の第1項は、「公金その他の公の財産は、第20条第3項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない」と変更し、第20条第3項ただし書にある「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」としているのである。
そのような「解釈」についての「批判」に対しては、改憲草案では第21条「表現の自由」に第2項を新設して、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害する事を目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をする事は、認められない」と規定して違法行為として取り締まるという事なのである。
さらに、天皇の政治的権限を強め、宗教的活動を含むあらゆる分野にも出席できるようにするために、改憲草案第6条第5項を新設し、「第一項及び第二項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」として、「天皇の公的行為(象徴的行為)」を規定し、様々な場での「お言葉」や上記の「神道」関係の式典などを含む、他の政府や自治体の主催する式典への出席や発言について、「政治的行為」との批判を受けることを解消するとともに、それを批判するものを取り締まろうとしているのである。
※「改憲草案」に対する批判については、いくつか別の角度からの内容を投稿していますので是非読んでください。
(2017年10月20日投稿)