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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は死直前、大日本帝国の将来について悲観

2024-10-29 19:03:42 | メディア

 ラフカディオ・ハーンは大日本帝国の国籍を取得するため日本人名を「小泉八雲」とした。彼は1904年4月に出版した『怪談』で日本国民に知られた人物であるが、彼の死の直前の大日本帝国の将来についての、今日の国民にほとんど知られていない「言葉」を紹介したい。

○1850年6月、ギリシャで生まれた。父はアイルランド人、母はギリシャ人。

○少年時代には不幸が相次いだ。両親の離婚、事故による左眼失明(16歳)、父の旅先での死、経済上の理由での退学。

○ロンドンに出て造船所で働き、華々しい産業革命の陰で陽の当たらない生活を送る人々の中で成長。

○1869年、ロンドン又はフランスのル・アーブルから移民船「セラ号」に乗って、無一文でアメリカへ渡り、移民列車で、多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州のシンシナティへ行く。19歳。そこで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とした。

○産業革命後の資本主義経済に抑圧された立場から、資本主義の暗黒面への批判や文明化への疑問を持つようになる。

○1877年、ニューオリンズへ移り(27歳~37歳までの10年間)、文才を認められ新聞記者(1878~1881年)となる。『デイリー・シティ・アイテム』新聞社で准編集者となった。挿絵を入れた、アメリカで最初の新聞風刺漫画も書いた。仏文学の翻訳もし、ゾラ(仏の自然主義作家、94~99年ドレフュス事件)やモーパッサンの作品を通じ、益々文明社会への批判を強めた。『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長となり、評論と翻訳を中心とする文学的な記者として活躍。

○同時に素朴な民族や国へのあこがれを抱く。ニューオリンズで開かれた博覧会(1884~85年)で日本館の出品物に触れ、日本へ強い関心を寄せた。ニューオリンズと松江市とは友好都市提携している。

○1890年(40歳)、来日(米新聞記者として日本を紹介するため)。

○島根県松江の中学校の英語教師となる。

○1891年、松江の「小泉セツ」と結婚。セツは没落武家の娘でハーンのところへ奉公に来た。父母の反対で入籍せず。

○1892年、熊本へ、その後神戸、東京へ。東京帝大や早稲田専門学校(1902)にも出講。神戸ではジャーナリストとなり、英字新聞「神戸クロニクル」を発行し、大日本帝国政府に警鐘。1894年12月(日清戦争開始後)の論説では日本軍の戦闘について、「女性や子どもに対する不必要な残虐行為である。大日本帝国政府の報復行為は言い訳できない」と論じた。熊本では第五高等中学校で英文学を教授。熊本市内の「富岡写真館」で夫婦の写真を撮影。東京帝大時代に『怪談』出版(1904年4月)。

○1896年、子どもも生まれ、大日本帝国の国籍取得。長男一雄誕生。ラフカディオの「カディオ」からとった。小泉家に婿入り。大日本帝国の国籍取得のため日本人名を「小泉八雲」とした。「八雲」は古事記からとった。

○1904年、日露戦争(04年2月開戦)中に54歳で急死。

 死の直前の論文『産業の危機』で大日本帝国の将来を悲観した。

 「この調子では大日本帝国はもはや、果てしない戦争に突入していって、最後には破滅するのではないか……」と。

○彼は、出雲大社よりも、松江藩主の守り神であった「城山稲荷神社」(1638年、松平直政が火難除けとして城内に建設)の「石きつね」を好んだ。

(2024年6月22日投稿)

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核廃絶の本気度が疑われる広島平和記念館:リニューアルとは帝国日本政府のアジア諸国への「侵略」「加害」責任と自国民を被曝させた責任を不問にする事なのか?

2024-10-29 10:11:52 | 核兵器

  今回の改装は3回目である。2回目の改装を行った1994年からは、アジア侵略の拠点であった広島の「加害」の歴史も展示するようになった。しかし、それが、今回の改装は、これまでの取り組みの成果を、意図的に認めず、触れない内容になってしまった。それは「被害」だけの強調、原爆の悲惨だけを訴えるものに逆戻りしており、またポツダム宣言が発表されてから、投下された前後、宣言受諾にいたるまでの、日本の戦争指導者がどのような対応をしたのかについて触れない内容に変えてしまったという事である。一見「科学的」な装いを持たせながらも、実は「非科学的」な内容に変えてしまったという事である。「被害」や「悲惨」だけからは十分な「教訓」は学べないのであるが、それを巧妙に行った展示というべきである。

 「加害」についていえば、広島平岡敬元市長は次のように語っていた。「50年たった今、加害の側面を広島が理解していなければ、アジアを始めとする世界の人々に、人類が破滅するという歴史の教訓は伝えられない。被爆の惨状を訴えると、米国からは「パール・ハーバー」、アジアの国々からは「私たちは、もっとひどい目にあった」という反論が出る。戦争を遂行してきた日本の歩みをきちんと位置づける事なしには、その意識のズレを埋める事はできない」と。また、「加害の過去を語れば、死んでいった人は立つ瀬がない、という意見もあります。でも、それは国家の次元に立った見方ではないか。国のレベルを超えて、人類の立場から見るのでなければ、核廃絶の視点は出てこないと思う。現実は違う、と人は言うが、理想を失ってはいけないと私は思う」と。

 長崎本島等元市長も同様の事を話していた。「アジアの国は原爆を神の救いと言い、フランスの新聞は、原爆投下に欣喜雀躍した。世界の人たちの少なくとも半分以上は喜んだという現実を忘れてはならないと思う。そこに日本の悲劇があった。あの戦争で、アメリカが犯した唯一の犯罪は原爆投下だったと思う。光で完璧に焼かれ、さらに爆風で体がちぎり取られる。しかもその後も放射線で細胞はずっと蝕まれ続ける。やはりそれは、戦争犯罪だと言い切っていいと思う。核兵器使用の違法性について、日本は核の傘の下にあるから適当に逃げてきたが、そこのところをごまかしてはいけないだろう」と。

 二人が語っている事は、被害について真正面から語り原爆の違法性を告発するためには、自らの加害の歴史を直視すべきである、という事である。この考え方こそ国民が戦後長い月日を経なければたどり着けなかった忘れてはならない大切な考え方なのである。

 「加害」について、さらに忘れてはならない重要な事は、投下前後の神聖天皇主権大日本帝国政府の最高戦争指導会議や御前会議の動向を国民が詳細に正しく知り、その責任の所在を明確に知り、教訓を学ぶ事である。ポツダム宣言の受諾を一旦8月10日の御前会議で決定し、ラジオと中立国を通じて連合国側に伝えられたにもかかわらず、なぜ結局8月14日になったのか、その原因は何なのか。メディアが8月15日になぜ「聖断」という言葉を使用して国民に終戦(敗戦)を伝えたのか、についてである。

 7月26日、米・英・中三国は、日本に戦争終結の最後の機会を与えるためにポツダム宣言を発表した。しかし、天皇を中心とする最高戦争指導者たち日本の支配者は、戦争を続けながら、神聖天皇主権国家(国体)を維持し何とか彼らの地位と面目を維持する形で戦争を終わらせようとしていた。そのため、宣言の前半に、

(1)われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート、ブリテン国総理大臣はわれらの数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与える事に違憲一致せり。(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加えるの態勢を整えたり。右軍事力は日本が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられおるものなり。(3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合において全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざるほど更に強大なるものなり。われらの決意に支持せらるるわれらの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく、また同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。(4)無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引き続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は到来せり。  

との内容が存在したが、戦争指導者はこれを国民に発表せず、「本土決戦」「一億総特攻」「一億玉砕」のスローガンを掲げ、狂気の戦術を指示し続けた。それは大本営陸軍部編纂『国民抗戦必携』によると、敵が上陸したら国民は「敵陣に挺身斬り込みを敢行」せよ。又敵との「白兵戦の場合は竹槍で敵の腹部を狙ってひと突きにし、又鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口その他手頃のもので背後から奇襲の一撃を加えて殺す事、格闘の際は水落を突いたり睾丸を蹴り上げて敵兵を倒すよう訓練を積んで置かなければならない」というものである。そして7月28日、鈴木貫太郎首相は「ただ黙殺するのみである。我々は戦争完遂に邁進する」との談話を発表しているのである。

  その結果、8月6日8時15分、広島に原子爆弾が投下されたのである。その際、米大統領トルーマンは、原子爆弾である事を明らかにしたうえでポツダム宣言を受諾しなければ、今後相次いで原爆攻撃を行う事を予告している。これに対し大本営はこの真相を国民に知らせず「新型爆弾」と発表しただけで、最高戦争指導会議も閣議もこの問題について特別には開かなかったのである。8日にはソ連が日本に宣戦布告し、9日未明に参戦した。そこでやっと午前10時30分から最高戦争指導会議が開かれ、午後には閣議、そして、深夜に皇居内の防空壕(お文庫の事。1941年4月着工。建設に当たって防空壕とは言えなかった)で御前会議が開かれたのである。その間、9日11時02分には長崎にも原爆が投下されたのである。指導会議では天皇の地位の保障(国体護持)のみ条件をつけようとする外相案とその他に、自主的な武装解除、日本の手による戦争犯罪人の処罰、連合軍の日本占領に対する制限などの3条件をつけようとする軍部案が対立する状況であった。しかし、枢密院議長や鈴木首相などが、食糧事情の悪化などからも、戦争を続ける事は天皇制支配体制を脅かすような国内危機を招くとの発言があり、天皇は国体護持の条件だけ(外相案)でポツダム宣言を受諾する事を決定した。10日「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包含していないという了解のもとに」という条件を付けて、ラジオと中立国政府を通じて連合国側に伝えた。それに対し11日、米国バーンズ国務長官が、「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属するものとする。最終の日本国の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及びいずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求する事あるべき命令を発する事を命ずべきものとす」と回答した。12日、軍部はこれでは国体護持の保障がないとして再紹介を求めるとともに、それでも保障が得られない場合は戦争を継続すべきだと主張し、対立を蒸し返した。しかし、米国の新聞情報から、連合国の回答は日本の申し入れ(国体護持)を認めたものだという事を知り、日本は14日、再び御前会議を開き、天皇が「敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない」と述べて、受諾を決定したのである。

 上記から分かるように、天皇もそれを取り巻く支配階級も、明治維新に樹立した神聖天皇主権国家という国家体制(政治体制)によってこそその権力を掌握し続ける事ができたその体制を連合国側に認めさせる事=「国体護持」こそが最重要課題だったのである。

 そして、天皇はもちろん、天皇制によって自己の地位を保障されている支配階級は、国民に対しても敗戦後も引き続き「神聖天皇主権国家体制」=国体を認めさせるための工作をするのである。メディアももちろんこれまで同じ穴の狢であった関係から加担した。それが「聖断」という一大演劇イベントの実行であった。敗戦によって生じる可能性のある混乱と革命(神聖天皇主権大日本帝国政府は社会主義やソ連をずっと恐れてきた)を恐れた天皇と支配階級は、天皇の権威を最大限に利用して国民を欺き乗り切ろうとしたのである。それは見事に成功した。明治憲法によれば、戦争についての宣戦や講和は天皇大権として定めているのであるから、宣戦(中国に対して布告はしていない)をした天皇が終結講和を主導するのは当然の事なのである。ポツダム宣言を受諾するかどうかは天皇の決断によるべきなのである。(ついでながら、「聖〇」という表現は「聖旨」「聖慮」など天皇を表す言葉としては特別な言葉ではなかった。)しかし、支配階級は、その天皇を、戦争責任を有する当事者でない第三者であるかのように変装偽装させ、天皇自らも「慈悲深い天皇」であるかのように演じ、「平和をもたらした」とアピールしたのである。その事によって支配階級も戦争責任を回避しようと試みたのである。新聞・ラジオのメディアも玉音(放送)を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の御仁慈」を強調し自らを正当化しようとしたのである。

 8月17日に、天皇と支配階級は、戦争処理内閣として皇室が「平和主義」であるかのようにアピールするために史上初の皇族内閣である東久邇宮内閣を成立させた。この皇族内閣は、9月4日、戦後初の帝国議会(帝国議会は92回の1947年3月31日まで)である第88臨時帝国議会において、敗戦の原因につき国民は総懺悔せよと述べ、「天皇に絶対帰一」してポツダム宣言を誠実に履行し、「平和的、文化的日本の建設」に向かって邁進しなければならぬと説いた。そして、貴族院では「聖旨奉戴に関する決議」、衆議院では「承詔必謹決議」を可決した。9月27日には、天皇が、自らの地位について了解を得るためマッカーサーを訪問し、二人が並んだ写真を撮影した。

 平和教育において最も重要な事は上記のような事を教訓として学ぶ事なのである。だから、以上の点から目を反らし、反らさせようとする展示からは、教訓を得る事はできず、誠実な平和教育をしようとする意志はうかがえない。

(2020年3月12日投稿)

 

 

 

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カーチス・ルメイと同じ旭日大綬章を仲井眞弘多も綬章:叙勲制度と叙勲商法の廃止を:天皇の国事行為を建前に個人情報漏えいする行政と癒着して儲ける叙勲業者

2024-10-29 10:08:49 | 叙勲

 仲井眞弘多元沖縄知事が2020年秋の叙勲で、旭日大綬章を受賞した。旭日章は、「国家又は公共に対し功労のある方」に政府が授けるものであり、中でも「功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた方」に授ける事を定めている。

 仲井眞氏の主要な経歴は、沖縄電力(株)社長、沖縄県知事、(株)九州経済連合会副社長、沖縄振興審議会委員などを務めた事により、功労としては「多年にわたり、電気事業に携わり、業界の発展に尽力するとともに、県知事などとして地方自治の発展などに貢献した。また、審議会委員として行政運営の円滑化に寄与した」としている。

 ちなみに、授章決定の手続きは、閣議決定を経たあと、「天皇」がそれを「裁可」する事により最終的決定となり、「天皇」は憲法第7条の「国事行為」として「栄典を授与」しているである。内閣総理大臣および天皇の責任は大きいという事である。

 ところで、新聞では、仲井眞元知事への叙勲に対し違和感を抱いている旨の投書を目にした。それは、仲井眞氏が名護市辺野古米軍の新基地を建設するに至る姿勢に対する不信感を示す内容であった。

 仲井眞氏は2010年11月、自民党沖縄県連からの支援及び推薦と公明党・みんなの党の推薦で、「日米合意の見直し」と「(普天間)基地の県外移設」を「公約」として沖縄知事選で再選された。しかし、2013年12月27日、安倍自公政権の名護市辺野古の埋め立て申請に「基準に適合していると判断し、承認する事とした」と表明した。そのため2014年1月10日、沖縄県議会本会議は、「公約違反である」として辞任を要求する決議を可決した。しかし、辞任しないどころか、2014年の知事選にも自民党などの推薦で出馬。そして、辺野古米軍新基地建設に反対する翁長雄志氏に10万票の大差をつけられて落選した。にもかかわらず仲井眞氏は任期切れ目前の2014年12月27日、安倍自公政権の辺野古米軍新基地建設の工法変更申請をも承認した、という経緯があるからである。

 辺野古米軍新基地の建設に反対する沖縄県民多数派の人々からすれば、菅自公政権令和の新天皇が仲井眞弘多氏に対し「旭日大綬章」を授賞叙勲した事に違和感をもつ事は当然であろう。しかし、安倍自公政権はもちろん菅自公政権も令和天皇も、彼らの意向に沿う人たちを褒め称える姿勢を意図的に表明しているという事である。彼らのファミリーへの「囲い込み」を意味する儀式なのであり、仲井眞氏はそれに応じたという事である。

※以下は2017年11月5日に投稿したものです。 

 安倍政権は、2017年秋の叙勲を発表したが、この叙勲制度は政府が天皇に対する国民の意識を利用(悪用)し、個人情報保護法をまったく無視した形で実施しているとともに、叙勲に関わる特定業者への利益誘導をしている制度であるという問題を有している。また、叙勲制度についての法律をあえて作らず、安倍自民党政権(時の政権、為政者)はもちろん天皇制の支持基盤を維持強固にする事を目的として利用(悪用)してきたといえるもので、恣意的な運用を可能とする制度であるという問題を有している。国民主権を定めた憲法に違反する制度であり、廃止すべきである。

 国民の目から見た恣意的な運用の例は、最高ランクの「旭日大綬章」(2003年以前は勲一等旭日大綬章)授与者についてみれば、1964年に、昭和天皇・第1次佐藤栄作政権が、「東京大空襲」など日本各都市への無差別・焼夷弾爆撃を立案実施し、原爆投下の実行責任者であったカーチス・ルメイに「航空自衛隊育成の功績」との理由で授与している。

 また、2015年秋の叙勲では、旭日大綬章は19人で、うち12人が外国人。外国人のうち5人が米国人で叙勲者リストのトップに挙げられている。それは、ブッシュ(父)政権(任1989.1~93.1)のベイカー(元国務長官)やスコウクロフト(元国家安全保障担当大統領補佐官)、ブッシュ政権(任2001.1~09.1)のアーミテージ(元国務副長官、元国防次官補)やラムズフェルド(元国防長官)、クリントン政権(任1993.1~2001.1)のバーガー(元国家安全保障担当大統領補佐官)であり、「日米関係の強化と友好親善に寄与」を理由としている。推薦は外務省で、官房長官が決定したという。すべて安保関係者であり、安保関連法成立に貢献したというのが真実の理由だったと考えてよいだろう。

 しかし、彼ら5人は、湾岸戦争(1991.1~.3)、アフガン戦争(2001.10~)、イラク戦争(2003.3~.4を起こした。ラムズフェルドは「大量破壊兵器保有」という虚偽情報で始めたイラク戦争の責任者。アーミテージはイラク復興支援で自衛隊のイラク派遣を促した。特にこの2人は世界の安全保障環境を悪化させ、IS(イスラム国)を生み出す原因をつくり、今日の状況を作り出した。米国を支持した自民党政権は未だに検証をしていない。またアーミテージアフガン戦争時には自衛隊の派遣を煽り、「第3次アーミテージレポート」(2012年8月15日)では、米国に都合の良い日本に変える課題として、原発推進、TPP、特定秘密保護法、集団的自衛権行使、憲法改正などを提起していた。

 そして2017年秋の叙勲では、「旭日大綬章」は18人で、うち13人が外国人。外国人のうち4人が米国人で叙勲者リストのトップに挙げられている。上記と同様に、ゲーツ(元国防長官)、ハドレー(元国家安全保障担当大統領補佐官)、モニツ(元エネルギー長官)、ライス(元国務長官)といった具合であり、相変わらず安保関係者である。このような人物に対する授与は憲法の平和主義の原則に違反するものである。

 天皇が授与責任を有さない事が、上記のような憲法の平和主義の原則に反した人物を授与者とする内閣の恣意的な決定を許しているのである(国民主権を守るために天皇が授与責任を有する事になる事も認める事はできないが)、しかしその事が天皇の無責任な授与行為を生じさせているのである(賞状に記されている授与者名が天皇である事が問題を複雑にしているが)。廃止せず一歩譲って制度を残したとしても、授与者(特に高いランクについて)の決定については、憲法の原則に基づいた明確な基準を法律で定め、国会で授与の諾否を決める手続きをとるべきであろう。現在の状況では政権が政治や統治の道具として扱っており、国民が主権者である事をなおざりにしているといえる。国民にとってはこの際、廃止の道をめざした方がよいであろう。

※以下は2016年5月1日に投稿したものを加筆修正して再投稿したものである。

 天皇による「叙勲」は、憲法第7条「天皇の国事行為」の「7 栄典を授与すること」、その行為は第3条「内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」を根拠として、毎年春秋の二季に実施されている。安倍政府は4月29日付で「2016年春の叙勲」の受賞者4115人を発表した。

 一昨年の「秋の叙勲」の際には、私の身内の一人も「瑞宝単光章」を受賞した。それまでも私はこの叙勲制度については民主主義社会においては不要なものであり廃止すべきものと考えていたのであるが、身内が受賞する事となり、受賞に関係する様々な裏側の実態について知った事により、この叙勲制度は断じて廃止すべきものであるという考えを強く持った。

 それは先ず一言でいうと、他の商売と同様に、「叙勲行事」は商売における一つの商法「叙勲商法」として実施されているという事である。他の商法と異なる所は「叙勲商法」が憲法で保障され正当化された形で実施されているという点である。天皇が国事行為を根拠に「叙勲商法」の元締め的立場(授与)に立ち、天皇を頂点とした国民統合を理想とし押し進める内閣行政機関が受賞者(購買者=消費者)を選定し、特定の叙勲業者にその受賞者(購買者)を伝える。業者は受賞者に購買させる商品(受賞者への授与に関する宿舎など一切の対応)を指定設定し、内閣行政機関は受賞者(購買者)を諾否が言えない状態に置いて、業者によって指定設定された商品を受賞者(購買者)に購買させるようになっているのである。

 具体的には、身内が受賞を伝えられると、多くの叙勲業者から叙勲に関係した商品のカタログが大量に家へ送り付けられてきた。その業者の中には営業で東京から家まで訪ねてきた業者もいた。また、東京での宿泊は受賞者の関係する行政機関が指定したホテルに宿泊し、そこでは女性の着物の着付けを扱い記念写真の撮影も扱っていた。ホテルから受賞者の関係する行政機関へはタクシーが手配されていた。受賞者の関係する行政機関から皇居までは観光バスが手配されていた。受賞者が直接支払わない商品(移動のための観光バスやタクシーや昼食弁当等)については、内閣行政機関が指定した業者が担当しており、「税金」が使われている。

 天皇内閣行政機関が国事行為という名目で、受賞者の個人情報を本人の許可なく叙勲業者に提供している状況が存在し慣例化しているようであるが、これは「個人情報保護法」に違反する人権侵害行為であるといえる。

 また、天皇内閣行政機関が特定の叙勲業者と密接な関係をもち癒着して叙勲業者に独占的に利得させる事は取り締まるべき立場にある内閣行政機関が自ら「独占禁止法」に違反する行為を行っているといえるのではないのだろうか。

 日本の行事イベントはどのような内容のものであれ商売と無関係ではなく、むしろ商売を第一の目的に企画立案され実施されている。その点では、この国事行為とされている叙勲制度に基づく叙勲行事もそれらのイベントと異なるものではないといえるのである。特に異なる点は、これこそが問題としなければならない事であるが、毎年、憲法によって定期的に商売行為とその利益を保障されている商法だという事である。叙勲業者はこのように優遇されている(特権を与えられている)ためにこの叙勲行事(春秋)の商売により、1年分の利益を得る事ができているともいわれている。

 このような商法を公認している?ような国は世界でも日本くらいであろう。先進国といわれる国々では聞いたことがない。

(2021年11月3日投稿)

 

 

 

 

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万歳(三唱)行為の日本最初は明治天皇の即位式

2024-10-29 00:10:50 | 皇室

※朝日新聞2023年4月15日夕刊の記事「朝日新聞写真館」が「バンザイ」の写真を掲載した。以下に参考までに、私が2020年1月8日に「万歳行為」に関して投稿した内容を紹介したい。

 

 昨年、天皇に対する「万歳」行為について話題となり、公的な場での「万歳」行為は、神聖天皇主権大日本帝国憲法発布の際に「天皇陛下万歳」と叫ばれたものが日本最初とされている。

 しかし、これは間違っている。日本最初の「万歳」行為は、明治天皇即位式において行われ、周囲の臣下が万歳を唱えたのである。明治天皇が即位した時、中国の皇帝が即位する時に倣って儀式を発明した。大きな地球儀を備えて、その地球儀には、日本列島、カムチャッカ、樺太、沿海州、朝鮮全体、中国の山東省、台湾、これらの地域を金色に塗って、明治天皇が金色の部分を三度踏んで、周囲の臣下が「万歳」を唱えるという即位式であった。ちなみに、この中にはすでにアジアを支配するという考えが込められていたのであった。

(2020年1月8日投稿)

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自衛隊の任務は自衛隊法では「国民の生命、財産を守るものではない」

2024-10-29 00:01:57 | 防衛

 自衛隊の第10代「統合幕僚会議議長」(2006年から「統合幕僚長」に変更)は栗栖弘臣(1977.10.20~1978.7.27。東京帝国大学出身)であった。制服組トップであった彼は1978年、「超法規発言」(有事法制がないから、自衛隊は法律を無視して行動せざるを得ない)で解任された。

 その後彼の著『日本国防軍を創設せよ』(小学館文庫 2000年)の、「国を守るということ」の部分で、以下のような事を書いている。おそらく現在の吉田圭秀統合幕僚長」にも継承されているであろう。

「今でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。政治家やマスコミも往々この言葉を使う。しかし国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命(警察法)であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は「国の独立と平和を守る」(自衛隊法)のである。この場合の「」とは、わが国の歴史、伝統に基づく固有の文化、長い年月の間に醸成された国柄天皇制を中心とする一体感を享有する民族、家族意識である。決して個々の国民を意味しない。」

この主張は、神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦までの「国体護持」の考え方と同じものであり、戦前の国家体制への回帰を目指す意志を示すものある。

因みに、自衛隊法第3条1項「自衛隊の任務」には、上記の栗栖氏が主張するように、「国民の生命、身体、財産を守る」とは定めていない。つまり、安倍晋三首相以降の自公政権は、主権者国民に対し、「ウソ」をつき欺瞞し続けてきているのである。

(2024年9月15日投稿)

 

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