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(加筆版)「現場へ!『(杉原千畝の)命のビザ』が問いかける」(朝日新聞)に欠けている重大な視点近衛文麿内閣の「ユダヤ人対策要綱」

2024-11-17 10:26:28 | アジア・太平洋戦争

 朝日新聞が2020年9月9日から5回にわたって連載した「現場へ!『命のビザ』が問いかける」の第1回目に目を通した時、どこまでの内容を書くのだろうかと関心をもった。そして、11日には最後の5回目が載った。1回目の最後に記者の清水康志氏が訴えたい事として、元国連難民高等弁務官事務所駐日代表であった滝澤三郎の言葉「難民に関心がなかった人が、杉原を通じて難民問題に目を向け、考えてほしい」という言葉を載せていた。また5回目の最後には氏は日本国民に杉原のような気持ちをもってもらいたいと願う思いからであろう、「苦しんでいる香港の人々」という認識のもとに、自分自身の言葉で「この国は手を差し伸べようとするのだろうか。杉原がじっと私たちを見つめているような気がしてならない」と結んでいた。

 しかし、これでは説明不足である。というのは、ナチスからユダヤ人の命を救うための「命のビザ」を発給(1940年7~8月)するのに、杉原が、「人道、博愛精神第一」という結論に至るのが「(外務省)の回訓を受けた日、一晩中考え、苦慮、煩悶の揚句」であった事や根井三郎が、外務省の命令である「通過ビザを再検閲の上、行き先国の入国手続きが完了している場合に限り検印し、乗船させるように」とする事に対し、「帝国領事の査証を有する者に対して検印を拒否するは帝国在外公館査証の威信より見るも面白からず」と反論し、独断でユダヤ人に通過ビザや渡航証明書を出した事の背景に、神聖天皇主権大日本帝国政府ドイツとの軍事同盟国としてユダヤ人に対する姿勢や方針を決定していた事にあった事にこそ重点を置き主権者国民に明らかにすべきであったと考えるからである。ユダヤ人であろうと何人であろうといわゆる「難民」受け入れの諾否の決定権は権力を有していた時の帝国政府であったからである。また敗戦により変革された国家体制(民主主義憲法)の下で成立している現在の安倍自公政権の「難民」や「外国人労働者」の受け入れの姿勢や方針を変える力となるのは、主権者国民が安倍自公政府を糾すための闘いを行う事である事を訴えるためにも。

 神聖天皇主権大日本帝国第1次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)では、1938年12月6日、「五省会議」を開き「猶太人(ユダヤ人)対策要綱」なるものを決定していたのである。それは、

独伊両国と親善関係を緊密に保持するは現下に於ける帝国外交の枢軸たるを以て盟邦の排斥する猶太人を積極的に帝国に抱擁するは原則として避くべきも之を独国と同様極端に排斥するが如き態度に出ずるは唯に帝国の多年主張し来れる人種平等の精神に合致せざるのみならず、現に帝国の直面せる非常時局に於いて戦争の遂行、特に経済建設上外資を導入する必要と対米関係の悪化する事を避くべき観点より、不利なる結果を招来するの虞大なるに鑑み左の方針に基づき之を取り扱うものとす

方針

一、現在日、満、支に居住する猶太人に対しては他国人と同様公正に取り扱い之を特別に排斥するが如き処置に出ずることなし

二、新たに日、満、支に渡来する猶太人に対して一般に外国人入国取り締まり規則の範囲内に於いて公正に処置す

三、猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値あるものはこの限りに非ず」

とするものであったのである。神聖天皇主権大日本帝国政府はナチスドイツのユダヤ人政策の共犯者加担者であったのである。この認識こそ重要であり主権者国民が教訓とするために焦点を当てなければならないものではないだろうか。この姿勢は現在の安倍自公政権の「難民」だけでなく外国人労働者に対する姿勢や方針と非常に酷似しているのであるが、どうだろう。

そして、この帝国政府ご都合主義の「対策要綱」も日米開戦後の42年には廃止している。

 「命のビザ」で敦賀から神戸へたどり着いたユダヤ人難民は「異人館通り」で知られる北野・山本通りにあった「神戸猶太(ユダヤ)協会」が迎えた(資金は米国ユダヤ人ジョイント・ディストリビューション・コミッティー)。キリスト教の一派である日本ホーリネス教会の牧師も援助した。しかし、大日本帝国政府はこのホーリネス教会組織に対しても1942年6月から43年にかけて治安維持法や宗教団体法(1940年施行)。平沼内閣。文部大臣は宗教団体の生殺与奪権を掌握)によって弾圧し、牧師ら130人を逮捕し数人が獄死した。この事件は日本のキリスト教史上、プロテスタント教会に対する最大の迫害であった。

 メディアはユダヤ人難民に関してどのような報道をしたのだろうか。朝日新聞大阪本社版では侮蔑的な表現の記事を載せた。1941年2月9日から「流浪のユダヤ人」なるタイトルで6回の連載記事を載せた。その見出しは「金持ちルンペン」とか「投機好きで働き嫌い」などと書き、1回目の前文には「祖国なき民族、世界の無籍者といわれるユダヤ人がいま日本に氾濫している、あらゆる国から追われ嫌われ」としていたのである。

 ユダヤ人難民はその後どうなったのだろう。1941年秋までに米国へ渡ったり、カナダなど英国自治領へ行く事ができた。しかし、最終目的地のビザを手に入れられなかった人々は真珠湾攻撃の数週間前に、神聖天皇主権大日本帝国政府占領下にあった中華民国上海に送り出し(追い出し)一掃したのである。

そして、1943年2月18日の大日本帝国政府陸海軍合同発表では、1937年1月1日以降に上海に逃れてきて生活していた無国籍避難民(ユダヤ人。バクダッド系とロシア系)2万人に対し、特別区(ゲットー)を国際共同租界内に設定(無国籍難民指定区域宣言)して同年5月15日までに移住する事を強制し、住居と商業場所を限定(外出禁止令、外出にはパス必要)した。ゲットーでのユダヤ人の生活状況は、ドキュメンタリー映画『命の綱・上海』によると、ユダヤ人という言葉は全く使用せずゲットーへの移転を強制し、商売や家屋財産を実際の数分の一の価格で接収した。ゲットーの境界線には当初は兵隊を置いたが、後にはユダヤ人に義務付けて「パオチア」と呼ぶ「巡回」を置いた。ゲットーの出入りには「通行許可証」の携帯を義務付け、「パオチア」に「通行許可証」のチェックを行わせた。ユダヤ人を管理監視する担当者は権力をあらゆる方法で悪用した。間違った言葉を発した場合ひざまづかせ殴打した。持ってきた衣類も現地で調達した物もだんだん擦り切れてきても新しい物を買うお金もない状況であった。でも暖かい衣類はなく、Tシャツと半ズボン、靴下はなく靴代わりに「木の片」を削って作ったスリッパを履いた。6千人は飢餓状態で、9千人はそれに近い状態であった。

(2020年9月14日投稿)

 

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