1942年神聖天皇主権大日本帝国政府大本営は、対中華民国侵略戦争(日中戦争)を好転させるために、ビルマ(現ミャンマー)経由の「援蒋ルート」の壊滅をめざす大量の軍需品と兵隊を輸送するため、南方軍に2つの指令を出した。一つは、タイとビルマの国境を結ぶ「泰麺鉄道建設」、もう一つは、タイとビルマの国境を通じる「軍用道路建設」であった。
「泰麺鉄道」(単線軍事鉄道)は、414.716km(ビルマ・タンビュザヤ~タイ・ノンプラドッグで、東海道線の東京~大垣間に相当)で、1942年7月から43年10月までの1年4カ月の短期間(1カ月890㍍)で作られた。建設工事は、ビルマとタイの国境の人跡未踏のジャングルを切り払い、ビルマとタイのクワイ川沿いの断崖を削るという難工事であった。しかも時間的制約は厳しく、機械力に頼らず、シャベル、ツルハシなどの道具を中心とした人海戦術によるもので、物資、資材についても「建設用資材の不足は、主として南方占領地域内より募集し、極力内地よりの追送を避く」という、「現地調達主義」で推進した。普通6~7年かかるのが鉄道隊の予測であったという。また労力は「現地労働者及び俘虜を充て」たため、連合国軍の俘虜(英・蘭・豪)5万5千人(6万5千人とも)、タイ・マレーシア・インドネシアから10万余人(20万人とも)を労働者として動員した。「泰麺鉄道」は欧米では「死の鉄道」と呼ばれている。
「軍用道路」は、「インパール作戦」に間に合わせるために建設された。1943年5月より44年5月までの1年間で、タイとビルマの山系に通じる旧道を自動車の通れる軍用道路に改修した。しかし、全く新しい道路を建設するのと同じであった。地図上の直線距離で300kmほどある熱帯の地の大密林を切り開き、地面を平らにし、山々を上り下りする道路であった。樹林を切り倒し、巨大な倒木を爆薬で吹き飛ばして取り除いていく難工事であった。建設に従事させる兵力はないので、タイ側に依存した。日本軍はチェンマイ~メーホーソン間の建設進捗のためには、タイ側責任者をチェンマイ知事とし、タイ人の「ロームシャ」を出してもらい、先ずはこの間の工事にかかった。翌年5月には、建設を急ぐため、ビルマ側へ前進すべき師団を一時工事に当たらせ、「インパール作戦」に間に合わせた。しかし、どちらの建設工事も、作戦には有効なものとはならず、「インパール作戦」も失敗に終わった。
泰麺鉄道建設工事で「ロームシャ」を徴集した日本軍将校の説明を以下に紹介しよう。
「これから現地へ行ってやる仕事は、すべてアジア人を英国植民地主義者の手から永遠に解放し、アジア諸民族全体の共栄のためのものである事。アジア諸民族の共存共栄をめざして、一部のビルマ人青年、壮年たちとビルマ独立義勇軍が、兄貴分である日本と手を結び、英国植民地主義の悪魔と戦い、殲滅しつつある今日、後方にいる「労務者」隊も「大東亜戦」勝利のため力の限り鉄道建設に当たるべき事。この鉄道完成の暁には、日本から衣料品、食品、機械などがビルマ国民のために送られてくる事。であるから道中で、あるいは現地のキャンプから逃亡しないように。もし逃亡すれば厳罰に処するものである事」
「労務者」の死亡者は8万と推定されている。その多くは、農民と下層労働者で、酷使、食料の酷さ、気象条件からくるマラリア・コレラなどの蔓延によるものであったが、病院もなく医者もいなかった。
カンチャナブリのクワイ川のほとりにある「戦争記念館」には、日本軍による連合国軍俘虜虐待の資料がある。「記念館」入口には「Forgive But Not Forget」(許す、しかし、忘れない)と書かれている。又、カンチャナブリには「連合国軍共同墓地」が作られており、その傍には「泰麺鉄道博物館」が作られている。
(2025年3月13日投稿)