つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

ラジオ体操放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2025-01-30 09:42:25 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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日本会議(石橋も国会議員懇談会会員)はいかに選択的夫婦別姓制度成立を妨害しているか?

2025-01-29 17:51:48 | 選択的夫婦別姓

 1996年2月、法務大臣の諮問機関である法制審議会は、希望する夫婦には結婚前の姓を称する事を認める「選択的夫婦別姓制度」導入の答申をした。法制審の提言は基本的に法制化されるのが慣例であり、民法改正の手続きへと進むものであるが、今日に至っても導入されていない。

 この原因は何か?これには、今日の自民党政権思想的宗教的源泉でもある「日本会議」(1997年5月30日)やその前身である「日本を守る国民会議」(1981年10月27日)などによる執拗で大規模な反対運動が継続して行われてきたという背景が存在するのである。

 1995年12月には、「日本を守る国民会議」などは「家族の絆を守り夫婦別姓に反対する国民委員会」(代表上智大教授渡辺昇一)を結成し、署名集め地方議会での反対決議要求国会議員への陳情活動、波状的な国民集会などを開催していた。

 答申提出後には、日本会議の代表委員となった長谷川三千子氏が日本会議の機関誌と見做してよい『祖国と青年』(1996年3月号)に、

家制度というものがかっきりあればあるほど、いろんなところで各人の不満というものは当然出てきますよね。ただ問題は、不満があったら即「ああ、不満ですか、解消しましょう」と、そういう仕方で向かうのが良いのか、不満は不満でもそれはある程度仕方のない不満だという格好で、各人が我慢しなくちゃならないのか、という事です。あんまりひどい不満だったらこれは何とかいたしましょう、でも大した事のない不満だったら我慢してください、というバランスのとれた議論というものが、殊に家族の問題に関しては非常に少なくなってしまっていますね。……今のフェミニストたちの主張の通りに、この不満も解消する、あの不満も解消するといって次々解消していくと、どういう事になるかというと、益々女性の我慢の能力というものが低下していって、今の女性が軽々こなしているような生活も、これから二、三十年先の女性になると、もう耐え難くなるかもしれませんね。そうするともうきりがないという事になる」

反対理由を述べている。

1996年5月には、橋本龍太郎首相(自民党政権)に夫婦別姓反対要望。同年12月には、夫婦別姓反対決議が281議会、同国民署名が100万人突破。

2002年3月には、夫婦別姓に反対する国会議員署名が117人、国民請願署名が170万人に達した。

2010年には、夫婦別姓法案反対運動実施。

(2022年9月4日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

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神聖天皇主権大日本帝国政府下で初の衆院選、沖縄県は1912年にやっと法施行、1946年は選出せず

2025-01-29 09:41:00 | 選挙

 朝日新聞2021年10月19日の「天声人語」に、「明治23年に実施された初めての衆院選」について、つまり神聖天皇主権大日本帝国政府下での第1回総選挙について、近年の投票実績に比して、「投票率は93%だった。女性に参政権がなく、有権者は全人口の1%という制限選挙だったが、驚きの高さだ」とあった。ところで、私としてはこの事については、もう少し別の角度からの大切な面を伝えてもらいたいものだと思った。

 この衆院選は神聖天皇主権大日本帝国政府が1889年2月に大日本帝国憲法制定とともに公布した議員法衆議院議員選挙法に基づき1890年7月に実施したものである。帝国議会(現国会)は天皇の立法権行使の協賛機関として位置づけており、貴族院・衆議院の2院制で、両院は対等(現在は衆議院優位)とした。貴族院は公族・華族・勅選議員・多額納税者からなり、解散はない。皇室を守り、民選の議員(衆院議員)を抑える役割を担った。衆議院小選挙区制直接国税(地租・所得税・営業税)15円以上の男子納入者による制限選挙で、被選挙権は満30歳以上、選挙権は満25歳以上とした。直接国税15円以上とは、農家では2町歩(約2㌶)以上の地主(当時としてはかなりの豪農)、自家営業や勤め人では年収1000円(現在では3000万円?)以上であった。また、この衆議院議員選挙法は、全国一律に施行したのではなく、北海道は1900年になるまで、沖縄県1912年になるまで施行しなかった差別行政を行った事実を伝えるべきである。このような条件により、有権者は約45万人で、全人口の約1.1%であった。この後、このような高額の税金で選挙権を買うというような制度は、さすがに批判が起こり、財産や収入に関わりなく選挙権を得る普通選挙運動が起こる。また、候補者は立候補した事を行政機関へ届ける必要はなく、「供託金」の支払い義務も選挙費用の制限もなかったが、1928(昭和3)年の男子普通選挙制(中選挙区制)から候補者は行政機関へ届け出る立候補制が実施された。

男子普通選挙法の公布は、1925年5月、第1次加藤高明・護憲三派内閣時。

供託金制度……1925(大正14)年に男子普通選挙法が制定された際、保証金を供託する制度が導入された。「候補者の乱立防止」がその理由で、貧困な労農無産政党系の人々などが立候補の制約を受けた。今日では、衆院・参院の比例代表で600万円、衆院小選挙区・参院選挙区で300万円。没収規定は、衆院小選挙区は有効投票総数の10分の1未満の得票。参院選挙区は有効投票総数を議員定数で割った数の8分の1未満。参院・衆院の比例代表は当選者の2倍を超える立候補人数分。

米国・ドイツ・イタリア・フランスをはじめ大多数の国では制度自体なし。イギリスは約6万円、カナダは約8万円、オーストラリアは約4万円。没収点も日本より低い。

ちなみに、供託金制度は法の下の平等を定めた憲法第14条や議員と選挙人の資格を「財産や収入で差別してはならない」と定めた憲法第44条に違反しているのではないだろうか。

更に付け加えておくが、1945年12月17日幣原喜重郎内閣が衆議院議員選挙法を改正公布したが、米軍政下にあった沖縄県施行の例外扱いとした。つまり、現憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出議員は選出せず、現行の「平和憲法は、沖縄県民を除外したうえで成立」したのである。

(2021年10月26日投稿)

 

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西南戦争田原坂の戦い以降に見る西郷軍、「玉砕」の生みの親、太平洋戦争での日本軍の戦闘とまったく同じ

2025-01-28 22:53:17 | 戦争遺跡

 西南戦争(1877(明治10)年2月15日~9月24日)田原坂の戦いで、西郷軍はどのような戦い方をしたのか。当時の新聞記事に見てみよう。一言でいえばそれは、太平洋戦争の末期の日本軍の戦争指導者の戦い方とまったく同じであったといえる。

 政府軍については、「……前報に田原坂の樹木は一寸間毎に銃丸を打ち込まれざるはなしと記したるが、官兵(政府徴兵軍)の費消する数を聞くに田原、二俣等の戦には、1日概数25万発(スナイドル銃)に下らず、その最も多き日は35万発より40万発に及び、大砲は12門にて1000発以上を打発したり」(郵便報知新聞・1877(明治10)年4月11日)

 それに対し西郷軍は、「賊兵弾薬に乏しきにや、田原坂の戦いに河原の小石を以て銃丸に用いたるよし」(朝野新聞・明治10年4月11日)。また「賊徒の屯集したる田原坂の胸壁中に、馬の骨を数知れぬ程積置きたるを見れば、兵糧欠乏ゆえ馬を屠殺して喰らいしなるべし」(東京曙新聞・明治10年4月5日)

 西郷軍は、田原坂の戦いで敗北後、潰乱状態となり、奇襲や斬り込みなどゲリラ的戦い方となり、「玉砕」という言葉を使用するようになった。

 「この頃日向の宮崎にて戦死せし賊が死体の懐中に左の通りな廻文が有りしよし、その写しは『諸隊順達』。瓦となって完からんより玉と成って砕けよとは、各自予て知る所、今更又何をかいはん、当軍さきに告示せし如く、既に金城湯池を失い、わずかに日向の一地に拠るのみ、然りと雖も未だ一人当千の勇士に乏しからず、豈おめおめと敵に降り軍門に惨刑せらるるを愧じざらんや、国に報い義を重んずる者、戮力奮戦以て同日同刻に斃れんことを期す」(浪花新聞・明治10年8月26日)と「玉砕」を命じている。

 この背景のある西郷軍幹部の当時の意識は、「最早賊徒の兵気は余程衰えたるものと見えて、この頃降伏人の云う所に拠れば、近頃は別府晋介、逸見十郎太らをはじめ賊徒の重立たる者は皆砲塁の後ろに抜刀をして控え、若しや兵士に卑怯の者か或は敵に降らんとする者あれば、直ちにその場において首を刎ね、以て兵気を鼓舞するくらいの勢いなりという」(東京日日新聞・明治10年7月24日)状況となっていた。

 この後の西郷軍の様子は、「確乎たる部署もなく亦一定の戦略もなく」「十分の糧食を輸送する事を得ず」「その糧食窮し」「その弾薬乏しく到底戦わずして自ら斃れ」「官軍に抗するものなかりき、この如きが故に賊兵の降伏は昨今最も夥しく、6000名に達したり」「西郷これ無恥の最も甚だしきものなり」(東京日日新聞・明治10年9月5日)と報道されている。

(2018年2月25日投稿)

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朝日新聞記事「私のイチオシ コレクション『日本の活版印刷』」:中西学芸員が失格?聞き手高木記者が失格?

2025-01-28 22:48:49 | 文学・歴史

 2021年1月26日の朝日新聞の記事欄「私のイチオシ コレクション」に印刷博物館(東京都文京区)の学芸員・中西保仁氏が「日本の活版印刷」という記事を提供していた。

 それを読んで私は同じ博物館学芸員資格を有する者として、非常に残念に思うとともに中西氏に学芸員としての責任の重大さを自覚してほしいと感じた。それはなぜか?それは活版印刷技術がもたらされた事についての説明文が、事実に基づいた丁寧なものとなっておらず、読者に誤った認識を伝えるものとなっているからである。また、この説明文が「聞き手」の高木彩情氏の編集によるものであれば、編集者の不見識によるものであるか、故意にこのようにしたかのいずれかという事になるが。いずれにしても記者失格というべきであろう。

 その説明文は、「日本に活版印刷技術がもたらされたのは16世紀末。欧州から天正遣欧少年使節団を通じて、アジアから朝鮮出兵した豊臣秀吉を通じて、違う文化圏の技術が偶然同時期に伝わりました」という説明分の中の「朝鮮出兵」という表現と、それによって「伝わりました」とする表現である。

 定説では、豊臣秀吉は「朝鮮を侵略した」のであり、その際に「多くの活字と本、それに印刷の技術者を略奪して連れて帰ってきた」事を説明すべきであろう。このような点も丁寧に説明するのが博物館学芸員の仕事であると思いますがいかがでしょうか。中西氏自身が記事のような説明をしたとすれば、彼自身、学芸員として勉強不足であるし、学芸員としての責任感の乏しさが感じられ、学芸員としては失格でしょう。また、「聞き手」の高木氏が、中西氏の説明をそのまま自身で確認せず記事にしたのであれば「記者失格」でしょう。まして高木氏の編集によるものであれば、大手メディアとしてこれはフェイクの発信であり、「犯罪」的行為と言っても良いでしょう。読者は記事を批判的に読む習慣を持たなければいけません。そのためには、ウソを見抜く広い知識を持つ必要がありますし、そのための努力を惜しんではいけないでしょう。

ちなみに、金属活字による印刷技術は、13世紀の朝鮮半島の高麗国(918~1392)で発明されている。最も古い金属活字での刊本とされているのは、1974年にフランス国立図書館で発見された『直指心体要節』で1377年に刊行されたものである。現在、世界最古の金属活字印刷本として、ユネスコ世界記憶遺産に登録されている。李氏朝鮮国時代になると、第3代国王太宗(1400~18)の代の1403年に金属活字鋳造所が造られ、次の世宗(1418~50)の代には書籍出版が盛行し、訓民正音(朝鮮文字、ハングル)も制定された。

 (2021年2月1日投稿)

 

 

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