原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

自分と他人との境目 ー vol.2 ー

2022年03月21日 | 芸術
 (冒頭写真は、朝日新聞2022.03.19付「書評」ページより転載したもの。)


 この写真を一見して、私は実に“美しい絵画”だと感じた。


 それと同時にこの私も28歳の時に、(これ程美しくはないが)知り合って間もない某男性が鉛筆にて私の似顔絵を描いてくれたことを思い出した。

 その似顔絵を大事に保存してあったつもりが、残念ながら何処を探しても見当たらない。

 やむを得ないので、その時の思い出話でも記させて頂こう。

 その男性とは某所で知り合ったのだが、今度もっとゆっくりと会おうと意気投合し、後日、明るく日が差す洗練された雰囲気の喫茶店にて再会した。
 男性が開口一番「似顔絵を描いていい?」と尋ねるので、OK返事をすると。
 早速、自分の名刺の裏に鉛筆(だったかな?)で私の似顔絵を描き始めた。
 「美術経験でもあるの?」と問う私に、「いやそうではないが、時々“この人の似顔絵を描きたい”と思うことがある。」云々との返答だった。
 手慣れた様子ですらすらと、短時間で完成した。

 いやこれが初対面の私の風貌特徴をよく捉えていて、私としては大いに気に入った。 それを頂いて帰ったのだが、一体何処に保存したのやら…



 さて、冒頭の写真に話題を戻そう。

 この写真は、朝日新聞「書評」ページの「大竹彩奈画集 いつか」と題する記事内に取り上げられていたのだが。

 詩人・最果タヒ氏による書評の一部を、以下に引用させていただこう。

 全てのものには輪郭がある。 自分にも。 肌は不思議で、自分にとってはそれは全てが平面で、線ではない。 私のものとしてそこにある肌。 けれど、他者から見れば、その線が私という存在を浮き上がらせる。 他人にしか見えない「線」、それが世界と自分を区切っている。 でも、私にとって、世界は私とそんなにくっきりと分かれているものだっただろうか。 世界のことをたまに私そのもののように思ったり、むしろ、世界が私を支配してしまうように感じたりすることもある。 他者が見る「私」の、絶対的な区切り方。 そういう視線を感じると、私は私として私を外側から見てみたい、と思う。

 (以下略すが、以上朝日新聞「書評」ページより一部を引用したもの。)



 この書評を読んでもう一つ思い出したのは、2009.01.16付にて公開した「原左都子エッセイ集」バックナンバー 「自分と他人との境目」である。 
 これの一部を以下に要約引用させていただこう。

 朝日新聞 別刷「be」に興味深い記事があった。
 “心体観測”のコラム、金沢創氏による「他者の心・自分の心① 他人の感覚はわかるのか」という題名の記事なのであるが、私も中学生の頃、この記事の内容とまったく同様の思考が脳裏に浮かんだことがある。
 さっそく、金沢氏による上記記事を以下に要約して紹介することにしよう。
 中学生ぐらいの頃、他人というものが不思議で仕方がなかった。
 私にはあの夕焼けの色が真っ赤に燃えているように見える。でも、私が見ているこのアカイロは、果たして他人が見ている赤色と同じなのだろうか。
 あるとき、この問いに関係がありそうな説明に出会った。それは「感覚を生み出しているのは脳という器官である」というものであり、私は私の脳と他人の脳をなんらかの装置を用いてつないでみたいと思った。そうすることにより、「他人が見ている色」を、直接見ることができるような気がした。
 しかしある時、その考え方は決定的に誤っていることに気付いた。その理由を詳しく説明するには数冊の哲学書が必要だが、別の意味ではたった一言で説明可能だ。それは「どううまく脳をつないでも、最後に何かを感じるのは私だから、それは他人の感覚ではない」
 この答えは当たり前そうに思えて、本当はとても過激だ。なぜなら、「他人の感覚」とは原理的に決して知ることができないという結論になるからである。
 他人の心はよくわからないもの。それはよくある常識だが、それが原理的なものとなると話は別だ。どんなに科学技術が進歩しても、それが決してできないのだとしたら。(以下略)
 以上が、金沢創氏によるコラム記事の要約である。
 そして“実験心理学”が専門でおられる同氏は、次回以降の同記事において、この実験心理学について紐解いていくことにより、心というものの不思議について考察していかれるそうである。

 実に偶然だが、この私(原左都子)も中学生の頃に「色」というものの見え方について、同様の疑問が頭をもたげたことがある。 私の場合は、夕焼けを見て思いついた訳ではなく、漠然と「色」の見え方についてふと思った。
 赤、青、黄、緑、…… 人はいろいろな色をその色として認識している訳であるが、本当に皆同じ様に見えているのであろうか。もしかしたら私が“赤”だと認識している色がAさんにとっては私の認識の“黄”であったり、Bさんにとっては“緑”であるのかもしれない。言語で表されている対象物の認識の感覚とは、実は人により異なるのではなかろうか…。
 この命題はまさに哲学的であり心理学的である。金沢氏が書かれているように、この命題を実証していくためには数冊の哲学書が必要であろう。また心理学分野においてはもう既にその解明が進展しているのかもしれない。
 今のところ、残念ながら私はその分野の学術知識を持ち合わせていないため、ここでは専門的な話は素通りさせていただくことにする。

 それにしても、「他人の感覚」とはいつの世も捉えにくいものである。自分と他人との間には必ずや“境目”や“隔たり”が存在するのが人間関係における宿命であるようにも思える。
 他人に対して好意を抱いたり興味を持ったりすると、自分とその他人との感覚を接近させ、その境目や隔たりを“超越”して自分の感覚を「他人の感覚」と融合させたい欲求に駆られるのが人情なのだが…。
 他人の心とは永遠に分からないものであるのか。それとも、科学技術の進歩により「他人の感覚」が原理的に解明できる時代がもう既に来ているのであろうか。
 他人の心とはわからない方が、実は人間関係は奥が深くて面白いのかもしれない…。

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 最後に「似顔絵」に話題を戻すと。

 あれって、描く側も描かれる側もその時間と空間を共有しながら過ごす、またとない二人だけのコミュニケーションの瞬間でないだろうか?

 私の場合は出会って間もない相手だったため、2人で楽しく会話をしつつ描いて頂いたのだが。 
 何だか、自分と他人との境目が一時結ばれる、未だに忘れ難き二人だけの貴重な共有時間だったような記憶がある。
 

娘の義母が孫を差別する?? 娘の実母の貴女こそ孫を可愛がってやれば?

2022年03月20日 | 人間関係
 本日のエッセイテーマは、朝日新聞2022.03.20付 “悩みのるつぼ” 相談 「娘の義母が孫を差別する」より引用する。


 冒頭から私事を述べるが。

 私自身が郷里から離れ上京後、見合い晩婚の後に都内(正確に言えば埼玉県の産院にて)娘を産んでいる身だ。
 その立場では、どうしても孫の育児補助は都内に住む義母に依存せねばならない身だったのだが。
 これが実によくできた義母(現在は認知症があるが)であり。
 最初から「息子夫婦である貴方たちと今後一切同居をするつもりはないし、基本的に孫に関しては少し手助けする程度にさせて欲しい。」 
 出産前からその宣言を明確にしてくれた上で、我々夫婦の新居としてタワーマンションを購入してくれていた。

 嫁の私側も出産直前期に高校教諭の職場を出産退職して、自らが単独で高齢出産の赤ちゃんを育てる覚悟だった。

 そんな私の育児を、距離を置きつつ適宜見守ってくれた義母だった。

 出産退院後初めての母子1か月健診時には、病院まで付き添ってくれた。
実はその頃、私は緊急帝王切開手術のせいで未だ微熱に苛まれ絶不調期であり、我が子を抱くにも辛い体調だった。
 義母無しにこの検診は叶わなかったことだろう。

 あるいは娘の“お百日祝い”の日には、義母夫妻が沢山のお祝いを持参してタワーマンションまで訪ねてくれた。
 その頃には我が体調も少しずつ回復に向かっていて、私なりにちらし寿司を作ったりもしたのを。 
 義母が「体調がまだすぐれないのに、わざわざちらし寿司を作ってくれて大変だったわね。」とねぎらってくれたのが実に嬉しかったなあ。

 その後も、義母・義父の配慮等々のお蔭をもって、我々の親子・孫関係はずっと良好状態を保って現在に至っている。



 今回の「悩みのるつぼ」相談内容の転記は省略するが。

 どうやら我が感想によれば、相談者である孫の母方祖母である60代女性の思考に歪みがありそうだ。

 ちょっと待って。
 その相談女性が未だ60代というではないか!
 
 娘さん自身がとことん現状に困惑しているのならばともかく。
 そうではなくて、祖母である貴方が単に取り越し苦労している様子が伺える相談故に、物申させていただくが。

 未だ60代の祖母である貴女こそが、ご自身の生き方を主体的観点から見直しては如何かとアドバイスしたくもなる。


 今回の相談回答者は、文筆業の清田隆之氏だが。

 未だお若くしてご持論を述べておられるので、その一部を以下に紹介しよう。
 
 すべての祖父母から等しくかわいがられない限り孫は不幸なのかというと、そうではない。 娘さんのサポートをしたり、孫が喜ぶようなことをしてあげたり、かかわり合いの中で愛情を伝えていくことは十分にできるはず。 自分を大切に思ってくれる人がいるという実感は孫の支えになるだろうし、それこそが相談者さんしか果たせない役割だと私は考える。
 
 (以下略すが、今回の回答者 清田隆之氏の回答の一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私見でまとめよう。

 まさに、清田氏がおっしゃる通りだ。

 何処の家庭でも、義理親族関係の対応は困難であろうかもしれないが。 (いえいえ、私の場合はその義理関係に恵まれつつ、むしろ実親や姉関係にこそ苦労させられながら現在に至っている、と表現できそうだが。)


 とにもかくにも、孫の存在とは。
 おそらく親族にとっては、可愛い存在で無いわけもないのではなかろうか??

 そんな時期だけでも、どうか孫を可愛がってあげて欲しいと。

 (我が娘が抱えている事情故に)おそらく今後孫とは縁がない人生を送るつもりの原左都子から、是非とも提案申し上げたい!


「絵むすび」ー 朝日新聞2022.03.19編 ー

2022年03月20日 | 自己実現
 (冒頭写真は、昨日の朝日新聞「絵むすび」に原左都子の娘が解答したもの。)


 今回の「絵むすび」は、難易度2にしてかなりの難題では無かったでしょうか?

 昨日昼過ぎ、我が娘(高齢出産にて生まれた、現在28歳 IT技術者にして元々発達障害があり、本人なりにその特徴を併せ持っている人材だが、親の欲目では天才性も兼ね備えているかも???)と2人で、この「絵むすび」解答合戦を執り行った。

 これが、大変!
 母親の私が解答に難儀している隣で、開始5分後に娘からの「できた!!」との勝利宣言!!

 完敗した私は解答の意思が無くなってしまい、娘の回答を見せてもらった。
 
 「なるほどね!」と答えつつその解答の詳細を見ながら、「青虫」をこう回したか… などと、敗者の負け惜しみ感をあらわにする始末。😨 



 と言った事情により今回は原左都子の娘の回答につき、「解説」は省略させていただきます。

 私も既に、高齢者として堂々とこの世を渡れる年齢に達しているが。

 そろそろ「絵むすび」解答から引退するべきか??、との現在ちょっぴり寂しい心境でもあります…


量子論の登場は学問の歴史における最大の知的革命

2022年03月19日 | 学問・研究
 本日も、朝日新聞2022.03.19付「書評」ページから。

 「ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性」に対する社会学者・大澤真幸氏による書評「ニールス・ボーア『因果性と相補性』」を取り上げる。
 以下にその内容の一部を予約引用しよう。

 この200年の学問歴史の中で最大の知識革新、それは量子論の登場にある。 量子論は物理学の基礎理論で、20世紀の前半、特に戦間期に何人もの物理学者の手によって次第にその姿を整えていった。 この運動の中心にいたのが、ニールス・ボーアだ。 量子論を認めなかったアインシュタインとの間の論争でも知られている。 
 以前は光は一種の波であることが分かっていた。回折・干渉など波としての現象を引き出す。 ところが、光は粒だと考えないと説明できないこともある、とわかった。 逆に電子は粒だが、波のようにふるまうこともあると明らかになった。
 粒である事とな身である事は矛盾する。 例えば粒は同じ場所に二つ同時にいることは不可能だが、波は二つが重なり合って強めあったり弱めあったりする。 物質はしかし究極的には粒であり波である。 西田哲学風にいえば、絶対矛盾的自己同一。 これを認めるのが量子論である。 ボーアは波/粒の排他的な状態の二重性を「相補性」と呼んだ。 (中略)
 とにかくこうなると。観測とは独立した物の客観的な性質や存在について云々できない、ということになる。
 このように量子論が提起したのは、答えではなく哲学的な問いである。 そもそも存在とは何か、と。 私達は、人が観測するかとは無関係に物は実在すると考える。 実際そのはず。 しかし観測から独立に存在が定義できないとするとどうなるのか。 量子論の謎は、神から人間への致死性の毒が入った贈り物ではないか、と思うことがある。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより引用したもの。)


 
 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 この私も2度目の大学入学後、この量子論(正確に言えば、私の場合は「量子力学的実在論」だが)にはまった。
 2度目の大学にての我が専門は「経営法学」であり、大学院修士課程にて「経営法学修士」を取得している。)

 今回の書評を書かれた大澤先生も、ご専門は「社会学」のご様子だが。
 まさに「量子論」とは“存在とは何か” を問う哲学であり、学問に励む者は大抵この「量子論(量子力学的実在論)」を通過して来ているのではあるまいか??

 「原左都子エッセイ集」公開初期頃の2007.11.15付バックナンバー「量子力学的実在の特異性」に於いて、その辺のエッセイを公開している。
 その一部を、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。 箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。
 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。
 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。
 予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。
 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。
 シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。 ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。 経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。
 ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。

 (以上、我がエッセイ集 開設後間もない時期に公開した、学問研究カテゴリーエッセイを、再掲載したもの。)

 20代、30代を過ぎてずっと現在に至るまで、学問研究を追求し続ける人生を歩んで来ている原左都子だが。
 その原点となり、私のその後の学問遍歴に於ける重要な核心であった「量子力学的実在論」の一部分を、再度語らせていただいた。



 冒頭の大澤真幸氏による書評に戻ろう。

 大澤氏は最後に「量子論の謎は神から人間への致死性の毒が入った贈り物ではないか、と思うことがある」と結ばれているが。

 この「毒」を私も未熟なリにも味わえたことこそが、その後の我が学問人生をより充実させてくれたし。
 その後の我が人生の更なる発展に繋がったと、今尚「量子力学的実在論」に触れることが叶った過去の事実に感謝し続けている。 


キエフバレエ日本国内再演決定に、心より安堵しました!!

2022年03月18日 | 芸術
 (冒頭写真は、先程ネット情報を転載したもの。)



 どうやら今年の夏には、このキエフバレエの日本国内再演が実現する様子です!


 私が住む東京都内でも、キエフバレエを鑑賞することが叶うとのことのようです。


 如何なるいきさつでキエフバレエ団の公演が日本国内にて実現可能であるのかに関しては、今尚論評不能ですが。


 
 巷の噂によれば。
 
 日本国内等々で活躍しているキエフバレエ団は、自国のキエフへ戻ることなく他国にて宿泊・生活しているからこそ。
 
 その実現が叶うとの噂があります。



 とにかく、東京にてキエフバレエ団の舞台鑑賞が実現するのならば。


 早速そのチケットを是非とも入手して、夏にはバレエ鑑賞を楽しませて頂きたいものです!!