原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

プーチンのウクライナ侵攻と「日本国憲法」

2022年03月17日 | 時事論評
 本日も、朝日新聞2022.03.16付記事「時事小言」、国際政治学者 藤原帰一氏による「この戦争の出口は 『負け組』も含む国際秩序を」の一部を、以下に要約引用しよう。

 
 プーチン政権がウクライナ制圧に成功する可能性はない。 高性能兵器によって軍事的に勝利しても占領を維持できないからだ。 ベトナムでもアフガニスタンでも軍事的優位にある側が支配に失敗した。 ウクライナでは侵略に対する国民の結束が高く、占領が成功する可能性はさらに乏しい。
 ロシア軍の戦闘意欲は低い。 世界的経済制裁はロシア国民の生活を破壊し、ウクライナ占領どころかロシアに内乱と革命を招きかねない。 プーチンは戦争によってウクライナばかりでなくロシアも破壊した。
 だが、ウクライナが単独でロシア軍を撃退することも難しい。 北太平洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)など世界各国はロシアに経済制裁を科し、ウクライナ軍への武器供与も拡大したが、無差別攻撃を前にしたウクライナ軍が持ちこたえる保証はない。
 停戦交渉は断続的に行われているが、NATO加盟を棚上げにしてもNATOの関与抜きの停戦合意ではウクライナの安全を保障できない。 停戦交渉が重ねられる一方で、自国により有利な停戦を求めて両軍が戦争を激化させる可能性が高い。
 飛行禁止区域を設定するなどNATOが介入の意思を示せば戦争はエスカレートする。 また、プーチン政権が化学兵器、あるいは核兵器を使用する危険は現実のものだ。
 NATOもバイデン米政権も、戦争のエスカレーションを回避するべく、直接介入を控えてきた。 核戦争は絶対に避けなければいけない以上、私(藤原氏)はこの方針を支持する。 だが、プーチン政権は、核兵器や化学兵器使用で脅すことでNATO諸国の関与を排除し、ウクライナに壊滅的打撃を与えてロシア政府に有利な停戦合意を引き出そうとしている。 突き放して言えば、プーチン政権が自滅するまで、この残酷なゲームは続くだろう。
 この戦争の出口は何だろうか。 日本国憲法は第2次大戦後の日本の原則であるとともに、大戦後の世界をつくる原理の宣言でもあった。 そして、プーチン政権は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会とは対極にある存在だ。
 プーチン政権は自滅に向かっている。 だが、プーチン政権とロシア国民んは同じではない。 戦争の終結は国際秩序を形成する機会だ。 日本国憲法は軍国主義の日本を世界との協力の中に再統合する貴重なステップだった。 戦争と内乱の後には、今度こそ、冷戦終結時につくるべきであった「負け組」も参加する秩序、日本国憲法前文が示すような世界各国の国民もロシア国民も受け入れることのできるような力の支配ではない国際秩序をつくらなければならない。

 (以上、朝日新聞「時事小言」より、国際政治学者・藤原帰一氏による論評の一部を要約引用したもの。)



 原左都子の私見に入ろう。


 藤原氏が記されている通り、今回のロシア大統領プーチンによるウクライナ侵攻は。
 ウクライナでは侵略に対する国民の結束が高いこと。
 これに比し、ロシア軍の戦闘意欲が低いこと。
 世界的経済制裁はロシア国民の生活を破壊し、ウクライナ占領どころかロシアに内乱と革命を招きかねないこと。
 等々の理由により、プーチンは戦争によってウクライナばかりでなく、いずれはロシアも破壊する結末となることが予想されよう。

 また、NATO加盟を棚上げにしてもNATOの関与抜きの停戦合意ではウクライナの安全を保障できない、のも火を見るよりも明らかであろう。
 ただそのNATO諸国の動きの程も不透明さが否定できないとなれば。
 今後プーチン政権が自滅するまでこの残酷なゲームは続くだろう、との空恐ろしさが原左都子の脳裏にもある…

 そこで、藤原氏は「日本国憲法」を議論の中に持ち出されている。

 この私も一貫して“護憲派”である事実を、当該エッセイ集バックナンバーにて幾度も述べてきているが。
 藤原氏が記されている通り、「日本国憲法」は軍国主義の日本を世界との協力の中に再統合する貴重なステップだったことに間違いない。

 まさに戦争と内乱の後には、今度こそ、冷戦終結時につくるべきであった「負け組」も参加する秩序、日本国憲法前文が示すような世界各国の国民もロシア国民も受け入れることのできるような“力の支配ではない国際秩序”をつくらなければならない。 

 藤原帰一先生がおっしゃる通り!! と原左都子は全面同意申し上げる。
 

グランマ・モーゼス ー 素敵な100年人生 シリーズ ー vol.9

2022年03月16日 | 芸術
 (冒頭写真は、朝日新聞愛読者プレゼント “グランマ・モーゼス 素敵な100年人生シリーズ” より、油彩「静けさにつつまれて」。)



 グランマ・モーゼス氏作品の特徴とは。
 人が沢山描かれていて賑やかなことか、と捉えていたが。

 今回の2枚の油彩作品には人が描かれていなかったり、描かれていてもごく少人数である点が特徴だろう。


 そう感じていたところ、やはり解説もその趣旨の論評だった。

 まずは、こちらの作品「静けさにつつまれて」の解説を紹介しよう。

          

 四季折々の風景の中、楽しげに活動する日飛び地がこまやかに描き込まれている。 そのような作品を多く残したグランマ・モーゼスは、他方で、穏やかに静まり返った風景画も手掛けている。 小川のそばには、水車とつつましい家。 川べりの細い一本道には誰もいない。 その道の上に、モーゼスはひっそりと「ALL IS STILL(静けさにつつまれて)」と記した。
 ややくすんだ色調は、19世紀後半のアメリカ合衆国で大衆的な人気を博した風景画を思わせる。 モーゼスは身近に手に入る印刷物の絵を手本とし、自分自身の世界を少しずつつくりあげた。 雄大な自然の情景は、モーゼスの小ぶりな作品の中でも確かに息づいているようだ。


 原左都子の感想だが。

 この作品、左側に小道(小道だよね??)が描かれているのが、私に郷愁をもたらしてくれる。
 人は描かれていないけれど、いつかはこの小道を人や牛や馬??が通ることを想像すると、この作品も生命の息吹が根付いている風景であるような気がする。



 次なる作品は、こちらの油彩「美しき世界」。

          

 やはり人や動物が少数なりとも描き込まれていると、絵に活気を与えるものとの印象を抱く。


 解説文を紹介しておこう。

 「どんな絵がいちばん好きですか?」と生前にインタビューで聞かれたグランマ・モーゼスは、「きれいな絵」と答えている。 「本当にきれいなものはなんだろう、と考え抜いて思いついたら絵に描きます。そして古いものが好きです。歴史的な記念物、橋、水車小屋、旅館や古い家などですね。 どんどんなくなっていきますから。ほとんど記憶で描きます。 白昼夢みたいなものです」
 単純すぎると思われるかもしれない。しかしどのような芸術も、何らかの意味で生を肯定するものではないだろうか。 人間の思考や感情はかけがえのないもので、時には美しい、という信念がモーゼスの画業の核心にある。 
 本作には、人間と自然のあいだの調和、という彼女の理想も表れている。

 (以上、作品の解説文を紹介したもの。)


私も子供時代に「カンロ飴」を喉に詰まらせたことがある

2022年03月15日 | その他オピニオン
 本日のエッセイは 朝日新聞2022.03.12付 “ひととき”より、18歳高校生による投稿「17年分の感謝を」よりテーマを拝借しよう。


 早速、その投稿を以下に引用する。

 私は高3だが、先日大学に合格した。
 2005年4月、1歳だった私は、名古屋城に家族で夜桜を見に行った。 食いしん坊だった私は、「まだいる、まだいる」とサツマイモを頬張り、のどに詰まらせ、窒息してしまった。  けいれんを起こしそのまま死んでもおかしくない状況だった。
 素早く119番してくださった男性の方、私を抱いて背中をたたき吐かせて下さった女性の方、そして救急隊員の方々のおかげで一命を取り留めることができた。 後遺症も残らず、私は18回目の誕生日を迎えることができた。
 両親から成長の節目でいつもこの話を聞き、いつかご恩をお返しできればと考えていた。 大学では理学部で生命理学の勉強をしていつか誰かを救うことができる研究者になりたいと考えている。
 あの時見ず知らずの私を助けて下さり、本当にありがとうございました。 17年前にはせっかくのお花見を台無しにしてしまいましたが、この記事を読んで下さり17年分の感謝が伝わったらうれしく思います。
 今年も美しい桜が咲きますように。

 (以上、朝日新聞記事より投稿を引用したもの。)



 ここで原左都子の私事を、2件語らせていただこう。

 私も子供時代に、のどに食べ物を詰まらせたり、噛まずに飲み込んだ経験が何度かある。

 その一つは、当時流行っていた「風船ガム」なのだが。
 当時小学3年頃だった愚かな私は、3枚入りの3枚全部を一気に食べて膨らませれば、誰よりも大きな風船が作れるぞ! と本気で考えた。
 
 風船ガムに限らず、ガムを噛んでいる途中で飲み込んでしまうことは子供としてはよくある事故だった。
 ただ1枚ぐらい飲み込んでも何も問題なく、そのまま排泄に至ったことだろう。
 ところが、その時は3枚分全部だ!
 その心の準備は十分に出来た上で大きなガムの塊を慎重に噛んでいたはずなのに、どういう訳かあっという間に飲み込んでしまった!!
 (これで私は死ぬのか!??)と思いつつも、誰にも言えず、とにかくその後の容態を注意深く観察することとした。 特段腹痛がある訳でも無く、お腹のどこかにガムが引っ掛かった様子も無く、時間の経過とともに自分自身がその事件を忘れてその日は暮れた。
 結局次の日になっても何ともなかったため、その事件は誰にも告げぬまま我が心中に伏せる結果となった。


 もう一つが、表題の「カンロ飴」を喉に詰まらせた事件だ。

 こちらは風船ガムのように決して簡単では無かった。

 当時私が暮らしていた祖父母の家は、元々大規模農家の造りで敷地面積がかなり広かった。
 おそらく外の畑近辺で、カンロ飴を食べながら元気に遊んでいた時の事だ。
 口に入れたばかりのカンロ飴が喉に詰まった!!
 既に息が出来なくなっている私であり、誰かに助けを呼ぶとの行為が不能だ。
 咄嗟に考えたのは、水道水を飲むとの事だ!
 家に戻って台所の水道へ行くには遠過ぎる。 そうだ、外のトイレの洗面所へ行こう! 
 息が出来ない苦しさに耐えつつ一目散に私は走った!
 そして水道の水を出して一気に飲んだら、ラッキーにもカンロ飴は我が消化器内にすんなりと入ったようだ。
 命が助かったと思い、私は心より安堵した。
 その後この話は家族の誰にもしていない。 私だけの秘密事項としてずっと心に秘めて来ている。 
 事件から数十年が経過した本日、初めてエッセイとして公開した。


 後で思うに、私は中学生になってブラスバンド部でフルートを担当したのだが。 吹奏楽器とは「ロングトーン(長時間音を伸ばす)能力育成」が肝要だ。
 おそらく私は生まれ持って肺活量が優れていて、そのお蔭で「カンロ飴」事件にも耐えて生き延びられたられたのか、と思ったりもする。😖 😵 



 それは冗談としても。

 とにかく私が小さい頃に育った環境とは、ずっと母親不在を強いられていた。
 私が4歳時点で一家で祖父母の家へ引っ越した後は、共働きの母親が留守の中、主に祖母が幼稚園や学校帰りの世話を担当してくれていた。 よくできた祖母で実に適切な世話をしてくれたのだが。 どうしても祖母とて外せない用件があり外出することもあったことだろう。
 私には姉がいるのだが。 (我がエッセイ集の長期読者の方々はご存じだろうが)何の役にも立たないと言うのか意思の疎通が昔から図れない相手で、いじめを受けたことは多々あれど、一度足りとて優しく接してもらったことが無い。
 それで、私は近所の友達と遊ぶか一人遊びが多い子供だったのだが。

 その習慣がすっかり身についていた頃の、上記「喉にカンロ飴詰まらせ」事件だったものだ。


 ただ、特に「カンロ飴詰まらせ事件」に於いては、その“一人行動・一人思考”習慣が生きたかもしれない。
 咄嗟に誰かに頼ろう、ではなく、自分で生き残ろう!!と必死になったことが我が命を助けたようにも振り返る。
 
 その習性は今尚我が根本理念として脳内・体内に息づいていて、実際我が身を生涯に渡り助けてくれそうにも思う。


ホワイトデーは、ゴディバ・チョコレートリキュールで乾杯! ー vol.2 ー

2022年03月14日 | 恋愛・男女関係
 いやいや、懐かしいなあ。


 昨年の「ホワイトデー」には、この写真にて我がエッセイを書いて公開したようだ。

 その文章を、以下に振り返らせていただこう。


 (冒頭写真は、Amazonにて発注し本日到着したゴディバ・チョコレートリキュール、750ml、15度。)

 ところで昨日の春の雷雨は凄かったですね!
 私が住む東京では昼頃から雷が鳴り始め、夕刻まで大雨と共に雷が轟き続けました。        


  さて、本日がホワイトデーなどと言いつつ。
 今年は娘の勤務先がコロナ禍に合わせてバレンタインデーもホワイトデーも自粛しているため、昨日までは忘却の彼方だったのだが。


 昨日嵐の轟き音をバックで聞きつつ室内でパソコンを覗いていて、表題の「ゴディバ・チョコレートリキュール」に偶然出くわした。
 何分酒好きの私だ。 
 「おっ! ゴディバがこんなリキュールを発売していたんだ! これは必見、必飲だぞ!!」
 最初にゴディバの公式サイトを見たところ、このボトルに“名付け”等のサービスをプラスした商品が1万円近くで販売されていた。
 (私の場合誰かにプレゼントする訳でも無いのに、特別“名付け”は不要だなあ…)

 そうこうして、いつもすっかりお世話になっているAmazonサイトにて当該商品を検索すると。

 ありました、ありました!
 
 しかも、ゴディバ公式サイトの3分の1の価格設定だ!
 更には、明日のホワイトデーに間にように午前中に配達してくれるとのこと!
 (いやはや、Amazonは実に役に立つなあ~~ )😜


 そして本日になり、Amazon配達を心待ちにしていたところ。
 昼前に確実に届きました! 


 我が家の今夜の夕飯メニューは、「あごだし海鮮鍋」なのだが。

 その食前酒として最高じゃないか!?!?



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 実は、ホワイトデーの本日。

 このゴディバ・チョコレートリキュールの残骸を我が家内で発見した。

 要するに、このリキュールは美味しくなかったとの結論に至るだろう。

 特に甘い酒が苦手は私は、これを一口飲んでギブアップだったことを思い出した。

 かと言って、家族の誰も欲する酒では無かったとの結論に至る。

 

 まあ、「ホワイトデー」なる行事を自分に都合よく利用せんとする輩の思惑とは。

 所詮、失敗に至るとの現実ではなかろうか???


私は教員時代 “叱らない先生” と生徒間で名を馳せていた

2022年03月13日 | 人間関係
 本日は久しぶりに、朝日新聞「書評」ページよりエッセイの題材を得ることとする。



 その前に、表題に記した原左都子の私事から話を始めよう。

 基本的に私は短気な性格だが。

 教員時代に生徒を叱ろうとの発想が全く沸かない人種だった。
 周囲の教員を観察していると、これが凄まじい。 来る日も来る日も、生徒たちに罵声を上げて叱り散らす教員が少なくなかったものだ。
 
 おそらく、それこそが自分の職務と根本的に履き違えていたのだろう。


 この現象は、別の場面でも経験している。
 例えば2度目の大学時代に教育実習へ行った先の我が女性指導教師が、開口一番に私に言うには。 「私は生徒を怒れるんですよ! それは簡単です。 教室へ入るなり教卓を生徒名簿でバーーーン!! と思い切り叩きつければいいのです。そうすると生徒はビックリしてビビり、大人しくなります。」
 我が感想だが、(ちょっと、この女教師どうしたと言うの? おそらく“生徒を叱れて一人前、と勘違いしているのだろうなあ。)😨 

 あるいは、ずっと後に高齢域に入った私がプロ女性講師にフルート指導を依頼した際にも、同様の事を経験している。
 プロ講師曰く、「私は生徒を怒れます! 相手が年上の男性生徒とてそれを平気でできます!」
 その後、この講師の指導は半年で取りやめることと相成った。 とにかくフルート指導をするというよりは“ダメ出し”の連続で、一小節とて吹かせてくれずじまいだった故だ。
 (怒ってばかりいないで、とにかく私の下手な演奏を1コーラスだけでも我慢して聞いてよ!)と訴えたかったものだ。
 この講師と早期に縁を切って大正解だっただろう。

 
 話題を、我が高校教師時代に戻そう。

 ある時、教室の生徒の一人が授業中の私に声を掛けてくる。
 「先生、ホントは怒っているでしょ?」
 突然の質問に驚いた私が生徒に問うて曰く、「私が何かに対して怒っているように見える?」
 生徒応えて、「だって、他の先生ならばこんな場面で必ず怒り出すのに、先生も怒らないはずがない。」
 それに同意した他生徒達も、「そうだよ。先生は本当は怒っているんだよ!」
 私応えて、「そう言われても困るけど、特段怒ることは何も無いよ。」
 更に生徒達が言うには、「先生も生徒に腹が立ったら、怒っていいよ。」
 私も更に返して、「ホントに怒らねばならないことなんて何も無いよ。皆いい子ばかりだし、教室に授業に来るのがいつも楽しみだよ。」

 そんな私は、確かに学校一の人気教師だった。
 卒業式の最後に卒業生を送り出す場面では、いつも卒業生の多くが私のところへ一目散にやってきて、皆で泣きながら抱き合って別れを惜しんだものだ。



 さて、話題を朝日新聞「書評」に戻そう。

 本日紹介するのは、村中直人著「<叱る依存>がとまらない」に対する朝日新聞論説委員・行方史郎氏による書評「誰かを罰し脳は心地よくなる」だ。
 以下に、一部を要約引用しよう。

 執拗に𠮟責を繰り返す上司がいたとする。 先輩やコーチ、先生、親でもよい。 (中略)
 脳はだれかを罰することで心地よくなり、充足感が得られる。結果としてだれかを叱れずにいられない状態に陥る。まだ仮説の域は出ていないようだが、一言で言えば、これが本書の根底にある考え方である。
 著者が定義する「叱る」とは、言葉によって「ネガティブな感情体験を与えること」であり、その前提条件として、権力ある人が無い人におこなう「非対称性」を挙げる。
 その言葉は強い調子である必要は無く、丁寧な口調で不安や恐怖を感じさせることはいくらでも可能だ。
 「権力」の方も、自分で勝手に思い込んでいる場合を含めれば、広範な捉え方が出来る。社会問題にもなっている、わずかなことで店員を𠮟りつける客の存在も本書で説明できそうだ。
 それでも「叱らないと伝わらない」「忍耐力が身につく」と思うかもしれない。 だが、理不尽な我慢を強いて身につくのは無力感やあきらめの方だ。 被害者が加害者からなかなか離れなられなくなる「トラウマティックボンディング」という現象にも合点が行った。
 「処罰感情の充足」が社会制度に組み込まれるともっとやっかいだ。 むろん犯罪の被害者が抱く自然な処罰感情は尊重されるべきだが、本書が事例として挙げているように、社会が厳罰化に傾けば構成や再犯防止という目的を損ないかねない。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 最後に、私見でまとめよう。

 冒頭に記した、我が教員時代の教室での「先生は何故怒らないの?」事件など。
 “権力ある人(教員)が無い人(生徒)におこなう「非対称性」”に基づき、生徒側の感情が表出したものであろう。

 それにしても上記書評内にある、「脳はだれかを罰することで心地よくなり充足感が得られる。 結果としてだれかを叱れずにいられない状態に陥る。」
 まだ仮説の域は出ていないとの記述だが、実に空恐ろしい論評だ。

 しかもそれが人々が暮らす社会内の制度に組み込まれると、もっとやっかいである事に間違いない。

 それを阻止するのは、やはり如何なる社会的地位にあれども、人が人としての正常な感性を保ち続けることでしか無いのではあるまいか?
 特に学校等の教師・生徒間との上下関係がまかり通っている組織に於いて、そんな“勘違い”が起こってしまうのかもしれないが。

 如何なる環境下にあれども人が人としての感性を失わない限り、そんな“勘違い”を阻止できるものと、私は信じたい。