OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾五

2020-09-08 18:11:49 | Beatles

ビートルズは歴史なので、今でこそ様々な資料が掘り起こされ、当時の一連の流れを眺める事が可能です。

しかし当時は、殊更日本では、そ~ゆ~情報に時間差があり、ポールの脱退&解散騒動は、一般紙でも報道されましたが、その頃のサイケおやじに分かっていたのは、ビートルズのメンバー同士の仲が悪くなっている程度の認識でした。

しかし……、映画「レット・イット・ビー」を観てしまった後になると、それは納得するしかない部分が確かにあったのです。

さらに、それよりも驚いたのは、新作アルバム「レット・イット・ビー」の評判が、特に評論家の先生方の間で、全く良くない事でありました。

それはもちろん当時、その製作に関するゴタゴタ諸々について、こちらが知らなかった所為もあるんですが、中でも個人的には気に入っていた「The Long And Winding Road」にポールが異を唱え、一部の音楽マスコミがボロクソに書いていた事は、ど~しても理解出来ませんでした。

それでも…… 暫くして、大きな要因はプロデューサーのフィル・スペクターが元々の素材を大改造してしまった所為と知れるのですが、その問題の「The Long And Winding Road」における、ポールに無断(?)で勝手にダビングされた大仰なストリングスパートのアレンジが、実はサイケおやじは大好きで、それが高じて、ついにはビートルズの曲をストリングスで演奏しているアルバムまで買ってしまったという、いやはなんともの告白をせねばなりません。

ですから、今でもフィル・スペクターは悪い事はしていないと信じているのですが、ただ確かに、アルバム「レット・イット・ビー」には、何とも言えない違和感がありました。

結論から言うとそれは、このアルバムは「ロックの音」がしていないっ!

と、いう事です。

もちろん、この結論は後付でサイケおやじが捻り出したものですが、最初に気が付いたのは、この作品の前に発表されたアルバム「アビー・ロード」との音の差異でした。

「アビー・ロード」には、何故あれほどまでの聴覚的快感があるのか?

それは曲が良い、曲の配列が良い、構成の妙がある等々の要因に加えて、音が見事にロックしていたからだと、サイケおやじは考えます。

そして、今にして想えば、それは「1970年代ロックの音」を先取りしていたと思うのです。

対して「レット・イット・ビー」はどうでしょう。

確かに膨らみと温かみのある音でした。しかし、そこからロックのエネルギーが感じられるでしょうか? あの細密に創りあげられた「サージェント・ペパーズ」でさえ、強烈なロックのエネルギーを放っていたというのに……。

もし……、フィル・スペクターが間違いを犯したとされるなら、サイケおやじは、この点だと思っています。

其の拾参」でも少し触れた様に、フィル・スペクターのプロデュースの最大の特徴は厚みのある音作りです。それは演奏者の大量動員、例えばギターやピアノや打楽器等々のプレイヤーを複数集めて、一斉に演奏させる事や、出来上がったカラオケや録音したボーカルに過剰なエコーを施して生み出されるものですが、ひとつハズしてしまうと、本来迫力があるはずであった音がモコモコになってしまう、つまりエッジの無い音になってしまうのではないか? 

と、思います。

その原因は、当時のレコード盤の状況にあり、フィル・スペクターが敢て、そういう手法で生み出した作品が最高の迫力で味わえるのが、モノラルの45回転シングル盤の世界でした。

特にフィル・スペクターが活動のベースにしていたアメリカでは、シングル盤のカッティング・レベルがとても高く、それは出力レベルの低い小さなレコード・プレイヤーやジューク・ボックスで使用されたり、あるいはAMラジオで放送されたりする事を前提にしたものでした。

ですから、それを基準にして作っていた所謂スペクター・サウンドは、当然33回転LPにも収録して当時から出回っていましたが、やはり回転スピードが遅いためにシングル盤と同じ迫力が再現出来ていませんでしたし、もちろんステレオ・バージョンも作られ、LPでは聴けましたが、矢鱈エコーばかりが強くて、これもダメ!?

以下はサイケおやじの完全なる独断と偏見です。

フィル・スペクターが全盛期に作り出していた楽曲の多くは、甘く切ないドリーミーな世界です。そういうものでは温かみがあり、膨らみがある音が合っていたからこそ、数多のヒットが生まれたのです。

ところがビートルズの出現により、彼の作り出していた音は時代遅れになりました。

それが何故かと言えば、ビートルズは所謂アメリカンポップス以前のアメリカの音、つまりチャック・ベリーやリトル・リチャード、そして初期エルビス・プレスリー等の粗野な音を持っていたからです。それがロックの音でした。さらにビートルズが新鮮だったのは、そうした音で、アメリカンポップスの香りが感じられる楽曲を歌い、演奏していた事でした。

もちろん、そこに自然な英国風の味付けが施されていたのは言うまでもありません。

ただし、これは彼等の勘違いから生まれたものだ、とサイケおやじは思っています。

それはビートルズが生まれ育ったイギリスのリバプールが、田舎であるにもかかわらず港町という事で、アメリカの流行歌のレコードが入荷し易く、多くの若者がロックンロールの洗礼を受けていた事と平行して、当時最新流行の音楽にも逸早く接する事が出来たという下地があったのですが、やはり情報不足は否めず、おそらく彼等は本格的にバンド活動を始めた60年代初期において、本場アメリカではロックンロールもアメリカンポップスも同時に流行っていると思っていたのではないでしょうか? 

そして、その両者を上手く交ぜ合わせれば、素晴らしい音楽になるに違いない!?

アメリカでも成功するに違いないっ!

と、ある種の勘違いをしていたのでは……。

ところがリアルタイムのアメリカにおける芸能界の実情は、エルビス・プレスリーが兵役に取られていた事を筆頭に、チャック・ベリーはある事件でリタイア中、バディ・ホリーは飛行機事故で他界する等々、50年代に熱狂をまきおこしていたロックンロールは下火になり、代わって職業作家によって作られた楽曲を歌うアイドルの全盛時代になっていました。

で、その職業作家達、例えばその代表がバリー・マンやキャロル・キング、ニール・セダカ等で、フィル・スペクターも、その中に入っていたのですが、そ~ゆ~ソングライター達はロックンロールの8ビートに、それまでの主流だったジャズ系ポピュラーソングのコード進行に基づいたメロディーを乗せた楽曲を量産しておりました。

ただしそれは、ほとんどが白人ティーンエイジャーに向けたものですから、ロックンロールの毒気はシュガー・コーティングされた世界になっていました。

つまり、一番肝心の部分である、リズム的興奮が抜け落ちていたのです。

そこへ、ビートルズの出現です。

ビートルズの音楽は、その容姿共々に大人達からは顰蹙物でしたが、何故アメリカで受け入れられたかと言えば、黒人的でありながら黒人的ではなかったからだと思います。

その点は黒人的感覚で歌う白人歌手というエルビス・プレスリーのデビュー時もそうでしたし、また当時、ビートルズに唯一対抗出来たアメリカ産流行歌である黒人ポップスのモータウン・サウンドは、スペクター・サウンドの黒人的展開でした。

突き詰めれば、ここでサイケおやじが言及する「黒人的」とは、ビートを強調した強いリズム感覚、「黒人的では無い」とはジャズ系ポピュラーソングにおけるユダヤ人的感覚、あるいは北イギリス的感覚という白人的なメロディの導入です。

そして、この時点で「ロックンロール」は、今に続く「ロック」に変化したのだと、サイケおやじは妄想してしまうのですが、いかがなものでしょう。

結果として、フィル・スペクターは、その「ロックの音」に気がついていなかったと言うよりも、それでも頑なに自己の音世界に拘ったのではなかろうかと思います。このあたりは、スペクター的中華思想というか、彼の天才性の証明かもしれません。

そこで「レット・イット・ビー」ですが、「スペクターの音」は「Two Of Us」や「Across The Universe」、あるいは賛否両論あるにしろ「The Long And Winding Road」といった柔らさが持ち味の曲では、とても良く合っていると思います。

しかしながら、「One After 909」等々の屋上ライブで演奏された楽曲では、必ずしもそうではありません。

ここでは一応、既発曲であった「Get Back」が「スペクターの音」で収録されておりますが、それにしても、その味は薄めになっておりますし、より黒っぽい「Don't Let Me Down 」がアルバム「レット・イット・ビー」に入れられなかったのも、シングルB面はLPには収録しないという慣例に従った事ばかりでは無いと思うばかりです。

以上、サイケおやじが独断と偏見で思うところは申し述べました。

もちろん皆様からの、お叱りは覚悟しております。

ということで、アルバム「レット・イット・ビー」は「ロックの音」がしないという物足りなさを決定的に証明したかの様な事件が、1970年末に発生するのでした。

注:本稿は、2003年10月13日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾四

2020-09-07 17:56:33 | Beatles

記録によれば1970年4月2日、フィル・スペクターはジョンとジョージから託されたマスター・テープの編集作業を完了させています。

映画も完成し、「レット・イット・ビー」と題され、5月の公開を待つばかり!

また、それに伴って製作されていた写真集も出来上がり、これはアルバムの初回盤に付けられる事になります。

こ~して事実上ビートルズ最後のオリジナルアルバムとなった「レット・イット・ビー」の発売準備は着々と進められていたのですが、ここに大きな問題が発生していました。

それは発売時期の事で、計画では映画の公開に合わせるために5月8日を予定していたものの、それは密かに製作が進められていたポールのソロアルバム「マッカートニー」の発売とのバッティングが懸念されていたのです。

つまり、ここで……、またしてもポールとアレン・クラインは対立し、彼はポールに発売の延期を申し入れますが、もちろんそれは却下!

ただし、ポールもお互いの利益を考えて、自分の作品は、その3週間前に発売するという妥協案を提出し、EMI及びアップル側と合意します。

しかし彼は、ビートルズとしての新アルバム「レット・イット・ビー」の出来には満足しておらず、その製作を巡ってグループ内の人間関係も益々悪化していた事から、ついに強烈な対抗策を出してしまいます。

その発端は、4月10日付けのイギリスの大衆紙「デイリー・ミラー」に掲載された、ポールのビートルズ脱退という大ニュースでした。

記事の真相は、ポールがソロアルバム「マッカートニー」のために作った宣材に含まれていたアンケート記事で、これは発売時の記者会見を嫌ったポールが宣伝部と協力し、Q&A形式で作ったものでした。その中でポールは「ビートルズの行方は分からないが、ジョンとの共作活動は今後は無い」と述べているだけなのですが……。

つまり、ビートルズからの脱退、あるいはビートルズの解散については、一言も述べていないのです。

しかし、それでもこれはマスコミにとっては「待ってました」の発言でしたから、翌日には世界中の報道機関がビートルズの解散を報じました。

もちろん、こ~なると、もう歯止めは効きません。

ジョージ・マーティンやグリン・ジョンズからはフィル・スペクターに対する不満が表明され、他の関係者からの発言も有る事・無い事を織り交ぜながらの憶測記事にされてしまうのです。

そして、一連の騒動の最中だった5月8日、アルバム「レット・イット・ビー」がイギリスで発売され、気になる制作クレジットにはプロデューサーとしてフィル・スペクター、録音責任者がグリン・ジョンズ、さらにキーボード奏者にはビリー・プレストンの名前が記載されているのは当然が必然!?

収録されていたのは、次の12曲でした。


A-1 Two Of Us
 「私はピグミーを偏愛する」等々というジョンのお喋りに続いてスタートするフォーク・ロック調の曲で、ポールが歌い、ジョンがハーモニーを付けています。映画の中でもいくつかのバージョンが登場していて、ポールとジョージの喧嘩の原因になった事でも有名になりました。
 ここでは映画の中でも完成形として演奏されていた、1969年1月31日のバージョンを基本に使っています。
 メロディも良いし、生ギターと最後の口笛が印象的♪ ほのぼのとした雰囲気が、個人的には大好きです。

A-2 Dig A Pony
 映画のクライマックスとなった、1969年1月30日の屋上での演奏場面と同じ音源を使用しています。
 ただし、ここに収められたバージョンは、編集によってポールが歌う「All I Want ~」という最初と最後のフレーズがカットされている様です。

A-3 Across The Universe
 この曲に関しては「其の拾壱」でも触れたとおり、複雑なものがあります。
 まず、オリジナルの録音は1968年の2月初旬に行われましたが、その時は作者のジョンが仕上がりに納得せずにお蔵入り……。それが初めて世に出たのは、1969年12月に発売された世界野生動物保護基金のためのチャリティ・アルバム「No One's Gonna Change Our World」に収録された時でした。
 もちろん、そのバージョンはジョージ・マーティンがプロデュースしたものですから、ここに収録されたフィル・スペクターがプロデュースしたバージョンとは、もちろん違います。
 決定的な違いは演奏のスピードで、ジョージ・マーティン版は通常よりもテープの回転速度が速く、逆にフィル・スペクター版は遅いと思われます。
 これは後年登場する「アンソロジー2」に収録された同曲の自然な雰囲気と比較すると、尚更に明らかです。
 その他にも違いは細かい部分まで沢山あり、様々に楽しんで(?)聴ける楽曲だと思いますが、個人的には、ここに収録されたフィル・スペクター版が一番好きです。大改造によって加えられたオーケストラ&コーラスで作られた音の壁、そして気だるいジョンのボーカルが、ソフト&サイケな曲調や歌詞の内容に合っているんじゃ~ないでしょうか。

A-4 I Me Mine
 「其の拾壱」で述べた様な事情から、1970年1月3日に急遽録音されたジョージの曲です。
 後に「アンソロジー3」で聴く事が出来た様に、本来は短い作品でしたが、それをフィル・スペクターが強引に引き伸ばし、オーケストラを重ねて仕上げました。
 しかし……、サイケおやじとしては、そんな事をするよりは、映画の中でワルツを踊る場面に使われていた、演奏だけの部分を活かして欲しかったのですが……。

A-5 Dig It
 1分に満たない短い曲ですが、これは1969年1月26日に録音され、本来は12分以上あったセッションからの抜粋です。映画の中では全員楽しそうなノリを見せてくれましたが、その中核はビリー・プレストンでした。
 このアルバムではジョンのお喋りが継ぎ足され、繋ぎの場面設定という雰囲気ですが、これこそ全長版を出して欲しいと強く希望しています。

A-6 Let It Be
 先行シングルとして発売された大ヒット曲ですが、ここには別バージョンが収録されました。
 それはプロデューサーが違うので当たり前なのですが、両者共に1969年1月31日に録音したものを基本にしております。
 一番の違いは間奏のギター、それとシングル・バージョンはコーラスが大きく、こちらはブラスが大きいという点でしょうか、その他にも細かい部分はキリが無いほどです。
 例えばポールのピアノがミスっている部分はシングル盤の方が、はっきりと分かります。
 ちなみに、ここでのブラスセクションはシングル・バージョンと同じく、ジョージ・マーティンのアレンジによるトラックを、そのまんま使っていると思われます。

A-7 Maggie Mae
 リバプールに伝わる俗謡で、サイケやじには良く聴き取れませんが、売春婦の事を歌った内容らしいです。まあ、そう思って聴くと彼等の歌い方が下品に思えますが、それにしても前曲の厳かな雰囲気を一発で消し去ってしまうこの曲順は!?!
 この曲は、1969年1月24日に録音されたと云われていますが、若き日のビートルズ=クォリーメンは、ステージでも演奏していたらしいです。

B-01 I've Got A Felling
 1969年1月30日の屋上での演奏で、映画に使われたテイクと同じ音源を使用しています。
 詳しくは「其の四」を参照にして下さい。

B-2 One After 909
 これも1969年1月30日の屋上での演奏、映画と同じ音源を使用しています。

B-03 The Long And Winding Road
 ポールが作った名曲で、映画の中ではシンプルな演奏だったものが、ここではフィル・スペクターの手により、たっぷりとオーケストラ&コーラスがダビングされ、それがポールを激怒させたというのが定説ながら、しかし、この曲は当時、アルバムの中では一番人気だったと記憶しております。
 それ故、アメリカや日本等では独自にシングル盤として発売され大ヒット! やはり臭みギリギリのオーケストラ&コーラスによるところが大きかったと思います。
 実は、このアレンジを担当したリチャード・アンソニー・ヒューソンは、例えばメリー・ホプキンの「Goodbye」のアレンジもやっていたほどですから、本来はポール側の人物だと思うんですが、そ~ゆ~ところも、歴史と人生の機微なんでしょうねぇ~~、この世は、なかなかに難しいものです。
 そして映画で接したバージョンは、リアルタイムでは何となく物足りない感じがしました。
 ちなみに件の映画バージョンは、1969年1月31日の録音でしたが、このアルバムに収録されたのは、1969年1月26日の録音を土台にして大改装を施したもので、ダビングの無いバージョンは「アンソロジー3」に収録されております。

B-4 For You Blue
 ジョージの自作自演曲で、本来のタイトルは「George's Blues」、何とも言えない楽しさがあります。
 バックでは、ジョンのスライドギターやポールのピアノが聴かれ、映画でも良い雰囲気で演奏されていましたですねぇ~~♪ サイケおやじは、この歌と演奏も大好きです♪♪~♪
 ちょいと疑問も感じますが、ここに収録されたのは、基本的には1969年1月25日録音のテイクが使われているらしいです。

B-5 Get Back
 すでにシングル盤として発表され大ヒットしている曲ですが、ここに収録されたバージョンは、それとは全く別物になっております。
 両方とも、基本的には1969年1月27日に録られた音源をベースにしてはいるものの、一番大きな違いは、まずイントロで、ここでは曲の前にお喋りやチューニングの雰囲気が入っております。
 また、終わり方もシングル・バージョンではブレイクの後に1969年1月28日に録られた音源からの抜粋を継ぎ足してフェードアウトしていますが、ここでは演奏終了後に映画で使われた1969年1月30日の屋上での演奏の最後の名台詞、つまりジョンの「オーディションに受かりたい」等々のお喋りを継ぎ足してあり、この雰囲気はやはり「最期」に相応しい様な気がして、好きです。


以上の楽曲が収録されたこのアルバムは、ビートルズ解散騒動もあって、爆発的に売れました。

アメリカではレコード予約枚数が新記録となり、値段が高い写真集付きの初回盤さえ忽ち売切れ状態!

この状況等々を今日鑑みれば、ポールの前述の発言は絶妙のプロモーションだったという気さえします。

ただし、同時にポールはフィル・スペクターのプロデュース、殊更「The Long And Winding Road」に対するオーケストラ等の処理には一貫して異を唱えており、それは後に争われるビートルズの法的な提携関係の解消に関する裁判でも持ち出されることになります。

しかし実は皮肉な事に、フィル・スペクターによる問題(?)の大改造が行われていた同時期に、ポールは同じ建物内にある別なスタジオで、ソロアルバム「マッカートニー」の仕上げ作業をやっていたのです。

ポールは、アルバム「レット・イット・ビー」の内容について、発売されてから初めて聴いたと主張しておりますが、だとしたら……、正に「運命のいたずら」と言うべきなのでしょうか……。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年10月2日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾参

2020-09-06 16:06:37 | Beatles

1970年3月の発売から忽ち世界中で大ヒットした「Let It be」により、なんとなく既定事実と思われていたビートルズの解散は???

そうした動きの中で、宙に浮いていた1969年1月のセッション・テープが、フィル・スペクターというプロデューサーに編集が依頼されたというニュースが流れます。

フィル・スペクター?

高名なプロデューサーというが、それは誰?

なぁ~んていうのが、当時のサイケおやじの偽りの無い感想でした。

今でこそ、それなりに彼の名前は良く知られておりますが、その頃の日本では、どのくらいの人が彼を認識していたのでしょうか?

そもそも「プロデューサー」という職業(?)の役割や仕事内容が、サイケおやじには理解出来ていませんでしたし、そんなふうに思っていたファンだって、おそらくは世界中に大勢存在していたのではないでしょうか?

後に知った事ではありますが、確かにフィル・スペクターは、その時点までに素晴らしい実績を残していましたが、実際問題として、1970年には忘れられたとは言わないまでも、影が薄くなっていた存在ではなかったでしょうか……?

少なくとも、サイケおやじの世代の音楽ファンは、ビートルズと関わった事でフィル・スペクターというプロデューサーを知ったのではないでしょうか?

と、いきなり冒頭から「?」マークの連発になってしまいましたが、その辺りの事情からでしょう、当時のラジオの深夜放送では、フィル・スペクターの特集とかもやっていました。

そして、そこで流された曲は、何とっ!?

これまでに聴いた事のある歌が沢山あったんですねぇ~~!?!

尤も、それは弘田三枝子が歌っていた「ビー・マイ・ベイビー」とかの世界でしたが、しかし、そういった楽曲をオリジナルで沢山聴ける様になったのは、やはりビートルズのおかげかもしれません。

また、もうひとつ、サイケおやじがフィル・スペクターに興味を惹かれたのは、初期のローリング・ストーンズに関わっていたっ!? という逸話を前述したラジオの特集番組で知った事も大きく、もちろん当時の事ですから、それが何時頃、どんなレコード制作に携わっていたのか等々の情報なんて、そんなに易々とは知る事が出来ません。

そこで例によって凝り性の悪いムシが出たというか、サイケおやじは洋楽愛好者の先輩諸氏や洋楽雑誌等々を頼りに、フィル・スペクターについての諸々を探索し始めたのが、この時期だったのです。

そうです、繰り返しになりますが、ビートルズとフィル・スペクターの邂逅が報じられた1970年春、サイケおやじはフィル・スペクターついては何も知らないのと同じで、如何に述べる事は、今日までに独り善がりで調べ上げ、後追いでレコードを聴き進めていた末の偏った内容ですので、そのあたりは皆様にご容赦願いたいところです。

 

フィル・スペクター:Phil Spector
 ニューヨーク生まれのユダヤ人で、ロス育ち!?
 少年時代にロックン・ロールの洗礼を受け、やがて自分でバンド活動を始めますが、その頃から既に様々な録音方法に興味があったと云われています。
 やがて17歳の時、自主制作ながらシングル盤を出すんですが、そのB面に収められていた「逢ったとたんに一目惚れ / To Know Him Is To Love Him」がラジオ局のDJの目にとまった事から、1957年に全米チャート第1位の大ヒット! この曲はテディ・ベアーズ名義で、黒人ボーカルグループの影響を強く受けたスローテンポの白人ポップスですが、そのバックの演奏にはエコーが大きくかかり、ダビングを繰返して録音された事から、音は劣悪になっていました。しかし切々とした乙女の心を聞かせるアネット・クレインバードの可憐な歌声とのミスマッチ感覚が、独特の世界を築いており、この魅力は現在でも不滅と思うばかり♪
 そして、この大ヒットを足がかりにして彼は音楽業界に入り、紆余曲折はあったものの、当時の有名プロデューサーであったレスター・シルに弟子入りして研鑽を積み、さらに彼の推薦を受けて今度はニューヨークの音楽業界で裏方として働きながら人脈を作り、少しずつ現場での製作に携わっていきます。
 こ~して1961年、ロスに舞い戻ったフィル・スペクターは、レスター・シルと共同で「フィレス」というレーベルを立ち上げ、1960年代半ばまで、数多くのヒット曲を世に送り出していきますが、その特徴は所謂「ウォール・オブ・サウンド=音の壁」と呼ばれる音作りでした。
 もちろんこれは、前述した「逢ったとたんに一目惚れ / To Know Him Is To Love Him」で聞かれたサウンドを発展させ、完成形にしたものです。
 今日復刻されているそれらの音源を聴くと、エコーが強くて何だかモヤモヤした感じにしか聴こえませんが、当時は最高に迫力があるものとして玄人筋にも人気があり、後に大スターとなるビーチ・ボーイズやビートルズ等々、世界中に信奉者が出現してきます。
 しかし皮肉な事に、フィル・スペクターの全盛期はビートルズの登場によって終焉を迎えます。

 

で、そのフィル・スペクターが、どういう経緯でビートルズの「レット・イット・ビー」をプロデュースする事になったのかは、良く分かりません。

ただ……、1964年初頭にビートルズがアメリカへ行った際の飛行機の中で、彼等とフィル・スペクターが一緒に写っている写真が残されており、また当時から彼はビートルズと仕事をしたがっていたという事実もある様ですが、その後の彼は事実上、1967年頃から引退状態になります。

しかし、1969年には一時的にカムバックし、またイギリスでは人気が継続していたという事に加えて、ビートルズの経理担当であるアレン・クラインがフィル・スペクターと繋がりがあった事も関連しているのかも知れません。

記録によれば、フィル・スペクターがビートルズ関係の録音に初めて携わったのは、1970年1月末に行われたジョンの3枚目のシングル盤A面曲「Instant Karma!」のプロデュースで、それはジョージの推薦だったと言われております。

今となっては良く知られているとおり、その頃のジョージはアメリカの南部系音楽、所謂スワンプロックに傾倒しており、その周辺で活動していたドラマーのジム・ゴードンは、フィル・スペクターが1960年代にプロデュースしたセッションの常連スタッフだった事からの繋がりも無視出来ないところです。

この辺りの複雑な人脈と群像劇は壮大な美しき流れになりますので、追々に取上げたいのですが……。

それはそれとして、その仕事に深い感銘を受けたジョンとジョージが例のマスター・テープのプロデュースを彼に依頼したというのが、現在の歴史です。

その作業は、1970年3月23日~4月2日の間に行われ、ついにアルバム「レット・イット・ビー」は完成するのですが、その現場にはジョージと何故かアレン・クラインだけが立ち会っていたそうです。

つまり現場の責任者としては、ジョージ・マーティンもグリン・ジョンズも外されていたわけで、そのあたりが後々までも確執を生み出す要因になっていきます。

ちなみに、「プロデュース」という仕事について、サイケおやじの知り得るところでは、まずレコード制作の実際の現場、つまり録音やミックスダウン等々の仕切りは言うに及ばず、スタジオやバックミュージシャンの手配、収録楽曲の選定や編曲に携わるスタッフ集め、さらにはレコードジャケットのデザインや仕様の決定にまで強いリーダーシップが求められる激務であり、その後のプロモーションや販売実務さえも責任の範疇だというのですから、業界の内外に幅広い人脈を持っている人物でなければ、到底やれる職業ではないと思いますねぇ~~。

似た様な職種に「ディレクター」と呼ばれる担当者がレコーディングの現場に携わっている場合も、殊更我が国では多いんですが、「ディレクター」は、あくまでも現場監督の立場であって、宣伝や販売には、それほどタッチしていないと思われますが、いかがなものでしょう。

ということで、「レット・イット・ビー」の成立に大きな役割を果たしたフィル・スペクターの登場は、現在に至るも、賛否両論が尽きる事はありません。

何故ならば、次に発生する最終的な大事件に強く関与していたのですから……。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年10月1日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾弐

2020-09-05 16:10:25 | Beatles

1970年初頭、ビートルズは完全にバラバラになっていました。

ジョンは前年からプラスティック・オノ・バンドと名乗る自己のバンドでの活動を本格化させていましたし、ポールは密かにソロアルバムを録音中、ジョージはジョンや他のミュージシャンとのセッション活動、さらにリンゴは映画出演とソロアルバムの録音といった具合です。

そ~した各々諸々の行動は、私生活も含めて、その頃の洋楽系ラジオ番組や音楽雑誌で日本でも頻繁に報道され、つまりはビートルズの解散を自然な流れとして我々ファンは受け入れるしかない……。

そんな雰囲気が強く漂っていたのは当時をオンタイムで過ごされた皆様であれば、ご理解いただけるものと思います。

ところが、そんな最悪の時期だった1970年2月、突如として驚愕の朗報が世界中にっ!

もちろん、それこそが待望久しいビートルズの新曲発売のニュースであり、今度こそっ!

という大きな期待の中、イギリスでは3月6日に「Let It Be / You Know My Name」のシングル盤が発売されます。

これは海外では珍しいピクチャー・スリーブ、つまりアルバムの様にデザインされた袋に入れられて販売されましたが、そこで使われた写真は、後に発売されるLP「レット・イット・ビー」と同じ雰囲気の、黒枠にメンバーが単独で写っているカットが使われ、今にして思っても、当時のビートルズの状況を如実に表しておりました。

ちなみに当時の海外のシングル盤は、発売会社の名前等がデザインされた紙の袋に入れられて販売されるのが普通でした。その紙の袋の真ん中にレコードのレーベルと同じ大きさの丸い穴があって、そこからレコードを識別していたのです。

閑話休題。

で、肝心の中身の「Let It Be」はジョージ・マーティンが仕上げたステレオミックスでしたが、何故か3月25日に発売された日本盤は、ジャケットにステレオ表記があるにもかかわらず、モノラルミックスでした。

本日掲載したのが、その現物です。

これは長い間、ビートルズ関連ミステリの命題になっておりましたが、実は当時、日本へのマスター・テープ・コピーの到着が遅れたために、会社側が英国オリジナルのシングル盤から独自にマスター・テープを起こし、ノイズが目立たない様にモノラル処理をしたのではないか?

という推測が、近年定着しております。

そのために、日本盤のジャケットのステレオ表記が、セカンド・プレスからは消されていきますが、本物のステレオミックスのシングル盤が日本で発売されたのは、なんとっ!

1977年頃からでしたっ!?!

う~ん、結局……、こ~なってしまったのも、発売を急ぐあまりの事で、つまりはビートルズの周辺が、それだけキナ臭くなっていた事の表れだったと思います。

ちなみにイギリス盤もアメリカ盤も、共ににジャケットにはステレオの表記が最初からありませんし、もちろんアメリカ盤だって、最初っから堂々のステレオミックスです。

一方、B面収録の「You Know My Name」はジョンが作った曲で1967年に録音され、その後の紆余曲折、様々に手を加えて、ようやくここに発表された問題曲(?)で、当時はジョンがプラスティック・オノ・バンド名義でリリースを目論んでいたのですが、ポールのボーカルが大きく出ている部分があるために、最終的にビートルズ名義になったものと思われます。

ただし、楽曲そのものは、お経みたいで、個人的には好みではありません。

また、当初のオリジナル完成版とされる音源は現在「アンソロジー2」で聴けますが、ここで最初に世に出た時は、その短縮版!

しかも世界共通のモノラルミックスになっておりました。

ということで、もちろん新曲「Let It Be」は忽ち世界中で爆発的な大ヒット!

当然ながら、プロデュースは両面収録2曲共、ジョージ・マーティンが担当していたんですが、リアルタイムじゃ~全く気にもならなかったそんな事実こそが、今となっては歴史の中の重要ポイントでありました。

しかし、サイケおやじは、知らぬが仏!?

うむ、やっぱりビートルズは凄いなぁ~~♪

なぁ~んて、ただただ、素敵な歌と演奏に酔い痴れていたんですねぇ~~♪

印象的なイントロのピアノ演奏をコピーして学校なんかで弾けたりするのが、それこそ人気者の条件だったのが、その頃のサイケおやじ周辺の認識でもありました。

ということで、ようやく「レット・イット・ビー」は、形あるものとしてファンの前に姿を現し始めました。

しかし、次なる展開こそが、さらなる大問題に繋がるのです。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年10月1日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾壱

2020-09-04 16:28:09 | Beatles

後に「レット・イット・ビー」と呼ばれる映画とアルバムについて、ある程度のメドがついたのは1969年の秋の終わり頃だったと思われます。

まず、映像は映画として劇場公開し、すでに新鮮味が無くなっていた「ゲット・バック」のタイトルは放棄、新たなタイトルが模索されますが、それが次の新曲候補になっていた「レット・イット・ビー」になるのは、皆様ご存知のとおりです。

新アルバムのタイトルが「其の九」で既に述べた様に「Let It Be and 10 other songs」となり、ジャケットの試し刷りが様々に行われたのも、この時期かもしれません。

そして映像フィルムの編集は急ピッチで進められ、付属する写真集も完成し、アルバムの仕上げは再びグリン・ジョンズに依頼されますが、ここで問題になったのが、映像では演じられている曲が、その音源テープには完成形で存在していなかった事でした。

それがジョージ作曲の「I Me Mine」で、映画の中では彼が前の晩に作ったこの曲を、リンゴにギターだけで聞かせたりする良い場面があったので棄て難く、そこで結局、新たにスタジオでレコーディングする事になりました。

で、このセッションは1970年1月3日に行われ、プロデュースはジョージ・マーティンでしたが、ジョンは参加しておりませんし、当然の如く各種の追加ダビングが行われ、ここに「生演奏&一発録り」というセッション開始当初の決め事は破られてしまうのですが、実は……、そのセッションを事実上仕切っていたグリン・ジョンズも、前年4月に行ったマスター・テープの仕上げの段階で僅かながら音の差し替えやダビングを行っていた事が、後に明らかにされる記録で残っております。

また、翌日には新しいシングル曲として発売が決まった「Let It Be」のマスター・テープ製作が、これもジョージ・マーティンのプロデュースで行われ、ここでもギターやブラス、コーラス等がダビングがされました。

もちろん、こ~ゆ~動きは明らかに映画公開を優先したものであり、結果として、どんな約束も、一度反故にされてしまえば歯止めが効かなくなるという、現実の表れでした。

しかし、グリン・ジョンズはそれでも頑なに、これまでの方針を貫き通そうとしていました。

これまでも度々触れていますが、とにかく長大でダラダラしたセッションが記録されている音源ソースから、なんとか使えるパートを抽出し、例えば「其の七」に掲載した様な楽曲トラックに仕上げた彼の功績は無視されるべきではありません。

そして「其の八」で書いた様に、その中から新作アルバムの候補曲をLP1枚分に組み上げたアセテート盤までメンバーに提出していたのです。もちろん随時、楽曲単位でシングル形態のアセテート盤も作られていた事も、今日までの研究で解明されてしまえば、ここに至って、再びグリン・ジョンズを頼りたくなる制作サイドの目論見も一概に否定は出来ないと思うんですが……。

それはそれとして、あらためてグリン・ジョンズ版「ゲット・バック」、あるいは「レット・イット・ビー」を残されているブートから検証すれば、大きく分けて以下の3種類になる様で、まず有名なのが所謂「version-1」と称される、下記のソングリストによるアルバム構成です。

  A-1 One After 909
  A-2 Rocker
  A-3 Save The Last Dance For Me
  A-4 Don't Let Me Down
  A-5 Dig A Pony
  A-6 I've Got A Felling
  A-7 Get Back
  B-1 For You Blue
  B-2 Teddy Boy
  B-3 Two Of Us
  B-4 Maggie Mae
  B-5 Dig It
  B-6 Let It Be
  B-7 The Long And Winding Road
  B-8 Get Back(reprise)

これは何度もメンバーからダメ出しされながら、それでも1969年5月に一応は承諾されたらしい完成形で、「其の九」で触れた新作アルバムの予告紹介にあった収録曲目とも符合するところが多い事から信憑性が高く、後年はブートで「ゲット・バック」と云えば、これっ!

という決定版になっていた時期もあったほどです。

しかし、この「version-1」には実質的に2種類のミックスが存在しており、何れもステレオミックスを基本としながらも、トラック毎にボーカルや楽器の定位が左右で逆になっていたり、曲間に挟まれているメンバーの会話やチューニングの様子が異なっていたり、細かく検証するほどに、何故?

そこまで変えねばならなかったのか、サイケおやじには、グリン・ジョンズの意図が良く分からないところが多々有ります……。

例えばド頭「One After 909」では、真ん中にドラムスとベースが聴こえる定位は不変ながら、ジョンとポールのボーカルが左右逆転しているのですが、両方のミックスを聴き比べても、それほど印象が違うわけじゃ~ないと思うんですが……。

しかし、これはこれで、アルバムとしての曲の流れや構成に関しては、なかなか楽しめると思いますねぇ~~♪

まあ、そのあたりは、1970年代になってから出回った多くのブート、例えば本日ジャケ写を掲載したアナログ盤LP「レット・イット・ビー 315:Let It Be 315 (WIARDO RECORDS)」等々に親しんだ「慣れた耳」の所為だとしたら自嘲する他はありませんが、未聴の皆様にも、堂々とオススメ出来る秀作が、これなんですよっ!

気になる収録演目では、何と言っても後にポールのソロアルバム「マッカートニー」に改変して収録される「Teddy Boy(B-2)」でしょうか。また、「Rocker(A-2)」は「I'm Ready」の別タイトルでも知られる、お遊び的な短いロケンロールのインスト曲で、ノリが素晴らしいギターやエレピが楽しく、そのまんま続く「Save The Last Dance For Me(A-3)」は、アメリカの黒人グループとして人気も高いドリフターズが1960年に放った大ヒットで、日本では「ラストダンスは私に」として知られている曲のカバーなんですが、これは短くて、いきなり同じテンポで「Don't Let Me Down」に繋がり、結局は中断してしまうという、如何にも一発録りのセッションを体現したトラックです。

もちろん、肝心の「Don't Let Me Down」は、これまたメンバーのお喋りで繋がりながら、きっちり次の「A-4」で熱唱&名演が繰り広げられ、おそらくはシングルバージョンの根幹になったテイクが、これだと思われます。

また「Get Back(A-7)」も件のシングルバージョンに近い仕上がりになっていますし、「Let It Be(A-8)」はジョージ・マーティンが手を入れる前の所謂「ネイキッド」なバージョンであり、また「The Long And Winding Road」にしても、ボールが後に大問題にするフィル・スペクターが導入した大仰なオーケストラがダビングされていない、極めてシンプルな弾き語り~バンド演奏だけのテイクですが、もちろん後年の正式に完成された「ネイキッド」のミックスとは印象が違うという、そのラフな質感がサイケおやじには大きな魅力♪♪~♪

何よりもイイのは、ここでの「Let It Be」や「The Long And Winding Road」に限らず、全篇がグリン・ジョンズの作り出した骨太なロックの音で貫かれている事に気がつくんですが、それは……、まだまだ後の話になります。

さて、そこでグリン・ジョンズが冒頭から記した経緯により、1970年1月5日に完成させたマスター・テープが所謂「version-2」で、アルバムとしての演目構成は下記のとおりです。

  A-1 One After 909
  A-2 Rocker
  A-3 Save The Last Dance For Me
  A-4 Don't Let Me Down
  A-5 Dig A Pony
  A-6 I've Got A Felling
  A-7 Get Back
  A-8 Let It Be
  B-1 For You Blue
  B-2 Two Of Us
  B-3 Maggie Mae
  B-4 The Long And Winding Road
  B-5 Dig It
  B-6 I Me Mine
  B-7 Across The Universe
  B-8 Get Back(reprise)

  
ここでは「Teddy Boy」が外され、前述した「I Me Mine」は、含まれてはいるものの、それはグリン・ジョンズが自分なりに再編集・改変したバージョンという印象てす。

そして問題(?)になるのは、これまた新規に追加収録された「Across The Universe(B-7)」です。

もちろん、このジョンの名曲が採用されたのは映画「レット・イット・ビー」の本篇中、トゥイッケンナム・フイルム・スタジオでの演奏場面が披露されているからです。

良く知られているとおり、「Across The Universe」は、1968年2月に公式レコーディングが行われ、当時はシングル盤としての発売も検討されていたほどの傑作ですが、幾つか仕上げられた試作バージョンに作者のジョンが納得出来ずにお蔵入りしていたものでした。

しかし。それが1969年12月に発売された世界野生動物保護基金のためのチャリティ・アルバム「No One's Gonna Change Our World」に収録された事から評判を呼び、それは限定発売でしたから、機会があれば、あらためて新作として世に出す計画は残されていたはずです。

ただし件のLP「No One's Gonna Change Our World」のバージョンは、アルバムの趣旨に合わせたのでしょう、イントロ前とフェードアウトの部分に鳥の鳴き声や羽ばたき等々の効果音がダビングされていたものですから、グリン・ジョンズは今回の新アルバムの企画を尊重した初志貫徹を目指し、ここに収録されたのは前述した1968年2月のレコーディングバージョンから鳥の鳴き声等々の効果音やバックコーラスのパートを排除し、モノラルミックスによる、極めてシンブルなジョンの弾き語りスタイルに仕上げているんですが、前述したバックコーラス等々を完全に消し去る事が出来ず、微かな残響音として残っているのは、まあ……。

その意味で、もうひとつ、グリン・ジョンズが「やってしまった」のは、ドキュメント感を大切にする目論見から、楽曲トラックの合間にメンバーやスタッフの会話、そしてチューニングの状況音声を挟み込んだ、つまりはLP片面がライブ感覚の強い連続的な流れに組み上げた事から、この「version-2」では、ついに「One After 909」の最終パートにおいて、本当ならば例の屋上セッションの最後の最後で発せられたジョンの「グループを代表してありがとうと言います。オーディションには合格したいものです」という名台詞が入れられているという事は、アルバム全篇が決して無編集・無修正の作りでは無かった証左のひとつ!?

そ~ゆ~部分は細かく検証していけば、夥しいと思われるんですが、それもこれもグリン・ジョンズの熱意と苦心惨憺、創意工夫の結果だとすれば、一概に非難する事は出来ないんじゃ~ないでしょうか。

ということで、、こ~して仕上げられた「version-2」のマスター・テープは、メンバーやスタッフにも好評だった様ですが、今回も……。

またまた直前になって発売が頓挫します。

それはグリン・ジョンズがアルバムジャケットにプロデューサーとしてのクレジット掲載を要求したからだと云われておりますが、当然ながら、フリーの立場からすれば、ビートルズと仕事をした事は計り知れないメリットになるわけですし、ここまでの努力と功労を鑑みても、サイケおやじには、それが妥当だと思うんですけどねぇ~~。

しかし、それでも「ビートルズを使った売名行為」は、ジョンには許しがたい事の様に思われたのだと、今日の研究では決め付けられておりますが、果たして真相はどうなのでしょう?

ジョンは金銭で解決を図ろうとしたと言われておりますが……。

結果として、またしても新アルバム発売は延期とされ、とりあえずの代替策として、グリン・ジョンズが絡んでいない、つまりジョージ・マーティンが仕上げた方の「Let It Be」をシングル盤として出す事が決定されます。

う~ん、ここまでのゴタゴタ続きでは、営業サイドの苦渋は計り知れませんが、そんな現実から逃避するかの様に、ビートルズのメンバー達は各々本格的にソロ活動へ力を入れ始めます。

ビートルズが、1969年9月の段階で実質的に解散状態だった事は既に述べたところですが、それが表立って誰の目にも明らかになったのが、この時期でありました。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月30日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾

2020-09-02 19:12:44 | Beatles

驚異的な出来栄えの「アビー・ロード」が大ヒットしていた1969年の秋、衝撃的な噂が世界中に広まります。

それは「ポール・マッカートニー死亡説」でした。

現代の研究によると、噂の発信源はアメリカのイリノイ大学の学生新聞「ノーザン・スター」とされておりますが、それが大きくなったのはシカゴのラジオ曲WKNRで放送されてからの事です。

サイケおやじは当時、若者に人気があった朝のテレビワイドショウ「ヤング720(TBS)」やラジオの深夜放送で取上げられた事で知りました。もちろん、その内容は曖昧で、相当にマニアックでしたが、一抹の真実を含んでいる様に感じられましたので、当時のメモに書き込んでおりました。

以下にその内容を整理してご紹介致します。

アルバム「アビイ・ロード」のジャケット写真からの手掛り
 整列して道路を横断しているビートルズが、先頭のジョン=神父、リンゴ=葬儀屋、ポール=裸足で歩行ステップが逆なので故人、ジョージ=墓堀人夫の様に見える。
 背景に写っている駐車中のワーゲンのプレートが「28IF」、これはもしポールが生きていれば、28歳である事を表している。
 また、裏ジャケットの「BEATLES」の文字にヒビが入っている。

アルバム「サージェント・ペパーズ」のジャケット写真からの手掛り
 表ジャケットがビートルズと会葬者たちがお墓の周りに集合している様に見える。
 ポールの頭上に手が挙げられているのは、インドでは死を表すものである。
 花壇にベースギターの様な花輪が置いてある。
 裏ジャケットのポールが後ろ向きである。

アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」のジャケット写真からの手掛り
 ブックレット18頁の写真でポールの頭上に手が挙げられている。
 同じく、23頁の写真では白いスーツ姿のメンバーの中で、ポールだけが黒いカーネーションを付けている。ちなみに他のメンバーは赤のカーネーションである。

アルバム「イエロー・サブマリン」のジャケット写真からの手掛り
 ポールの頭上にだけ手が挙げられている。



音源「Strawberry Fields Foreve」のからの手掛り
 曲の終わりのフェード・アウトの部分に「I Buried Paul(私はポールを埋めた)」という声が入っている。

以上の様な手掛りから、ポールは1966年11月に自動車事故で死亡しており、その後に行われた「ポールのそっくりさん」コンテストで替玉を見つけ、その優勝者が今日まで偽のポールを演じているという説が流布されたのです。そして他のメンバーがその事実をそれとなくファンに知らせるために、様々な手掛りをばらまいているというオチがつけてありました。

もちろん現在では、これ等の説はヨタ話として片付けられておりますが、皆様はどのようにお考えになられますでしょうか?

当時は、かなり本気度が高い受取られ方がされていたと、サイケおやじは記憶しています。

それというのも、その頃にはビートルズの解散は時間の問題という雰囲気が濃厚でしたし、予告されていたライブショウのテレビ放送や件の音源を纏めたとされるアルバムの情報がストップしていたからです。

その理由はポールの死……!?

この手の噂としては、「Hot As Sun」というビートルズの幻のアルバムという騒動もありました。

それは彼等が1969年の4~5月にかけてレコーディングを行い、「Hot As Sun」と題されたアルバムを完成させたものの、そのマスター・テープが何者かに持ち去られたというストーリーでした。しかもそれを取り返すために、ビートルズ側は莫大なお金を犯人側に支払いますが、受渡しの段階で肝心のマスター・テープが飛行場の手荷物検査でX線を浴びてダメになったというオチが付けてありました。

まあ……、こ~ゆ~ヨタ話が信憑性を帯びて語られていたのも、つまりは1月のセッションから纏められるはずだったアルバムが大幅に遅れている所為でした。

それではその企画はどうなったのでしょうか? 

実はファンがそんな諸々に気を取られている間にも、着々と事は進められていたのです。

まず9月にビートルズはEMI及びキャピトルとの間で印税に関する新しい契約を結ぶ事になるのですが、そこではアレン・クラインが手腕を充分に発揮してロイヤリティを大幅に増加させることに成功します。

したがって、「アビイ・ロード」の大成功、そして新たな契約のために、後日「レット・イット・ビー」と呼ばれるアルバムと映画の発表は意図的に遅らされた可能性があるのです。

さらにアレン・クラインは遅れているライブショウ映像のテレビ放送をとりやめ、テレビ用の16ミリ・フィルムを劇場用の35ミリ・フィルムに焼き直し、劇場用映画として興行する案を提出します。

尤も、これはビートルズがユナイトと交わした3本の映画出演という契約を履行するためだったという説もあるんですが、何れにせよ、この案は採用され、加えて関連音源を映画に合わせて再編集・再録音するという案まで浮上してくるのですが、再録音にはメンバー全員の反対がありました。

それと云うのも、実は前述した9月の再契約に関してメンバーがミーティングを行った際、ジョンがビートルズからの脱退、グループの解散を持ち出していたからだと、今日の研究では明らかにされております。

原因はビートルズの行く末についての議論が口論に発展したからだとか……。

ただし、その場は前述の有利な契約条件が進行していた事からアレン・クラインが取り成し、その事実は伏せられたのですが、結局ビートルズは……、その時点でとっくに解散していたわけです。

う~ん、 現在……、そんなこんなの事実が明るみに出てしまうと、1969年秋以降に盛んに報道されていたメンバーのバラバラな行動にも納得出来るものがありますねぇ……。

しかし、新たな契約が結ばれた以上、ビジネスはビジネスとして割り切って活動しなければなりません。

そこで、これまでの映像は劇場用映画としての公開を正式決定し、それに合わせて、再び例のマスター・テープを編集し直す事になり、ここで当然ながら、またしても引っ張り出されるのがグリン・ジョンズというわけでして……。

普通ならば、クサッて当然の仕事を引き受けた彼にも、ある目論見があるのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月29日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の九

2020-09-01 13:53:35 | Beatles

アップル・コアが8月末に発売を予定していたビートルズの新アルバムの基本コンセプトは、先行シングル「Get Back」に象徴される様な原点回帰、つまり初期のライブっぽい音作りを主体にした内容に鑑み、ジャケットもイギリスでの1stアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」を再現したデザインが企画されました。

そこで、その時と同じカメラマンのアンガス・マクビーンが再び起用され、メンバーは1963年と同じポーズでEMIオフィスの階段に並びますが、この時のジョンは上機嫌だったと言われている事から、結局は幻に終わるこのアルバムの発売には、一時的にせよメンバーの了解があったものと思われます。

そして新アルバムのタイトルは、この時点では掲載した「Get Back with Don't Let Me Down and 9 other songs」、後に「Get Back with Let It Be and 11 other songs」等々に変更されるのですが、何れも1stアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」のジャケット写真の下部にあった「with Love Me Do and 12 other songs」にならったもので、最終的には「Let It Be and 10 other songs」となり、その都度、ジャケットも試作されています。

しかし、またしてもメンバーからのクレーム、そしてライブショウ映像の編集の遅れ等々の理由から発売が延期……。

ちなみに、この時に撮影された写真は、後に発売されるベスト盤「1967-1970」、通称「青盤」に使用されますが、掲載した幻のアルバムのジャケット写真とは違うカットが選ばれています。

で、結局明快な説明も無いままに幻となった新アルバムは、しかし6月末の時点では、その発売がほとんど決定していた事に間違いは無く、下記のとおり、収録曲の発表まで行われていました。

  A-1 One After 909
  A-2 Save The Last Dance For Me
  A-3 Don't Let Me Down
  A-4 I've Got A Felling
  A-5 Get Back
  B-1 For You Blue
  B-2 Teddy Boy
  B-3 Two Of Us
  B-4 Maggie Mae
  B-5 Dig It
  B-6 Let IT Be
  B-7 The Long And Winding Road
  B-8 Get Back(reprise)

そして付随した情報によれば、曲の間にはメンバーの会話や楽器のチューニングの様子等も挟み込まれ、それはジョージ・マーティンのアイディアだったと言われておりますが、とにかく生演奏の雰囲気を充分に活かした編集が行われていた様です。

ということで、以上の様に発表したのですから、当然プロモーションも活発に行われ、新マネージャーに就任して張り切るアレン・クラインは早速、関連アセテート盤をアメリカとカナダの放送局に送り、秋には放送された様ですが、それが後に海賊盤のネタ元となった事は言わずもがなです。

もちろん、そんなこんなのニュースは当時の日本でも大きく取上げられ、上記の曲目やアルバムの発売予定日等々が洋楽雑誌や青少年向けの週刊誌に掲載され、その頃は未だ少なかった輸入盤を扱う店では、予約まで受け付けていました。

しかし……、それが延期されたのは、今では歴史上の事実!

発売延期に伴うお詫び広告の掲載も懐かしい出来事です。

では何故、ほとんど決まっていたこのアルバムの発売が中止になったのでしょう?

ひとつの答えとして、「其の八」でも述べたとおり、こうした当時の営業サイド優先による動きの裏で行われていたビートルズの新レコーディング・セッションについて、それなりにメンバーが手応えを感じていたからではないか?

と、サイケおやじは思います。

まず、それは「Get Back」がイギリスのチャートで1位だった5月30日に突如発売された「The Ballad Of John And Yoko(ジョンとヨーコのバラード)/ Old Brown Shoe」のシングル盤に始まります。

これはビートルズ名義になっておりますが、A面「The Ballad Of John And Yoko(ジョンとヨーコのバラード)」は4月14日にジョンとポールだけでたったの1日! それも8時間で全てが仕上げられ、当時いざこざが多かった2人の間には、それが信じられないほどの意思の疎通と音楽的輝きがあったと、記録されています。

さらにB面「Old Brown Shoe」はメンバーが勢揃いし、これも4月16日と18日の2日間で完成という早業でした。

ちなみに、この2曲のプロデュースはジョージ・マーティンで、イギリスにおけるビートルズのシングル盤としては、初めてステレオ・バージョンだけの発売になりました。

また同じ頃、ジョージ・マーティンはビートルズの新作アルバムの正式プロデュースをポールから電話で依頼され、承諾します。そして始まったのが7月からのセッションで、それこそがイギリスで9月26日に発売されたアルバム「アビイ・ロード」であった事は、皆様ご推察のとおりです。

日本での発売は10月21日で、サイケおやじは、それが遅れていた噂の新アルバムだと思っていました。

しかし……、これまで報道されていた内容と曲目が大きく違いますし、また入っているサウンドそのものがライブ風というよりも、気持ちが良いほど緻密に計算された仕上がりになっていたのは、これまた皆様ご存知のとおりです。

それでは……、1月のセッションから編集され、発売予定だったアルバムはどうなったのでしょう?

実は「アビイ・ロード」の華々しい大成功の裏では、暗闘が続いていたのです。

そして同時にショッキングなニュースが世界を駆け巡るのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月28日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の八

2020-08-31 13:18:25 | Beatles

今回はまず、当時のレコーディングの技術的なお話から始めます。退屈な人はこの部分を飛ばしてください、なぁ~んて、フェル博士の「密室講義」みたいになりましたが……。

ビートルズがデビューした当時のレコーディングは演奏と歌を同時に録音する、所謂「一発録り」でした。彼等が主に使っていたアビー・ロード・スタジオにはその頃、2トラックのテープレコーダーがあり、一方のトラックに楽器演奏、もう一方のトラックに歌を録音していたのです。

しかし、録音するトラックが2つしか無いからといって、マイクが2つという事は無く、楽器用・ボーカル用にそれぞれ何本かのマイクが用意され、様々な方法で上手くバランスを取り、そこからテープレコーダーに入れる時に2つのトラックにしているのです。

この「トラック」という用語を「チャンネル」と置き換えても構いませんが、ここでは「トラック」という言葉を使います。

で、もちろん「せ~のっ」で始めるわけですから、1回ですべてが上手くいくはずもなく、何回か録音をやった中から、一番良い物を選び、こ~して出来上がったものを「セッション・テープ」と呼びます。これは1960年代中頃になって4~8チャンネルのテープレコーダーが使われるようになっても基本的には変わりませんが、その頃には「マルチ・トラック・テープ」と称される様になります。

そして次にセッション・テープの各々のトラックに録音された音を混ぜ合わせて、音のバランスを聴き易い状態にする作業を行います。これを「ミックス」と呼び、その作業には「コンソール」という機械を使います。それはコンサート会場やレコーディング・スタジオにある、音量つまみが沢山ついたテーブル状の道具でして、現場や写真で見た事がある人が、きっといらっしゃると思いますが、この音を整えるという工程がとても重要で、例えばギターを大きくしたいとか、コーラスを小さくしたいとか、プロデューサーとミュージシャンが、それぞれの思惑や意図を明確にしていく仕事です。

ちなみに、ここで試行錯誤の末に出来た音を次のテープにダビングする作業を「ミックス・ダウン」と呼んでいる様ですが、それで出来上がったテープが所謂「マスター・テープ」と称され、この過程では必要な楽器やボーカル、効果音等々が追加録音されていきます。

それは、もちろん、当時はアナログ時代でしたから、前述した作業はテープレコーダー間のダビングを繰返す事によって作られていたわけですが、説明が煩雑になりますので、今回は省略します。

実際、ビートルズの初期音源のステレオ盤を聴くと、演奏とボーカルが左右にはっきり分かれているのはこの所為で、また中期以降の例えば「リボルバー」「サージェント~」あたりの錯綜した音像は、ダビングの果てに作り出されていた事をご確認くださいませ。

閑話休題。

このマスター・テープから次に「カッティング・マスター」が作られます。

これはテープに記録された音をアナログ盤にプレスした時に、きちんとレコード針で再生出来る様に調整したもので、いろいろと音の補正が行われています。したがってアナログ盤時代はマスター・テープで作られた音が、完全にレコード盤には記録されていないのです。その理由は「其の七」でも取上げたとおり、当時の家庭用レコードプレイヤーの再生能力の限界のためでした。

ですから製作者側はアセテート盤という簡易レコードを作って、出来上がった音の状態を確かめる必要があったのです。

以上の様な作業を、グリン・ジョンズはビートルズ側から任されておりましたが、出来上がった音源に対しての最終的な決定権はあるはずが無く、ただ今回のセッションは原点回帰、オーバー・ダビング等は用いず、生音勝負という方針だけが伝えられている状態でした。しかも、これまた既に述べたとおり、こ~した作業の現場にビートルズの面々は誰も立ち会っていなかったのですから、彼が仕上げたマスター・テープはアセテート盤として、メンバー達の元へ送られていたのですが、様々な記録によれば、最も初期に作られた件のアセテート盤には、次の曲がカットされていたと云われています。

  01 Get Back #-1
  02 Teddy Boy
  03 Two Of Us
  04 Dig A Pony
  05 I've Got A Felling
  06 The Long And Winding Road
  07 Let IT Be
  08 Don't Let Me Down
  09 For You Blue
  10 The Walk
  11 Get Back #-2

そして、もう1枚、伝説として有名なのが所謂「Oldies Compilation」で、そこには以下のトラックがカットされていたそうです。

  01  I’ve Got A Feeling
  02 Dig It
  03 Rip It Up / Shake Rattle And Roll
  04 Miss Ann / Kansas City / Lawdy Miss Clawdy
  05 Blue Suede Shoes
  06 You Really Got A Hold On Me

ところがメンバー達は、それに誰も納得せず、以降何度も作り直しされるのですが、しかし新曲の発売日だけは4月11日に決まっていたという事情から、これまた「其の七」で述べたとおり、とりあえず「Get Back」と「Don't Let Me Down」だけをシングル盤用のモノラル・ミックスに仕上げるべく作業を急ぎ、3月26日に完成!

4月6日にはラジオで放送されたのですが、なんとっ!

その直後にポールからクレームが入り、翌日にミックスのやり直しが行われ、当然ここではポールが現場に立会いますが、1月のセッションのミックス作業中にメンバーが参加したのは、この時だけだったとか……。

うむ、すると「其の七」でも触れた、アメリカ盤等々に入っているステレオ・ミックスは、この時にでも作られたんでしょうかねぇ~~?

しかし、それはそれとして、どうやら新曲発売の決定に到る過程は、製作側よりも営業サイドの事情が優先されていた様に思います。

ですから発売直前のこのトラブルにより、イギリスでは発売日に肝心の商品が店頭に並ばなかったという噂もあります。

しかし、世界中が待望していたビートルズの新曲でしたから、忽ちチャート第1位の大ヒット!

ちなみにこのシングル盤の「Get Back」は屋上で演奏されたバージョンでは無く、1月27日と28日にアップル・スタジオで録音された物を混ぜ合わせていて、後に発売されるアルバム「レット・イット・ビー」に収録された同曲とも異なる仕上がりになっております。また、モノラルミックスの方が若干長めの収録になっておりますが、そのあたりは後で取上げます。

一方、B面の「Don't Let Me Down」は、おそらく1月28日にスタジオ録音されたバージョンを基本に、1月30日に屋上で演奏され、映画でも観る事が出来るバージョンを少し混ぜたものではないかと推察しておりますが、いかがなものでしょう。

ということで、「Get Back」の大ヒットにより、いよいよ新アルバム発売と映画公開の予定も見え始め、ここで本来ならば、めでたし、めでたしとなるところなのですが、肝心のビートルズは、もう誰もそのプロジェクトに関心が持てなくなっており、驚いた事には新曲のレコーディングを始めていたのです。

したがって新アルバムの編集作業は、またしてもグリン・ジョンズの孤独な作業となり、そこへ営業サイドが口を出すという悪循環……。

それでもついにアルバムは完成します。

そして6月末、アップル・コアから「新アルバムの発売は8月末、テレビショウの放映はその前後」という発表が行われるのですが、それがまた謎を呼ぶ発言になるのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月27日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の七

2020-08-30 09:45:49 | Beatles

聊か確信犯的な書き方ではありますが、今日の歴史では「ケット・バック」から「レット・イット・ビー」へと衣替えされたアルバムの功労者はフィル・スペクター!

という事になっている様ですが、しかし同時に無視出来ないのが、最初に1月のセッション・マスターを託されたグリン・ジョンズの仕事でありましょう。

なにしろそれは既に述べたとおり、約28時間超と云われる正式なマルチトラックで録られた音源に加えて、映画用に撮影されたフィルムのシンクロ音源が、なんとっ! 96時間を超えていたそうですし、さらに現在までのリサーチによれば、さらに集められた音源を総計すれば、140時間以上!?

何故にそんなに多いのかと言えば、殊更映画用のシンクロ音源は撮影に複数のカメラを用いた事から、その台数個別にテープが回されていたという事情があるらしく、当然ながら映画用はモノラルなのに対し、レコード用に録られた音源はステレオミックスが可能なんですから、きっちりこれを全て聴き、精査(?)する作業の困難さは、その現場に立ち会っていたグリン・ジョンズでなければ無理難題というものでしょう。

そして悪戦苦闘の末、1969年1月30日までに、下記のラフミックスを仕上げていた様です。

  01 Get Back #-1
  02 Get Back #-2
  03 Teddy Boy
  04 Two Of Us #-1
  05 Two Of Us #-2
  06 Dig A Pony
  07 I've Got A Felling #-1
  08 I've Got A Felling #-2
  09 The Long And Winding Road #-1
  10 The Long And Winding Road #-2
  11 The Long And Winding Road #-3
  12 Let IT Be #-1
  13 Let IT Be #-2
  14 Rocker
  15 Save The Last Dance For Me
  16 Don't Let Me Down
  17 For You Blue
  18 The Walk
  19 Lady Madonna
  20 Dig It #-1
  21 Dig It #-2
  22 Maggie Mae
  23 Medley:Shake,Rattle And Roll / Kansas City / Miss Ann etc.

ただし、そこにビートルズのメンバーは誰も立ち会っていなかったと云われていますから、全てはグリン・ジョンズの独断先行による作業だったわけですが、とりあえず上記したトラックを入れたアセテート盤が作られたからこそ、ジョンとポールはグリン・ジョンズに後事を託す決断をしたものと思われますし、こ~ゆ~「叩き台」が無ければ、フィル・スペクターが後に速攻で「レット・イット・ビー」を仕上げる事は難しかったんじゃ~ないでしょうか?

ちなみに、このセッション音源は今日までにブートとして相当に纏まった分量が流通しており、ちょい前には、83枚組CDの「Complete Get Back Sessions (Moon Child)」なぁ~んていう化け物セットが廉価で売られていたんで、サイケおやじも思わず入手してしまったんですが、とてもとても、死ぬまでに全てを聴くほどの気力も時間もございません……。

閑話休題。

こ~して抽出された曲の中からとりあえず4月の契約を履行するために、「Get Back」と「Don't Let Me Down」がシングル盤のカップリングとして発売されるのですが、それでは誰がその決定をしたのでしょう?

通常であればビートルズ本人達とプロデューサーのジョージ・マーティンの意思が最も大きく作用するはずですが、今回のプロジェクトの仕上げの部分は完全に他人まかせの状態です。そこに間違いなくあったのは、4月に新曲を発売しなければならないという契約だけでした。

普通に考えれば「Get Back」は、今回のセッションがポールの発案で原点回帰をベースにしていたのですから、それに合わせて書かれた曲を選んだという解釈が出来ます。

一方、「Don't Let Me Down」はセッション中では出来が良いし、グループ内のバランスを取る上でジョンの曲を選んだのだろうと推察出来ますが……。

このあたりがウヤムヤになっているからでしょうか、4月11日に発売されたこのシングル盤にはプロデューサー名の記載が無く、その代わりにビリー・プレストンの名前が共演者として特別にクレジットされております。

また、この発売に合わせて行われたプロモーションでは、後に映画「レット・イット・ビー」として公開される映像の一部がテレビ放送されました。ちなみに、この当時の本篇タイトルは「ゲット・バック」とされていた様です。

そして特筆すべきは、このシングル盤はイギリスでは従来どおりモノラル仕様でしたが、5月5日に発売されたアメリカ盤はステレオ仕様でした。

これがビートルズの公式シングルとしては初めてのステレオ盤という事になっております。

もちろん6月1日に発売された日本盤もステレオ仕様でしたが、実はそれに先立ち、日本では3月10日に「Ob-La-Di, Ob-La-Da / While My Guitar Gently Weeps」が独自企画のシングル盤として「ホワイト・アルバム」からカットされて発売、これがステレオ仕様になっておりました。

そのあたりは当時の事情として、家庭用ステレオ装置は1960年代初頭から一般的になっておりましたが、ロックやジャズを好む若者、あるいは黒人層にはまだまだ普及しておらず、公共放送にしても、モノラルがほとんどという事で、欧米で発売されるレコードはモノラルとステレオの2種類が当たり前でしたから、製作段階では両ミックスのマスター・テープが存在しており、しかもモノラルは単にステレオをモノラル処理したものではなく、ちゃんとそれなりに音のバランスを整えて作られておりました。

ご存知のとおり、その頃のステレオ盤は左右に音の広がりを求めるあまり、真ん中から音がしないというレコードが沢山あり、反面モノラル盤は出力の小さいポータブルのプレイヤーで鳴らされる場合が多い事から、音圧レベルが高く設定されていたので、迫力のある音が楽しめます。

特にシングル盤は完全にモノラルの世界でした。

ところがアナログの世界ですから、あまり重低音を強調したり、音の強弱がキツイと、一般家庭にあるレコードプレイヤーでは針飛びをおこしてしまいます。

したがって製作者側は出来上がったマスター・テープが実際に針を落として聴かれた時、どの様な雰囲気になるのかを掴むために、アセテート盤という簡易レコードを作ります。これはカッティング・マシンで直接アセテートに音を刻んでいくもので、片面しか溝がありませんし、普通のレコードに比べて厚みはありますが、通常4~5回かけると溝がダメになってしまう代物です。

それでも当時は未だカセット・テープが音楽用としては使い物になっていなかったために、ラジオ局等へのプロモーションにも、これが使われておりました。

そして……、1970年代初頭から活発になる海賊盤ビジネスのネタ元のひとつが、このアセテート盤の流出でした。

もちろんそれが「レット・イット・ビー」の混迷にも一役買っていたのは、言うまでもありません。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月25日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の六

2020-08-28 10:29:27 | Beatles

映画「レット・イット・ビー」で、たっぷりと見る事が出来るビートルズ内の人間関係の悪さは、音楽的対立だけが原因ではありませんでした。

極言すると、一番の原因はやっぱり、お金!

まず、1969年初頭には「アップル・コア」の経営は完全に行き詰っており、好調なのはレコード部門だけという有様でした。

そして当然様々な立直し策が模索される中、彼等に接近して来たのが、あまり評判の良くない芸能界専門の会計士であるアレン・クラインというアメリカ人でした。しかし、その手腕は確かだったらしく、当時はローリング・ストーズの会計顧問に就任していて、絶望的な危機に陥っていた彼等の経済状態を見事に立ち直らせていたのは有名でした。

彼とビートルズの接点については諸説あり、ローリング・ストーズのミック・ジャガーからの紹介と言う説もありますし、同時にミック・ジャガーはアレン・クラインのガメツイ商売には気をつける様に忠告しただけという説もありますが、何れにせよ、彼がデビュー以来のマネージャーだったブライアン・エプスタイを失って迷走するビートルズに目を付けていた事は間違いなく、まずジョン・レノンを篭絡し、ジョージとリンゴもそれに従います。

ところが、ポールは当時婚約中だったリンダ・イーストマンの父親で弁護士のジョン・イーストマンをマネージャーにする計画を持っておりましたので、これには大反対!

しかし、他の3人はジョン・イーストマンが、あまりにもポールに近い事、さらに音楽業界には素人だった事から認めるはずも無く、所謂多数決により、ビートルズがアレン・クラインをビジネス・マネジャーとして迎え入れた時のスチールカットを掲載致しましたが、いゃ~~、冗談半分だったとしても、ポールのキメポーズは露骨過ぎると思いますねぇ~~。これじゃ~メンバー間の亀裂反目は決定的と思う他は……。

これが1969年5月の事で、厳密にはポール以外のメンバーが個人のマネージメント契約を優先させていたという事実もあるんですが、実は同じ頃、故ブライアン・エプスタインが運営していた元々のビートルズのマネージメント会社「ネムズ」が遺族の手によって売却される事になり、またビートルズの楽曲を管理している出版社「ノーザン・ソングス」の運営者だったディック・ジェイムスが、自分の持ち株を某テレビ会社への売却を画策しておりました。

そして……、この動きを察知したポールが、他の3人のメンバーには秘密で「ノーザン・ソングス」の株の買占めに走り出します。もちろん、これ等の会社はビートルズのメンバー全員が投資しておりますから、ポールの行動を掴んだアレン・クラインは対抗策として、他の3人及び自分の資産を投入し、株の買取合戦が繰広げられますが、結局は某テレビ会社が、その株の大部分を取得してしまいます。

こうして、ますます泥沼に落ちていくビートルズは、最終的には法廷闘争で決着をつける事になって行くのですが……。

庶民感覚からすれば、ビートルズの資産は計り知れないし、そんなにお金が無いのか……?

なぁ~ンて思ったりもしますが、そこはやはり持てる者の悩みというか……。ちなみにデビュー時からのマネージャーだったブライアン・エプスタインが生きていた頃のメンバーのポケット・マネーは、常に「ネムズ」から定期的に渡される5万円程だったという噂もあった位です。

う~ん、もちろん各種の支払はカードでも使っていたんでしょうか? それにしたって、利用状況には厳しいチェックがあった事を思えば、いやはやなんとも……。

閑話休題。

で、そんなドロドロしたものが渦巻く中、本格的に「アップル・コア」の立直しが始まります。なにしろアレン・クラインの取り分は破格の20%という事で彼も大ハッスル!

会計監査や関連会社従業員の大量解雇等々を手始めに、1月のセッションの制作費を回収するために、ほとんど纏まっていないライブショウ映像の企画練り直し、そして新曲発表の手筈を着々と進めていくのですが、これが後に大きな問題を引起こしたのは、今や歴史です。

一方、ポールも法務担当という名目で、ジョージ・イーストマンを「アップル・コア」と契約させますが、これはもちろん、アレン・クラインの監査が目的だった事は言わずもがなです。

ところで、こうしたドロドロした蠢きの中、1月のセッションで録られたマスターテープを託されたグリン・ジョンズはど~していたかと言えば、根城にしていたロンドンのオリンピック・スタジオで着々と作業を進めているのでした。

注:本稿は、2003年9月25日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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