OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

妙に浮かれるイコールズ

2012-04-30 15:33:01 | Rock

Baby, Come Back / The Equals (RCA / 日本ビクター)

シンプルでキャッチーな曲メロをウキウキしてくる強いピート&リズムに乗せて歌う手口が、イギリスの白黒混成バンドだったイコールズの十八番でした。

本日ご紹介の「Baby, Come Back」は、まさにそれが大正解だった1968年のヒット曲で、我国でも翌年春頃にかけて、断続的にラジオから流れていた記憶があるんですが、まあ、それほどウケていたわけではないと思います。

しかし時折、無性に聞きたくなる事も本音であって、あの「ベイィビィ、カムバックッ!」というキメのリフが個人的には相当に刷り込まれています。

ちなみにメンバーはダァーヴ・ゴードン(vo)、リンカーン・ゴードン(g,b.vo)、エディ・グラント(g,key)、パトリック・ロイド(b,g,vo)、ジョン・ホール(ds) という顔ぶれで、普通は白黒混成といえば黒人がドラムスやベースを担当するのが常套手段(?)と思われがちでしょうが、イコールズの場合はふたりの白人がそれをやっていることに、何か違和感があるかもしれませんねぇ。

実はイコールズの場合、最初にバンドを始めたのはパトリック・ロイドとジョン・ホールであって、そこにエディ・グラントが加わってスタートしたのがイコールズだったと言われています。

ただし、もちろんこの段階では正式なレコード契約は出来ず、デモ録音を残すのが精一杯だったわけですが、驚いた事にイギリスよりは何故かドイツでジワジワと人気が出始めたらしく、なんとっ! LP2枚分の曲がレコーディングされ、その段階でゴードン兄弟が参加してきたというのですから、思い立ったら、やるだけやってみる事が人生には大切ということでしょうか。

そしてドイツでのブレイクをきっかけに本国イギリスでも正式契約を得たイコールズが、その2枚目のシングルとして出したのが、本日ご紹介の「Baby, Come Back」だったんですが、これにしても最初はB面扱いの曲だったそうですから、世の中は本当にわかりません。

こうして一躍人気バンドになったイコールズは、イギリスとドイツを中心に評価も高かった反面、我国やアメリカでは一発屋としての存在に甘んじていたところ、エディ・グラントが1970年代後半になってレゲエとディスコを折衷させたスタイルでソロデビュー!

メガヒットを連発し、忽ち大スタアに返り咲いたのですから、イコールズでも中心となって曲作りをやっていたアイディアは枯渇していなかったわけですねぇ~♪

つまりシンプルでキャッチーなウキウキ路線は所謂「三つ子の魂」として、簡単に消せるものではないのでしょう。

告白すれば、サイケおやじはレゲエには大した興味も無いんですが、エディ・グラントがやってくれるものは、それでも楽しく聴けるんですから、この人がイコールズに在籍していたと知った時には、思わず納得したものです。

ということで、イコールズは妙にヘンテコな記憶の中のバンドではありますが、やってくれた事は間違っていなかったと思います。なによりも白人がリズム隊の要だったことで、演奏が上手い具合に軽くなり、逆にリードボーカルが力んでいる部分もイヤミになっていないと思います。

現在、イコールズの音源はCDに纏められ、ベスト盤的に楽しめる事から、その本当に楽しい歌と演奏はこれからの季節にジャストミート♪♪~♪

機会があれば、お楽しみ下さいませ。

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惠子、ゆり子、てる美

2012-04-29 16:02:37 | Movie

平凡パンチ'70 The Nude 高橋惠子 ひし美ゆり子 東てる美 (マガジンハウス)

世間は連休で浮かれていても、なんだかんだで遊べない者だって夥しく、ましてや疎外感に追い込まれている孤独な皆様もいらっしゃるでしょう。

不肖、サイケおやじも、実はそうした中のひとりなんですが、しかしこの「ひとりっきり」というのは人生にとって、物凄く貴重な時間なんですよねぇ。

これは決して負け惜しみではないつもりです。

そして孤独であればこそ、本日ご紹介の素晴らしい写真集も存分に拝むことが出来るわけですよ♪♪~♪

なにしろタイトルどおり、1970年代を代表する女優にして、最高の人気グラビアアイドルでもあった3人ですからねぇ~♪

正直、すっかりお世話になっていたリアルタイムの頃はもちろん、現在だって彼女達への感謝の念は深まるばかりです。

まず高橋恵子は当時、関根恵子として大映末期にブレイクし、特に昭和45(1970)年のデビュー主演作だった「高校生ブルース」から真っ向勝負の15歳という、今ではアブナイ場面の連続描写は強烈で、ヌードはもちろん、スケスケの下着が最高に衝撃的だった事をサイケおやじは忘れていません。

そして「おさな妻」「高校生心中」「遊び」「成熟」等々のヒット作を連発し、大映の倒産をその度に先延ばしさせるほどの実績は、まさに映画史に残る活躍でしょう。

ですから、結果的に大映が昭和46(1971)年末に潰れた後は東宝に移籍し、さらなる名作に出演を続けたのもムペなるかな、いよいよ裸の演技もナチュラルな魅力を増大させた時期には登場するグラビアも爆発的な人気となり、掲載雑誌は驚異的な売り上げとなっていました。

それはご紹介の写真集に纏められた当時の「平凡パンチ」からのカットでも明らかで、昭和48(1973)年9月17号に掲載された内容は、東宝映画「朝やけの詩」撮影中のシーンをメインに使っているのですが、それは彼女のオールヌードが前貼りも無しという評判が世間を騒がせ、なんとっ! そのアンダーヘアがモロ出しの写真が数枚、流出するという裏事件(?)もありましたですねぇ。

告白するとサイケおやじは幸運にも、その複写版を入手し、まさに宝物にしていたほどです♪♪~♪

一方、同じ時期に撮影されたのが、これまた永遠の女神様として今日も時代を超えて美しいひし美ゆり子の南仏コートダジュールでのヌードグラビアで、昭和48(1973)年4月6号&同年8月6日号に掲載されたカットの数々には、おもわず手を合わせてしまうほどです♪♪~♪

しかし、こうした脱ぎっぷりの良さとは逆に、撮影中のひし美ゆり子はポーズやロケ場所についてあれこれゴネていたそうで、それは彼女のプログでご本人が告白されているんですが、やはり羞恥心があってこそ、エロスも尚更に輝くわけですよ♪♪~♪

正直、それを知ってしまえば、リアルタイムよりは現在の方が感激も興奮度も高く、本当に覚悟を決めて鑑賞しておりますです。

あぁ、ありがたや、ありがたや♪♪~♪

そしていよいよ東てる美なんですが、ここに収録されたカットが撮影された昭和51(1976)年といえば、完全にロマンポルノの看板スタアになっていた頃で、オナペット・ナンバーワン女優として、まさに裏アイドルの絶頂期! ですから、温泉旅館で撮られたヌードにも説得力が満点ですよ♪♪~♪

個人的にも「生贄夫人」で鮮烈にデビューした直後から、彼女に対しては制御不能の夢中状態が続いていたわけで、またまた告白すると高校時代に密かに憧れていた同級生に彼女が似ていた事もあり、爆発的な妄想を煽られていた女優さんでした。

ということで、永久保存版として現在発売中!

とにかくこれは買える時に買っておくべき1冊でしょう。

デジタルリマスターなんていう言葉が写真にも使われるとは思ってもいませんでしたが、印刷も綺麗ですし、版型も大きく、しかも値段は2千円代ですから、迷っていたらバチがあたるんじゃないでしょうか。

ちなみに当時は未発表だったカットも収録されているそうですし、これはちょいと全部を確認出来ていないので詳細は書けませんが、それはそれとして、貴重なる「ひとりっきり」の時間には最高の友達になるはずですよ♪♪~♪

心から、ありがとう♪

本日は、そう、述べさせていただきます(敬称略)。

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朱里エイコと飛行場で会ったなら

2012-04-28 15:38:41 | 歌謡曲

ジェット最終便 / 朱里エイコ (ワーナーパイオニア)

本日から9連休という皆様もいらっしゃるでしょうねぇ~。

サイケおやじは例によって、そんなに休めませんが、今となっては仕事をやっていたほうが気楽という本音もありますよ、理由はあえて述べませんが。

しかしこういう時の家族や恋人、気の合う仲間達との旅は確かに楽しく、また一人旅の気儘な時間にしても、素敵極まりない事は羨ましいほどに感じています。

それは実際、ふっと気がつくと、若い頃から人並みにゴールデンウィークを楽しんだことが少ないサイケおやじが、その時期に駅や飛行場や観光地等々で見かける旅人の発散する楽しい雰囲気に臆しているからに他なりません。

ゆえに本日ご紹介の刹那の旅の歌が心に蘇るのは、必然とは思っていても、決して納得しているわけではないのです。

ところが歌っている朱里エイコの強烈な歌唱力は半端ではありませんから、別れを告げても断ち切れない未練を最終飛行便で新しい希望に云々という、終りの始まりは再び終りのドラマ……?

そういう人生の成り行きに逆らう努力が、この歌の表現の真髄かもしれません。

ちなみに発売されたのは昭和48(1973)年初夏ですから、ここに聞かれるブラスロックとニューソウルの昭和歌謡曲的折衷の見事さは、流石に川口真の作編曲が最高に冴えわたり、しかも橋本淳の作詞が情景描写を逆手に活かしたクールな熱さ!

ですから激しいアップテンポの曲展開を余裕すら感じせるノリで歌いきってしまう朱里エイコは、その抜群のリズム感とプレスの上手さも相まって、圧巻の一言ですよねぇ~♪

また、ジャケ写の雰囲気と衣装の兼ね合いは、当時流行の「アンノン族」による「ディスカバー・ジャパンの旅」をイメージしたものでしょうか? 彼女には完全に「らしくない」雰囲気ですが、なにかミスマッチの面白さも捨て難い気がしています。

ということで、今日もまた仕事に合間に戯言を綴っているサイケおやじではありますが、愉快な時間を過ごそうとする努力は前向きでして、それを自分に言い聞かせているのでした。

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中川梨絵と踊りたい

2012-04-27 15:28:02 | 歌謡曲

踊りましょうよ / 中川理絵 (For Life)

今年は日活百周年♪♪~♪

ということで、既に様々な企画や催し物がスタートしておりますが、やはりサイケおやじにとっては「ロマンポルノ」から人生の大きな思い出や教訓を与えられている事が一番かもしれません。

平たく言えば、ロマンポルノに出演された女優さんは青春時代からサイケおやじの孤独な欲望を満たす闇の中の妖精であり、中でも本日掲載のシングル盤で歌っている中川理絵は、サイケおやじが最初に好きになった成人映画のスタアでありました。

その彼女のプロフィールや出演作品のあれこれについては、拙サイト「サイケおやじ館」の「闇の中の妖精第4回」をご一読願いたいところですが、とにかく大きな目と鼻筋の女優的な整い方は、十八番で滲ませるアンニュイな存在感と見事なアンバランスのバランスを保ち、しかも特有の台詞回しのアクの強さや自ら納得しなければやらないとまで言われた裸の演技に対する情熱と相まって、唯一無二の印象を残しています。

で、サイケおやじが彼女を意識し、憧れたのは、やはりエロ本等のグラビアで見ることが出来た愛くるしい彼女の裸体と同時期に初主演作「OL日記・牝猫の匂い(昭和47年1月・藤井克彦監督)」が摘発された、あの事件があったからです。

しかし、もちろん当時はこの作品を見ることは叶わず、こんな素敵なお姉様が摘発されるほどエッチな映画に出ているのか……、という興奮があったのは言わずもがなでしょう。

そして初めて見ることが出来た作品は、昭和47(1972)年10月の「エロスの誘惑」でしたが、これはサイケおやじが初めて映画館でリアルタイムに鑑賞出来た成人映画でもありました。

以降、とにかく中川理絵の出ている映画には中毒症状で、中でも「恋人達は濡れた」はスケベ心を抜きにして、生涯の思い出となる作品です。

さて、そこでいよいよ本日のシングル曲「踊りましょうよ」は昭和51(1976)年末に出た、おそらくは中川理絵にとっては唯一のレコードA面曲で、彼女自らの作詞作曲にアレンジ&プロデュースは小室等、さらに演奏がムーンライダースという豪華版♪♪~♪

欧州系ジャズ特有のジプシースイング調のアレンジは、アコースティックギターやバイオリンが物悲しい雰囲気の曲メロを尚更に彩り、まさに中川理絵でしかありえない、そのせつなくて甘い節回しはスクリーンの中から存分にファンを慰めた魅力と同質の良さがあるんですねぇ~~♪

まあ、このあたりは逆に言えば、好き嫌いの領域かもしれませんし、ちょいとクセのあるフィーリングは確かにそうかもしれません。

しかし、それがファンにはたまらない個性である事も、また事実です。

ということで、中川理絵はサイケおやじにとっての憧れのスタアのひとりですから、実は翌年になって先輩に連れられ、四谷見附の彼女の店でご本人に会えた時は、もう棒を飲んだ様に緊張しまくり、文字通り全身がガチガチになりましたですねぇ。

う~ん、これもまた良い思い出♪♪~♪

そして前述した日活百周年イベントでは、5月からロマンポルノの傑作選も各地の映画館で上映されるそうですし、ネットでも予告篇と予定作品がご覧になれますので、ぜひっ!

最後になりましたが、中川理絵は決して巨乳系グラマーではありませんが、所謂モリマンとしてマニアの間でも有名ですし、撮影では前貼りを使わないとか、そうした素敵な実践を堂々と行っていたがゆえに、例の摘発事件の時も当局の峻烈な取り調べに対し、自信を持って平然と対処していたという伝説も忘れられません。

中川理絵、本当に好きです、と今日は愛の告白♪♪~♪

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電波系ヒットの踊りにいこうよ

2012-04-26 15:45:43 | Rock

踊りにいこうよ / Danny & The Juniors (ABC-Par./ キング)

滅多矢鱈な楽しさっていうのもR&R系ヒットポップスの条件として、例えば本日ご紹介の「踊りにいこうよ / At The Hop」はその典型かもしれませんが、売れたからには、それなりの背景がきっちりありました。

まあ、そういう風に書いてしまうのも、サイケおやじが完全に後追いで調べた結果ではありますが、歌っているダニーとジュニアーズはフィラデルフィア出身の4人組で、しかも地元の高校では同級生だったという仲良しグループがダンスパーティ等々で歌っていたところをスカウトされるという、如何にも当たり前の芸能界デビューは、大ヒットを出したところでラッキーの一言でお終いにされる存在でしょう。

しかし彼等が本当に幸運だったのは、当時のフィラデルフィアにはローカル番組ながら、なかなか人気の高かった「バンドスタンド」というテレビバラエティが放送されており、特に地元高校生を常時出演させ、メジャーな人気歌手やバンドのパフォーマンスに合わせて踊ったり、時には一緒に歌うという演出があったことから、ダニーとジュニアーズもそこに出演していたそうです。

しかも司会者が今や音楽史にその名を刻するディック・クラークという、素晴らしく売れセン狙いが上手いDJであり、同時に卓越したプロデュース感覚が全米ネットのABCとの契約に役だったのは言うまでもありません。

それが1957年頃までの経緯であり、ついに全国放送となった件の伴組は「アメリカン・バンドスタンド」という90分番組に改編され、一説によれば毎週百万通を超すリクエストのハガキや手紙が来ていたというのですから、その影響力は決定的でしょう。

実際、同番組からはコニー・フランシスやフランキー・アヴァロンといった人気スタアが誕生していますし、肝心のダニーとジュニアーズが歌う「踊りにいこうよ / At The Hop」が1958年早々に全米チャートトップのメガヒットになったのも必然性があったのです。

ちなみにダニーとジュニアーズはそうなる以前はフィラデルフィアの小さなレコード会社、つまり今日で言うところのインディーズと契約していたのですが、ディック・クラークの番組に出演するにあたり、未完成だった「踊りにいこうよ / At The Hop」に助言を仰ぎ、結果として痛快な大ヒットに仕上がったのですから、相乗効果も実に大きかったというわけです。

また、やはり無視出来ないのは、ダニーとジュニアーズ本人達の資質と頑張りであって、メンバーはダニー・ラップをリードボーカルに、デイヴ・ホワイト、フランク・マッフェイ、ジョー・テルラノーヴァという、基本的はアメリカ東海岸系の白人ドゥーワップグループの典型でありながら、この「踊りにいこうよ / At The Hop」に顕著なアップテンポのツッコミ型R&Rコーラスは、その頃の他の同系グループよりも遥かに新しいフィーリングが満点♪♪~♪

後のオールディズリバイバルブームで人気を集めたシャナナとか、明らかにダニーとジュニアーズから影響を受けたグループは、我国のチェッカーズが登場している事を鑑みても、夥しいはずです。

というか、実はそれが当たり前になっている感さえあるのは、前述したとおり、全国ネットの人気テレビ番組という存在があればこそという結論さえ、浮かんでくるように思うのですが、いかがなものでしょう?

もちろんヒット曲の歴史にはラジオやテレビといった電波マスコミの威力があってこそ、瞬時なる広範囲の流行が作り出せる利点は欠かせなくなった現代、その先駆けのひとつが、ダニーとジュニアーズの「踊りにいこうよ」であった!?

それは強引なコジツケかもしれませんが、この歌の一番の魅力だと思うスピード感は、電波系と断言したくなるのでした。

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アメリカのドライヴミュージック

2012-04-25 15:19:54 | Rock

Ventura Highway / America (Warner Bros./ ワーナーパイオニア)

依然として寒暖の差はあるものの、ようやく全国的に春になった実感も強いこの時期ともなれば、車やバイクでのドライヴは楽しいレジャーの筆頭でしょうか。

まあ、このあたりはガソリンの高値とか、いよいよ連休の道路渋滞の兼ね合いもありますが、それはそれとして、サイケおやじの場合はバイクをプッ飛ばす事がストレス発散のひとつの手段です。

また車ではカーオーディオの楽しみも付随しますから、あれこれの選曲も楽しく、本日ご紹介の「Ventura Highway」は所謂ドライヴミュージックの人気曲として、今や定番でしょう。

歌っているアメリカという3人組はデビューこそイギリスでしたが、ジェリー・ベックリー(vo,g,b,key)、ダン・ピーク(g,vo)、デューイ・バネル(g,vo) というメンバーは皆がアメリカに所縁がある白人の若者であり、ご存じ「名前のない馬 / A Horse With No Name」のメガヒットは彼等がCSN&Yからの強い影響を隠そうともしない潔さで爽やかなハーモニーを聴かせ、さらにアコースティックギター主体の演奏にはエレクトリックな楽器やビートを効かせたリズムセクションが適宜加わるというサウンド作りがウケた要因でした。

つまりアメリカは、1972年当時の典型的なウエストコーストロックの代表選手であり、それゆえに西海岸の「ご当地ソング」である「Ventura Highway」を翌年に出したことも、これまたミエミエの潔さとして認めざるをえません。

と言うよりも、そこでイントロから聞かれる歯切れの良いアコースティックギターのアンサンブルや意外なほどグルーヴィな全体の演奏、そして明るくて、何かしらの翳りを秘めた胸キュンメロディとボーカル&コーラスの融合は、まさにヒット曲の領域を超えたスタンダードな存在だと思います。

ちなみにサイケおやじが幸運にも1974年にアメリカ西海岸へ行けた時、気になっていた「Ventura Highway」という道路を現地の人に尋ねたのですが、結果は???

なんとっ! その頃は、そうした名称は一般的ではなく、実はLAからサンタバーバラに向かって北上する「101号線」というハイウェイが該当するそうで、途中に「ベンチュラ」という町があるゆえの曲タイトルだったようです。

そして現在では、件の道路がこの「Ventura Highway」のヒットにより、堂々と同じ名称になっているとかで、確かに1980年代末に当地を訪れた時は「ベンチュラ」の町の入り口に、そうした解説の看板が出ていましたですねぇ。

ということで、「ご当地ソング」はやっぱりウケるという結論は世界の共通認識ではありますが、それがドライヴミュージックであれば尚更に気持E~♪ まさしくそこへ向かって行く心の動きの疑似体験とでも申しましょうか、ちょいと違うかもしれませんが、出張時の列車内でトラベルミステリーを読む感じにも似ています。

しかしだからと言ってスピード出し過ぎの運転は厳禁!

冒頭でサイケおやじは「バイクをブッ飛ばす」なんて書きましたが、一般道路ではそれなりの安全運転を心がけていますし、高速道路にしても激ヤバなすり抜けは中年者の現在では絶対にしませんよ。

けっこう悲惨な交通事故も頻繁に報道されていますから、皆様も一緒に気をつけましょうね。

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スプートニクスの涙のギター

2012-04-24 16:13:14 | Rock

涙のギター / The Spotnicks (ポリドール)

インスト演奏の利点は言葉の壁が無い事で、つまりは素敵なメロディを優先的に楽しめるわけですよねぇ~♪

ベンチャーズに代表されるエレキインストのバンドが我国にロックの本質を知らしめた事にしても、結局はそこに大きなポイントがあったと思われます。

ということは今日、何かと軽視されがちな海外エレキバンドによる歌謡曲演奏だって、充分素直に楽しんでも、なんら卑屈な思いをする必要も無いわけですよねぇ。

まあ、あえてこういう言い訳を弄する事は自己矛盾しているんですが、しかし例えば本日ご紹介のスプートニクスによる「涙のギター」は、堂々と屹立するエレキの傑作カパーになっていて、もちろんそれは寺内タケシの代表的名演という、すぎやまこういち作曲によるニッポンのオリジナル!

あぁ、それはまさにエレキの夜明けとも言うべき、昭和40(1965)年の大ヒットであり、歌詞付きバージョンも様々なシンガーによって持ちネタになっていたほどウケていましたから、その胸キュンメロディを「Sentimental Guitar」の洋題でベンチャーズもカパーしているほどですし、プロアマ共に我国エレキバンドの必須状態は言わずもがなと思います。

ですから同じ頃、澄みきったサウンドと哀愁フィーリングでグイグイと人気を集めていた欧州系エレキバンドの中でも特別な存在になりつつあったスウェーデンのスプートニクスが、満を持してそれを演じたとて、不思議はありません。

ちなみに「澄みきったサウンドと哀愁フィーリング」なぁ~んて欧州系エレキインストを決めつけてしまったのはサイケおやじの全くの勇み足だとは思いますが、実はスプートニクスはバンド名からもご推察のとおり、ソ連≒現在のロシアが1957年に打ち上げた人工衛星に因んでいますから、宇宙的なイメージを狙ったサウンド作りにも特徴があり、しかもステージ衣装がSFっぽい佇まいということで、単に「哀愁」と言っても、それは所謂スペーシーなミステリアス感覚も滲ませるという凝ったアレンジの演奏を聴かせてくれました。

メンバーは ボー・ウインバーグ(g)、ボブ・ランダー(g,vo)、ピーター・ウインズネス(key,vo)、ビョーン・テリン(b)、ジミー・ニコル(ds) という5人組ながら、それはこのレコードが作られた1966年当時のレギュラーであって、1959年頃と言われるバンド結成から常に流動していたはずです。

なしにろドラマーのジミー・ニコルは本来がイギリスのスタジオセッションプレイヤーであり、その腕前を買われたのでしょう、確かビートルズのオーストラリア公演では病気で倒れたリンゴ・スターの代役でライプ出演までした逸話は有名だと思います。

そしてこの時期のスプートニクスの音源を聴いてみると、その強いビート感のドラミングが他の欧州系エレキインストバンドとは一線を画するサウンド作りに貢献しているんじゃないでしょうか?

この「涙のギター」にしても、それが著しい魅力となって、スプートニクスをベンチャーズやシャドウズと並び立つ評価へ導いていると思うほどです。

それとスプートニクスのバンド名的なウリ(?)であったSFっぽい科学的側面としては、ステージライプで各楽器の音をワイヤレスで飛ばすという噂もありましたが、サイケおやじがテレビで見た時はそんな記憶もありません。

しかし演奏中に曲芸のような、例えばひとつのギターを二人羽織するとか、キーボードの下にもぐりこんだプレイヤーが指だけ出して演奏するとか、そんな事を見せてくれた印象は残っているんですから、案外とお茶目な連中だったのかもしれません。

ということで、エレキインストの魅力は歌謡曲メロディでも活きるという証明が、この「涙のギター」という名曲であり、すぎやまこういちがそれを狙って書いたという真相はあるにしろ、エレキインストなるジャンルが先に存在しての事実は侮れないでしょう。

そして寺内タケシのバージョンはもちろんの素晴らしいわけですが、ベンチャーズにも負けていないスプートニクスの「涙のギター」は、本当に素敵です♪♪~♪

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灰色の朝の二面性

2012-04-23 15:26:28 | Pops

灰色の朝 / Bread (Elektra / ビクター)

正直、昨夜は不穏な連絡を受けていたので、今日は朝から気分が落ち込みモードでした。

しかし、非情にも仕事は待ってくれないのが世の常ですし、なによりも自分が動かなければ物事は解決しないんですから、とりあえずは意を決して取り出しのが本日ご紹介のシングル盤!

もちろん針を落したのはA面「灰色の朝 / Dismal Day」しかありません。

あぁ、とにかくアコースティックな音作りと爽やか系ハイトーンボイスがキメのコーラス、そして素敵なメロディの複合体は、まさにブレッドが十八番とする世界でしょう。

ちなみに我国で流行ったのは1972年頃でしたが、実際には彼等のデビューアルバムに収録され、1969年には世に出ていたという真相も、翌年の「二人の架け橋 / Make It With You」で大ブレイクして以降のブレッドにとってはヒット曲の需要が高まっていた経緯から、ちょいと苦肉の策という気もしています。

つまり、これはおそらく我国独自のヒット曲じゃ~なかろうか?

と、サイケおやじは思う次第です。

なにしろ軽快なリズムと素敵なメロディとは裏腹に、歌詞が実にシリアスなんですよねぇ。

それは朝、起床して鏡の前に立つ自分の憔悴した顔に呆れ……。

その日のこれからを思うと、実に憂鬱な現実に気がついて……。

周囲の喧騒の中で自分の孤独を見つめ……。

夜ともなれば、希望を捨てる決意に悩む……。

なぁ~んていう、最高にネクラな内容が、全く逆のイメージの曲メロとメリハリの効いたピートて歌われるんですから、たまりません。

これぞブラウン神父のチェスタートンも真っ青の逆説であって、どっちを選ぶかはリスナーの本音に任せてしまうという、憎たらしいほどの手口が使われているのです。

ということで、サイケおやじの本日は朝からヘヴィな状況だったものが、どうにか今は平常に戻りつつあります。

しかし油断は禁物!

何時、如何なる時でも逆転は有り得るという事も、この「灰色の朝 / Dismal Day」は示唆しているように思うのでした。

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ボー・ブラメルズも、よろしく

2012-04-22 15:54:49 | Rock

One Too Many Mornings / The Beau Brummels (Warner Bros. / 東芝)

フォークロックの元祖はボブ・ディランでも、バーズでもなく、ボー・ブラメルズというサンフランシスコ出身のバンドだという説があって、確かに公式デビューとなった1964年頃からの音源を聴いてみると、12弦(?)エレキ&アコースティックギターの混在とか、ちょいと気だるいコーラスワークや妙に胸キュンのハーモニカ等々が後々の流行に繋がったのか?

そんな印象を与えられてしまいます。

しかし似た様なと言うよりも、同種のサウンドは既にイギリスのサーチャーズホリーズだってやっていたという事実だってあるわけですし、とすれば何故にボー・プラメルズが?

という疑問を抱くのは、サイケおやじだけでしょうか……。

ちなみにメンバーはサル・ヴァレンティノ(vo)、ロン・エリオット(g,vo)、デクラン・マリガン(g,vo)、ロン・ミーファー(b)、ジョン・ピーターセン(ds) の5人組というのが定説ながら、バンドの中核はサル・ヴァレンティノとロン・エリオットであり、デビュー曲にしてアメリカでは大ヒットした「Laugh Laugh」によって有名になってからは、それなりにメンバーの出入りもあり、レコーディングにはスタジオミュージシャンの参加が当然だったようです。

またデビュー期のプロデューサーが、後にスライ&ファミリーストーンで一躍トップスタアとなるスライ・スチュアートであった事も、なかなか興味深いポイントかもしれません。

しかも人気上昇期だった1966年、地元サンフランシスコにあった所属レーベルのオータムレコードが倒産し、それまでの音源共々ワーナーに移籍する事態は、尚更にボー・ブラメルズの存在を曖昧なものにしたんじゃないでしょうか。

それは新会社で最初に制作発売されたレコードが、当時流行っていた他のミュージシャンによるフォークロックヒットのカバーであった事にも要因が!?

本日掲載したシングル盤A面曲「One Too Many Mornings」にしても、書いたのはボブ・ディランであり、ボー・ブラメルズが発表する前に幾つかのバンドや歌手が既にフォークロック調のアレンジでレコード化していたという現実があったんですねぇ……。

まあ、このあたりの安易さは、せっかく獲得したボー・ブラメルズを人気があるうちに売ってしまおうという思惑だったとは思いますが、サル・ヴァレンティノとロン・エリオットのリアルタイムでの音楽性はサイケデリックなサウンドに向かっていたのですから、如何にも中途半端な事は後に出てくる新作アルバム&音源等々を聴けば納得する他はありません。

ところが、そんなこんなは我国の一般的な洋楽ファンには知る由もなかったのです。

当然ながらサイケおやじにしても、既にバーズが大好きでしたから、この「One Too Many Mornings」の力強いエレクトリックポップサウンドに強烈なフォークロック風味を感じ、忽ちボー・ブラメルズは気になる存在になりましたですねぇ~♪

しかし度々書いてきたように、当時は小遣いの乏しさゆえにレコードを買うことが出来ず、掲載の私有盤は前世紀末にようやくゲット出来たほどなんですが、それというのも、このシングル盤収録バージョンは所謂アルバム未収録曲でしたから、まさに苦労の甲斐もあったというわけです。

ということで、ボー・ブラメルズはデビュー当時のブレイクが結果的に長続きせずに終わったバンドであり、後に評価される秀逸なアルバムも作っていますが、在籍メンバー間のゴタゴタやグループの再結成、さらには懐メロショウ的な活動も含めて、その真価は今日でも未確定のような気がしています。

そこで冒頭の話に戻ってみると、やはりボー・ブラメルズはビートルズを目標にしていたんじゃないかと思います。もちろんバーズもビートルズを強烈に意識するところから始まっているわけですが、ボー・ブラメルズの場合は途中から、そのバーズや他の人気グループがやっていた事に接近する道を選んでしまったのかもしれません。

まあ、こうやって書いてみると如何にも後付けの理論ではありますが、ひとつにはボー・ブラメルズにはデビュー期のレコード会社倒産という不運から絶対的に導いてくれるプロデューサーの不在も大きかったと思われます。

今となってはボー・ブラメルズが残した音源はそれなりに纏められ、CD復刻も進んでいますので、虚心坦懐に鑑賞すればするほど、バーズやバッファロー・スブリングフィールド等々にも劣らない業績が残せたはずなのに……。

ですから、前述したとおり、ホリーズやサーチャーズと共通するサウンドを作り出していたデビュー期の音楽性も、充分に納得出来るのでした。

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リヴォン・ヘルムが残してくれた…

2012-04-21 15:32:13 | Rock

Levon Helm (abc)

ザ・バンドのドラマーであり、同時にアメリカンロック屈指のボーカリストでもあったリヴォン・ヘルムの訃報に接しました。

まあ、既に中年者街道真っ只中のサイケおやじですから、年長者の物故は当たり前に受け取らねばならない年齢でありながら、しかしそれは失うものばっかりという哀しい現実を肯定することではありません。

全ての生命は、この世にあった証として、なにかしらの生き様を必ず残していて、例えばミュージシャンならばファンの心に何時までも消えない歌や演奏を響かせてくれます。

それはサイケおやじにとってのリヴォン・ヘルム場合、本日ご紹介のアルバムが特に強く、これは1978年に発表された自己名義2作目のLPなんですが、驚いたことにはジャケ写で故人が担当楽器たるドラムスのスティックを「×印」に構えているとおり、ここに収められた楽曲ではほとんどドラムスを敲かず、ボーカリストに専念したという結果は最高!

 A-1 Ain't No Way To Forget You
 A-2 Driving At Night
 A-3 Play Something Sweet
 A-4 Sweet Johanna
 A-5 I Came Here To Party
 B-1 Take Me To The River
 B-2 Standing On A Mountaintop
 B-3 Let's Do It In Slow Montion
 B-4 Audience For My Pain

という上記演目はR&B主体のカパー物なんですが、基本的に自作で曲を書かないリヴォン・ヘルムにとっては、それが正解という快演熱唱ばかりで、個人的にはレイ・チャールズとアル・グリーンという凄すぎる黒人歌手からの影響を殊更に強く感じさせられましたが、もちろんそこから派生しているリヴォン・ヘルム本人の個性にしても、かなり強引!?

なにしろ十八番のニューオリンズ系R&Bスタイルにどっぷり浸かった「Play Something Sweet」では、緩やかなグルーヴの中の粘っこいソウルフィーリングが最高ですし、アル・グリーンの代表作「Take Me To The River」における黒っぽさはブルーアイドソウルなんていう言葉が意味を成さないほどですよねぇ~♪

また同系の「Let's Do It In Slow Montion」やゴスペル風味がジワジワと効いてくる「Standing On A Mountaintop」も、たまりません♪♪~♪

ちなみにそうしたリヴォン・ヘルムをバックアップしているのが、ジミー・ジョンソン(g)、バリー・ベケット(key)、デヴィッド・フッド(b)、ロジャー・ホーキンス(ds) 等々を中核とする所謂マスル・ショールズ・リズムセクションであり、これが意想外にザ・バンドしていながら、実は唯一無二の屹立した世界を醸し出しているんですから、ニクイですよ、これはっ!

また同じ比重で参加しているのがスティーヴ・クロッパー(g)、ドナルド・ダック・ダン(b)、ウィリー・ホール(ds)、アレン・ルーヴィン(tp)、トム・マーロン(tb)、ルー・マリーニィ(as) 等々の面々による、なんとっ! これは当時のブルース・ブラザーズのバンドそのものですから、素敵なソウルグルーヴはお約束以上ですし、他にもスタジオセッションの世界ではお馴染みのスコット・エドワーズ(b) や暖簾分けしたザ・バンドに在籍するケイト兄弟の参加も有意義でしょう。

このあたりはプロデュースも担当したドナルド・ダック・ダンとリヴォン・ヘルムの意志の疎通があってこその人選としか思えませんし、それは所謂アメリカンロックの保守本流というよりも、サイケおやじは既にして伝統芸能に近いものを感じるほどです。

ご存じのとおり、リヴォン・ヘルムを一躍有名にしたザ・バンドというグループはカナダ人ばかりの中、唯一のアメリカ人がリヴォン・ヘルムだったこともあり、どちらかといえば客観的にアメリカンミュージックを再構築する手法が成功したと評されますが、そんな事はザ・バンドが登場してきた1960年代後半の我国洋楽ファンの大部分には、ほとんど分からなかったはずで、実際にサイケおやじは歴史的大傑作とされる「ビッグ・ピンク」にしても、ミョウチキリンな音楽にしか思えませんでした。

しかし、そこには明らかに自信たっぷりな強いピートが感じられた事も、また確かであって、リヴォン・ヘルムの強靭なドラミングが根底にあればこそっ! と気がついて以降は、たったひとりのアメリカ人が存在してこそのザ・バンドである真実に目が覚めました。

ですから、ロビー・ロバートソンとリヴォン・ヘルムの確執が決定的な解散の要因と報道された事にも、なんら不思議な感覚はなく、むしろリヴォン・ヘルムの本質的魅力がさらに楽しめると期待したところに登場したのが、このアルバムというわけです。

傑作である事は言うに及ばず、それを意識せずとも聴かされてしまう説得力も最高ですから、BGM的に流すことも故人は許してくれるにちがいありません。

機会があれば、ひとりでも多くの皆様に楽しんでいただきたい好盤です。

ということで、長い闘病の末に天国に召されたリヴォン・ヘルムは今頃、きっとリチャード・マニュエルやリック・ダンコに再会し、あの世でザ・バンドをやっているのでしょうか……。

衷心より、合掌。

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