OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

これで全快? 実はカモ?

2011-01-31 16:03:12 | Weblog

本日は病院へ検査診察だったんですが、めでたく全快♪♪~♪

よくなっていまね、もう、しばらくは通院しなくてOKですよ♪♪~♪

という、ありがたいお言葉を担当医から頂戴したわけですが……。

なんと薬だけは、しばらく続けるよう、意味不明の命令が!?

おいおい、治ったのに、まだ薬が必要なのかっ!?

なんか釈然としない気分で、それでも「ありがたいお薬」を出してもらいました。

なんだかなぁ……、完全に医療業界のカモにされた気分の1日でした。

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地下鉄にはS&Gが良く似合う

2011-01-30 17:37:30 | Simon & Garfunkel

サウンド・オブ・サイレンス / Simon & Garfunkel (Columbia / 日本コロムピア)

都市生活を代表する乗り物のひとつが地下鉄でしょう。

喧騒と渋滞の街の、さらにその下を轟音けたたましく駆け抜ける列車は、暗いトンネルばかりの中から密度の高い人生のような駅構内へ滑り込む繰り返しで、その1日を終えていくのですから、なかなか意味深な日常だと思います。

さて、そんな街のひとつであるニューヨークへサイケおやじが初めて行ったのは1981年でしたが、この時は乗り継ぎの飛行機の関係等々で強烈な時差ボケに襲われ、一緒に行動していた仕事での同僚もそういう状態でしたから、現地時間の極めて早朝から、2人で泊っていたホテル周辺を徘徊する仕儀となりました。

もちろんニューヨークは治安が悪く、そんな深夜の延長である時刻に無防備な日本人がふらふら歩き回るのは愚の骨頂だったかもしれませんが、こっちは2人だし、あまり考えもしませんでしたねぇ。

そして近くの地下鉄駅構内に入った時、そこで声を掛けて来たのが、観光客相手にポラロイドの記念写真を売りつけるカメラマンでした。

まあ、普通なら無視してしまうところだったんですが、何んとそいつは小道具まで用意していたという商売熱心さに感動!?

それが本日掲載したジャケ写と同じ構図と道具立てによる記念写真だったんです。

とはいえ、その時はギターを持たせられ、ポーズを指示されていたにもかかわらず、それが何の意味なのか理解出来なかったのが本当のところでした。

しかし出来上がったポラロイド写真を渡されて、思わず唸りましたですねぇ~♪

これは、俺たち、S&Gじゃないかっ!!!

ということで、その時の思い出はポラロイド写真よりも強く鮮やかな記念になりました。

さて、肝心の掲載したシングル盤は、サイモンとガーファンクルによる説明不要の大名曲ではありますが、ジャケットには「トラディショナル・フォーク・ソングを唄う、ニュー・グループ!」なぁ~んて記載があるんですから、いやはや微笑ましいかぎりです。

このシングル盤はサイモンとガーファンクル名義では、、おそらく我国で最初に発売されたものかもしれません。

ご存じのようにサイモンとガーファンクルは、この「The Sounds Of Silence」によって欧米で大ブレイクを果たしたわけですが、以前にも書いたとおり、日本では例の映画「卒業」が流行って以降の人気沸騰だったように思います。

最後になりましたが、そのポラロイドを撮影して売りつけたカメラマンは、当然ながら賭け出しだったようですが、そのアイディアの卓抜さがあるかぎり、きっと成功したに違いないと思っています。

そして素敵な思い出を、ありがとう♪♪~♪

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除雪の1日

2011-01-29 17:39:49 | Weblog

久々に雪国へ来てみればっ!?

ゲッ、借りている家が雪に埋もれている!

正月明け頃は、そうでもなかったんですがねぇ、3メートルは積もっているでしょうか?

とにかく前庭が雪でびっしり、車を入れることも、玄関に辿り着くことも不可能でした。

そこで近隣から簡易除雪機を借り、なんとかスペースを作るのに午前中を費やしました。

しかし家の中に入っても、プロパンガスのボンベと灯油タンクが雪に埋もれたまま……。

元栓を開けられないので、暖房が使えず……。

それが家の裏手にあるんで、またまた除雪して辿り着きましたが、ここで空腹限界です。

そこでお土産用に買っていた食糧に手をつけ、午後からは再びの除雪作業で、今まで動いていました。

う~ん、なんていう休日だぁ!? 久々の独り暮らしがスタートする日なのにっ!!

ということで、本日の1枚は休載致しますが、なにとぞ、ご容赦を。

今夜はサッカーで骨休め♪

いや、心臓に悪い展開でしょうか。

 

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これもルパン三世のサントラか!?

2011-01-28 15:42:56 | 歌謡曲

薔薇 / 藤井輝子 (東芝)

現在はそうでもありませんが、昭和40年代は舞台をメインに活動する歌手やショーダンサーといった、所謂レビュースタアが広く一般に認知されていました。

例えば本日ご紹介の藤井輝子は、日劇ダンシングチームのエースとして数々の賞を獲得し、また同時に欧米やアジア各国へも積極的に進出していた第一人者でした。

もちろん長身でグラマーという必要条件は言うまでもなく、また歌唱力の点においても飛び抜けた才能がありました。

しかし、ここまで書いてきた事は、決してサイケおやじがリアルタイムで接し得たものではなく、実は当時、我が家に下宿していた叔父さんが藤井輝子の大ファンであったことから、いろいろなグラビアを見せてもらい、また如何に彼女が素晴らしいかというエピソードをたっぷりと聞かされていたのです。

ただし昭和35(1960)年頃から注目を集めていた藤井輝子が、どの程度のレコードを出していたかは不明ですし、当然ながら家庭用ビデオやDVDが無い時代でしたから、叔父さんにしても生のステージに出かけるか、あるいは唯一持っていた「愛の山河」というLPを宝物として謹聴するしかなかったのが、実に勿体無いところでした。

それが昭和47(1972)年頃になると好転したというか、急に藤井輝子のシングル盤が続けて発売されるようになり、叔父さんもその都度、歓喜の購入を続けていたわけですが、中でも掲載した1枚は最高にヒップなフュージョン歌謡の決定版♪♪~♪

世に出たのは昭和48(1973)年の夏だったんですが、毬まどかの作詞に作編曲を施したのが大野雄二と言えば、ピンッとくる皆様も大勢いらっしゃるでしょう。

そうです、ここで聴かれるアップテンポのメロディとアレンジには、あの「ルパン三世」の予行演習的なフィーリングが横溢しているんですねぇ~~~♪

歯切れの良いリズム隊のグルーヴとダイナミックなブラス、そして流麗なストリングスに彩られた曲メロの劇的な展開は、誰が聞いても「ルパン三世」をモロの感じるはずです。

しかも情熱的な歌詞を余裕たっぷりな節回しで歌う藤井輝子のボーカルは、そのまんま「峰不二子のテーマ」として通用するほどですよ♪♪~♪

ご存じのとおり、大野雄二の本家「ルパン三世」は昭和52(1977)年秋からの放送で発表されたわけですから、そこでは尚更にリズムアレンジ等々がシャープになり、スピード感もアップしています。それに比べると、ここでは過剰に蠢くエレキベースとワウワウ全開のギターが如何にも時代を感じさせ、そのイナタイ雰囲気が賛否両論かもしれません。

しかし曲の良さと藤井輝子の歌いっぷりは永遠に不滅!

結果的に完全な空振りとなったのも、それが時代に先んじたカッコ良さだった所為でしょう。

ということで、大野雄二フリークはもちろん、ルパン三世マニアにも激おススメの隠れ名曲なのでした。

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お知らせ

2011-01-26 16:30:12 | Weblog

叔母、急逝のため、本日と明日は休載致します。

あしからず、ご了解下さい。

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ヴィレッジ西四番通りのディランとスーズ

2011-01-25 16:41:18 | Singer Song Writer

■風に吹かれて / Bob Dylan (Columbia / ソニー)

芸能界の全てを包括する空前のフォークブームだった昭和40年代後半の日本において、ボブ・ディランはフォークの神様!?!

そんな認識が強要されていた時期がありました。

確かにボブ・ディランは偉大なソングライターであり、優れたボーカリストでもあり、また意味不明な言葉の羅列を決してそれだけでは終わらせない哲学者ではありますが、天の邪鬼なサイケおやじにとっては、「フォークの」という部分が面白くありませんでした。

だってボブ・ディランはロケンロールの偉人でもあり、またブルースマンでもありますからねぇ……。

しかし「神様」という部分は、何を主張しているんだか分からない歌をリスナーに納得させてしまう、その超越的力量に感嘆するばかりですから、認めざるを得ないのでしょうか。

そんなこんなに拘泥していた時期が若き日のサイケおやじには確かにあったわけですが、ちょうど日本のフォークブームと歩調を合わせたかのようにボブ・ディランが例の「バングラ・デシ・コンサート」に出演したり、また「グレイテストヒット第二集」を出して積極的に動き出した事もあって、ラジオの洋楽番組では特集放送も流されるほどでした。

で、そんな企画の中で知ったボブ・ディランの人間味こそ、サイケおやじが共感出来る部分であって、例えば本日掲載したシングル盤のジャケットは、歴史的名盤となったセカンドアルバム「フリーホィーリン」からのデザイン転用ではありますが、そこに写るボブ・ディランと当時の恋人だったスーズ・ロトロのエピソードも、そのひとつです。

それは1961年の夏頃だったと言われていますが、当時は絵の勉強をしていたスーズ・ロトロは母と姉との三人暮らしでありながら、ひょんな事から出かけたショウに出演していたボブ・ディランと親しくなり、瞬く間に恋に落ちた2人は同棲生活を始めるのですが……。

現実的には当時のボブ・ディランには仕事があまり無く、一方のスーズ・ロトロも家族と共に母の故郷であったイタリアに戻る予定だったのですから、周囲が愛し合う2人に無理解な感情を露わにしていたのは想像に易いでしょう。

こうした経緯は前述したラジオの特集番組からの受け売りに、サイケおやじが例の如く独断と偏見を交えながら綴っている事をお断りして続きを書かせていただければ、とにかくボブ・ディランは相当に気分はロンリーで、しかも甘えん坊な人だったらしく、傍らにスーズ・ロトロが常に居てくれないと、眠ることも出来なかったとか!?

しかし、そういう我儘が一緒に生活する男女にとって疎ましいやっかいになるのは世の中の理でしょう。

ついにスーズ・ロトロは自らの絵の才能を伸ばす道を選び、再婚した母親と義父に伴われてイタリアに去ってしまったのですから、ボブ・ディランの心は乱れまくり、その前段として自分を避け始めた彼女に対しては、なんとストーカー紛いの行為に及ぶという、これは「天才」とか「神様」なんていう称号とは著しく遊離した行動でしょう。

そしてイタリアに渡航してしまったスーズ・ロトロに会いたい一心だったと言われていますが、1963年の初頭、運良く舞い込んだイギリスでの仕事のついでにイタリアに立ち寄るのですが……。

なんと、その数日前に彼女はニューヨークへ出発しての擦違い!

その強烈な空振りの中でボブ・ディランが作った歌が「北国の少女」だという逸話は、あまりにも出来過ぎでしょねぇ。

しかし、そんなこんながあって後、2人はニューヨークで再びの同棲生活に入るのですが、この頃には自立心が旺盛になっていたスーズ・ロトロに対し、嫉妬心の塊のようなボブ・ディラン!? 彼女が働く事も勉強する事も、とにかく外へ出る事さえも許さなかったというのですから、もはや愛情を超越した異常心理としか思えません。

ですからスーズ・ロトロもボブ・ディランを愛していながら、ついにニューヨークを去る事になりますが、ちょうど同じ頃、ボブ・ディランがセカンドアルバムとして発表した前述の「フリーホィーリン」が爆発的な評判にっ!

もちろんジャケットに写る恋人の2人が話題になった事も、当然が必然でした。

そして成り行きから再びヨリを戻したスーズ・ロトロではありますが、既に時代の寵児となっていたボブ・ディランには、あらゆる面で女に不自由する状況など無縁であり、特に同時期、「フォークの女王」として人気絶頂になっていたジョーン・バエズとの関係は、もはや抜き差しならぬものだったようです。

つまり勘ぐれば、ボブ・ディランはスーズ・ロトロが自分の傍に居なかった時期、ジョーン・バエズと仕事以外の感情で接した末に、所謂デキていたというわけですから、後年の「フォークの神様」も、若い頃はいろんな煩悩に苛まれていたのかっ!?!

そのあたりの状況は当時の芸能マスコミでも派手に扱われていたそうですが、現実問題としてボブ・ディランとジョーン・バエズの結婚なんてものは、決して有り得る話ではなく、またスーズ・ロトロとの関係も完全に破局したのは言うまでもないでしょう。

ということで、幸せの絶頂を記録したジャケ写のアルバムが売れまくっていた頃、当の本人達はドロドロの愛憎劇を繰り広げていたという、実にスキャンダラスな裏話があるんですから、ボブ・ディランには極めて人間的な親近感を覚えてしまうサイケおやじです。

そういえばボブ・ディランは、同等に歴史的な傑作アルバムとされる1965年の「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」のジャケ写にも、後に正妻となるサラ・ラウンズという女性を登場させているほど、そういう事に関しては赤裸々に拘る人だったんでしょうか?

そのあたりも所謂ディラン学では様々に研究されているようですが、そこまでは知る必要がないと思うのがサイケおやじの本音であり、ただ、ディランは神様よりは人間が似合うと、不遜にも思うだけです。

さて、そこで気になるボブ・ディランとスーズ・ロトロの恋人写真が撮影された場所ですが、「グリニッジ・ヴィレッジの西四番通り」というのが定説になっています。

そしてサイケおやじは1981年に初めてニューヨークへ行った時、思わずその場所に赴いたのですが、もちろん腕にぶらさがってくれるような愛しい女性は存在するわけもなく、一時でも幸せだったボブ・ディランを羨ましく思うだけでした。

最後になりましたが、掲載したシングル盤はボブ・ディランの代表的なヒット曲をカップリグした再発物ですが、今から20年近くも前、某中古屋で発見した瞬間から買う運命にあったと自分に言い聞かせ、ゲットしたものです。

まあ、それほどジャケ写のインパクトが強いというか、悪い予感も幸せのひとつという事なのかもしれません。

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浅川マキと蠍座の風景

2011-01-24 16:37:54 | Jazz

夜が明けたら c/w かもめ / 浅川マキ (東芝)

想い出の場所ってのは、誰にでもあると思います。

例えば本日掲載の浅川マキが、昭和44(1970)年に出したシングル盤スリープに写る「蠍座」は、当時の新宿にあった所謂アングラ芝居を多く上演する小劇場でした。そして当然ながら、あまり報われることの少なかったであろう、そうした青春の情熱が集まっていた場所でもありました。

実はサイケおやじは、この「蠍座」があった建物の表の顔だった「新宿文化」という映画館に通い続けた若き日があり、そこでは昭和40年代初頭から活動を開始したATG(アート・シアター・ギルド)による、決して商業的ではありませんが、しぶとくて鋭いフィルムの数々が上映されていたのです。

しかも場所的に伊勢丹デパートの前ということは、フォーク集会やアングラ芝居のもうひとつの本拠地(?)でもあった花園神社とか、あるいはゴールデン街が近くにありましたから、スノッブな文化人やヒッピーと呼ばれた自由人も多く徘徊していたという、なかなか怪しげな地域だったのです。

で、肝心の「蠍座」なんですが、そんな経緯から存在だけは知っていたものの、当時は入る勇気も状況もありませんでした。ただ、そんな昭和49(1974)年のある日、例によってサイケおやじはエロ映画でも鑑賞するべく「蠍座」の近くを歩いていた時、全く意味不明の些細な事からチンピラに因縁をつけられ、少しばかりボコボコにされました。

もちろん正直に言えば、サイケおやじは腕っ節も強くないし、さらに言い訳としては入れてもらっていたバンドのライプが近かった事もあり、とにかく指に怪我をしないよう、ポケットに両手を入れたまんまで無抵抗だった所為もあるんですが、それにしても誰も助けてくれなかったのは理解出来る事でもありました。

道路に倒されてケリを入れられている状態で、なんとサイケおやじは周囲を通り過ぎたり、黙って眺めている人達を納得しながら観察する、妙な余裕があったんですよねぇ。

特に件の「蠍座」前に集まっていたアクの強い数人の美女達は、多分そこへ出演する女優さんだろうか……?

なぁ~んて、今でも怖いほど、それを記憶しているのです。

まあ、幸いにして大した怪我もなく、あちこちは痛かったものの、チンピラが去った後は自力で起き上がれるほどでしたから、それも納得出来るのですが、そんな事なんて世の中には珍しくもないでしょう。

こうして時が流れました。

そして昭和55(1980)年になって友人に連れて行かれた飲み屋の壁に貼られていたのが、このジャケ写であり、なんでも店のママが当時はアングラ芝居の女優として、その「蠍座」にも出演した事があるとか!?

青春の思い出よ♪♪~♪

と、柔らかな微笑みで話してくれた彼女の深い目の色は、本当に素敵でした。

もちろん「夜が明けたら」と「かもめ」が入ったレコードそのものが鳴らされたのは、言うまでもありません。

こうして、その店に時折は通う事になったサイケおやじは、ついに昨年、建物の老朽化を契機として廃業するママに頼み込んで、前述した壁に貼られたジャケットとレコードを譲り受けたのですが、掲載したとおり、上手く剥がすことが出来なかったのは悔しくもあり、また当然の帰結として、逆に良かったと思うほどです。

さて、肝心の浅川マキの歌なんですが、それはジャズ歌謡というか、ちょいとジャンルを超越した魅力があると思います。

例えば「夜が明けたら」は本人の自作によるアンニュイなムードが横溢した名曲で、4ビートに依存したグルーヴとフルートの彩りが、モロにジャズを感じさせてくれます。さらに蓮っ葉な節回しに女の純情を滲ませるボーカルの表現力は素晴らしいですねぇ~♪

また「かもめ」は変拍子のモダンジャズビートで演じられる歌謡曲メロディが秀逸で、一篇の下世話な物語が繰り広げられる、まさに浅川マキをバックアップしていた寺山修司の「らしさ」が全開したコラポレーションの結晶♪♪~♪

両曲とも、その頃に作られたテレビドラマや映画に使われた事も度々でしたから、誰もが一度は耳にしたことがあるかと思いますが、中でも円谷プロ制作の「恐怖劇場アンバランス」で昭和48(1973)年に放送の第7話「夜が明けたら」は、そのタイトルがズバリですから、浅川マキ本人も出演した傑作になっています。

そして物語の内容も、新宿の雑踏で乱暴されながら、周囲の無関心で不条理な悲劇が……、という展開が、前述したサイケおやじの被害体験と重なっているのも親近感があります。ただし、そこにあった刹那の結末には当然ながら無関係なわけですが、現在ではDVD化もされておりますから、ぜひとも皆様にはご覧いただきとうございます。

ということで、たった1枚のレコードにも、それぞれの思い出が募るというのが、本日の結論です。

特に我国ではシングル盤であってもピクチャースリーブが当然でしたから、その幸せは格別でしょう。

ちなみにジャケ写にあるとおり、リアルタイムの「蠍座」には浅川マキも出演することが多かったようですし、この「夜が明けたら」も、そこでのライプレコーディングを基本に作られていると言われています、

う~ん、それにしても浅川マキの歌は日本語がメインの所為もあり、如何にも昭和40~50年代の都市の猥雑と悲哀が滲んできますねぇ~♪ 何時聴いても、惹きこまれてしまいますよ、本当に!

そして今となっては、一度も浅川マキのライプに接する事が出来なかった自分が恨めしく思えのるでした。

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帰還、今度もお土産持って!?

2011-01-23 16:06:44 | Weblog

昨日、戻ってきました。

おかげさまで仕事そのものは順調だったんですが……。

移動の間にすったもんだあって、右手に軽い凍傷、患ってます。

まあ、シモヤケってやつなんですけどね。

それゆえに指がツッパル感じで、キーポード打つのが些か困難です。

さて、そんなこんなで、明日からは通常ペースで更新させていただきます。

皆様には感謝、そしてよろしくお願い申し上げます。

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今度は負けないぞ

2011-01-17 11:31:39 | Weblog

因縁のU国へ行ってきます。

今回は4日で戻りますが、今度は容赦しないぞっ!

そう、自分に言い聞かせています。

ちなみにこの間、プログは休載予定ですが……。

今度は高速回線も使える見通しがありますで、成り行きまかせ♪

よろしくお願い致します。

 

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黛ジュンは不滅

2011-01-16 16:18:02 | 歌謡曲

乙女の祈り / 黛ジュン (東芝)

未だ確定ではないものの、黛ジュンの引退報道には衝撃を受けました。

なんでも5年ほど前から、原因不明の喉の病気で声が苦しくなっているそうで、現在は漢方薬を服用しながら、4~5曲を歌うのがやっとだとか……。

もちろん全盛期に比べれば、ここ20年ほどは失礼ながら歌唱力が落ちていた事は否めませんが、それでも彼女の生の歌声が聴けなくなるのは悲しいかぎりです。

世間一般から認識されているように、黛ジュンの大きな魅力は、所謂パンチの効いた歌いいっぷりなんですが、幾分ベタベタした節回しが決してお色気優先主義にならず、粘っこいソウルフィーリングを秘めた歌謡ロック的なグルーヴを醸し出していたところに、サイケおやじは強く惹かれていました、

例えば本日掲載の1枚は昭和43(1968)年1月に発売された、黛ジュン名義では3枚目のシングル盤ですが、特にA面の「乙女の祈り」は正式リリース前からヒットチャートに入っていたほどの人気曲で、実際、彼女も前年からテレビ等々で歌いまくっていましたですね。

そして確か、彼女も出演した映画「夜明けの二人」にも使われていたと思います。しかしサイケおやじは予告篇しか観たことがないので、ちょいと悔しいところではありますが、それにしても楽曲の魅力は永遠に不滅♪♪~♪

当時としては異様にドカドカ煩いドラムスのイントロからノーテンキなキメの合唱に導かれ、昭和歌謡曲王道のメロディをエグイ節回しでドライヴさせる黛ジュンのボーカルの力は絶品でしょう。さらに彼女独得の低音域のコブシの使い方が、微妙なファルセットを含んでいるあたりの天才性も強い印象を残すと思います。

またサウンド作りにも流行のファズギターとノーザンピートのストリングが満遍なく使われ、これは作編曲の鈴木邦彦がリアルタイムの冴えを存分に発揮した成果に違いありません。

と同時に、なかにし礼ならではの作詞はストレートな女の欲望と母性を両立させ、しかもイノセントな恋の不安さえも綴り込んだ秀逸さですから、これでヒットしなかったら歌謡曲の神様が激怒は必至ですよ。

ちなみにジャケットに写る黛ジュンの衣装がミリタリールックになっているのは、もちろん当時の流行で、例えばスパイダースジャガーズ等々のGSが好んで着用していたのは、ビートルズのサージェント・ペパーズ症候群のひとつなんでしょうねぇ。

あぁ、まさに昭和元禄の極みつき!

ご存じのとおり、彼女はこの「乙女の祈り」で再デビューから次なるステップにジャンプアップし、いよいよ続く「天使の誘惑」でレコード大賞を獲得するわけですが、諸行無常はこの世の理として、何時かは訪れる引退の日……。

それがついに近づいてきたという現実を素直に受け入れるのが、ファンとしての務めなのでしょう。

しかしサイケおやじは……。

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