OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

The Beatles Get Back To Let It Be:其の八

2020-08-31 13:18:25 | Beatles

今回はまず、当時のレコーディングの技術的なお話から始めます。退屈な人はこの部分を飛ばしてください、なぁ~んて、フェル博士の「密室講義」みたいになりましたが……。

ビートルズがデビューした当時のレコーディングは演奏と歌を同時に録音する、所謂「一発録り」でした。彼等が主に使っていたアビー・ロード・スタジオにはその頃、2トラックのテープレコーダーがあり、一方のトラックに楽器演奏、もう一方のトラックに歌を録音していたのです。

しかし、録音するトラックが2つしか無いからといって、マイクが2つという事は無く、楽器用・ボーカル用にそれぞれ何本かのマイクが用意され、様々な方法で上手くバランスを取り、そこからテープレコーダーに入れる時に2つのトラックにしているのです。

この「トラック」という用語を「チャンネル」と置き換えても構いませんが、ここでは「トラック」という言葉を使います。

で、もちろん「せ~のっ」で始めるわけですから、1回ですべてが上手くいくはずもなく、何回か録音をやった中から、一番良い物を選び、こ~して出来上がったものを「セッション・テープ」と呼びます。これは1960年代中頃になって4~8チャンネルのテープレコーダーが使われるようになっても基本的には変わりませんが、その頃には「マルチ・トラック・テープ」と称される様になります。

そして次にセッション・テープの各々のトラックに録音された音を混ぜ合わせて、音のバランスを聴き易い状態にする作業を行います。これを「ミックス」と呼び、その作業には「コンソール」という機械を使います。それはコンサート会場やレコーディング・スタジオにある、音量つまみが沢山ついたテーブル状の道具でして、現場や写真で見た事がある人が、きっといらっしゃると思いますが、この音を整えるという工程がとても重要で、例えばギターを大きくしたいとか、コーラスを小さくしたいとか、プロデューサーとミュージシャンが、それぞれの思惑や意図を明確にしていく仕事です。

ちなみに、ここで試行錯誤の末に出来た音を次のテープにダビングする作業を「ミックス・ダウン」と呼んでいる様ですが、それで出来上がったテープが所謂「マスター・テープ」と称され、この過程では必要な楽器やボーカル、効果音等々が追加録音されていきます。

それは、もちろん、当時はアナログ時代でしたから、前述した作業はテープレコーダー間のダビングを繰返す事によって作られていたわけですが、説明が煩雑になりますので、今回は省略します。

実際、ビートルズの初期音源のステレオ盤を聴くと、演奏とボーカルが左右にはっきり分かれているのはこの所為で、また中期以降の例えば「リボルバー」「サージェント~」あたりの錯綜した音像は、ダビングの果てに作り出されていた事をご確認くださいませ。

閑話休題。

このマスター・テープから次に「カッティング・マスター」が作られます。

これはテープに記録された音をアナログ盤にプレスした時に、きちんとレコード針で再生出来る様に調整したもので、いろいろと音の補正が行われています。したがってアナログ盤時代はマスター・テープで作られた音が、完全にレコード盤には記録されていないのです。その理由は「其の七」でも取上げたとおり、当時の家庭用レコードプレイヤーの再生能力の限界のためでした。

ですから製作者側はアセテート盤という簡易レコードを作って、出来上がった音の状態を確かめる必要があったのです。

以上の様な作業を、グリン・ジョンズはビートルズ側から任されておりましたが、出来上がった音源に対しての最終的な決定権はあるはずが無く、ただ今回のセッションは原点回帰、オーバー・ダビング等は用いず、生音勝負という方針だけが伝えられている状態でした。しかも、これまた既に述べたとおり、こ~した作業の現場にビートルズの面々は誰も立ち会っていなかったのですから、彼が仕上げたマスター・テープはアセテート盤として、メンバー達の元へ送られていたのですが、様々な記録によれば、最も初期に作られた件のアセテート盤には、次の曲がカットされていたと云われています。

  01 Get Back #-1
  02 Teddy Boy
  03 Two Of Us
  04 Dig A Pony
  05 I've Got A Felling
  06 The Long And Winding Road
  07 Let IT Be
  08 Don't Let Me Down
  09 For You Blue
  10 The Walk
  11 Get Back #-2

そして、もう1枚、伝説として有名なのが所謂「Oldies Compilation」で、そこには以下のトラックがカットされていたそうです。

  01  I’ve Got A Feeling
  02 Dig It
  03 Rip It Up / Shake Rattle And Roll
  04 Miss Ann / Kansas City / Lawdy Miss Clawdy
  05 Blue Suede Shoes
  06 You Really Got A Hold On Me

ところがメンバー達は、それに誰も納得せず、以降何度も作り直しされるのですが、しかし新曲の発売日だけは4月11日に決まっていたという事情から、これまた「其の七」で述べたとおり、とりあえず「Get Back」と「Don't Let Me Down」だけをシングル盤用のモノラル・ミックスに仕上げるべく作業を急ぎ、3月26日に完成!

4月6日にはラジオで放送されたのですが、なんとっ!

その直後にポールからクレームが入り、翌日にミックスのやり直しが行われ、当然ここではポールが現場に立会いますが、1月のセッションのミックス作業中にメンバーが参加したのは、この時だけだったとか……。

うむ、すると「其の七」でも触れた、アメリカ盤等々に入っているステレオ・ミックスは、この時にでも作られたんでしょうかねぇ~~?

しかし、それはそれとして、どうやら新曲発売の決定に到る過程は、製作側よりも営業サイドの事情が優先されていた様に思います。

ですから発売直前のこのトラブルにより、イギリスでは発売日に肝心の商品が店頭に並ばなかったという噂もあります。

しかし、世界中が待望していたビートルズの新曲でしたから、忽ちチャート第1位の大ヒット!

ちなみにこのシングル盤の「Get Back」は屋上で演奏されたバージョンでは無く、1月27日と28日にアップル・スタジオで録音された物を混ぜ合わせていて、後に発売されるアルバム「レット・イット・ビー」に収録された同曲とも異なる仕上がりになっております。また、モノラルミックスの方が若干長めの収録になっておりますが、そのあたりは後で取上げます。

一方、B面の「Don't Let Me Down」は、おそらく1月28日にスタジオ録音されたバージョンを基本に、1月30日に屋上で演奏され、映画でも観る事が出来るバージョンを少し混ぜたものではないかと推察しておりますが、いかがなものでしょう。

ということで、「Get Back」の大ヒットにより、いよいよ新アルバム発売と映画公開の予定も見え始め、ここで本来ならば、めでたし、めでたしとなるところなのですが、肝心のビートルズは、もう誰もそのプロジェクトに関心が持てなくなっており、驚いた事には新曲のレコーディングを始めていたのです。

したがって新アルバムの編集作業は、またしてもグリン・ジョンズの孤独な作業となり、そこへ営業サイドが口を出すという悪循環……。

それでもついにアルバムは完成します。

そして6月末、アップル・コアから「新アルバムの発売は8月末、テレビショウの放映はその前後」という発表が行われるのですが、それがまた謎を呼ぶ発言になるのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月27日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の七

2020-08-30 09:45:49 | Beatles

聊か確信犯的な書き方ではありますが、今日の歴史では「ケット・バック」から「レット・イット・ビー」へと衣替えされたアルバムの功労者はフィル・スペクター!

という事になっている様ですが、しかし同時に無視出来ないのが、最初に1月のセッション・マスターを託されたグリン・ジョンズの仕事でありましょう。

なにしろそれは既に述べたとおり、約28時間超と云われる正式なマルチトラックで録られた音源に加えて、映画用に撮影されたフィルムのシンクロ音源が、なんとっ! 96時間を超えていたそうですし、さらに現在までのリサーチによれば、さらに集められた音源を総計すれば、140時間以上!?

何故にそんなに多いのかと言えば、殊更映画用のシンクロ音源は撮影に複数のカメラを用いた事から、その台数個別にテープが回されていたという事情があるらしく、当然ながら映画用はモノラルなのに対し、レコード用に録られた音源はステレオミックスが可能なんですから、きっちりこれを全て聴き、精査(?)する作業の困難さは、その現場に立ち会っていたグリン・ジョンズでなければ無理難題というものでしょう。

そして悪戦苦闘の末、1969年1月30日までに、下記のラフミックスを仕上げていた様です。

  01 Get Back #-1
  02 Get Back #-2
  03 Teddy Boy
  04 Two Of Us #-1
  05 Two Of Us #-2
  06 Dig A Pony
  07 I've Got A Felling #-1
  08 I've Got A Felling #-2
  09 The Long And Winding Road #-1
  10 The Long And Winding Road #-2
  11 The Long And Winding Road #-3
  12 Let IT Be #-1
  13 Let IT Be #-2
  14 Rocker
  15 Save The Last Dance For Me
  16 Don't Let Me Down
  17 For You Blue
  18 The Walk
  19 Lady Madonna
  20 Dig It #-1
  21 Dig It #-2
  22 Maggie Mae
  23 Medley:Shake,Rattle And Roll / Kansas City / Miss Ann etc.

ただし、そこにビートルズのメンバーは誰も立ち会っていなかったと云われていますから、全てはグリン・ジョンズの独断先行による作業だったわけですが、とりあえず上記したトラックを入れたアセテート盤が作られたからこそ、ジョンとポールはグリン・ジョンズに後事を託す決断をしたものと思われますし、こ~ゆ~「叩き台」が無ければ、フィル・スペクターが後に速攻で「レット・イット・ビー」を仕上げる事は難しかったんじゃ~ないでしょうか?

ちなみに、このセッション音源は今日までにブートとして相当に纏まった分量が流通しており、ちょい前には、83枚組CDの「Complete Get Back Sessions (Moon Child)」なぁ~んていう化け物セットが廉価で売られていたんで、サイケおやじも思わず入手してしまったんですが、とてもとても、死ぬまでに全てを聴くほどの気力も時間もございません……。

閑話休題。

こ~して抽出された曲の中からとりあえず4月の契約を履行するために、「Get Back」と「Don't Let Me Down」がシングル盤のカップリングとして発売されるのですが、それでは誰がその決定をしたのでしょう?

通常であればビートルズ本人達とプロデューサーのジョージ・マーティンの意思が最も大きく作用するはずですが、今回のプロジェクトの仕上げの部分は完全に他人まかせの状態です。そこに間違いなくあったのは、4月に新曲を発売しなければならないという契約だけでした。

普通に考えれば「Get Back」は、今回のセッションがポールの発案で原点回帰をベースにしていたのですから、それに合わせて書かれた曲を選んだという解釈が出来ます。

一方、「Don't Let Me Down」はセッション中では出来が良いし、グループ内のバランスを取る上でジョンの曲を選んだのだろうと推察出来ますが……。

このあたりがウヤムヤになっているからでしょうか、4月11日に発売されたこのシングル盤にはプロデューサー名の記載が無く、その代わりにビリー・プレストンの名前が共演者として特別にクレジットされております。

また、この発売に合わせて行われたプロモーションでは、後に映画「レット・イット・ビー」として公開される映像の一部がテレビ放送されました。ちなみに、この当時の本篇タイトルは「ゲット・バック」とされていた様です。

そして特筆すべきは、このシングル盤はイギリスでは従来どおりモノラル仕様でしたが、5月5日に発売されたアメリカ盤はステレオ仕様でした。

これがビートルズの公式シングルとしては初めてのステレオ盤という事になっております。

もちろん6月1日に発売された日本盤もステレオ仕様でしたが、実はそれに先立ち、日本では3月10日に「Ob-La-Di, Ob-La-Da / While My Guitar Gently Weeps」が独自企画のシングル盤として「ホワイト・アルバム」からカットされて発売、これがステレオ仕様になっておりました。

そのあたりは当時の事情として、家庭用ステレオ装置は1960年代初頭から一般的になっておりましたが、ロックやジャズを好む若者、あるいは黒人層にはまだまだ普及しておらず、公共放送にしても、モノラルがほとんどという事で、欧米で発売されるレコードはモノラルとステレオの2種類が当たり前でしたから、製作段階では両ミックスのマスター・テープが存在しており、しかもモノラルは単にステレオをモノラル処理したものではなく、ちゃんとそれなりに音のバランスを整えて作られておりました。

ご存知のとおり、その頃のステレオ盤は左右に音の広がりを求めるあまり、真ん中から音がしないというレコードが沢山あり、反面モノラル盤は出力の小さいポータブルのプレイヤーで鳴らされる場合が多い事から、音圧レベルが高く設定されていたので、迫力のある音が楽しめます。

特にシングル盤は完全にモノラルの世界でした。

ところがアナログの世界ですから、あまり重低音を強調したり、音の強弱がキツイと、一般家庭にあるレコードプレイヤーでは針飛びをおこしてしまいます。

したがって製作者側は出来上がったマスター・テープが実際に針を落として聴かれた時、どの様な雰囲気になるのかを掴むために、アセテート盤という簡易レコードを作ります。これはカッティング・マシンで直接アセテートに音を刻んでいくもので、片面しか溝がありませんし、普通のレコードに比べて厚みはありますが、通常4~5回かけると溝がダメになってしまう代物です。

それでも当時は未だカセット・テープが音楽用としては使い物になっていなかったために、ラジオ局等へのプロモーションにも、これが使われておりました。

そして……、1970年代初頭から活発になる海賊盤ビジネスのネタ元のひとつが、このアセテート盤の流出でした。

もちろんそれが「レット・イット・ビー」の混迷にも一役買っていたのは、言うまでもありません。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月25日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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ツイキャスに溺れる

2020-08-29 19:47:45 | Movie

何とも楽し過ぎたのが本日、生配信された「ひし美ゆり子&西恵子」のツイキャス

夢中になって見ていたら、大切な要件のメールを見逃して、泡喰ってます (^^;

でも、本音は後悔していないんですよっ!

気になる皆様は、これからでもチケット買えば、後追いで楽しめますよ (^^)

そんなわけで、本日は、これにての退場、ご容赦くださいませ。

う~ん、それにしても、良い時代になったもんです。

失礼致しました <(_ _)>

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の六

2020-08-28 10:29:27 | Beatles

映画「レット・イット・ビー」で、たっぷりと見る事が出来るビートルズ内の人間関係の悪さは、音楽的対立だけが原因ではありませんでした。

極言すると、一番の原因はやっぱり、お金!

まず、1969年初頭には「アップル・コア」の経営は完全に行き詰っており、好調なのはレコード部門だけという有様でした。

そして当然様々な立直し策が模索される中、彼等に接近して来たのが、あまり評判の良くない芸能界専門の会計士であるアレン・クラインというアメリカ人でした。しかし、その手腕は確かだったらしく、当時はローリング・ストーズの会計顧問に就任していて、絶望的な危機に陥っていた彼等の経済状態を見事に立ち直らせていたのは有名でした。

彼とビートルズの接点については諸説あり、ローリング・ストーズのミック・ジャガーからの紹介と言う説もありますし、同時にミック・ジャガーはアレン・クラインのガメツイ商売には気をつける様に忠告しただけという説もありますが、何れにせよ、彼がデビュー以来のマネージャーだったブライアン・エプスタイを失って迷走するビートルズに目を付けていた事は間違いなく、まずジョン・レノンを篭絡し、ジョージとリンゴもそれに従います。

ところが、ポールは当時婚約中だったリンダ・イーストマンの父親で弁護士のジョン・イーストマンをマネージャーにする計画を持っておりましたので、これには大反対!

しかし、他の3人はジョン・イーストマンが、あまりにもポールに近い事、さらに音楽業界には素人だった事から認めるはずも無く、所謂多数決により、ビートルズがアレン・クラインをビジネス・マネジャーとして迎え入れた時のスチールカットを掲載致しましたが、いゃ~~、冗談半分だったとしても、ポールのキメポーズは露骨過ぎると思いますねぇ~~。これじゃ~メンバー間の亀裂反目は決定的と思う他は……。

これが1969年5月の事で、厳密にはポール以外のメンバーが個人のマネージメント契約を優先させていたという事実もあるんですが、実は同じ頃、故ブライアン・エプスタインが運営していた元々のビートルズのマネージメント会社「ネムズ」が遺族の手によって売却される事になり、またビートルズの楽曲を管理している出版社「ノーザン・ソングス」の運営者だったディック・ジェイムスが、自分の持ち株を某テレビ会社への売却を画策しておりました。

そして……、この動きを察知したポールが、他の3人のメンバーには秘密で「ノーザン・ソングス」の株の買占めに走り出します。もちろん、これ等の会社はビートルズのメンバー全員が投資しておりますから、ポールの行動を掴んだアレン・クラインは対抗策として、他の3人及び自分の資産を投入し、株の買取合戦が繰広げられますが、結局は某テレビ会社が、その株の大部分を取得してしまいます。

こうして、ますます泥沼に落ちていくビートルズは、最終的には法廷闘争で決着をつける事になって行くのですが……。

庶民感覚からすれば、ビートルズの資産は計り知れないし、そんなにお金が無いのか……?

なぁ~ンて思ったりもしますが、そこはやはり持てる者の悩みというか……。ちなみにデビュー時からのマネージャーだったブライアン・エプスタインが生きていた頃のメンバーのポケット・マネーは、常に「ネムズ」から定期的に渡される5万円程だったという噂もあった位です。

う~ん、もちろん各種の支払はカードでも使っていたんでしょうか? それにしたって、利用状況には厳しいチェックがあった事を思えば、いやはやなんとも……。

閑話休題。

で、そんなドロドロしたものが渦巻く中、本格的に「アップル・コア」の立直しが始まります。なにしろアレン・クラインの取り分は破格の20%という事で彼も大ハッスル!

会計監査や関連会社従業員の大量解雇等々を手始めに、1月のセッションの制作費を回収するために、ほとんど纏まっていないライブショウ映像の企画練り直し、そして新曲発表の手筈を着々と進めていくのですが、これが後に大きな問題を引起こしたのは、今や歴史です。

一方、ポールも法務担当という名目で、ジョージ・イーストマンを「アップル・コア」と契約させますが、これはもちろん、アレン・クラインの監査が目的だった事は言わずもがなです。

ところで、こうしたドロドロした蠢きの中、1月のセッションで録られたマスターテープを託されたグリン・ジョンズはど~していたかと言えば、根城にしていたロンドンのオリンピック・スタジオで着々と作業を進めているのでした。

注:本稿は、2003年9月25日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の五

2020-08-27 19:11:47 | Beatles

1969年1月の困難なセッションが31日で一応終了した後に残されたのは、約38時間分の映像撮影フィルムとそのシンクロ音声トラックが約96時間分、そして正式レコーディング音源となる約28時間分のマルチトラックで録られたマスターテープでした。

そしてフィルムからは、とりあえず1時間半程度の本篇とそのおまけ的なメイキング・ドキュメントの2本が同時進行的に作られていきましたが、問題はその音源を基にして発売が予定されているレコードの製作でした。

なにしろ1月30日の屋上セッションと翌日のスタジオセッション以外の部分は、完奏されている曲がほとんど無い状態でしたし、新曲はもちろんの事、オールディズ曲にしても纏まりが無く、膨大なテイクが重ねられていただけの状態でした。

その原因はリハーサルも含めて、録音現場に纏め役が不在であった事、つまり公式デビュー以来のプロデュースを担当していたジョージ・マーティンが、今回はほとんど関わっていないという現実でした。

では、何故そうなったのか?

諸説はありますが、個人的には今回のセッションが映像作品を作ることを優先していた所為ではなかろうかと、推察しております。

ご存知のように、欧米は各職業別に組合があってその力は絶大!

最初に何か仕事をするためには、その業種の組合に加入しなければ働く事が出来ません。

つまり現場で映像の仕事に関わるためには、映像関連の組合に加入していなければならず、おそらくジョージ・マーティンが非組合員であったことは容易に想像出来ます。したがって、セッション初期にトゥイッケンナム・フイルム・スタジオで行われたリハーサルにおいても、その録音は撮影班主導で行われ、彼は現場にいても口を出す事が出来なかったんじゃ~ないでしょうか?

それでは、これ以前のビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ」「マジカル・ミステー・ツアー」ではどうだったのかと言えば、そこには楽曲が先にあり、映像として彼等が歌う部分は基本的に所謂「口パク」、したがって音楽部分と映像部分は切り離して考える事が出来ます。もちろん、アニメ作品の「イエロー・サブマリン」も同様です。

しかし、今回の場合はそうはいきません。

音楽を生み出す場面を映像で追う、しかもその目的が放送用ライブショウの製作とあってはっ!

で、肝心の撮影班はドキュメントを撮るという趣旨で、ビートルズのメンバーに演出を施すわけもなく、また彼等も基本は生演奏一発という方針に甘え、さらにポール以外のメンバーに無気力ムードが蔓延していた様ですから、ダラダラとした時間だけが記録され……。

この状況はアップル・スタジオに移ってからも基本的に変わる事は無かったと思われます。

それは「其の参」でも述べたとおり、既にジョージ・マーティンは当時EMIを辞めて別会社を経営する身分になっており、ビートルズは自分達の会社を設立して原盤製作の主導権を握っていました。またこれまでの経験からスタジオでの仕事の要領というか、進行方法は彼等なり掴んでおり、また製作方針が複雑な録音作業を必要としないライブショウ仕立のシンプルな生演奏という事で、彼等、特にポールには自信とある程度の目安があり、この際全てを自分達で仕切ってしまおうという目論みがあったのではないでしょうか?

で、ここで浮かび上がってくるのが、一応録音エンジニアという名目で参加したグリン・ジョンズの存在です。

掲載のスチールショットでポールの隣に立っているのが、そのグリン・ジョンズで、このプロジェクトに参加した時は27歳でしたが、高校生の頃からロンドンの音楽録音スタジオで修行を始め、この時までに何人かの有能なプロデューサーの下でローリング・ストーズ、フー、キンクス等々のヒット曲作りに関わっていたキャリアの持ち主です。

しかも立場はフリーランス!

イギリスでは最も早い時期に活動を開始したフリーの録音エンジニアで、当然、映画やテレビ関係の仕事もこなしており、組合に加入していたのは確実だと思われます。

どんな職業でも良い仕事をこなすためには、それなりの専門知識と技術・経験が必要です。それは音楽録音とても例外ではなく、映像スタッフが録音するシンクロ音声は台詞や擬音はきちんと処理出来ても、ロックの音を上手く扱えるか否かは未知数です。グリン・ジョンズがポールから参加要請を受けたのは、1968年12月末頃らしいのですが、おそらくポールのこの行動は、その点に不安を抱いた末の結論だったと思います。

そしてトゥイッケンナム・フイルム・スタジオで行われたリハーサルの録音に関して、実際に彼が様々な指示を出していたのは間違い無く、それは音質の良し悪しに関わらず、海賊盤に収録されたリハーサル音源とアップル・スタジオで録音された音源を聴き比べれば、その音の雰囲気に共通性を感じてしまう事からも明らかです。

しかし、そのグリン・ジョンズにしても、所詮は余所者です。

現場にはジョージ・マーティンが顔を出す日があり、加えてビートルズ内部の人間関係は最悪!?

また、この頃から常にジョンの側に寄添うオノ・ヨーコの存在にピリピリするスタッフ、そして音楽製作現場の勝手が分からない撮影班は、連日の長時間労働に疲れきっていたと言われており、年齢の割りにキャリアがあるグリン・ジョンズではありますが、おそらくは……、そんな中での仕事は相当にやりにくかったんじゃ~ないでしょうか。

そんなこんながあったからこそ、残された音源素材は3月まで手付かずで放って置かれたと思うばかりです。

おそらく、ビートルズ本人達にとっても、これは無かったことにしたいはずでした。

しかし、現実は非情です。

まず自分達の仕事の土台になるはずだった「アップル・コア」が経営不振、またEMIとの契約から4月中に新曲を出さなければならないという瀬戸際に追いつめられていたのです。

もちろん、こ~なると頼みの綱は1月のセッション音源だけとなり、そこでジョンとポールはグリン・ジョンズにその全てを渡し、事後を託すのですが、ビートルズのメンバーは誰一人、その作業現場には立ち会わなかったと言われております。

その理由は、その頃のグループ内の人間関係が尚更に悪化し、加えて周囲の思惑も絡んでドロドロとした壮絶なドラマが展開されていた事です。

そして……、アレン・クラインという男がそこへ登場した事から、ますます事態は混迷するのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」

注:本稿は、2003年9月23日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです

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残暑厳しく…

2020-08-26 19:50:51 | Weblog

さらに仕事が縺れて、ど~にもなりません、今日は…… (◎_◎;)

本日は、これにての退場、ご理解くださいませ <(_ _)>

明日の風は、どっちだろぉ~~~。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の四

2020-08-25 19:15:58 | Beatles

未来の何時の日か、タイムマシンが実用化すると思っている人には酷な話ですが、サイケおやじは、それは無いと思っています。

何故ならば、ビートルズが最後のライブパフォーマンスを演じたアップル本社の屋上には、ほんの少数の観客しかいなかったのですからっ!?

だって、もしもタイムマシンが未来に完成しているのなら、その場は夥しい人間で溢れかえっていたはずだと思うんですよねぇ……。

なぁ~んていうタイム・パラドックスも異次元空間も無視した様な妄想を抱いてしまうほど、それは寒々しい光景でした。

記録によると、その時の気温は摂氏2度、待ち受ける観客は後にジョンと結婚するオノ・ヨーコ、同じくポールの妻になるリンダ・イーストマン、リンゴの妻のモーリン、そしてジョージ・マーティンを含む関係者やスタッフ数名……。

ジョンとジョージは女物の毛皮のコートを着ているし、リンゴは「本当にここでやるのかい?」と言っている……。

ビートルズの2年半ぶりのライブ・パフォーマンスはそんな状況下でスタートしました。

しかし、それは結論から言うと、映画のクライマックスに相応しい、とんでもなくエキサイティングなショウになりましたっ!

演奏された曲目は、手元にある映像や正規盤及び海賊盤音源等によると、下記のようになります。もちろん同じ曲を繰返しているのは、ライブパフォーマンスとはいえ、やはり基本は非公開故の事、そのあたりをご理解いただいた上で、サイケおやじなりの検証結果を述べてみようと思います。

01 Get Back #-01
 これはほとんどリハーサルというか、肩慣らし的に進行しています。ジョンとジョージのギターもかなり不安定、おそらく寒くて手が悴んでいたのではないでしょうか……?

02 Get Back #-02
 このテイクも前と同様な雰囲気ですが、ポールとリンゴのリズムはなかなか安定しており、またポールのボーカルにも力が入っている様に感じますし、ジョンのノリは良くなっておりますが、相変わらずジョージは何をやっているのか分かりません。
 ここは映画でも屋上セッションの最初の曲として観る事が出来ますが、それはこの2つのバージョンを巧みにつなぎ合わせたものだと資料にありました。それが正解の処理、見事だと思います。

03 Don't Let Me Down #-01
 ここから突如としてバンドのノリが良くなります。
 特にジョンのボーカルが全開、味と上手さと力強さを兼ね備えた強烈なグルーヴを発散します。
 ここは映画版「レット・イット・ビー」にそのまま使われておりますので、ぜひ観ていただきたいところです。体全体から歌い、演奏することの喜びが満ち溢れているジョンの姿には、素直に感動するはずです。
 音楽的にはビリー・プレストンの弾くエレピが、ファンキーでありながらメローという黒人感覚を存分に発揮していて素晴らしく、最後のソロはもっと続いて欲しいと願うほどです。またギターとベースの絡みも強烈で、これまでスタジオでダラダラやっていたのは何だったんだっ!? と思わせるほどです。
 しかしながら現在、映画版「レット・イット・ビー」は絶版状態、音源的にも完全な形で公式発売されていないこのテイクは、映像版「アンソロジー」でもその一部にしか接することが出来ず、本当に残念です。
 もちろん、それゆえにブートが人気を呼ぶわけですが……。

04 I've Got A Feeling #-01
 前曲からのノリを引き継いで、これもなかなかの名演で、映画版および正規盤「レット・イット・ビー」にそのまま使われております。
 ジョンとポールの歌の絡みも強烈ですが、ジョージのギターが黒人系のオカズを入れてくるところが大好きです。
 この曲に限らず、当時の彼等の演奏に垣間見える黒っぽい雰囲気は、ここでも味のある技を披露するビリー・プレストンの影響でしょうか?

05 One After 909
 皆様 良くご存知のように、この曲はジョンが17歳の時に書いたもので、ビートルズとしても1963年に録音しており、その時はお蔵入りしましたが、現在は「アンソロジー 1」で聴くことが出来ます。それはジョンの歌い方等、当時としてはかなり粗野で泥臭い雰囲気に満ちていたとは思いますが、しかしこの屋上セッションのバージョンには敵うはずもありません。ロックン・ロールを飛び越してファンキー・ロックの風さえ、サイケおやじは感じてしまいますねぇ~~♪
 特にジョージのギターは1963年バージョンでは中学生程度だったものが、ここではファンキー!
 ジョンの嬉々とした身振りと歌!
 ここも映画版でそのまま使われていて、何度観ても飽きません。もちろん正規盤「レット・イット・ビー」にも収録されました。

06 Danny Boy
 前曲のラストに続けてジョンが唸りました。よほどノッていたというか、機嫌の良さがうかがえると思います。ちなみに原曲は北アイルランドの民謡「ロンドンデリーの歌」で、ここも映画版および正規盤「レット・イット・ビー」に入っております。

07 Dig A Pony
 はっきり言ってかなりダレた曲だと思いますが、それを生演奏でここまでキメてしまうのは流石!
 その決め手はやはりビリー・プレストンのキーボードの隠し味と、リンゴのファジーでタイトなドラムです。つまり安定していて許容範囲が大きいリズムを叩いているということです。他のバンドがやったら3分持たないだろうし、下手と言われているビートルズのライブバンドとしての実力を再考させられますよ。
 ここも映画版ではそのまま使われておりますので、じっくりご確認いただきたいところです。
 そこでは歌詞カードを持ってジョンの前に屈みこんでいるスタッフの姿も映っており、現場の雰囲気がダイレクトに伝わって、リアル感満点です。
 ちなみに正規盤「レット・イット・ビー」に使われたのは、このバージョンを元にして若干の編集が入っていると思います。

08 God Save The Queen
 様々な海賊盤だけで聴くことが出来るイギリス国歌の断片です。これが演奏された真相は、録音テープの交換による中断の間を持たせるために働かせたビリー・プレストンの機転だったとか……。

09 I've Got A Feeling #-02
 「04」に続く2回目の演奏になりますが、かなり荒っぽさが目立ちます。

10 Don't Let Me Down #-02
 これも「03」に続く2回目の演奏ですが、正規な発表は現在までのところ、無いと思われます。
 サイケおやじの持っているブートも、この部分の音が良くありません。
 実はビートルズが屋上で演奏しているというので、周辺の道路や建物の屋上等には偶然の幸運に恵まれた人達が集って来て混乱が起きていました。ついには警察が出動する事態になりますが、その一部始終はフイルムにしっかりと焼き付けられます。当然、この頃になると演奏現場である屋上にもその騒ぎが伝わってきて、彼等の演奏に集中力が感じられないのは、その所為かもしれません。

11 Get Back #-03
 この日3回目の演奏は完全にメチャクチャ、その一歩手前です。
 演奏を中止させるべく屋上に上がって来た警官に気を取られるジョンとジョージ、そしてスタッフ、しかし撮影班だけが不自然なほどに冷静です。
 そして曲は中断しそうになりますが、何とか持ち直して最後まで完奏され、その最後の方でポールが「屋上でプレイしていると、そのうち逮捕されるぜっ」とアドリブで歌詞を変えて歌います。
 さらに演奏を終えた後、ジョンが「グループを代表してありがとうと言います。オーディションには合格したいものです」とキメの一言!
 その一部始終は映画版「レット・イット・ビー」で観ることが出来ます。
 またその演奏の一部と警官にとっちめられるスタッフの姿は、映像版「アンソロジー」でも接する事が出来ますが、そこには未公開フィルムも使われており興味深いところでした。
 また、音源的には「アンソロジー 3」にミックスを整えて収録されております。
 そして……、この曲を最後に、約42分間の歴史的事件は幕を閉じました。

さて、こうして撮影されたこの屋上セッションは、演奏シーンと周辺に集まってくる人々、その混乱の様子と警察の出動等々を巧みに編集して、映画版「レット・イット・ビー」のクライマックスを形成しております。

しかし、これは純粋の意味でのドキュメントだと、サイケおやじには思えません。

それは周辺の混乱を映し出した映像に所謂「やらせ」の雰囲気が感じられるからで、例えば最初から集ってくる人々を撮影するために撮影班が待機していた事、その群集の中にどう見ても俳優やモデルという人種が混じっている事、例えば、ミニスカのお姉ちゃんとか、文句を言ってるおばちゃんとか、屋上にパイプをふかしながら昇ってくる爺さんとか……。

また、周辺ビルの屋上で見物している人々を撮影するカメラワークが計算づくを感じさせる場面もありますし、警官がアップル本社に入って来る場面を待ち構えていて撮影したカットまであります。

その全てが「やらせ」とは言いませんが、あらかじめ騒ぎが起こるのを想定した仕事という他は無く、警察の介入という部分まで、強烈な演出を感ぜざるをえません。

だいたい、誰が最初に警察に電話を入れたのかは、解明されているのでしょうか? スタッフの誰かが電話したとは思いたくはありませんので……。

とは言え、やはりここは興奮のハイライトでした。後のインタビューではポールもリンゴも「逮捕されたかった、逮捕されて連行される場面で映画を終わらせたかった」と述べている様に、メンバーにとってもこれは満足のいく演出だったという事なのでしょう。

これ以降、ビートルズの真似をして屋上でライブをやりたがるバンドが続出した事でも、その衝撃度・影響度・カッコ良さは絶大なものがありました。

ちなみにこのライブパフォーマンスは、厳密に言えばビートルズの契約違反だと言われております。

それはマネージャーだった故ブライアン・エプスタインと交わした、発売前の新曲はステージでは演奏しないという契約を破っていたという事です。したがって彼が存命ならば、こんな馬鹿げた企画は通るはずもなく、このあたりにも「運命のいたずら」の様なものを感じてしまいます。

そして翌1月31日、ビートルズは再びアップル・スタジオで映画版「レット・イット・ビー」で使われた「Two of Us」「The Long And Winding Road」「Let It Be」の他、数曲の撮影と録音を済ませ、長くてトラブルの多かった作業をどうにか収束させる事が出来ました。

しかし、本当の混乱と迷走は、ここから本格的に始まるのです。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年9月22日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の参

2020-08-24 20:04:38 | Beatles

さて、こうして続行が決まったセッションは1月20日からアップル本社の地下に新設されたアップル・スタジオで再会される運びとなりましたが、ここでまたしてもトラブルが発生します。

それはアップル・スタジオの設備が全く使い物にならないという驚愕の事実でした。

その責任者はマジック・アレックスというビートルズの親しい友人で、その分野ではかなりの実力者だったと云われておりますが、アップル・コアの子会社であるアップル・エレクトロニクスの経営者に納まった彼は、そのスタジオを夢の様な設備にすると豪語!?

大金を使い放題につぎ込んでいたのに、出来上がっていたのはガラクタ同様……。あわてたスタッフは急遽アビイ・ロード・スタジオから機材を運び込むハメとなります。そしてどうにかセッション再開にこぎつけたのが1月22日のことでした。

当時はこんな金喰い虫が彼等の周りには大勢いたのではないでしょうか……。

で、レット・イット・ビー・セッションの正式な録音はこの時点からスタートする事になりますが、それではこれ以前の関連音源は何かと言えば、撮影していたフィルムのシンクロ音声トラックであり、そこから正規盤に使用されたのは短いお喋りの一言だけでした。

ただし後年、この音源は夥しい数の海賊盤として世に出る事になります。

また、アップル・スタジオ・セッションは一応ジョージ・マーティンがプロデューサーという事になっておりますが、実際の現場を仕切っていたのは録音エンジニアのグリン・ジョンズだった様です。

このあたりはビートルズが自分達の会社を持ち、原盤製作の主導権を得た事やジョージ・マーティンがEMIから独立して別会社を経営していた事、そして後々詳しく記述しますが、グリン・ジョンズがフリーの立場で実績を上げていた事等々、当時の状況が複雑に絡まった結果と推察しております。

そしてそれが後々、事態を尚更に混迷させていったのは言わずもがな、肝心のレコーディングと撮影は、以前の方針、つまりライブショウ仕立を貫くためにオーバーダビング等を排除した生演奏形式に拘ったために、そのサウンドの薄さを懸念したジョージ・マーティンの進言により、キーボード奏者を入れる事になり、そこで起用されたのがビリー・プレストンでした。

彼はアメリカの黒人プレイヤーでしたが、ビートルズが駆け出し時代の1962年にハンブルグへ巡業に行った際、リトル・リチャードのバンドメンバーとして当地を訪れていたという旧知の仲でした。そしてその日、つまり1月22日、偶然にもアップル本社のロビーでジョージと再会し、セッションに加わる事になったそうですが、それにしても彼が何の用事でそこに現れたのか、この謎は解けているのでしょうか?

この当時のビリー・プレストンは、世界的には無名でしたが、アメリカの音楽業界では大変な実力者として認められており、ナット・キング・コール、サム・クック、レイ・チャールズ等々の大物歌手やテレビショウのバックバンドで活躍しており、その音楽性はゴスペル、ジャズ、R&Bだけでは無く、広くポップス全体を包括するものでした。

その彼が参加した事により刺激を受けたのか、ようやくセッションも本調子!

1月終盤には多くの楽曲が完成形に近いものに仕上がり、このあたりの現場の雰囲気は映画「レット・イット・ビー」や映像版「アンソロジー」で観る事が出来る様に、メンバー全員がプロ意識に目覚めたというよりも、ビリー・プレストンという才能豊かな他人を前にしてバンドの恥を晒さない様にしていたと、サイケおやじには感じられますし、音楽的にも随所に聴かれるツボを外さないアクセントや彩りを添える大活躍!

その功績からか、彼はこの後にアップルから素晴らしい2枚のアルバムをリリースする事が出来ました。特に1枚目の「神の掟」はなかなかジェントルなソウル・アルバムです。またビートルズと共演したという事で、漸くにして彼の知名度は、その実力に追いつくほど大きく上がり、1973~1977年にかけてはローリング・ストーンズをサポートしてその音楽性をファンキーなものに大転換させるという黒幕となり、自分自身でも多くのヒット曲を連発していきます。

一方、映像の撮影も快調!

その責任者であるマイケル・リンゼイ=ホッグは以前にビートルズのシングル盤「ペイバーバック・ライター」のプロモーション・フィルムを手がけ、好評を得ていたので、メンバーからの信頼があったのかもしれません。

そしてついに、この企画のハイライトになったアイディアを実行に移します。

もちろん、それはアップル本社ビルの屋上で行われた、真昼のライブセッションでした。

これは元々、聴衆を前にして演奏したいというポールの意向を汲んでの目論見であり、しかも屋上ならばファンからは隔離されているという環境なので、他のメンバーも同意するに違いないというヨミがあったと思われますが、案の定、これにはジョンも乗り気で、反対するジョージとリンゴを説得した様です。

ちなみにアップル本社ビルはロンドンのサビル・ロウ3番地にあり、ここは日本でいえば東京・丸の内みたいな場所です。サイケおやじは以前、現場に行ったことがありますが、丸の内の路地裏みたいな雰囲気で、映画で観ていたよりも道幅の狭いところでしたので、そんな場所で真昼間にビートルズが演奏するなんてのは、音は聞こえるが、姿は見えないというヒネクレタ大サービスでしょう。

う~ん、如何にもジョンが好みそうで、マイケル・リンゼイ=ホッグ監督のお膳立ての上手さが光ります。

そして当日は今や歴史となった、1969年1月30日!

早朝から準備は入念に進められます。屋上にはカメラが5台設置され、また周辺の建物や道路にも撮影班が配置されました。録音には地下のアップル・スタジオの機材が使用されることになり、当日は強風のためにそのマイク設定には相当な時間がかかった様です。

こうして全ての準備が整った時、ロンドン市街は昼飯時、そこでいよいよビートルズ最後のライブパフォーマンスが始まるのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年9月21日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の弐

2020-08-23 19:30:04 | Beatles

ビートルズという人類の歴史の中にあって、未だ解明されていない多くの謎の中でも、通称「ゲット・バック・セッション」から「レット・イット・ビー」への流れこそは、残された資料の夥しさゆえに、何時までも答えの出ない証明問題かもしれません。

それでも、その発端を考察すれば、どこまでも遡る事は可能ですが、ここでは1968年5月の「アップル・コア」の設立発表と「ホワイト・アルバム」の製作開始という時点から話を進めたいと思います。

で、「アップル・コア」は簡単に言えばビートルズ自身の会社であり、自分達のやりたい事を自分達でやるという発想の元にスタートした、つまり現代でいうインディの発想だったと思います。

これには彼等の育ての親ともいうべきマネージャーのブライアン・エプスタインが、前年の夏に死去している事を抜きには語れない部分があり、案の定、纏め役がいないくせに「資金」と「顔」だけはあるという事から、ビジネスとしては成り立たない部分も多く、結果的にビートルズの足枷となりました。

それは同時期に開始されたレコーディング・セッションにも影響したのでしょうか、様々な意味で纏まりが無く、11月に「ホワイト・アルバム」として発表される事になるその内容は、ほとんどが彼等ひとりひとりの音楽的嗜好を反映させた曲の寄せ集めでした。

しかし、それらはスタジオ・テクノロジーを極限まで活用した「リボルバー」や「サージェント・ペパーズ」等々でこれまでに発表されていた楽曲とは違い、生演奏が可能であるところから、セッションも後半に入った頃、このアルバムの発表とタイミングを合わせて巡業コンサートを行うという企画が持ち上がってきます。

その言い出しっぺはポールと言われておりますが、その理由は「ファンを大切に」とは言うものの、「アップル・コア」の運営を軌道に乗せるための経済的理由もあった事は容易に推察出来るところです。

しかし、この巡業は他のメンバーに反対され、1回限りのライブギグならば良しとする妥協案が示されます。

こうして、そのコンサートは11月中旬にアメリカで行われ、その模様はビデオ撮りのライブショウ番組としてテレビ放映するという大まかな計画が発表されますが、結局それは諸々の事情から中止となり、テレビ放送の企画だけが残ります。

すると、ここで再びポールの提案により、スタジオに少数の観客を入れたテレビ放送用のライブショウ番組を作る事が決定されますが、これはおそらく、その年の12月3日に全米で放送され、70%以上という驚異的な視聴率をあげたエルビス・プレスリーの8年ぶりとなったテレビショウ、通称「カムバック・スペシャル」の影響を受けての事と思われます。あるいは最終的にはお蔵入りしましたが、ローリング・ストーンズが主導し、ジョンも参加して同時期に製作されたテレビショウ「ロックン・ロール・サーカス」を意識していたのかもしれません。

そして起用された監督がマイケル・リンゼイ=ホッグ、製作はアップル・フィルム、そしてそのスチールから写真集を作るのがアップル出版という布陣が整い、番組本編に付随してそのメイキングというか、ドキュメント映画(?)とライブショウを収めたアルバムの製作も決定され、ようやく1969年1月2日からトゥイッケンナム・フイルム・スタジオでリハーサルが開始されました。

もちろんそれが撮影されていったのは言わずもがなです。いや、むしろ撮影のためのリハーサルというべきでしょうか。

つまりビートルズの音楽制作を記録したドキュメント映像という狙いが、既に実行されていたのです。

しかしこれは、後にそこから編集された映画「レット・イット・ビー」を見ても明らかな様に、ポール以外のメンバーは完全にやる気が無く、演奏された古いロックンロール曲や彼等自身の新曲もダラダラと纏まりの無いものでした。

そしてその挙句、ポールとジョージが喧嘩となり、ジョージは1月10日にビートルズを辞めると言い置いてスタジオから姿を消しますが、彼にしてみれば、いちいち指図するポールの強制的なアドバイスに若気の至りが出てしまったのかもしれません。

このあたりの状況は映画でもしっかり映し出されておりました。

で、こうして1月18日頃に放送予定だったライブショウ番組はまたまた頓挫……。

その善後策を協議するため、1月12日にリンゴの家で緊急のミーティングが行われ、そこにはジョージも参加、ポールが一応詫びを入れ、企画の練り直しが討論されたと言われております。

そしてここでは、それまでに企画されていた北アフリカでのライブパフォーマンス、さらにはライブショウ番組の中止も決定されますが、テレビ番組そのものは製作が続行される事となり、前述したトゥイッケンナム・フイルム・スタジオでのリハーサルを1月16日で切り上げ、場所を新設中のアップル・スタジオに移してセッションを続け、最終的に1時間半位のフィルムを仕上げる事に話が纏まります。

それはこの当時としては珍しく、メンバー4人の意見が一致した瞬間だったと言われており、今では伝説化した歴史のひとコマなのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「ビートルズ・アンソロジー・3 / 付属解説書」

注:本稿は、2003年9月20日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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The Beatles Get Back To Let It Be:其の壱

2020-08-22 17:30:41 | Beatles

1970年に封切公開された映画「レット・イット・ビー」のソフト化は、家庭用ビデオ機器が普及した1980年代になって以降、当然の流れでありました。

それはアナログのビデオテープ、ハーフデジタルのレーザーディスク等々をメインにレンタル店にも置いてあったほどの人気商品になったのですが、実はソフト化そのものがビートルズ側、つまりアップル・コアが承諾していなかった事が大問題!

それは映画「レット・イット・ビー」のクレジットにある「APPLE an abkco managed company presents」が裏付けるとおり、当時はビートルズのマネージメントに深く関わっていた芸能界専門の会計士というアレン・クラインが、それを大義名分に、自らのレコード会社「アブコ」による勝手な商売だったのですが、しかし例え何であろうとも、世界中のファンにとっては映画「レット・イット・ビー」を手軽に鑑賞出来た至福でありました。

そして……、そんなこんなのゴタゴタから映画「レット・イット・ビー」の家庭用映像ソフトは一般市場から消え去り、ブートの世界では尚更の人気商品となったのですが、しかし本家アップル・コアだって、ここまで手を拱いていたはずもありません。

中でも1992年、ビートルズの映像担当者であるロン・ファーマネクが修復したとされる新版は、結局は一般に公開される事はありませんでしたが、これまた当然の如くブートの世界では堂々(?)と流通し、前述したビデオ版やレーザーディスク版を凌ぐ画質、さらにはクライマックスの屋上ライブギグやアップルスタジオにおけるレコーディングセッションがリアルステレオにミックスし直されていたのですから、たまりません♪♪~♪

ちなみに、それまでのブート版「レット・イット・ビー」は市販されていたビデオやレーザーディスク、あるいはテレビ放送されたソースに字幕を入れただけのモノラル、あるいは疑似ステレオ仕様でありましたから、件の1992年リマスター版は大衝撃だったんですよっ!

そして1994年、今も鮮烈な記憶になっているビートルズの「アンソロジー・プロジェクト」には、やはり「レット・イット・ビー」関連の音源と映像が入っており、これは追々に述べてまいりますが、とにかく新発見というか、ゾクゾクさせられましたですねぇ~~♪

こ~して時が流れ、2003年11月、いよいよ登場したのが新作アルバム扱いが波紋を広げた「レット・イット・ビー・ネイキッド」でした。

極言すれば、これはポール・マッカートニーの独り善がりと言えなくもありませんが、さりとて駄作では決してありませんっ!

そんなこんなを織り交ぜながら、次回からは少し掘り下げたところへ話を進めたいと思いますので、よろしくお願い致します。

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