OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

マーク・ベノの雑魚を愛聴

2010-04-30 17:40:58 | Rock

Minnows / Marc Benno (A&M)

1970年代前半のスワンプロックブームの中からはレオン・ラッセルやデラニー&ポニー等々のスタアも誕生していますが、同じサークルで活動していながら、ほとんど注目されなかったミュージシャンの方が、当然ながら大勢でした。

本日ご紹介のマーク・ベノもそのひとりとして、レコード会社はレオン・ラッセルの盟友的な売り方もしていたんですが、肝心の音楽性があまりにも地味……。

本国アメリカはもちろんのこと、我国でもリアルタイムで出されていたレコードが売れたなんて話は聞いたこともありません。

しかしマーク・ベノ本人でしか醸し出せない味わいは確固たるもので、その歌とギターはシブイ! その一言に集約されるでしょう。

特に掲載したアルバムは邦題が「雑魚」なんていう、ほとんどウレセンから遠く離れた世界に屹立する名盤で、やっていることはブルースやR&B、そしてゴスペルや民間伝承歌のゴッタ煮を白人的に解釈したという、これが泥沼系ロックの典型♪♪~♪

 A-1 Franny
 A-2 Put A Little Love In My Soul
 A-3 Stones Cottage
 A-4 Speak Your Mind
 A-5 Back Down Home
 B-1 Good Times
 B-2 Baby I Love You
 B-3 Baby Like You
 B-4 Before I Go
 B-5 Don't Let The Sun Go Down

上記演目は全てマーク・ベノ(vo,g,key) 本人が書いたものですから、所謂シンガーソングライターとしての存在感も強く、ですからクラレンス・ホワイト(g)、ジェシ・エド・デイヴィス(g)、ジェリー・マギー(g)、ボビー・ウォマック(g)、カール・レイドル(b)、ジェリー・シェフ(b)、ジム・ケルトナー(ds)、リタ・クーリッジ(vo)、クライディ・キング(vo) 等々、リアルタイムでスワンプロック最前線を形成していたメンツが力強いバックアップを演じているのも頼もしいかぎりです。

ちなみに発売されたのは1971年秋で、マーク・ベノにとっては単独リーダー盤の2作目にあたるのですが、録音はそれ以前の様々なセッションから少しずつ行われていたと言われていますから、ジャケットにも曲単位の詳細なメンバー構成は記載されていません。

しかしA面ド頭「Franny」のソウルフルにエグミの効いたサイドギターは、黒人ソウルの新感覚派として今も人気が衰えないボビー・ウォマックならではの匠の技に違いありません。もう、これだけで好きな人にはたまらない世界が現出し、もちろんサイケおやじもそのひとりですから、穏やかにして秘めた情熱が滲み出る歌と演奏には完全に虜になるのてす。

ただしマーク・ベノ本人の歌は決して熱血とか力みなんてものとは無縁ですし、ギターにしても長いアドリブソロは演じていません。逆に独り言のような歌唱がジワジワとファンキーな気分を作り出していく伴奏系ギターによって、実に濃厚な味わいとなり、それがこのアルバム全篇で楽しめるという趣向なのです。

しかも前述した助っ人の名手達が決して出しゃばることのない個性の表現とでも申しましょうか、単なる義務的なセッション演奏ではない自己主張が、マーク・ベノ本人の地味な感性と最高の相性になっているように思います。

それはグッと重心の低いグルーヴとエッジの効いたビートに支えられた「Put A Little Love In My Soul」や「Back Down Home」、正統派ブルースロックの「Stones Cottage」、シミジミ系ソウルパラードのお手本のような「Speak Your Mind」が収められたA面に特に顕著で、ソウルフルにしてハートウォームな女性コーラス隊の存在も良い感じ♪♪~♪

このあたりは本当に典型的なスワンプロックの見本市ですよ。

そしてB面に針を落とせば、当時の最新流行になりつつあったカントリロックをウエストコースト的に発展させた「Good Times」や「Don't Let The Sun Go Down」が、後のイーグルス人脈がやりそうな、実に良いムード♪♪~♪

また続く「Baby I Love You」はジム・モリソン在籍時最末期のドアーズのような、サイケデリックなブルースロックを分かり易くやってしまった演奏なんですが、後に仰天したのは、このアルバムセッションと同時期にマーク・ベノがドアーズのスタジオセッションに参加していた事実を知ったことです。

その所為でしょうか、これまた続くブルースロック「Baby Like You」のハート&ヘヴィな仕上がりが、さらにドアーズっぽく感じられるのですから、いやはやなんとも……。チープ&ディープなオルガンが曲者なんですよ。

おまけに全くイメージに合わない美メロのスローバラード「Before I Go」は、濃厚なメロトロンでも入っていれば、完全にプログレ!?!

いゃ~~、なんとなく青春映画の挿入歌という雰囲気さえ滲んでくるんですよねぇ。

もう、こんなん、「あり」ですかぁ~!?!

本当にマーク・ベノのスワンプロッカーというレッテルに疑問を感じてしまうほどです。

実は、これも後追いで聴いたレコードですが、マーク・ベノは1960年代にハリウッドでレオン・ラッセルとサイケデリックポップスのセッション録音を残しており、それはアサイラム・クワイア名義として2枚のLP等々に纏められているのですが、そこには所謂サージェントペパーズ系の万華鏡ロックが展開されていたのです。

ご存じのとおり、それは全く売れず、レオン・ラッセルはスタジオの仕事の傍らにスワンプロックの創成に携わり、マーク・ベノは失意の内に故郷のテキサスへ逼塞したという経緯が……。

しかし1970年、リタ・クーリッジのバックバンドにギタリストとして参加したことから再びレコード契約が成立し、この時期に作られたセカンドアルバムが「雑魚」ということで、決して単一指向のミュージシャンではないと思います。

それでも結果的に、このアルバムも売れたとは言えません。なんとか契約の上では3作目の「アンブッシュ」も発売されていますが、一説には無名時代のスティーヴィ・レイ・ヴォーンも参加したと言われる新作レコーディングは完全にオクラ入り……。以降、1979年まで消息不明となるのですから、現実は厳しいものです。

ただしその間に、この「雑魚」が隠れ名盤化した事実は、例えそれが我国のロック喫茶の中だけであったとしても、近年の再評価の対象になるのは喜ばしいことです。

またマーク・ベノ本人も1980年代末頃から再び表だった活動を再開し、ほとんど自主制作に近い形ではありますが、リーダー盤も作っていますし、確か数年前には来日公演も行われたと記憶しています。

まあ、正直にいえば、そのライプにも積極的に赴く覚悟が出来なかったサイケおやじですから、絶対に夢中になっているミュージシャンとは言えないのがマーク・ベノです。

それでも、このアルバムは別格!

聴くほどに味わいが深くなる大切な1枚なのでした。

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芸能ロックだぜっ、カーナビーツ!

2010-04-29 15:54:57 | 日本のロック

好きさ好きさ好きさ / ザ・カーナビーツ (Philps)

現在の逼塞した国内状況を思えば、まさに昭和40年代は狂騒的な勢いがありました。

ですからエレキやGSのブームも当然が必然という感じを抱かれたとしても、それは高度経済成長という歴史的な裏付けだけでは説明のつかない、「なにか」があったと納得せざるをえません。

なんて、今回も理屈っぽい書き出しになったのは、本日の主役たるカーナビーツのハチャメチャな存在感があまりにもその時代にジャストミートしていたからで、本当に説明も謎解きも難しい魅力があったグループでした。

もちろんカーナビーツがデビューした昭和42(1967)年はGSブームが急上昇期とあって、その頃は毎日のように放送されていた歌謡番組には新人バンドが続々と登場していながら、中でも特にトンデモ系の呆れた勢いが、カーナビーツには最初からあったのです。

メンバーは臼井啓吉(vo)、越川弘志(g)、喜多村次郎(g)、岡忠夫(b)、アイ高野(ds,vo) という5人組ながら、なんと言ってもブレイクのきっかけは、掲載したデビューシングル曲におけるアイ高野のシャウトとキメのポーズ!

楽曲そのものは、今では有名になったゾンビーンズの、リアルタイムではヒットしなかったオリジナルに日本語詞をつけたものですが、その哀愁を含んだ曲メロに「好きさぁ~、好きさぁ~」という覚え易いポイントがあり、しかもブレイクでは「おまえのぉ~、しゅべえてぇぇぇぇ~」というアイ高野のシャウトがあって、さらに瞬間的に客席に向けられるスティックでのキメのポーズが最高の芸能魂に溢れた演出になっていましたから、特に女性がメインのファンは大熱狂!

アッという間にGSのトップバンドに躍り出て、おそらく全盛期の人気ではスパイダースタイガースにも劣らないものがあったと思います。

ただし現実的には失礼ながら、決して演奏が上手いバンドではなく、少年時代のサイケおやじがリアルタイムで接したライプでも、他に出演したのがサベージやジャガーズという落ち着きがあって上手いバンドだった所為もあるんですが、素人の自分が感じる範囲でも、これは……??? と思わざるをえないほどポロポロでした。

ところがその時に一番ロックしていたのがカーナビーツだったのも、また忽せに出来ない記憶です。

つまり音が外れようが、ビートが崩れようが、とにかく勢いと熱気を醸し出せれば、それはロックのライプの魅力という本質がカーナビーツの人気の秘密だったように思います。

ちなみに当時も今も、カーナビーツはアイ高野というイメージが定着していますが、個人的には本来のリードシンガーである臼井啓吉の野太い声質による歌いっぷりも忘れ難く、それがあってこそ、アイ高野が随所でキメるシャウトとポースが活きたんじゃないでしょうか。

それと言うまでもなく、この「好きさ好きさ好きさ」があってこそ、サイケおやじは本家ゾンビーズを知り、後には直系バンドのアージェントにも夢中になれたのです。

その意味で、クールなゾンビーズやアージェントと対照的な狂騒を演じていたカーナビーツに、この曲を歌わせた制作側の狙いは結果的にも凄すぎます。

う~ん、それが時代の勢いというものなんでしょうねぇ。

ですからカーナビーツはリアルタイムでも海外ポップス&ロックヒットのカパーが多く、またライプステージでのファズの使用度が他のバンドに比べて圧倒的だった事実も忘れてはなりません。そして驚くなかれ、アイ高野は和製キース・ムーンなんて、一部では呼ばれていたほどだったんですよ!?!

ご存じのようにカーナビーツも他のGS同様、昭和44(1969)年以降は人気も凋落し、解散……。アイ高野は再編ゴールデンカップスやクリエーションで活躍した後、数年前の春に五十代半ばで急逝したわけですが、もしもそんな言葉があるとすれば、「芸能ロック」最高のドラマー&シンガーは、この人でしょう。

現実的には不可能だったにせよ、全盛期のライプ音源が残されていれば、ぜひとも世に出して欲しいと願っているのは、私だけでしょうか。

当時は乏しかった小遣いゆえに、洋楽優先でレコードを買っていた自分にしては、このシングル盤を入手するのは大英断! しかし決して気の迷いなんかではなかったものが、当時のカーナビーツから受けた強烈なイメージで、それはロックの真髄だったと、今も信じているのでした。

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サンフランシスコの夜で告白

2010-04-28 14:05:48 | Rock

San Franciscan Nights
                      / Eric Burdon And The Animals
(MGM / 日本グラモフォン)
                             

1960年代のブリティッシュビートバンドの中で、特に我国でも絶大な人気を得ていたのがアニマルズだったという事実は、これまでにも度々書いてきましたが、その人気はエリック・バートンの粘っこいボーカルを主軸とした黒っぽいサウンドでした。

ところが、昭和42(1967)年に発売された本日ご紹介のシングル曲は、始まりこそトーキングスタイルのイカシたブルースロックでありながら、途中で一転! ほとんど気の抜けたビールのような、しょぼいフォークロックになるという、なんとも???の問題作……。

しかし、という内容が、実は当時の最新流行だったのも、また事実だったのです。

ご存じのとおり、アニマルズはアラン・ブライスの卓越したキーボードとアレンジのセンス、そしてエリック・バートンの物凄い歌唱力がジャストミートした「朝日のあたる家」で大ブレイクした後、いろんなゴタゴタから何度かのメンバーチェンジも行われ、結果的にエリック・バートンのワンマンバンド的な方向へと力関係が変化していったのですが、それでも基本はR&B中心主義を貫いていたのが、1966年頃までの実情でした。

ところが1967年になると、その本家アニマルズが解散!?!

そしてエリック・バートンは自らソロシンガーとして再出発するにあたり、バックバンド的な意味合いの強い新生アニマルズを率いることになり、その最初のヒットが邦題「サンフランシスコの夜」という、このシングル曲だったのです。

ただしバンドとしてのイメージはがっちりと維持されていて、当時のメンバーはエリック・バートン(vo)、ジョン・ウェイダー(g)、ヴィッグ・ブリッグス(g)、ダニー・マクローチ(b)、バリー・ジェンキンス(ds) という顔ぶれでしたが、レコーディングやライプステージではメンバー各々がマルチプレイヤー的に様々な楽器を担当していたという真相もあるようで、例えばジョン・ウェイダーがバイオリンを演奏している写真を、十代だったサイケおやじは洋楽雑誌で胸を躍らせながら見た記憶があります。

またバリー・ジェンキンスはナッシュヴィル・ティーンズから移籍してきた実力派というのも、ライプの現場では長尺演奏が求められていたサイケデリック時代に対応する人選だったのかもしれません。

そして実際、エリック・バートンと新生アニマルズは1967年初頭から渡米、つまりアメリカを拠点に巡業や新作のレコーディング活動をスタートさせたのです。

今日の歴史では、この1967年は所謂「サマー・オブ・ラブ」として若者文化のサイケデリックな風潮が注目されていた時期でしたから、ロックをメインにした業界にしても、完全にそれが無ければ相手にされないものがあったと思われます。

極言すれば業界主導によるヒット曲作りという、ある意味での産業ロックがサイケデリックのブームだった側面は否定出来ません。例えばシンボル的なヒットとなった「花のサンフランシスコ」とか、ジミヘンやザ・フーが強烈なステージを見せつけたモンタレーのロックフェスティバルにしても、何かと不純なエピソードがつきまとっているはずです。

ところが、そんな裏事情を知る由も無かった当時のサイケおやじは、明らかに従来のアニマルズとは雰囲気が大きく異なる「サンフランシスコの夜」を、それこそポカ~ンと口を開けて聴いていたのですから、良い時代でした。

分からないのも魅力のひとつ!?!

ちなみにその頃はビートルズが「Strawberry Fields Forever」を出し、我国芸能界はエレキとGSが主流になり、テレビではヒーローが悩み続ける「ウルトラセブン」が放映されるという、まさに新しい感覚が日毎に登場していたのですから、おそらくは現在のように保守的なサイケおやじであれば、完全に拒否反応の日々だったと思います。

しかし、そうならなかったは、自分の若さゆえでしょうねぇ~♪

本当に若いって素晴らしいですよ。

そんな分かりきったことを思うのは、この「サンフランシスコの夜」を聴くと、尚更に強くなります。つまり今の自分は、完全に老成モードの真っ只中という告白なのでした。

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忘れえぬナッシュヴィル・ティーンズ

2010-04-27 17:05:23 | Rock

Tobaco Road / Nashville Teens (Decca / キングレコード)

ナッシュヴィル・ティーンズは、今ではすっかり忘れられたビートバンドかもしれませんが、そのカッコ良さは、この1曲に集約されているといって過言ではないでしょう。

発売されたのは昭和39(1964)年という、ちょうどビートルズの大ブレイクによって世界中に蔓延したブリティッシュビートのヒット曲のひとつでしたが、オリジナルはジョン・D・ラウダーミルクというアメリカのカントリー系シンガーの持ち歌でした。

尤も私がそうした真実を知ったのは後のことで、バンド名からしてアメリカのグループだと思っていましたし、やっていることが所謂ブルーアイドソウルの元祖的な真っ黒いサウンドをツインボーカルで表現するという、もしかしたら我国のスパイダースビーバーズにもヒントを与えたかもしれない存在です。

メンバーはアーサー・シャープ(vo)、レイ・フィリップ(vo,g,b)、ジョン・アレン(g)、ピート・シャノン(g,b)、ジョン・ホーケン(p,org)、バリー・ジェンキンス(ds) という6人組ながら、ボーカルの2人以外はメンバーの出入りも相当にあったと言われています。

しかしこのバンドのウリは、何と言ってもエヴァリー・ブラザーズを黒人化したような強力なツインボーカル! そしてエグミの強いピアノ中心の演奏パートじゃないでしょうか。

実はサイケおやじがナッシュヴィル・ティーンズを知ったのは、もちろん当時のラジオから流れたこの曲、そしてテレビで見た口パクの出演場面によるものですが、それにしてもツインボーカルというスタイルは強い印象を残しています。

それゆえに現実的には、この1曲だけで消えてしまった感じですが、リアルタイムでは何枚もシングル盤を出していましたですね。当然ながら、後にはサイケおやじの蒐集の対象になったわけですが、驚いたことに本国イギリスでは1枚のアルバムも出していないという!?

いゃ~、なんとも業界の厳しさを象徴する事態じゃないでしょうか。

しかしナッシュヴィル・ティーンズは、この「Tobaco Road」を残しただけで永久に不滅だと思います。なにしろ後年のサイケデリック時代になっても、このナッシュヴィル・ティーンズのバージョンを参考にしたと思しきヘヴィロックのカパーが幾つも世に出たという実績が、それを証明しています。

ぜひとも、ひとりでも多くの皆様に楽しんでいただきたいですねぇ~♪

ただし今日まで、決定的な集大成アルバムが出ないのは、一発屋の宿命というには、あまりにも悲惨な現実だと思います。

今こそ、素晴らしい復刻盤が出ることを決死的に熱望しているのでした。

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中村晃子の幻の名曲

2010-04-26 15:35:25 | 歌謡曲

風とバラの荒野 / 中村晃子 (キングレコード)

中村晃子が昭和44(1969)年秋に出した、リアルタイムからサイケおやじが大好きだったシングル曲♪♪~♪

先日ご紹介した小畑ミキのデビューシングル盤と同時にゲットしたものですか、小畑ミキ盤がそれなりの価格だったのとは逆に、こちらはほとんどヒットしなかった所為もあるんでしょうか、信じられないほど安くて、嬉しいような、哀しいような、本当に複雑な気分です。

まず、この捨て鉢いうか、投げやりでシラケきったイメージのジャケ写が、逆に美しいでしょう♪♪~♪ これが当時のムードそのものなんですよねぇ。

そして曲調がフォークロックを歌謡曲化した決定版!

作詞:横井弘、作曲:小川寛興、さらに編曲:森岡賢一郎という黄金のトラアングルが完全に機能し、しかも彼女は何時ものビートを効かせた分厚い歌唱を封印!? 少し鼻にかかったようなコブシを使うという新機軸がズバッと直球のストライク!

の、はずが、現実的には小ヒットがやっとでした……。

思えば当時の彼女は昭和42(1967)年秋の大ブレイク曲「虹色の湖」からちょうど2年目という、ポップス系女性歌手としては微妙な分岐点でしたから、流行の歌謡フォークを逸早く取り入れた狙いは決して間違っていなかったはずです。

しかし結果的に以降は人気が下り坂……。

ファンだったサイケおやじにしても、リアルタイムで乏しい小遣いをこのシングル盤へ投入する覚悟が出来なかったことも、その表れのひとつだったと思います。

そして先日、ようやく罪滅ぼしというか、真相は自己満足に過ぎませんが、とにかく欲しかったこの曲を入手出来ましたから、今はひとりでも多くの皆様に、素晴らしい彼女の歌を聴いて欲しいと願いつつ、本日の文章を綴っている次第です。

心底、再評価を望んでいます。

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最も地味なライ・クーダー

2010-04-25 15:59:37 | Ry Cooder

Boomer's Story / Ry Cooder (Reprise)

ライ・クーダーの諸作中、最も地味なアルバムでしょう。

発売されたのは1972年頃でしたが、前作「紫の峡谷」が我国でも評判となったわりには、この3作目はそんなに話題になることもなく、サイケおやじにしても翌年末に中古の輸入盤で入手したのが真相です。

それはシンプルなジャケットデザインと同じく、本当に素朴な内容が当時の流行とは無縁の世界だったからでしょうか。なにしろジャケット裏には参加ミュージシャン名はおろか、収録曲目のクレジットさえなかったのです。

しかし実際に盤に針を落として聴けば、これがなんとも燻銀の世界です。

 A-1 Boomer's Story
 A-2 Cherry Ball Blues
 A-3 Crow Black Chicken
 A-4 Ax Sweet Mama
 A-5 Maria Elena
 B-1 Dark End Of The Street
 B-2 Rally 'Round The Flag
 B-3 Comin' In On A Wing And A Prayer
 B-4 President Kennedy
 B-5 Goodmorning Mr. Railroad Man

例によって上記演目は全て古いブルースや伝承歌、そして南部や中南米の流行歌なんですが、私がゲットしたのは中古盤だった所為もあり、もしかしたら付属してたかもしれない歌詞カードや参加メンバーの詳細が分かるようなライナーがありません。

しかしそれでも前2作のリーダー盤に夢中となった経緯があり、また友人&先輩からの情報を得ながら聴く味わいは尚更に別格でした♪♪~♪

まずは冒頭、ずっしりと重いビートでシンプルに繰り広げられる「Boomer's Story」の素朴でエグイ歌と演奏に身も心も奪われることから始まり、カントリーブルースとアラブ音楽をコテコテに煮〆たようなインスト「Cherry Ball Blues」、ホノボノジャズフォークという感じの「Crow Black Chicken」、泥臭い味わいが逆にスマートに「Ax Sweet Mama」、さらに一転してのカリブ海リゾートの午後というノンビリムードが素敵なインスト「Maria Elena」と続く流れは何の違和感も無く、実に心地良いんですねぇ~♪

もちろんライ・クーダーの神業ギターはスライドとフィンガービッキングに冴えわたり、ほどよい緊張感を滲ませたボーカルも良い感じ♪♪~♪

ちなみに助演メンバーは私の完全なる推測ですが、前作同様にジム・ディッキンソン(p)、ミルト・ホランド(ds,per)、ジム・ケルトナー(ds,per)、ジョージ・ボハノン(tb) 等々が参加していると思われますが、このアルバムの中では一番に有名な曲であろうB面ド頭の「Dark End Of The Street」には作者のダン・ペン(p) が参加していると言われています。

しかしライ・クーダーが本当に凄いのは、この濃密な南部ソウルの名曲を全くの自然体で己のギター中心に歌わせたことでしょう。常套手段の力みを期待すると見事な肩すかしが、実に粋な風情とシミジミフィーリングを醸し出しているのです。

あぁ、このスライドの軋みには泣けてきますよ。

これぞ、本物のすすり泣き♪♪~♪

そして、その実に良いムードを引き継いで素朴に歌われる「Rally 'Round The Flag」では、寄り添うピアノがランディ・ニューマンらしいんですが、ギターとピアノと質素な歌声だけで、これだけの世界が描けてしまうという印象の強さが最高!

さらにフォークソング風でありながら、妙にシンコペイトしたビート処理が不思議な魅力を滲ませる「Comin' In On A Wing And A Prayer」も侮れません。

また続く「President Kennedy」は伝説のブルースマンとして再評価されていたスリーピー・ジョン・エステスとの夢の共演ながら、決してそれに流れされることのないライ・クーダーの矜持が見事です。もちろん当時は70歳近い老境に入っていたスリーピー・ジョン・エステスが自作のオリジナルを歌うという存在感は強烈なんですが、その偉人の歌とギターを見事にサポートするライ・クーダーのマンドリンには、単なるトリビュートを超えた敬意が感じられ、まさにこのアルバムのハイライトかもしれません。

ですからオーラスの「Goodmorning Mr. Railroad Man」が尚更に胸キュンというか、そこはかとない泣きのフィーリングがたまりませんねぇ~♪ 微妙に使われているアコーディオンやクラリネットがシブイです。

ということで、本当に地味~な演奏ばかりなんですが、心に染みる感度は良好♪♪~♪ その決して一般ウケはしないであろう作りが逆に魅力という、なんとも天の邪鬼な1枚だと思います。

そしてこれは全くの妄想ではありますが、もしかしたらデビュー以来のアウトテイクを加工したのかもしれないと思わせるほど、ディープでコアな仕上がりが賛否両論のポイントでしょう。

それゆえライ・クーダー入門用には適しませんが、末長く愛聴出来るアルバムじゃないでしょうか。私は好きです。

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小畑ミキのデビュー盤♪♪~♪

2010-04-24 17:29:34 | 歌謡曲

初恋のレターc/w十六の時 / 小畑ミキ (テイチクユニオン)

これっ、入手出来ましたぁ~♪

昭和42(1967)年4月に発売された小畑ミキのデビューシングル盤です。

しかも両面とも、作詞が本人なんですよねぇ~♪

ただし現実的には補作詞としてA面:なかにし礼、B面:石井志都子というクレジットがあるとおり、なかなか王道歌謡曲の仕上がりが好ましく、しかも当時の流行最先端だったエレキ色が微妙に滲むアレンジとビートの強弱を活かしたメロディは、中村泰士のセンスが全開した素敵な展開です。

もちろん小畑ミキの上手くない歌唱力がジャストミート♪♪~♪

A面の我儘な乙女心を歌う「初恋のレター」は、まさに元祖アイドルポップス、ここにありです。

またB面収録の「十六の時」が、これまた胸キュン系の歌謡ポップスで、尚更にアメリカンオールディズの趣向が強く出た隠れ名曲かもしれませんし、これを歌って許されたのは、当時の我国芸能界では彼女だけだったでしょうねぇ。

もう本当にジャケ写どおりの歌と声が楽しめるという「お宝」を手にする喜び!

それはネット配信で音源だけゲットする現代では不可能な快楽じゃないでしょうか。

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絶対シビレるダニー・ハサウェィのライブ!

2010-04-23 15:57:20 | Soul

Donny Hathaway Live (Atco)

ジャズでもソウルでもブルースでも、とにかくサイケおやじはシカゴ派が好きですから、ダニー・ハサウェイに到達するのも当然か?

なんて自問自答するまでもなく、1970年代前半に盛り上がった所謂ニューソウルの中でも特に才能豊かだったのが、ダニー・ハサウェイでした。

と、ここで過去形で書かなければならないのは、残念ながらダニー・ハサウェイが既に故人であり、しかも短い全盛期を過ぎての逼塞からカムバック直後に謎の死を遂げたという、本当に非業の人生と残された仕事の素晴らしさが、強烈なコントラストで印象づけられているからです。

で、サイケおやじがダニー・ハサウェイを知ったのは、やはりニューソウルの才女としてメキメキと売り出していたロバータ・フラック経由であり、その彼女とダニー・ハサウェイが魂のデュエットを繰り広げた名盤アルバム「ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ (Atlantic)」を聴いてからのことでした。

それは昭和48(1973)年、もちろんロバータ・フラックが「やさしく歌って / Killing Me Softly with His Song」のウルトラメガヒットを放った後でしたから、目的は完全にロバータ・フラックだったんですが、R&Bの世界では至極当たり前のこうしたデュエット企画でありながら、そこには何かしら新しいものが感じられ、そのポイントがダニー・ハサウェイという、当時の私は全く知らなかった天才の存在に出会えたのは幸運でした。

もちろんロバータ・フラックは、クラシックや現代音楽の素養があってのソウルやジャズのフィーリングを巧みに表現するミュージシャンでしょうし、ダニー・ハサウェイにしても似たような資質とキャリアがあるのは言わずもがなです。

ただし所謂知性派というには、もっとジャズっぽいというか、内側からこみあげてくるようなソウル! そうしたクールで熱いものがダニー・ハサウェイには感じられるのです。

そこで意を決してゲットしたのが、本日ご紹介のライプ盤なんですが、その思惑は自然体のダニー・ハサウェイを聴きたかったことに尽きます。

そしてこれが、気絶するほどの大当たり!

 A-1 What's Goin' On
 A-2 The Getto
 A-3 Hey Girl
 A-4 You've Got A Friend
 B-1 Little Getto Boy
 B-2 We're Still Friends
 B-3 Jeaious Guy
 B-4 Voices Inside

録音は1971年後半とされるのが定説で、しかもA面はロス、そしてB面がニューヨークという、それぞれがそれほど大きくないクラブで行われたと思しきレコーディングが、最高の雰囲気を醸し出したのは結果オーライ♪♪~♪

というよりも、狙いがスバリ直球のストライクだったんでしょうねぇ~♪

主役のダニー・ハサウェイ(vo,key) 支えるのはマイク・ハワード(g)、ウィリー・ウィークス(b)、フレッド・ホワイト(ds)、Earl DeRouen(per) に加えてA面にはフィル・アップチャーチ(g)、そしてB面にはコーネル・デュプリー(g) が特に助っ人として抜群のサポートを演じています。

それは極みつきのソウルグルーヴが渦巻いた「What's Goin' On」からして強烈! ご存じ、マーヴィン・ゲイの代表曲を素材に、ダニー・ハサウェイはクールで熱いエレピのアドリブを主軸に据えた長尺演奏を披露していますが、バックの的確な助演も素晴らしく、全くダレていません。

もちろん独得のメロディフェイクが全開した歌いっぷりは新しい黒っぽさを表現していますし、そのR&Bでもロックでもないフィーリングは、後のフュージョンやファンクをも包括した大名演だと思います。

そしてライプに参集した観客とひとつになって盛り上がって行く以降3曲のノリも最高で、もうこのA面は何度聴いても熱くさせられてしまいます。

対してB面は、些か冷静沈着というか、ジワジワとした熱気が次第にその場を満たしていく過程が好ましく、特に「Little Getto Boy」は、ある種の艶やかな表現が秀逸♪♪~♪ またジョン・レノンが畢生のオリジナル「Jeaious Guy」にしても、ダニー・ハサウェイならではの節回しがイヤミになっていません。

ちなみにロッド・スチュアートが歌う同曲は、明らかにダニー・ハサウェイのこのバージョンを下敷きにしていると思うのは私だけでしょうか? 例えば1974年に出た「ロッド・スチュアート・ウイズ・フェイセズ=ライプ(Mercury)」に収録のバージョンと聴き比べるのも興味深々ですよ。

というように同業者にもファンが多いダニー・ハサウェイが、一番尊敬していたのはクインシー・ジョーンズだったそうですから、その意図的に垣根を作らない姿勢は1970年代にはジャストミートだったはずです。

ところが同じような路線を歩んでいたビリー・プレストンやスティーヴィー・ワンダーにセールスの面で勝てなかったことが原因だったのでしょうか、1974年頃からは逼塞期……。

まあ、個人的にはその頃からダニー・ハサウェイの過去の業績を後追いしつつ、リーダー作品やスタッフとして関わった諸々の音源を聴いて行ったんですが、やっぱり黒人一般大衆よりは白人好みという感覚が強く出ていると思います。

後に知ったところでは、ダニー・ハサウェイの祖母はそれなりに有名なゴスペル歌手だったそうですし、本人も幼少時から既にその世界で歌っていたキャリアがありながら、実はクラシックを専攻する音楽教育も受けていたという、なかなか凄い経歴が!?!

そしてカーティス・メイフィールドに才能を認められて以降は、シカゴ周辺のR&Bやジャズのフィールドで頭角を現し、ついにニューソウルの旗頭になったのですが……。

もう後は語ることがせつなくなるほど、残していったリーダー作は濃密で味わい深いものばかり! 中でも、このライプ盤は誰が何と言っても外せない名盤だと思います。

ちなみに同時期のアウトテイク的な音源が後に発売されていますが、やっぱりこのアナログ盤1枚の凝縮された世界が眩しいばかりなのでした。

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納得の老成ルックスだったザ・バンド

2010-04-22 16:48:40 | Rock

Cahoots / The Band (Capitol)

ジェスロ・タルと同じく、ルックスが最初っから老成していたロックグループとしては、ザ・バンドもそのひとつでした。

しかもやっていたことが、ちょっと当時のロックでは計り知れないというか、ビートルズやストーンズ、あるいはハリウッドポップスあたりの流行音楽ばっかりに馴染んでいた自分のような者には、先輩から聞かせてもらった世紀の名盤「ビッグピンク」も、最初は全く理解出来ませんでした。

もちろんボブ・ディランのバックバンドとしての実績は知らされていたにせよ、洋楽雑誌に掲載されたザ・バンドのグループ写真は、丸っきり前時代的な老人集団……? ロビー・ロバートソンがドリフターズの加藤茶に見えたのは、私だけではないと思います。

だだし発売されたレコードが各方面から絶賛の嵐だったのは、リアルタイムの日本でも間違いのないところでしたから、それを理解出来ないのはある種の恥という雰囲気も……。

で、本日ご紹介の1枚は、本国アメリカでは1971年秋に発売された4作目のアルバムとして、我国では翌年に出たという、サイケおやじにとっては初めてリアルタイムで接したザ・バンドが、これでした。

 A-1 Life Is A Carnival
 A-2 When I Paint My Masterpiece / 傑作をかく時
 A-3 Last Of The Blacksmiths
 A-4 Where Do We Go From Here? / ここからどこへ
 A-5 4% Pantomime
 B-1 Shoot Out In Chinatown
 B-2 The Moon Struck One
 B-3 Thinkin' Out Loud
 B-4 Smoke Signal
 B-5 Volcano / 火山

 B-6 The River Hymn

今となってはザ・バンドの諸作中、最低とされる評価も痛々しいのですが、そんな経緯もあって、サイケおやじには眩しい愛聴盤になっています、

告白すれば、最初は国営FMラジオ放送でアルバムが丸ごと流されたエアチェックのテープを聴いていたんですが、当然ながら直ぐに共感出来た世界ではありません。

しかし、これが理解出来ないのは時代遅れじゃないか?

という強迫観念から、ほとんど意地になって謹聴していたのが本当のところです。

すると、あ~ら、不思議!?!

そうするうちに、まずはザ・バンドが醸し出す蠢くリズムのゴッタ煮性が、ちょうど多国籍映画のような娯楽主義に満ちていることに快感を覚え、次いで一般的なロックから遊離している曲メロやアレンジさえも、実はいろんな音楽から美味しいエッセンスを抽出したものじゃないのか!?!

そんな秘密を垣間見たような気分にさせられてきたのですから、後は一気呵成にザ・バンドの天国へ直行するだけでした。

もちろんそういう目覚めは、ようやく私が既成のロックだけでなく、R&Bやジャズ、ブルースやフォーク等々のアメリカ音楽全般に少しずつ馴染んでいたからでしょう。

そして最初に夢中になったのが、ヴァン・モリソンのゲスト参加も嬉しい「4% Pantomime」で、リチャード・マニュエルと演じる魂の掛け合いには、聴くほどにゾクゾクさせられましたですねぇ~♪

ちなみに私がヴァン・モリソンと邂逅したのも、この「カフーツ」で修業していた同時期、やはり国営FMラジオで丸ごと流された新作アルバム「テュペロ・ハニー (Warner Bros.)」でしたから、この頃は本当に新しい出会いが続いていたというわけです。

また主役のザ・ハンドはロビー・ロバートソン(g)、リチャード・マニュエル(vo,key,ds)、ガース・ハドソン(key)、リック・ダンコ(vo,b)、レヴォン・ヘルム(vo,ds) という不動の5人組でしたが、このアルバムを作る過程では、まず前述のヴァン・モリソン、そしてA面ド頭に収録された名演「Life Is A Carnival」におけるニューオリンズ風味のホーンアレンジを担当したアラン・トゥーサンといったゲストの存在感も強烈!

というか、件のふたりについて、個人的にはこのアルバムで存在感を強く印象づけられたのが紛れもない事実だったのです。

しかしザ・バンド本隊の頑張りも、決して「カフーツ」が駄作なんていう世評に甘んじるものではないと思います。

確かに後追いできちんと理解出来るようになった「ビッグピンク」やセカンドアルバム「ザ・バンド」に比べれば、それなりの物足りなさがあるのは否めませんが、おそらくは基本が一発録りで作られたと思しき力強いグルーヴは、当時の他のロックバンドを凌駕する勢いが確かにあると感じます。

と同時に演奏パートの密度の濃さ、彩りの豊かさ、そして優れた3人のボーカリストの個性的な歌いっぷりも素晴らしく、例えばボブ・ディランが当時は未発表にしていた「傑作をかく時」、中華メロディのイントロとキメも面映ゆい「Shoot Out In Chinatown」、諦観が滲む「Smoke Signal」等々、なかなかの名唱・名演が収められているのです。

率直に言えば所謂、シブイと表現される世界でしょうねぇ。

ですから、それはザ・バンドのような老成したルックスで演じられなければ納得出来るものではないし、練り込まれた演奏と熟成した歌声が必要十分条件!?

こうしてザ・バンドは私に新しい音楽の世界を提供してくれたというわけですが、しかしここで聴かれる特有のリズムとビートの躍動は、ファンキーというソウルとロックの時代的要求に応えたもので、若き日のサイケおやじを一番に浮かれさせたものはスバリ、それだったと思います。

ご存じのとおり、ザ・バンドはこの「カフーツ」を発表後も絶え間ない巡業を続け、素晴らしいライプアルバムを作ったり、あるいは自分達のスタジオを持ったりして、悠々自適の活動に入っていくのですが、それがそのまんま、当時のロックの主流のひとつになったのは凄いことでした。

自らの下積み時代を開陳するオールディズ再演アルバムやボブ・ディランとの共演作、そしてライプコンサートでの夢の共演盤と続く流れは、完全に歴史でしょう。

そして「カフーツ」こそ、その分岐点に出た孤高のアルバムかもしれません。

なぁ~んて、回りくどい言い方をせずとも、サイケおやじにザ・バンドを理解させてくれた、その一点だけで満足な私的名盤というわけです。

コメント (4)
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ジェスロ・タルって!?!

2010-04-21 16:07:24 | Rock Jazz

Bouree / Jethro Tull (Reprise / 日本ビクター)

ネットやMTVなんてものが無かった昭和40年代の我国洋楽事情において、ラジオや音楽雑誌が大きな情報源だった話は、これまでも度々書いてきたことですが、その「音」と「静止画像」による伝えられ方は、場合によっては大きな誤解と妄想の原因にもなっていました。

例えば本日ご紹介のジェスロ・タルというイギリスのグループは、まずバンド名が奇異な感じでしたし、雑誌に掲載された写真では、メンバー全員が丸っきり老人のようなルックスで……。

しかもステージ写真では中心人物とされるイアン・アンダーソンという老人(?)が、薄汚い風采で片足上げてのフルート演奏という、完全に当時のロックのイメージから逸脱した佇まいが?▼☆!△◎???

どうやらやっているのはジャズっぽいロックらしいことは文章からも知れたのですが、そんな頃の昭和44(1969)年にラジオから流れてきたのが、掲載したシングル盤A面曲の「Bouree」でした。

う~ん、なんとそれはバッハが書いたクラシックのメロディをロックジャズで演じたインストだったんですが、その格調高くて真摯な雰囲気は、雑誌で見ていたジェスロ・タルのホームレス集団のようなイメージとは完全に逆のものです。

律儀な4ビートから始まり、何時しかポリリズムに依存したロックジャズへと進展していく演奏の見事な纏まりは、当然ながらアレンジとアドリブが共存共栄した作り物ではありますが、そんな真っ当なことをやるには、ジェスロ・タルという写真でしか見たことのないバンドのイメージが許せるものではなかったのです。

後に知ったところでは、1968年にレコードデビューした当時のジェスロ・タルはミック・アブラハムスという優れたギタリストを擁したブルースロックの正統派だったそうですが、最初のアルバムを作った時点からグループ内にゴタゴタが頻発し、ミック・アブラハムスが脱退して以降は、イアン・アンダーソンが完全に主導権を掌握し、英国流儀のフォークやジャズ、さらにクラシックの要素までもゴッタ煮とした独自の音楽性を目指す活動に入ったようです。

そしてこのシングル曲「Bouree」をヒットさせた時のメンバーはイアン・アンダーソン(vo,fl,key,g)、マーティン・パレ(g,fl)、グレン・コーニック(b)、クライヴ・バンカー(ds.per) という4人組になっていて、既に当時からステージでは「狂気のフラミンゴ」とまで称されていたイアン・アンダーソンの異才が強烈!

特にローランド・カークからの影響が大きいフルートの妙技は、リアルタイムから新鮮な驚きとなっていたようですし、実際、サイケおやじはローランド・カークを知るより以前にイアン・アンダーソンを聴いていましたから、本家のローランド・カークをイアン・アンダーソンの影響下にある人だなんて、本当にバカなことを逆印象したほどです。

現実的には日本でどの程度の人気があったのか、ちょっと知る由もないのですが、ルックスが意図的にしろ老成していましたから、パッとしたものではなかったはずです。しかし音楽雑誌等々のレコード評は高得点!? また来日公演も1970年代にあったと記憶していますから、決してマニアックな存在ではなかったのでしょう。

しかしサイケおやじは、この「Bouree」が全てというか、ロック喫茶あたりで聴く機会もあった名作アルバム群にも、イマイチ食指が動きませんでした。それでもレコード屋に行けば、相当数出ているジェスロ・タルの諸作が気になったりするのですから、やはり存在感は強く印象づけられているんですよね。

実際、このシングル盤を買ってしまった前科も打ち消せません。

まあ、それもイアン・アンダーソンという鬼才ゆえのことだと、妙に納得しているのでした。

コメント (2)
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