OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

1976年のデイヴ・メイソン

2012-09-30 15:28:22 | Rock

Certified Live / Dave Mason (Columbia)

決してロックの歴史云々で語られるミュージャンではありませんが、しかしデイヴ・メイソンは1970年代ロックの典型を演じていたことに間違いはなく、その時代、大いに親しまれた存在だったと思います。

そして本日ご紹介の2枚組ライプLPは、その証とも言うべき、1976年に発売れた名演集♪♪~♪

 A-1 Feelin' Alright
 A-2 Pearly Queen
 A-3 Show Me Some Affection
 A-4 All Along The Watchtower / 見張り塔からずっと
 B-1 Take It To The Limet
 B-2 Give Me A Reason Why
 B-3 Sad And Deep As You
 B-4 Every Woman
 B-5 World In Changes
 C-1 Goin' Down Slow
 C-2 Look At You, Look At Me
 D-1 Only You Know And I Know
 D-2 Bring It On Home To Me / 悲しき叫び
 D-3 Gimme Some Lovin'

上記演目は、まさにデイヴ・メイソンの歩んできた道を凝縮した人気曲ばかりなんですが、しかし率直に言えば、その思いはデイヴ・メイソンのファンだけのものでしょう。

このアルバムで初めてデイヴ・メイソンに接したとしたら、本人が在籍していたトラフィックの「Feelin' Alright」や「Pearly Queen」は納得出来るにしても、ボブ・ディランと言うよりも、ジミヘンの「見張り塔からずっと / All Along The Watchtower」やイーグルスの「Take It To The Limet」、サム・クックやアニマルズでお馴染みの「悲しき叫び / Bring It On Home To Me」、挙句の果てにスペンサー・デイビス・グループの「Gimme Some Lovin'」までもやらかす、その節操の無さには、何か他力本願さえ感じてしまうかもしれません。

しかし少なくともサイケおやじは、そういうデイヴ・メイソンの臆面の無さが憎めず、むしろそこが魅力と思っているほどです。

と言うよりも、実はライプの現場では、そういうカパーバージョンをやる事が盛り上がりのひとつのポイントだったのが、1970年代ロックの良さであり、ストーンズやブルース・スプリングスティーン等々、今日でも同じ事をやり続けている人気者が大勢いる事を忘れてならないでしょう。

ただし、そこに演者特有の「色」を付けられるか、否か!?

これが相当に難しく、成し得た者だけが本当にウケるという現実は厳しいものです。

つまり下手すりゃ~、ハコバンになっちまいますからねぇ~~。

さて、そこでこのアルバムはデイヴ・メイソン(vo,g) 以下、ジム・クリーガー(g,vo)、マイク・フィニガン(key,vo)、ジェラルド・ジョンソン(b,vo)、リック・ジェイガー(ds,per) という、当時はスタジオレコーディングも一緒にやっていた不動のレギュラーメンバーを率いてのステージだけに纏まりも良く、加えてライプステージ本来の進行もバッチリですよ♪♪~♪

それはA面がファンキー&ハードロック、B面がアンプラグド、C面がブルースロック、そしてD面が大団円のヒットパレード! というアナログ盤LPならではの構成として楽しめ、しかも異論はあるかもしれませんが、演奏のミスもそれほど手直しされていない正直さには好感が持てます。

なにしろ初っ端の「Feelin' Alright」からして、トラフィックのオリジナルスタジオバージョンとは決定的に異なる、ビシバシのファンキーグルーヴが大炸裂! もっさりしたジェラルド・ジョンソンのペースワークと幾分鈍重なリック・ジェイガーのドラミングが逆説的に素晴らしい効果を生み出し、マイク・フィニガンの如何にもエフェクター全開のキーボードもニクイですねぇ~~♪

また続く「Pearly Queen」もトラフィック時代の演目なんですが、そちらではあまり出番のなかったデイヴ・メイソンが、ここでは大ハッスル! 力みのボーカルに十八番の手癖を弾いてしまうギターが、ファンには泣きの涙でしょう。

ちなみにレコードの中でのギターの存在なんですが、もうひとりのギタリストであるジム・クリーガーのプレイは大部分が右チャンネル寄りにミックスされ、デイヴ・メイソンの本人のギターは真ん中に定位というのが基本ですので、じっくりとお楽しみ下さいませ。

そこで気になる「見張り塔からずっと / All Along The Watchtower」は、実はデイヴ・メイソン本人もアコースティックギターで参加したとされるジミヘンのスタジオバージョンを基本に、デイヴ・メイソンも更なるカバーバージョンを自身が1974年に出したアルバム「デイヴ・メイソン」に入れていますので、それをステージ演目にしている事についても不思議はありません。しかも特別にジミヘンを意識していない、自らのギターワークが冴えまくり♪ もちろん例の「三連節」も出しますから、そのナチュラルな姿勢が「らしい」んですねぇ~♪

それがデイヴ・メイソンです!

さて、そこでまたまた気になるのが、前述したイーグルスのカパー「Take It To The Limet」であって、全く堂々としたアンプラグドでの歌いっぷりが、これまた自然体の極みつきでしょうか!? サイケおやじは好きですよ、こういうのが♪♪~♪

ちなみに、このデイヴ・メイソンの影響でしょうか、当時の日本のバンドでも、イーグルスよりはデイヴ・メイソンのバージョンを真似たカパーをライプでやるのが流行りましたですねっ! う~ん、懐かしい♪♪~♪

しかし、デイヴ・メイソンのオリジナル曲の魅力も忘れてはなりません。

それは英国風味としか言いようのない湿っぽいメロディ展開とアメリカ南部に浸り込んだスワンプ~カントリーブルースの素朴な力強さの自然な融合とでも申しましょうか、全くデイヴ・メイソンだけの世界であって、それがB面で繰り広げられる「Give Me A Reason Why」「Sad And Deep As You」「Every Woman」「World In Changes」と続くアンプラグド大会では心底、堪能出来ますよ♪♪~♪ これは何れも本人自作で、既発アルバムに収録されてきた人気曲ですから、ここもファンに嬉しいパートでしょう。

ちなみに「World In Changes」は途中からエレクトリックなバンドバージョンに変質しますが、それでもメロディラインの味わいは普遍ですし、その意味ではA面に入っていた「Show Me Some Affection」にも、グッと惹きつけられますねぇ~♪

こうしていよいよ2枚目のレコードに針を落せば、まずはC面ド頭!! 

ハウリン・ウルフが有名にしたシカゴブルースの古典「Goin' Down Slow」のプルースロック大会がスタートするんですから、これもまた黄金の1970年代ロックがど真ん中! しかもここではリードボーカルがマイク・フィニガン、トーキンモジュレーターを使ったギターソロがジム・クリーガーという、まさにバンドとしてのリアルな存在がライプでも立派に実証されていますし、右チャンネルに定位するデイヴ・メイソンのサイドギターも地味~に良い感じ♪♪~♪

そして続く「Look At You, Look At Me」が、これまたデイヴ・メイソンが出した傑作アルバム「アローン・トゥゲザー」の中でも特別に印象的だった人気曲のライプバージョンなんですから、バンドメンバーも油断はしていないはずでしょうが、それでも散見されるミスの多さが逆に素敵ですよ。

あぁ、こういうところも、如何にも「らしい」デイヴ・メイソンなんですっ!

そこでクライマックスが収められた最終D面の充実度は言わずもがな、これまたデイヴ・メイソンと言わず、今やスワンプロック必須の名曲になっている「Only You Know And I Know」が飛び出せば、その場はすっかり泥沼フレィヴァ~♪ 得意技の三連フレーズ乱れ撃ちのギター、モタれ気味のヘヴィなビートに心地良く乗せられているボーカルこそが、デイヴ・メイソンの真骨頂だと思います。

またメンバー紹介の後に始まる「悲しき叫び / Bring It On Home To Me」のリラックスした雰囲気の良さも絶品ですし、いやはやなんともの強烈な16ビートに変身させた「Gimme Some Lovin'」は、丸っきり自分達が楽しんでいるムードなんですから、いゃ~、憎めないですよ。

ということで、こんな時代なればこそ、1970年代ロックにどっぷりと浸かり込むのも悪くありません。

ちなみに後年、アルバムジャケ写から柳ジョージを連想し、確かに中身の音楽性もちょいと似ているあたりは様々な憶測を呼びましたが、それはそれとして、とにかく少しでもデイヴ・メイソンに興味を抱いていただければ、本日のプログを綴ったサイケおやじも本望です。

そしてデイヴ・メイソンが同時期までに出してきた代表作LPの「アローン・トァゲザー」「忘れえぬ人」「デイヴ・メイソン」「スプリット・ココナッツ」あたりにも食指を伸ばしていただきたいと願うばかり……。

ただし、それを強く言えないのは自嘲するところで、つまりデイヴ・メイソンは決して押しの強いミュージシャンではなく、あくまでもマイペースな活動で時代を生きていた事への共鳴が好き嫌いの分かれ目と思うだけです。

最後になりましたが、ここでカパーされた「Take It To The Limet」は、デイヴ・メイソンのリーダー盤中、おそらく唯一の公式記録と思われますので、要注意ですよ。

いけねぇ~、イーグルスが聴きたくなってきた……。

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ちょっと神妙な歌

2012-09-29 15:50:08 | 歌謡曲

何のために / ザ・フォーク・クルセダーズ (東芝)

昨日は心底、情けないなぁ……、と思いましたですねぇ。

何ですかぁ~、あの国連での中国と我国のバカ演説の応酬は!?

丸っきりヤクザ映画の縄張り争い、縄張荒らしの正当性を訴えるが如き、虚言と暴言の罵り合いは、双方国民の呆れさせ、世界中に恥を晒した事はまちがいありませんよ。

これが映画の世界であれば、誰かが義憤で独り殴り込み、戸板に乗せられて帰ってきたり、頼りになる助っ人が窮地に登場する展開が「お約束」なんですが、現実的には、バカやってる者は笑われて終りでしょう。

もちろん今の中国と日本で戦争なんか、絶対に出来るはずがありませんよ。

それはもしも、中国が武力で尖閣に手を出したら、自衛隊が応戦すると同時に在日華僑や中国資本が凍結、あるいは没収され、関係人はスパイ容疑で拘束、さらには面倒になると纏めて虐殺される可能性が大きいんですよ。

また国家政府がそれをやらなくても、日本国民が自主的に同じ事をやるかもしれません。

そんなことは為政者ならば、誰でも分かっているでしょう。

また、それが分からなかったら、自国民の統治は出来るはずもありませんよねぇ。

これは韓国、あるいは北朝鮮に対しても同じ状況で、それほど日本と中国、また日本と韓国や北朝鮮は民族間の深い繋がりが現在までに構築されている、その事実は大きいです。

では、なんで今頃、中国が尖閣問題でゴチャゴチャ言い始めたのか!?

あくまでも憶測にすぎませんが、おそらくは資本家の希望と政権弱体化の兼ね合いが、ひとつの要因でしょう。どうやら、そこの海底には、この地域の未来を左右する膨大な資源が眠っていると言われていますからねぇ~。これは両国、双方同じと思われますが……。

さて、そこで本日のご紹介はフォーク・クルセダーズが昭和43(1968)年晩秋にヒットさせた、せつなくも美しい歌謡フォークの「何のために」です。

この歌は最初、端田宣彦がひとりで書いたそうですが、フォークル名義でレコーディングするに際しては、新たに北山修が歌詞を作ったと言われているとおり、まさに時代の悲惨や虚しさに仮託した人の生き方を訴えている名曲だと思います。

しかもパロック調とでも申しましょうか、青木望によるストリングスアレンジが過剰ギリギリの彩りなんですから、これもまたひとつのサイケデリック文化だったのかもしれません。

ただし、例え何であろうとも、こういう歌が今の時代に流れることもなく、また同傾向の作品も登場しないのは、やっぱり少し悲しいですよ……。まあ、それをサイケおやじが知らないだけだったら、ごめんなさいです。

ということで、少なくとも日本は胆力をキメて、対応する必要があるんじゃ~ないでしょうか?

繰り返しますが、相手国の挑発に同じ気持で論争をやっていたら、それこそ世界中からバカにされますよ。既に結果は確固としている以上、それが妬悔しくて、あれこれ因縁を持ち出すなんて事は見苦しい限り!

そしてバタバタ悪足掻きする我国の与党内閣も、尚更に自己憐憫……。

もちろん、マスコミに踊らされるのは、尚更にいけませんが、こんな時こそ、なんのために我々は生きて、生活しているのか、生かされているのか、少しは考えてみる良い機会?

と、本日のサイケおやじは神妙に思っているのでした。

暴言、ご容赦下さいませ。

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ドラゴンに燃えていた頃を思い出せっ!

2012-09-28 15:06:48 | Movie

燃えよドラゴン / Lalo Schifrin (Waner Bros. / ワーナーパイオニア)

日中関係が悪い……。

それは現在、紛れも無い事実であって、決定的な要因は例の尖閣問題でしょう。

しかし国家間、あるいは民衆相互が無闇な争いを望んでいるはずもなく、ましてや経済的にも両国が所謂「お得意様」の関係なんですからねぇ。

思えば40年前、日中国交正常化が成って以降、友好の証としてパンダが贈られたり、中国四千年の歴史文化展が開かれたり、何兆円もの円借款が行われてきた結果が、これじゃ~~、情けないですよ。

さて、そこで回想してしまったのが、昭和48(1973)年末に日本で公開された映画「燃えよドラゴン」の爆発的なヒットから続いたドラゴン~カンフーの大ブーム!

もちろん夭折の大スタアとしてブルース・リーが永遠の輝きを焼きつけた香港・アメリカ合作のアクション作品は、とにかくカンフーという打撃系格闘技をメインにした、実にスカッとしたスリルと神秘的なサスペンスが最高でしたし、何よりも細身の東洋人が陰湿な悪役や大柄の白人を一瞬で叩き潰すシーンの爽快感!

全くスクリーンを凝視させられる観客が、すっかり「その気」にさせられたのもムペなるかな、ブルース・リーのアクションを模倣したり、劇中で使っていたヌンチャクがバカ売れしたり、空手&拳法の道場が大盛況になったり……等々、とにかく日本中が、まさに「燃えよ」状態でしたよねぇ~~♪

また当然ながら、これは全世界でも同じ状況であって、それゆえにラロ・シフリンが担当した同映画のサントラから、テーマ曲「燃えよドラゴン / Theme From Enter The Dragon」が大ヒットしたのも必然でした。

あぁ~、これが最高にカッコE~~♪ ファンキージャズのフュージョンサウンドなんですから、今でもこれが流れてくると、グッと身体に力が漲ってくる皆様も大勢いらっしゃると推察するばかりですよっ!

それはイントロから大仰なオーケストラの響きと如何にもカンフーな気合のシャウト(?)がキャッチーの極みつきであり、特有の中華メロディがファンクなベース&ドラムス、そしてワウワウのギターで展開されていく中には、エレピのアドリブが置かれ、さらには流麗なストリングが彩りを添えるんですから、本当に、たまりませんねぇ~~♪

ちなみに、この種のジャズファンクが得意のラロ・シフリンは、これ以前にも例えば映画やテレビの劇伴サントラでは「ブリット」や「ダーティ・ハリー」、ご存じ「スパイ大作戦」等々があまりにも有名でしょうが、本来はアルゼンチンで生まれ育ち、クラシックや現代音楽を基本にアレンジやピアノを習得し、長じてはパリに留学までしていた音楽秀才です。そして我々が本当にラロ・シフリンを知るのは、モダンジャズを創成したトランペッターのディジー・ガレスピーのバンドに雇われ、エスニック風味の作編曲を提供しながら、レギュラーピアニストを務めていた1960年代からでしょう。

ですから、その音楽性にラテンやボサノバ、正統派モダンジャズからジャズロックやソウルジャズの要素が入り乱れて化学変化しているのも当然ではありますが、そんな持ち味が劇伴の仕事では尚更に分かり易く、刺激的なテンションを活かした方向に進化したのも、前述の作品群で明らかだと思います。

そこで以降、世界中で追従的作品が娯楽映画の主流となり、香港や台湾、東南アジアで作られた真性(?)カンフー物ばかりか、千葉真一や倉田保昭、それに「えっちゃ~ん」と呼ばれてアイドルスタアとなった志穂美悦子が主役の和製ドラゴン物、さらには欧州制作の勘違いインチキドラゴンやハリウッドでのブラックドラゴン諸作までもが、玉石混合で封切されたのも今や昔の出来事かもしれませんが、少なくとも、この「燃えよドラゴン」が無かったら、我々は志穂美悦子の最良の登場には出会えなかったはずです。

また同様の事態は世界各国で言わずもがなの真実であり、付け加えれば劇伴サントラにラロ・シフリン調のジャズファンクが増大した事も嬉しい誤算(?)でしょう♪♪~♪

ということで、権力者のメンツや資本家の悪企みは何時の世にも消えることはありません。

ですから今回の領土問題云々も、国際法等々の手段によって判断された後、禍根を残すことは必至だと思っています。

しかし、だからといって、既に「なあなあ」では済まされない話になっている現在、この「燃えよドラゴン」のように、国という囲いを解き放つパワーを持った娯楽映画でも出てくれば、なにかすんなり解決の道筋が見えるような気もするんですよ……。

つまり民衆レベルでの高揚感が、人種や国家体制の壁を超えて、いろんな問題を良い方向に導くんじゃ~ないのか?

と、相変わらず、お気楽な考え方しか出来ないサイケおやじではありますが、40年前の高揚感を回想すれば、不平不満諸々も収まりがつきそうな気配です。

そして最後に一言、尖閣国有化は大正解!

これに揺るぎはございません。

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恐るべき庶民へのファンファーレ

2012-09-27 15:24:05 | Rock Jazz

庶民のファンファーレ c/w 恐怖の頭脳改革
        / Emerson Lake & Palmer (Atlantic / ワーナーパイオニア)

あまりにも凄い傑作を出し続けた挙句、ほとんど煮詰まっていたエマーソン・レイク&パーマー=ELPが1977年に出したシングル盤ですが、もしかしたら今日、このA面曲「庶民のファンファーレ / Fanfare For The Common Man」が、ELPでは一番に知られたヒット曲かもしれません。

もちろん、これはELPのオリジナルではなく、アメリカの作曲家として名高いアーロン・コープランドが1942年書いた有名なメロデイとして、タイトルどおりの荘厳華麗、そして威勢が良く、覚え易いところから、最初は軍歌であったと言われていますが、今となっては様々な催し物の幕開けに使われているので、一度は皆様も、その旋律は耳にした事があろうと思います。

そこでロックの世界でも、ELP以前にプログレ系バンドのスティクスが1972年頃に出したデビューアルバム(?)で演じていますし、ストーンズが1975年の巡業ライプで開演の合図に流していた事も知られているはずです。

しかし、それをあえてELPがやってしまうというあたりに、当時の彼等の苦境を感じてしまうのは、サイケおやじだけではないでしょう。

実はご存じのとおり、この「庶民のファンファーレ / Fanfare For The Common Man」は、LP3枚組の大作ライプ盤「レディース&ジェントルメン」から、ようやく3年ぶりに世に出た久々の新作アルバム「四部作 / Works」の収録曲ながら、それがこれまたLP2枚組であるにもかかわらず、アナログ盤A~C面の各々がキース・エマーソン(key,vo)、グレッグ・レイク(b,g,vo)、そしてカール・パーマー(ds,per) のソロプロジェクト企画であり、3人揃ってELP本隊としては、D面に僅か(?)2曲だけというテイタラク……。

その内のひとつが「庶民のファンファーレ / Fanfare For The Common Man」であった事は言うまでもありませんが、問題はもうひとつの「海賊」も含めて、何か間延びした仕上がりになっていた結果は否定出来ません。

そこで苦し紛れ(?)のシングルカットに際しては、当然ながら9分以上あったトラックを3分弱に短く編集した事も、決して暴挙ではなかったはずで、それは実際、世界中で大ヒットしてしまったのですからっ!?!?

ちなみにELPとアーロン・コープランドの関連については、1972年に出した名盤アルバム「トリロジー」において件の巨匠作曲の「Hoedown」を堂々と演奏し、以降もステージライプの必須演目にしていた時期がありますから、目論見通りに大当たりした「庶民のファンファーレ / Fanfare For The Common Man」が以降のチェンジレパートリーになった事も当然でした。

しかし、サイケおやじが、このシングル盤をゲットしたのは編集バージョンのA面ばかりが目的ではなく、本音はB面に収められていた「恐怖の頭脳改革 / Brain Salad Surgery」でありました。

なにしろ当時の我国では、これが未発表曲だったんですねぇ~~♪

まあ、結論から言えば、本国イギリスでは音楽雑誌の付録ソノシートに入れられて、1973年には出回っていたんですが、その頃の我国の洋楽事情では、そんな僥倖は夢の中の話ですし、なによりも曲タイトルが「恐怖の頭脳改革 / Brain Salad Surgery」、つまり未だ超絶の傑作アルバムとそれが同名であれば、ど~しても聴いてみたくなるのがファンの切なる気持でしょう。

何故ならば、説明不要とは思いますが、1973年に発表された件のLP「恐怖の頭脳改革 / Brain Salad Surgery」には、肝心のアルバムタイトル曲が入っていませんでしたから、これは当時から完全に???

どうやら真相は、曲も演奏も作られながら、全体の流れと密度の中では浮いていたのでオミットされたという説が流布され、確かにブートで聴けた問題のソノシート音源は、全くそのとおりの物足りなさ……。

それでも、こうしてオフィシャル化されたとなれば、プロモーション扱いのオマケ音源よりは数段に優れたものになっているにちがいない!? と思い込むのも、ファン心理です。

ところが、やっぱり、過大な期待は裏切られると言っては失礼かもしれませんが、少なくともサイケおやじを満足させてくれるような仕上がりではなく……。率直に言えば、これはど~したって、没テイクになったのも納得出来るのです。

しかし同時に、こういうものでさえ聴かなければならないほどの切迫感、それほどの存在感が当時のELPにはあったのです。

もちろん、これで見切りをつけられた事も、また、ひとつの現実でした。

そして以降、ELPは完全な迷い道に踏み込み、同年末には「作品第二番 / Works 2」なぁ~んていう、メンバーのソロプロジェクトによるシングル盤オンリーの楽曲や余りテイク等々を寄せ集めたアルバムを出し、当然ながら、ここで問題にした「恐怖の頭脳改革 / Brain Salad Surgery」も入っていたんですから、もはやど~しようもありません……。

ただし救いは、それが比較的安価な1枚物のLPであった事、あるいはシングル盤であった事でしょうか。

さて、実はここまで長々と書いてきた拙文には、もうひとつの意図がありまして、それは最近続々と発売されるベテラン大物ミュージシャンによるベスト盤商売に対する、あれこれです。

それは例えば山下達郎が先日出したCD3枚組のベスト盤にしても、一応はデビュー時から今日までを包括した、発売元レーベルを超越する選曲で、リマスターも施され、しかも初回盤にはデモ音源等々を入れたボーナス盤が付くというのですから、長年のファンならば買わずにはいられないでしょう。

もちろん目当ては、そのボーナスディスクですよ!

しかし、これはサイケおやじだけの気持じゃ~ないと確信するところなんですが、たった(?)それだけで、CD3枚分の耳タコ楽曲にお金を持っていかれる事態は、なにか不条理なんですよねぇ……。

ところが同時に、その「たったそれだけ」ってのが、大いに無視出来ないのですから、それはファンの宿業なんでしょう。

不肖サイケおやじも、全くそのひとりとして観念させられたんですが、似たような事態は今後予定されているストーンズ、あるいはユーミンのベスト盤にも言える事で、こんな状況が今後、2~3年毎に繰り返されるとしたら、それこそ地獄へ道連れですよ。

ちったぁ~、逆の立場も考えて欲しいもんですっ!

そりゃ~、確かに、創作活動に携わる芸能人が長年の間に新作を出し難い状況になるのは、誰しも避ける事が出来ない道でしょう。また、ファンが新作を待ち望む心境だって、憧れの対象が大きいほどに、その反動も比例します。

そんな事は本人達が一番分かっているはずですから、現実的にファンが絶対に口出しを許されない部分だとは思います。

それでも、高額な商品を売る目的で、僅かばかりの美味しそうなエサと言っては語弊もありますが、ど~せなら、それを未発表曲集として纏めて発売してくれたほうがファンは喜んでお金を払うと思うんですけどねぇ……。

ということで、リアルタイムでは疑問符が多かったELPの「ワークス」関連音源も、今となっては、却って潔いと感じています。

う~ん、「庶民のファンファーレ / Fanfare For The Common Man」の爽快さは、そんな未来も見越していたんでしょうか!?

恐るべしっ!

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ソウルもラテンロックもフュージョンしていたウォー

2012-09-26 15:14:51 | Soul

Cisco Kid / War (United Artist / 東芝)

1970年代初頭、サンタナの大ブレイクによって火がつけられたラテンロックの流行では、マロやアステカといったサンタナの弟分バンドをはじめ、同系の音楽性を持ったグループが幾つも注目されました。

例えば本日ご紹介のウォーも、黒人メンバーが主体とはいえ、やっていた基本は丸っきりラテンロックであり、さらにはファンクやジャズ、ブルースやフォークロックまでも包括的に融合したフュージョンサウンドで一世を風靡しましたですねぇ~♪

しかも歌詞の中身に相当なメッセージ性が強く、「ウォー」というバンド名が逆説的に平和を希求する意味合いになっていたところも侮れません。

そして彼等の最初のメジャーな出発的が、アニマルズを解散させたエリック・バードンのバックバンドであったという事実も、これまた重要ポイントかもしれません。

実は当時のエリック・バードンは芸能界引退を考えていたらしいのですが、周囲の勧めによって黒人バンドを率いての活動を企図!? そんな折にLAで発見されたのが、ウォーの前身であったナイトシフトだったと言われています。

また同じ頃、エリック・バードンが歌うステージで共演していたのが、デンマーク人のリー・オスカーと名乗るハーモニカ奏者で、そんな諸々の関係者が一堂に会し、1969年に結成されたのが、エリック・バードン&ウォーでした。

メンバーは前述のリー・オスカー(hmc,vo)、ハワード・スコット(g,vo)、ロニー・ジョーダン(key,vo)、B.B.ディッカーソン(b,vo)、ハロルド・ブラウン(ds,vo)、チャールズ・ミラー(fl,sax,vo)、そしてパパ・ディー・アレン(per,vo) の7人組で、当時のステージ進行は前半がウォー、後半がエリック・バードンの入ったガチガチネチネチのライプでしたから、1970年には最初のアルバム「宣戦布告 / Eric Burdon Declares War」を作り、シングルカットした「Spill The Wine」が大ヒットしたのも不思議ではありません。

しかし告白すれば、その頃のサイケおやじは、日本でもそれなりに流行っていた件の「Spill The Wine」をラジオで聴いても、何かイマイチ……。何が悲しくて、エリック・バードンが中途半端なラテンロックを歌うのか!?

そんな不遜な気持になっていたんですから、お笑い下さいませ。

もちろん、問題なのは、その「中途半端」なところだった事を後に知るわけですが、まあ、それはそれとして、とにかく順調なスタートから作られた2ndアルバムが「エリック・バードンの黒い世界!! / The Black-Man's Burdon」という物凄い邦題が付されたLP2枚組の熱血盤なんですねぇ~~~~。

この内容については何れ、あらためての掲載を予定していますので、今は端折りますが、ひとつだけ特筆しておきたいのが、カパー曲以外を作ったのがウォーの面々だったという事です。

さらにジャケットもエロいデザインが潜んだ問題作であり、中身は激しいラテンロックとネクラなモダンジャズの化学変化ばっかりなんですから、後は自ずと進む道が知れようというものです。

なんとっ! 驚くなかれ、主役のエリック・バードンがグループを投げ出したというか、巡業の真っ只中に疾走(?)もどきの脱退騒動が勃発し、以降のツアースケジュールは全てウォーの単独ステージになったそうですが、そのライプが所謂元祖ジャムバンドであった事から、結果オーライ♪♪~♪

こうしてウォー単独での活動が認められ、1971年には最初のアルバムが制作発売されたのですが、ここまでの経緯をサイケおやじが知り得たのは、もちろんリアルタイムではなく、本日掲載したシングル盤A面曲「Cisco Kid」が大ヒットして以降、つまりウォーが我国でも注目されての後追いです。

それが1973年の事で、最初はFEN=米軍極東放送のラジオから流れまくっていた記憶から、とにかく調子が良くて、さらにヘヴィなピート感はイントロから全開! ピアノとエレキベースの蠢きにワウワウのギターが絡んでいく展開には心底、ゾクゾクさせられましたですねぇ~♪

さらにボーカル&コーラスが野性的なグルーヴを発散し、どこか猥雑なフィーリングがワイワイガヤガヤのファンクなノリに変質していくんですから、たまりません♪♪~♪

う~ん、これぞっ! ラテンロックの真髄!!

なぁ~んて、当時は強く思っていたサイケおやじではありますが、既に述べたようにウォーの作り出していた音楽にはラテンやロックの他にブルースやジャズ等々の黒人ルーツが明確にあって、そこが黒人主体のバンドである本領なのでしょう。

ステージではアドリブ主体の気持E~、それこそフュージョンをやっていた事は、後のライプ盤で証明されています。

ちなみに同じ頃にはスティーリー・ダンも「Do It Again」のヒットで、ラテンロック路線を狙っているとリスナーに思い込ませていたんですから、なかなか罪深い話……。

もちろん両者共にジャズファンクを包括したフュージョンの礎を築かんとしていたわけですが、それはまた後の話です。

ということで、一発で「Cisco Kid」にシビれたサイケおやじは以降、ちょいちょいとウォーのレコードを集めていく中で、前述したエリック・バードンとの共演アルバムに接し、ようやく目が覚めたというわけです。

皆様もご存じのとおり、ウォーはフュージョンバンドでもあり、真性ソウルグループでもありましたが、それゆえに1970年代後半からのディスコブームの渦中では精彩を欠き、取り残されています。

つまりウォーは実に複雑なグルーヴを易々と演じていたんですねぇ~♪

現在ではほとんど顧みられないバンドになっているようですが、ドロドロのライプ盤も含めて、1970年代に発表したアルバムは全てに聴きどころが満載されていますし、率直に言って、楽しいです。

本当に良いバンドでした♪♪~♪

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レーナード・スキナードの総意

2012-09-25 15:46:16 | Rock

Lynyrd Skynyrd (Sounds Of The South / MCA)

1970年代に大きなブームとなったサザンロックの王様は、もちろんオールマンズでしょうが、もうひとつ、サイケおやじが好きでたまらないバンドとして、レーナード・スキナードがあります。

その魅力は白熱のトリプルギター、ヘヴィにドライブするリズムセクション、男気と哀愁を滲ませる情熱のボーカル、さらにはオリジナル楽曲とカパー演目のバランス良さ、そしてデビューから初期のプロデューサーがアル・クーパーという、全くサイケおやじがグッと惹きつけられる要素ばっかりのグループなんですよっ!

そこで本日ご紹介するのが、その公式デビューアルバムで、世に出たのは1973年末でありながら、もちろんそこまでの紆余曲折、そして人気絶頂時における悲劇的なバンド消滅も含めて、まさに伝説の始まりが収められています。

 A-1 I Ain't The One
 A-2 Tuesday's Gone
 A-3 Gimme Three Step
 A-4 Simple Man
 B-1 Things Goin' On
 B-2 Mississipppi
 B-3 Poison Whiskey
 B-4 Free Bird

ところで、レーナード・スキナードが我国で紹介されたのは1974年だったんですが、とにかく最初に喧伝されたのが、アル・クーパーが直々のプロデュース! 

それは言うまでもなく、ニューロックの歴史を作った才人のひとりが認め、自ら設立した新レーベル「サウンド・オブ・サウス」からの第一号(?)タレントである資格と名誉をウリにした、些かの憎らしさがありましたですねぇ……。

しかし実際に出てくる音を聴いてみれば、これが実に骨太のロックが基本であって、同時に細かいところまで組み立てられた演奏と歌のバランスが秀逸なんですから、当時の洋楽マスコミは挙って実力派の登場!!

とにかく各方面で、ベタ褒めだったと記憶していますが、それもそのはず、既に述べたように、レーナード・スキナードには、みっちりと下積みがあったんですねぇ。

その始まりは中心メンバーのロニー・ヴァン・ザンド(vo)、ゲイリー・ロッシントン(g)、アレン・コリンズ(g) の3人が高校時代に結成したバンドであり、最初はストーンズやビートルズ、ヤードバーズ等々のコピーをやっていたというあたりは、如何にも1965年であり、また夥しくあっては消えていったアマチュアバンドの典型的な有り様です。

そして出身地のフロリダ周辺からアメリカ南部の各地区でドサ回りをスタートさせたセミプロ時代には、追々に後のレギュラーメンバーも揃っていくのですが、結局はカタギの就職もせず、なんとか食っていけたのは、彼等にはそれだけの実力と根性、同時に処世術があったからでしょう。

実はサイケおやじはレーナード・スキナードを最初に聴いた時、しぶとい感じを強く覚えたんですが、後にデビューまでの様々なエピソードを知ってみると、さもありなん!

なにしろ、1室だけ借りたモーテルに7~8人のバンドメンバーがザコ寝で生活していたとか、食料調達の諸々には触法行為もやっていたとか、まあ、このあたりは何もレーナード・スキナードだけでは無いはずですが、そうした苦節の味が、殊更微妙に彼等の歌や演奏から滲み出ている感じがするわけです。

さて、そんな苦節もあってか、いよいよ大手レコード会社からの本格的なデビューを狙ってのデモテープ作りには、マスル・ショールズのスタジオミュージシャンとしては超有名なギタリストのジミー・ジョンソンが協力してくれる事となったそうですが、そういう強い人脈が培われたのも、真摯(?)な下積み時代があったからじゃ~ないでしょうか。

ちなみに、ここで作られたデモ音源はバンド消滅後に纏められ、アルバム化されているのは、皆様ご存じのとおりです。

ただし、その頃になってもバンドメンバーは未だ流動的であり、折しもサザンロックの新しいブームに瞠目していたアル・クーパーに認められ、前述の新レーベルと契約レコーディングがスタートする時点になっても、レギュラーが揃っていなかったというのですから!?

ところが流石はアル・クーパーの手腕は堅実というか、自身が南部系のサウンドを作る時には頼り(?)にしていたアトランタ・リズム・セクション=ARSが根城のアトランタ・スタジオ・ワンを使い、録音現場の助っ人も願い出ているんですが、このARSの前身こそが、「Spooky」等々の大ヒットを放ったクラシックス・フォーというスタジオミュージシャン集団であり、バンド名どおりのサザンロックをやっていながら、なかなか万人向けのポップな感覚を前面に出したスタイルを持っていたんですから、何の心配も御無用という事でしょうか。

ここにデビューアルバムを作った時のレーナード・スキナードのメンバーはロニー・ヴァン・ザンド(vo)、ゲイリー・ロッシントン(g)、アレン・コリンズ(g) に加えて、元ストロベリー・アラーム・クロックのエド・キング(b,g)、ビリー・パウエル(key)、ロバート・バーンズ(ds)、そして当時は出入りの激しかったレオン・ウィルカースン(b) という顔ぶれだったようですが、現実的にレコーディングでベースを担当していのはエド・キングであり、また、そのフレーズ構成はオリジナルベーシストであったレオン・ウィルカースンのプレイをコピーした旨が見開きジャケット内側解説に特記してある事から、本人が正式なペース奏者としてバンドに復帰したのも、当然と思います。

もちろん、それゆえにウリとなったトリプルギターのバトルが確固たるスタイルになった事は言わずもがなでしょう。

その最初の成功例として、ここに収められているのが、以降のレーナード・スキナードでは最高の人気演目となった「Free Bird」で、約9分の長尺トラックの後半が、それこそギンギンのギター絡み合い! 一応、主なリードパートはアレン・コリンズとクレジットされていますが、クライマックスでは誰がどのフレーズを弾いているのか? 不明なのが本当にイライラしてくるほど、熱いですよっ!

しかし、もうひとつ、この「Free Bird」で大きな魅力となっているのが、一説によると早世したデュアン・オールマンに捧げたとされる、その哀愁ロックな曲メロを歌うロニー・ヴァン・ザンドのボーカルです。

いゃ~、まさに「切々とした」という表現がジャストミートの歌いっぷりが、実に泣けてくるんですねぇ~~♪

もう、それがあってこその、後半ギターバトル大会ですよっ!

その意味で、もうひとつ、ゆったりした哀愁ロックの「Tuesday's Gone」ではアコースティック&エレキギターのコンビネーションと緻密なバンドアンサンブル、そして泣けてくるストリングスをバックに歌う典型的なサザンロックのパラード表現が、たまりませんねぇ~♪

一方、骨太ブギの「I Ain't The One」、フェィセズと言うよりも我国のツイストみたな「Gimme Three Step」、如何にも十八番のハードロック「Poison Whiskey」に顕著なブリティッシュロックからの影響が隠し様も無いのは、まさに時代の流れでしょうか?

リズムの作り方、特にギターはエリック・クラプトン~ジミー・ペイジ系のコピー色がモロなんですねぇ~♪

それはミディアムスローから少しずつヘヴィに展開される「Simple Man」、ホンキートンクなピアノが良い意味で野暮ったい「Things Goin' On」、アコースティックなカントリーブルースでありながら、第一期ジェフ・ベック・グループみたいなヘヴィさが魅力の「Mississipppi」あたりにも強く感じられるもので、そうした感覚がアル・クーパーのプロデュースによるものか、あるいはバンド本来の持ち味であったものか、そんなこんなの論争があったのも懐かしい記憶です。

しかしレーナード・スキナードの個性は、そうしたブリティシュロック味がウケた事により、決定的になったんじゃ~ないでしょうか?

サイケおやじが贔屓なのも、そこに要点があると自己分析しています。

ということで、後の人気沸騰を鑑みれば、このデビューアルバムは必ずしも大成功作とは言えないかもしれませんが、幾分の不安定さや荒削りなフィーリングはロックの醍醐味のひとつであり、それが既に述べたとおりの緻密な部分と上手く融合している事は、アル・クーパーのプロデュースの力と思っています。

そして以降、1977年10日17月の飛行機事故によってバンドが消滅するまで、数枚の傑作アルバムを残しつつ、絶対的な人気を獲得したのです。

今となっては、オリジナルのレーナード・スキナードからの残党による別バンドやリバイバルグループが活動していますから、その衣鉢は立派に受け継がれているものと思いますが、であればこそ、本家の消滅は……。

う~ん、レーナード・スキナード、永遠なれっ!

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アリス・クーパーの明日はどっちだっ!

2012-09-24 15:17:30 | Rock

嘆きのティーンエイジ'74 c/w Woman Machine / Alice Cooper (Warner Bros. / ワーナーパイオニア)

どんな世界にも思いっきり誤解されている人物は確かにいますよねぇ。

そりゃ~、確かに第一印象ってのが大切である事は、この世の理ではありますが、あえてそれを逆手に活かし、自分の印象を強くしようと目論むのは、あざとくも若気の至り……。

しかし、三十歳過ぎたらロックは出来ねぇ~~!

と信じられていた1960年代末からの十年間ほどには、それが堂々と許されていた感もあり、同じ頃に人気の絶頂を極めていたアリス・クーパーは、まさにその路線の大成功者だったと思います。

なにしろステージライプでは大袈裟なメイクに大蛇と一心同体(?)の如き、ド派手なアクション! さらには電気椅子や絞首台まで使う芝居っ気がありましたから、何時しか「ショックロック」なぁ~んていうキャッチフレーズがウリになっていたほどです。

ただしやっている事は正統派のハードロックであり、それも幾分のオールディズ味を大切にしていた事から、1971年後半からは折しもブームが到来しつつあったグラムロックの一派に数えられる人気を得たのですが……。

あえて言及しておけば、アメリカ西海岸でスタートしたアリス・クーパーはグラムロックではなく、グリッターロックというのが正解かもしれません。

尤も、その両者には相互共通のフィーリングが言わずもがなで、同傾向のロック&ポップスが短期間とはいえ、世界的ブームになったのも、そういう広がりがあったればこそ! と思えば、アリス・クーパーの行き過ぎた強烈なイメージ戦略も認めさせるをえません。

そしてメジャーデビューから「エイティーン」「キラー」「スクールズ・アウト」と続く3枚のLPにぎっしりと収められた演目は、そのほとんどがカラッとしたアメリカンロックの保守本流なんですから、先入観念は禁物でしょう。

ちなみに当時のアリス・クーパーはヴィンセント・ファニア(vo)、マイケル・ブルース(vo,g,key)、グレン・バクストン(g)、デニス・ダナウェイ(vo,b)、ニール・スミス(vo,ds) という5人組のバンドが実態であり、メンバーは何れもが富豪の子弟、所謂おぼっちゃんバンドであったというのですから、後にそれを知ったサイケおやじは思わず唸りましたねぇ~~~。

というのも、最初に彼等を認めたのはフランク・ザッパであり、その偉大なる音楽家の個人レーベルから数枚のレコードを制作発売したものの、その費用はバンド側が出していたそうですし、結果的に不発となって以降の下積み時代にも、相当に享楽的な生活だった事は業界で知られるところです。

しかし、それは決して悪い事ではなかったのでしょう。

何故ならば前述した退廃的なステージアクトと楽天的な楽曲のコントラストの妙は、絶対に貧乏ったれの世界からは生まれなかったとサイケおやじは思うからです。

まあ、このあたりについては異論反論、多々あって、お叱りも覚悟しておりますが、本日は居直って書いてしまいましたので、ご了承願います。

さて、そんな経緯からアリス・クーパーが本格的に大ブレイクしたのは、前述のLP「スクールズ・アウト」を出した頃からで、まずは件のレコードが女性のパンティを模った紙の内袋に入れられていた事は、日本でも大きな話題になりましたですねぇ~~♪ 確か日本盤初回LPも同じ仕様になっていたはずですが、残念ながらサイケおやじは持っていません。

しかし何よりも大切なのは、その中身であり、既に洋楽マスコミによって伝えられていたケバケバしくも毒々しいステージの様子が、相互作用的にレコードに収められたハード&ポップなロックを良い方向へと導く感じは最高♪♪~♪

そして1973年にはザ・フーのキース・ムーン、ドノバン、さらにはマーク・ボランまでもがゲスト参加した傑作アルバム「ミリオン・ダラー・ベイビーズ」が発表され、このあたりが過言ではなく、アリス・クーパー全盛期の頂点でしょう。ステージから本物のドル紙幣をバラ蒔き、来日した時は確か五百円札を代用して問題になったのも、懐かしいエピソード!?!

また、前述したバンド形態のアリス・クーパーが、ボーカリストのヴィンセント・ファニア個人の芸名に変えられたのも、この頃のはずです。

いゃ~、全く禍々しいほどのイメージは、そのルックスから放たれる絶妙の屈折感も合わせて、アリス・クーパーがアリス・クーパーであり続ける限り、不滅! もちろん作られたレコードが本物のロケンロールである事は、論を俟ちません。

そこでいよいよ本日ご紹介のシングル盤なんですが、まずはジャケットイラストの蛇のイメージが、まるっきりギリシャ神話のメデューサなんですから、いやはやなんとも!?

しかしA面曲「嘆きのティーンエイジ'74 / Teenage Lament '74」は、これが出た1973年末リアルタイムのニューアルバム「マッスル・オブ・ラブ」からのカットで、その力強いロカパラードはアリス・クーパー十八番のボーカルスタイルのひとつであって、おまけにバックコーラスがライザ・ミネリ、ロニー・スペクター、ポインター・シスターズというスター揃いなんですから、たまりません♪♪~♪

簡潔にして狂おしいギターソロも良い感じ♪♪~♪

あぁ~、このあたりを聴いていただければ、蛇だとか、電気椅子だとか、そんなオドロの雰囲気よりは、もっと素直にアリス・クーパーを楽しめと思います。

一方、B面の「Woman Machine」は、伝統的なハードロックのギターアンサンブルを前面に出した、これまたストレートなアリス・クーパーの本領発揮!

実はプロデュースを担当しているのが、直後にエアロスミスをブレイクさせるジャック・ダグラスというのも、なかなか説得力があるんじゃ~ないでしょうか、サイケおやじは好きです。

もちろん前述のアルバムタイトル「マッスル・オブ・ラブ」は「愛の筋肉」なぁ~て邦題に訳されていた事もありましたが、本来は往年のキャバレー等では呼び物だったヌードレスリングやキャットファイトの事らしく、だったらサイケおやじが気に入ってしまうのにも、それなりの理由があったというわけです。

ということで、実はオリジナルメンバー主体によるアリス・クーパーは、ここでお終い!

以降は完全にボーカリストのアリス・クーパーが単独で演じるプロジェクトになり、実はガチガチの保守的人物であったとか、私生活はテレビとお菓子とビールがあれば、それでゴキゲン!?

そんなこんなの実像(?)が、まことしやかに伝えられ、それもまた一連のイメージ戦略かと思えるほどに極端なんですから、流石です。

そして今こそ、虚心坦懐にアリス・クーパーの全盛期に接してみれば、1970年代後半からはアル中で精神病院に入ったとか、落目になった1980年代にはテレビタレントになって、特にクイズ番組で大ボケばっかりやっていたとか、些か情けないニュースに接していた頃でさえも、それがアリス・クーパーならではの確信犯だったにちがいない!

そんなふうに思えてくるのですから、たまりませんねぇ~♪

どこまでが芝居で、どれがマジだったのか、曖昧な生き方を見せるのもロックスタアの仕事であるとすれば、アリス・クーパーは最高のレベルにあって、それが混迷する現在の社会においては、そこに我々一般人が何かしら生きる指針にすべきものがあるように感じられます。

というか、1970年代前半のアリス・クーパーがやっていた、スカッとして、どこか熱に浮かされたような音楽が、昔っから保守的なサイケおやじの心の拠り所になっているのでした。

皆様も、ぜひっ!

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サマー・ワインからリー・ヘイズルウッドを知る

2012-09-23 15:20:32 | Pops

Summer Wine / Nancy Sinatra with Lee Hazlewood (Reprise / 日本ビクター)

1枚のレコード、ひとつの歌から広がる世界の奥深さ、という点において、本日ご紹介の「Summer Wine」は、まさにサイケおやじにとっての重要ポイントでありました。

ご存じのとおり、この曲は日本盤ジャケットに登場しているナンシー・シナトラのソロシングルのイメージとは裏腹に、その実態はリー・ヘイズルウッドなる男性歌手とのデュエットソングであり、1967年にヒットしているんですが、実は同年同時期の彼女は父親であるフランク・シナトラとのデュエットによる「恋のひとこと / Somethin' Stupie」を全米チャートのトップに輝く大ヒットにしていましたから、明らかな二番煎じというところでしょうか。

そして実際、この「Summer Wine」は昭和42(1967)年秋から冬にかけて、我国のラジオでも流れまくったんですから、そういう路線は正解だったのでしょう。

しかし、サイケおやじの本音としては、もっとナンシー・シナトラの単体物が聴きたいという欲求があり、父親のフランク・シナトラならまだしも、なんで彼女が得体の知れない中年男と一緒に歌わなきゃ~いけないんだっ!?

と、嫉妬まじりに憤っていたわけですが、実際、「Summer Wine」で聞かれる男性ボーカルの妙に自信たっぷりな歌声は、西部劇の主題歌みたいな曲調にはジャストミートでありながら、同時に美女をいたずらしそうな下心に感じられるんですよねぇ……。

おまけに当時の洋楽雑誌に掲載されていたナンシー&リーの写真、あるいはテレビで流れたフィルム映像を見ると、これが完全に美女と髭の中年男なんですから、怪しさも絶頂!?

一応、2人を主役に作られたアメリカ盤LPのジャケットを掲載しておきますが、流石に日本盤シングルをナンシー・シナトラだけのピクチャースリーヴにしたのは、当然と思う他はありません。

う~ん、それにしても、このリー・ヘイズルウッドって奴は、誰なんだぁ~~!?

という疑問から、サイケおやじの例によっての探索は奥の細道となったわけです。

そして調べるほどに明らかになる、その驚愕の実績は過言ではなく、R&R期以降のハリウッドポップスの一端を作り上げたものでした。

中でもフィル・スペクターの相棒として有名なレスター・シルとの共同作業は、レスター・シルがフィル・スペクターとの仕事を本格化させる以前の重要なものです。

実はリー・ヘイズルウッドはアリゾナ州のラジオDJであり、当地でレコード制作もやっていたのですが、1955年にサンフォード・クラークというローカルな白人歌手を起用して、エルヴィス・プレスリーの物真似曲「The Fool」をプロデュースし、大ヒットさせた事により、おそらくはそれで既に業界裏方の実力者であったレスター・シルと意気投合したものと思われます。

ちなみにレスター・シルについて、サイケおやじはイマイチ、その人物像や履歴を知り得ないんですが、とにかく業界で名を上げたのは、黒人音楽も作る某レコード会社で働いていた頃にジェリー・リバー&マイク・ストーラーという、ロック史では有名なソングライターコンビを発見育成した事が最初でしょう。

そして以降、楽曲管理や音楽業界関連の様々なマネージメント等々へ事業を広げていく過程で、リー・ヘイズルウッドと知り合ったのでしょうが、リー・ヘイズルウッドにしても、いろいろと練っていたアイディアを実践していく中では、レスター・シルの協力が大きな後ろ盾になっていたと思います。

例えばギターインストの最初の大スタアとなったデュアン・エディのプロデュースについても、ハリウッドの有名スタジオやセッションプレイヤーを使う算段において、レスター・シルはかなりの働きがあったはずですし、同時に大手レコード会社との音源供給契約や新設レーベルの運営等々、2人の音楽的嗅覚は絶妙のコンビネーションとなって結実し、後のサーフィン&ホットロッドの大ブームを誕生させた事も無視出来無いはずです。

また、一説によると、駆け出し時代のフィル・スペクターに様々な録音技法を教え込んだのはリー・ヘイズルウッド!?

そこからレスター・シルとフィル・スペクターの歴史的コンビが発展的に出来上がり、リー・ヘイズルウッドが孤立(?)したという穿った解釈もあると言われていますが、どうなんでしょうねぇ~~~?

ただしリー・ヘイズルウッドにはアル・ケイシー(g,key,arr)、ハル・ブレイン(ds)、ビリー・ストレンジ(g,arr) 等々の有能なセッションプレイヤーが既に子飼になっていたと言われていますから、結果的にレスター・シルとの共同作業の終焉、またデュアン・エディとの喧嘩(?)別れがあって以降も、それほど逼迫した事態には陥らなかったはずで、現にアストロノウツを大ブレイクさせたり、ついに1960年代初め頃には自らのボーカルアルバムを出しています。

また同じ頃、フランク・シナトラが出資したレコード会社のリプリーズからプロデューサー業の依頼があったのも、そういう実績があればこそ!

そしてディーン・マーチンの息子たちがやっていたディノ・デジ&ビリーというアイドルグループを担当しては、忽ちにヒット曲を作り出し、いよいよフランク・シナトラの愛娘としてアイドルからバツイチ美女になっていたナンシー・シナトラとの仕事に入ったのですが……。

結論から言うと、直ぐに2人は恋愛関係というか、下世話に言えばデキてしまったそうですから、ナンシー・シナトラのセクシー路線転換もムペなるかな、1966年に出した「にくい貴方 / These Boots Are Made For Walkin'」が大ヒットしたのも当然が必然!?

ついにはデュエット作品が作られたのも、自然の流れなのでしょう。

と、些か物分かりの良い事を書いているサイケおやじではありますが、当時のフランク・シナトラの心中は如何ばかりかっ!?

そんな思いも確かにあるんですよねぇ。

だって、前述の親子デュエットの大ヒット曲「恋のひとこと / Somethin' Stupie」は、内気な男の愛の告白という歌詞がちょいヤバのラブソングであり、それを父娘に歌わせてしまったのがリー・ヘイズルウッド本人のプロデュースなんですから、いやはやなんとも……。

ちなみに呆れるほど上手い同曲でのギターは、アル・ケイシーというのも、念が入っています♪♪~♪

ということで、リー・ヘイズルウッドというアメリカ大衆音楽の偉人も、今はすっかり忘れられているのかもしれませんが、正確に言えば、凄い業績が真っ当に伝えられて来なかったと思います。

そのあたりを今、ここに全てを書くのは不可能であることをお断りしつつ、他にもカントリーロックの先駆者と評されるグラム・パーソンズが在籍していたインターナショナル・サブマリン・バンドのプロデュースやグラム・パーソンズのバーズへの移籍加入による音源管理のゴタゴタは有名でしょう。

またリー・ヘイズルウッド本人が歌った数多いレコードのほとんどが、時代を鑑みて新感覚のポップカントリーであった事も侮れません。

おそらく1960年代後半からは、後にカントリーロックとして確立されるジャンルを狙っていたのでしょう。しかし前述したとおり、グラム・パーソンズとバーズが結託して作った名盤アルバム「ロデオの恋人」に関する訴訟問題等々で消耗したのか、以降はアメリカの業界から手を引いた感があり、どうやら渡欧してしまったと言われています。

しかし、1960年代のリー・ヘイズルウッドの活動は知るほどに凄くて、未だに全貌が掴めないサイケおやじにしても、その探索の発端を与えてくれたナンシー・シナトラの「Summer Wine」を大切に聴く気持は失っていません。

最後になりましたが、「Hazlewood」は「ヘイゼルウッド」と書くのが正しいのかもしれませんが、サイケおやじが、あえて「ヘイズルウッド」としているのは、ここに述べた素晴らしき機会を与えてくれたレコードのジャケット表記に準拠した敬意であります。

どうか、ご理解下さいませ。

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胸キュン! せつないほどのソウル歌謡♪

2012-09-22 15:27:48 | 歌謡曲

熟れた果実 / 平山三紀 (CBSソニー)

筒美京平の書いたソウル歌謡の中では、本日ご紹介の「熟れた果実」が、とても好きです♪♪~♪

歌っている平山三紀は説明不要、今となっては昭和歌謡曲ポップス部門のウルトラヒット「真夏の出来事」で忘れられない存在ではありますが、それが両刃の剣というのがサイケおやじの偽りの無い気持です。

つまり、そういう極みのポップス歌謡をやってしまったがゆえに、平山三紀は正統派の歌謡曲を出せなくなったのではないか?

という思いがサイケおやじには強くあって、本当はデビューシングル「ビューティフル・ヨコハマ」みたいな昭和歌謡曲特有のコブシこそが、彼女の異端(?)の声質の、もうひとつの魅力を活かせる世界と信じて疑わないのですが……。

しかし、もちろん歌謡ロックでもあり、ソウル歌謡でもあった昭和期の平山三紀の楽曲は素晴らしく、そのほとんどが橋本淳の作詞、筒美京平の作編曲なんですから、無碍に否定する事なぞ出来はしません!

そのあたりの考察については、サイケおやじが稚拙な文章を弄するまでもなく、各方面で細密に取り上げられているとおりではありますが、ひとつだけ個人的な疑問があるとすれば、その完成度に比例した売り上げが何故、リアルタイムでは無かったのか!?

平たく言えば、特大のヒットは前述「真夏の出来事」だけであり、以降「ノアの箱舟」「フレンズ」「希望の旅」「月曜日は泣かない」「帰らない恋」「銀河のはてに」「恋のダウン・タウン」と続くシングル曲が、結局はイマイチの成果しか残せなかったのは不思議としか言えません。

ただし、冷静に当時を振り返ってみると、我国のポップス系歌謡界には南沙織、麻丘めぐみ、天地真理、欧陽菲菲、山口いづみ、小林麻美、そしてグラマーアクション路線に転向して再ブレイクの山本リンダ♪♪~♪

等々、アイドル路線もセクシー美女系も、とにかく華やかで派手なイメージを強く打ち出す業界戦略が主流でしたから、一説によると、あまり前に出ることが上手くなかった彼女にしてみれば、少しスネたような、不良っぽいフィーリングがマイナスになっていたのかもしれません。

ですから昭和48(1973)年秋頃から、全くテレビに出なくなった記憶がサイケおやじにはありまして、実は後に知ったところによると、それはレコード会社移籍による業界の掟であった、半年間は新曲を出さないという仕来りの所為だったとか!?!?

そこで、いよいよ翌年6月、満を持してCBSソニーから発売されたのが、この「熟れた果実」であり、ジャケ写も歌のイメージも、以前の日本コロムビア時代からすれば、ちょいと大人の雰囲気にシフトした路線かと思います。

しかし楽曲は、これまでどおり、橋本淳&筒美京平の名コンビが担当し、結論から言えば、前述「真夏の出来事」の後日譚とも言える大傑作!

とにかくイントロからのリズムアレンジとストリングのソフト&メロウな響きには胸キュンが必至であり、既にここでフィリーソウルがど真ん中♪♪~♪ しかもノーマン・ハリス、あるいはローランド・チエンバースっぽいリズム&リードギターが実に良い感じなんですねぇ~~♪

そして幾分捨て鉢な感性を滲ませる平山三紀の歌い回しが、これまた刹那の恋の後始末……。全く自分に言い聞かせる前向きな心持が、せつないですねぇ~~♪

う~ん、流石は橋本淳が良い仕事♪♪~♪

そして筒美京平の作編曲が、ここまで完成された仕上がりを聞かせてしまえば、フィリーソウルのギャンブル&ハフも、また英国バブルガム専門職のトニー・マコウレイも、顔色を失ったんじゃ~ないでしょうか。

まあ、彼等がこれを聴いているか、どうかは知る由もありませんが、我国のファンは絶対にそう思っても間違いないはずですよっ!

ということで、何度聴いても、聴くほどに最高としか言えない名曲名唱が平山三紀の「熟れた果実」です。

ちなみにCBSソニー在籍時には、この他に「愛の戯れ」「真夜中のエンジェルベイビー」「やさしい都会」を合わせて4枚のシングル盤を出しているんですが、その発売間隔が異常(?)に開いていて、この「熟れた果実」から次作「愛の戯れ」が出るまで、なんとっ!? 1年半もあるんですねぇ……。

実はサイケおやじは当時、ある幸運から、この「熟れた果実」が発売真っ盛りの頃に渡米していたので、リアルタイムでのヒット状況は体験していません。しかし帰国した秋になっても、しぶとく巷では流れていましたし、実際にレコードを買ったのも年末近くになっていましたから、きっとロングセラーになっていたものと信じています。

というか、そうに違いない!

そう、思わされるだけの素晴らしさが、「熟れた果実」には込められていますので、ぜひとも皆様も、お楽しみ下さいませ。

何度聴いても、うるうるしてしまいますよ♪♪~♪

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大橋純子にブッ飛ばされる

2012-09-21 15:08:03 | 歌謡曲

ペイパー・ムーン / 大橋純子 (フィリップス)

大橋純子を書こうとすれば、とにかくサイケおやじにはブッ飛ばされた思い出が先にあります。

それは昭和50(1975)年、某所で行われたプロアマ混在の音楽イベントの事、友人がそれに出るというので、仲間と連れだって会場に行ったサイケおやじの前に、大橋純子は忽然(?)と現れたんですが、結論から言うと、小柄な容姿とは正反対のダイナミックでソウルフルな歌いっぷりは圧巻で、この人は、誰っ!?!?

全く当時としては、心底驚愕する他はありませんでした。

実は率直に言わせていただければ、失礼ながら、その時の彼女のバンドは決して上手くはなかったので、アマチュアだと思ったんですが、それにしてもボーカルが凄すぎて、今にして思えば、だからバンドがターヘに思えたのかもしれません。

つまりバランスが悪かったのでしょうねぇ……。

それでもプログラムに掲載されていた「大橋純子」という名前は、しっかりとサイケおやじに記憶され、しかも彼女は既にLPも出していたプロであった事が判明したのですから、さもありなん!

やっていたのは洋楽のカパーばっかりだった印象ですが、もしも彼女が日本語の歌謡曲を出したら、凄いだろうなぁ~~~、と思っていた後の昭和51(1976)年5月に発売されたのが、本日ご紹介のシングル曲「ペイパー・ムーン」だったというわけです。

あぁ~、まずはアップテンポで強烈にソウルフルなリズムを刻むギターとヘヴィに弾むエレキベースによるイントロだけでアッパーな気分にさせられるんですが、16ビートで煽りまくるドラムスも凄いの一言!

そしてナチュラルに歌い始める大橋純子のボーカルの強靭な瞬発力は、しなやかにして仄かなお色気が滲み、また、当然ながら要所で聴かせるホットなシャウトのブラックフィーリングはスーパーバッド!!

まさに緩急自在なんですが、既に皆様ご推察のとおり、筒美京平の作曲は当時相当に突っ込んでいたフィリー&マイアミソウル系のメロディを用いながら、完全に洋楽モロパクリを脱した、これも見事な昭和歌謡曲でしょう♪♪~♪

もちろん過言ではなく、これを歌いこなせるのは大橋純子だけっ!

まさに歌い込んだら命がけの世界なんですねぇ~~♪

ちなみに程好く下世話な歌詞は松本隆が流石の世界、そしてパックの演奏は松木恒秀(g)、深町純(key,arr)、岡沢章(b)、村上秀一(ds) という名人揃いなのも、納得する他はありません。

う~ん、このカラオケも永久保存は決定ですよっ!

そして以降、「キャッシーの噂」「シンプル・ラブ」「たそがれマイ・ラブ」「サファリ・ナイト」「シルエット・ロマンス」等々の大ヒットを歌いまくり、同時期に確立され始めた「ニューミュージック」と称される、新しい昭和歌謡曲を定着させた功績は忘れられるものではありません。

また、このジャンルの洋楽歌謡としては前野曜子しばたはつみ、そして朱里エイコ等々の先駆者の活躍が実に大きいわけですが、大橋純子も負けず劣らず、むしろ芸能界どっぷりのイメージが薄かった分だけ、サイケおやじよりも若い世代の皆様には受け入れられ易かった側面もあると思われます。

ただし、当時の所属はヤマハ~北島三郎音楽事務所という現実もありますんで、やはりこれは彼女本来の持ち味のひとつという事なのでしょう。

ということで、まずは大橋純子と「ペイパー・ムーン」の衝撃的(?)な素晴らしさについて、本日は書きたかったのです。

こういう曲と歌手に巡り合えるのですから、音楽趣味は本当に人生を豊かにするものと再認識する次第です。

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