1969年1月の困難なセッションが31日で一応終了した後に残されたのは、約38時間分の映像撮影フィルムとそのシンクロ音声トラックが約96時間分、そして正式レコーディング音源となる約28時間分のマルチトラックで録られたマスターテープでした。
そしてフィルムからは、とりあえず1時間半程度の本篇とそのおまけ的なメイキング・ドキュメントの2本が同時進行的に作られていきましたが、問題はその音源を基にして発売が予定されているレコードの製作でした。
なにしろ1月30日の屋上セッションと翌日のスタジオセッション以外の部分は、完奏されている曲がほとんど無い状態でしたし、新曲はもちろんの事、オールディズ曲にしても纏まりが無く、膨大なテイクが重ねられていただけの状態でした。
その原因はリハーサルも含めて、録音現場に纏め役が不在であった事、つまり公式デビュー以来のプロデュースを担当していたジョージ・マーティンが、今回はほとんど関わっていないという現実でした。
では、何故そうなったのか?
諸説はありますが、個人的には今回のセッションが映像作品を作ることを優先していた所為ではなかろうかと、推察しております。
ご存知のように、欧米は各職業別に組合があってその力は絶大!
最初に何か仕事をするためには、その業種の組合に加入しなければ働く事が出来ません。
つまり現場で映像の仕事に関わるためには、映像関連の組合に加入していなければならず、おそらくジョージ・マーティンが非組合員であったことは容易に想像出来ます。したがって、セッション初期にトゥイッケンナム・フイルム・スタジオで行われたリハーサルにおいても、その録音は撮影班主導で行われ、彼は現場にいても口を出す事が出来なかったんじゃ~ないでしょうか?
それでは、これ以前のビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ」「マジカル・ミステー・ツアー」ではどうだったのかと言えば、そこには楽曲が先にあり、映像として彼等が歌う部分は基本的に所謂「口パク」、したがって音楽部分と映像部分は切り離して考える事が出来ます。もちろん、アニメ作品の「イエロー・サブマリン」も同様です。
しかし、今回の場合はそうはいきません。
音楽を生み出す場面を映像で追う、しかもその目的が放送用ライブショウの製作とあってはっ!
で、肝心の撮影班はドキュメントを撮るという趣旨で、ビートルズのメンバーに演出を施すわけもなく、また彼等も基本は生演奏一発という方針に甘え、さらにポール以外のメンバーに無気力ムードが蔓延していた様ですから、ダラダラとした時間だけが記録され……。
この状況はアップル・スタジオに移ってからも基本的に変わる事は無かったと思われます。
それは「其の参」でも述べたとおり、既にジョージ・マーティンは当時EMIを辞めて別会社を経営する身分になっており、ビートルズは自分達の会社を設立して原盤製作の主導権を握っていました。またこれまでの経験からスタジオでの仕事の要領というか、進行方法は彼等なり掴んでおり、また製作方針が複雑な録音作業を必要としないライブショウ仕立のシンプルな生演奏という事で、彼等、特にポールには自信とある程度の目安があり、この際全てを自分達で仕切ってしまおうという目論みがあったのではないでしょうか?
で、ここで浮かび上がってくるのが、一応録音エンジニアという名目で参加したグリン・ジョンズの存在です。
掲載のスチールショットでポールの隣に立っているのが、そのグリン・ジョンズで、このプロジェクトに参加した時は27歳でしたが、高校生の頃からロンドンの音楽録音スタジオで修行を始め、この時までに何人かの有能なプロデューサーの下でローリング・ストーズ、フー、キンクス等々のヒット曲作りに関わっていたキャリアの持ち主です。
しかも立場はフリーランス!
イギリスでは最も早い時期に活動を開始したフリーの録音エンジニアで、当然、映画やテレビ関係の仕事もこなしており、組合に加入していたのは確実だと思われます。
どんな職業でも良い仕事をこなすためには、それなりの専門知識と技術・経験が必要です。それは音楽録音とても例外ではなく、映像スタッフが録音するシンクロ音声は台詞や擬音はきちんと処理出来ても、ロックの音を上手く扱えるか否かは未知数です。グリン・ジョンズがポールから参加要請を受けたのは、1968年12月末頃らしいのですが、おそらくポールのこの行動は、その点に不安を抱いた末の結論だったと思います。
そしてトゥイッケンナム・フイルム・スタジオで行われたリハーサルの録音に関して、実際に彼が様々な指示を出していたのは間違い無く、それは音質の良し悪しに関わらず、海賊盤に収録されたリハーサル音源とアップル・スタジオで録音された音源を聴き比べれば、その音の雰囲気に共通性を感じてしまう事からも明らかです。
しかし、そのグリン・ジョンズにしても、所詮は余所者です。
現場にはジョージ・マーティンが顔を出す日があり、加えてビートルズ内部の人間関係は最悪!?
また、この頃から常にジョンの側に寄添うオノ・ヨーコの存在にピリピリするスタッフ、そして音楽製作現場の勝手が分からない撮影班は、連日の長時間労働に疲れきっていたと言われており、年齢の割りにキャリアがあるグリン・ジョンズではありますが、おそらくは……、そんな中での仕事は相当にやりにくかったんじゃ~ないでしょうか。
そんなこんながあったからこそ、残された音源素材は3月まで手付かずで放って置かれたと思うばかりです。
おそらく、ビートルズ本人達にとっても、これは無かったことにしたいはずでした。
しかし、現実は非情です。
まず自分達の仕事の土台になるはずだった「アップル・コア」が経営不振、またEMIとの契約から4月中に新曲を出さなければならないという瀬戸際に追いつめられていたのです。
もちろん、こ~なると頼みの綱は1月のセッション音源だけとなり、そこでジョンとポールはグリン・ジョンズにその全てを渡し、事後を託すのですが、ビートルズのメンバーは誰一人、その作業現場には立ち会わなかったと言われております。
その理由は、その頃のグループ内の人間関係が尚更に悪化し、加えて周囲の思惑も絡んでドロドロとした壮絶なドラマが展開されていた事です。
そして……、アレン・クラインという男がそこへ登場した事から、ますます事態は混迷するのでした。
【参考文献】
「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
「サウンド・マン / グリン・ジョンズ」
注:本稿は、2003年9月23日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです