■さよならのあとで / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ (日本コロムビア)
毎度読んで下さる皆様には耳タコな話で恐縮なんですが、やはりサイケおやじが高校生だった頃は歌謡フォークの全盛と並行して、未だ「エレキは不良」という間違った認識も世間一般にありましたから、ましてや教育の現場では尚更でした。
つまり同好会のバンド組に対する風当たりは冷たく、そして厳しく、校内でやらせてもらう発表会という名目のライプには、事前に演目を顧問の教師に届け出て、許可される必要がありました。
ですから闇雲なニューロックの洋楽コピーなんかは、なかなか理解を得られず、「君たちもグループサウンズをやるんだったら、ブルー・コメッツみたいなものはやれないのか?」という指導をいただいたのですが……。
なんと顧問の教師は、「例えば先生は、これが良いと思うけどなぁ」と言いながら、素で歌い始めたのが、本日ご紹介の「さよならのあとで」でした。
しかしそれは、ご存じの皆様も大勢いらっしゃるとおり、ベタベタの歌謡曲であって、いくらブルー・コメッツがGSのトップグループであったにしろ、バンド組一同には許容出来るものではありません。
第一、思い込みにしてもニューロックを標榜していた自分達を「グループサウンズ」と決めつけられたことに、リアルタイムでは憤りすら覚えていたのですから、青春のツッパリも頂点に達していたというわけです。
ちなみにブルー・コメッツは説明不要、ジャズやC&W等々の洋楽をベースにロックからエスニック系までも包括する幅広い音楽性を持った、まさに我国芸能史に屹立する名バンドではありますが、それゆえに急速に歌謡曲どっぷりの姿勢へ傾斜していった昭和43(1968)年頃からの楽曲は、なにか今日でもロック優先主義者からは疎まれる存在に……。
ですから、ガチガチのロックをやりたい青少年のバンドにとっては埒外の対象となっていたのが、1970年代の実相だったと思います。
ただし虚心坦懐に「さよならのあとで」を聴けば、これは昭和歌謡曲の決定版のひとつとして、決して粗略には扱えませんっ!
なにしろ作詞が橋本淳、そして作編曲が筒美京平という黄金のヒットメーカーが会心作だったはずで、昭和43(1968)年秋~冬にかけて爆発的に売れていましたからねぇ~~♪ 正直、当時は些か下降気味だったブルー・コメッツの人気が盛り返した感もありました。
言い換えれば、ブルー・コメッツがGSというロックバンドから歌謡コーラスグループに路線転換したきっかけとも言える大ヒットが、この「さよならのあとで」には、つきまとうのです。
しかし告白すれば、現在のサイケおやじは「さよならのあとで」が大好き♪♪~♪
何故って、素直に良い歌だなぁ~~~♪
そう感じる他は無いほど、琴線に触れる魅力があるんですよねぇ~♪
結局、高校生のガキには分からなかった機微が、この歌にはあるんじゃないでしょうか?
イントロからグッとストリングを全面に出したアレンジとエレキギターの音色が哀愁を醸し出し、なんとなく未練タラタラみたいな三原綱木のリードに井上忠夫が絡んでいくボーカルパートの旨みは絶品だと思います。
また当然ながら緻密に作り上げられた楽曲そのものの魅力も侮れませんが、これをブルー・コメッツがやってしまう意義こそが、ニクイばかりで、最後に出てくる井上忠夫のキザな台詞もジャストミート♪♪~♪
他に、これを歌えるバンドは当時、ブルー・コメッツ以外にはありませんよ!
そして次なるシングル曲として、これまた決定的な歌謡ヒットの「雨の赤坂」を出してしまうんですから、このあたりがブルー・コメッツの真の全盛期だったとサイケおやじは断言して後悔致しません。
さて、そこで話は戻りますが、顧問の教師から「さよならのあとで」をリクエスト(?)されたバンド組は、もちろんやるわけはなかったのですが、それでもメンバーのひとりが何処からか調達してきたベストアルバムを聴き、「青い彗星」をコピーしてカッコだけはつけました。
というか、基本的にはエレキインストの同曲をやる事になった時、エレキのバカ大将を目指していたサイケおやじは、本音で浮かれまくって、既に時代遅れになっていたテケテケを弾きまくってしまったです♪♪~♪
ということで、歌謡曲を演じるロックバンドには聴かず嫌いの魅力があるように思います。
ですからガチガチのロックバンドだったと言われるゴールデン・カップスが、歌謡曲保守本流の「長い髪の少女」でブレイクしたのは言わずがな、当時は歌謡曲であるがゆえにバカにされ続けてきた音源が多くのバンドに残されているのは、これからの所謂「お宝」発掘と再評価の大きな対象になるような気がしています。
少なくともサイケおやじは本気ですよ。