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あいち9条の会 4周年のつどいのご案内       まもる

2009年02月28日 00時50分32秒 | Weblog
★あいち九条の会は結成4周年を迎えるそうです。これを記念して、
「あいち9条の会 4周年のつどい」があります。そのご案内をします。
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 あいち9条の会 4周年のつどいのご案内

 今年、あいち九条の会は結成4周年を迎えました。
 この間、全国では7200を超える九条の会が、県内でも300近い会が生まれています。

 それぞれの会は独自に個性的な活動を行っており、それに触発されて、あいち九条の会も昨年初めて「11・3県民のつどい」をパレードとして企画し、「憲法9条の改悪を許さない」との声を街頭の皆さんに届けました。
 
 そして、今年の活動はどうするのか、これを皆さんとともに考え今年の活動を作り上げたいと思います。
 
 末尾記載の要領であいち九条の会4周年のつどいを開催します。
 皆さんのご来場を心よりお待ちしています。

    日  時   3月1日(日) 午後1時30分~

    場  所   名古屋市博物館講堂(地下1階)
            地下鉄桜通線「桜山」駅下車 4番出口をでて5分

    講  演   「憲法をめぐる情勢と九条の会」
            岐阜大学教授  近藤 真さん

    提  起   「これまでの活動とこれからの活動」

            ※入場は無料です。  

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沖縄波照間、「軍命」でマラリア悲劇      まもる

2009年02月28日 00時02分48秒 | Weblog
★数日間探鳥の旅に沖縄の西表島に行ってきました。
 西表は真夏日つづきで植物も動物も生命力にあふれ平和そのものでした。我々全員、この歳で南の島の探鳥旅行など出来るのは平和あればこそと感慨を深くしていたのでした。本島と違って特に戦闘のなかったはずの西表・波照間島です。ところがここにも深い戦争の傷跡がたくさんありました。その一つを西表の海岸にある「忘勿石(わすれないし)」の碑を見て知りました。(写真)

 碑の示す事件とは次のようなものです。沖縄タイムスの特集から転載します。
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、「軍命」でマラリア悲劇」 

 波照間島の悲劇は、山下寅雄という男の一声から始まった。
 「島に米軍が上陸する。一人残らず、西表島の南風見に疎開せよ」。軍服の腰に日本刀を下げていた。
 男はそれまで軍人の身分を隠し、偽名を使い、青年学校の指導員として島に紛れ込んでいた。子どもたちに風車を配り、遊んでくれた評判の良い「指導員」の豹変に人々は驚いた。
 西表島はマラリア有病地。住民らは「行けば死ぬ」と疎開に反対したが、山下は刀を抜き、「軍の命令だ」と威圧した。

 当時八歳、波照間国民学校二年だった玉城功一さん(70)は、山下から殴られる住民の姿を見た。ただ「子どもは大人の言う通りに疎開しただけで、その意味を深く考えなかった」と振り返る。

 島に住む約1600人は1945年4月に疎開を始め、7月下旬までの四カ月間を過ごした。西表島で亡くなった人と、波照間島に戻った後に亡くなった人を合わせると、マラリアの犠牲者は460人を超えた。

 玉城さんは高校教諭だった74年に沖縄県史の編集を引き受けた。幼いころ、自分のいた波照間島で何が起きていたのか。約50人に証言を聞いて回った。

 島の先輩たちはマラリアの恐ろしさを知っていた。さらに「米軍の上陸」という理由は作り話で、本当は島の牛や馬を薫製にして、日本軍の食糧にしようとしているのでは、とうすうす感づいていたという。

 軍の食糧を調達するために、自分たちを死に追いやろうとしている—。そう考えていたのに、たった一人の軍人に1600人が従ったのはなぜか。

 玉城さんは「軍や天皇の命令ならどうしようもない。そんな雰囲気があった」と感じている。

 島を回るうちに、どうしても話を聞きたいと思い、何度も足を運び、手紙を出し説得した女性がいる。

 布団を吹き飛ばすほど身震いする人、高熱に浮かされる人、意識もうろうと歩き回る人…。毒素を抜いたソテツだけでは、マラリアに打ち勝つことはできず、死者が次々と砂浜に埋葬されていく惨状。女性は家族十六人を失い、一人残った。

 女性はポツリポツリと口を開いた。「つらい経験を話してくれたのは、『伝えなければ』という使命感があったからだ」と信じている。

 高校の歴史教科書から沖縄戦の「集団自決」について、日本軍関与の記述が消えた。女性と同じように苦しみを語り続けている体験者の証言が冒涜されたような気がして、許すことができない。(八重山支局・福元大輔)

★民宿の老主人もこの話をよく知っていて毎年供養の催しを続けていると語ってくれた。

コメント (4)
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