われもまた花咲く野辺に手を取りて
子らと遊ばむ春のひとひを 京都 今西米四郎
さきはひはここにこそあれ一つ灯に
親子五人夕餉たのしむ 東京 佐藤暢一
☆昭和23年(1948)
■笠置シズ子の「東京ブギ」が熱狂的な支持を受けた。22年10月、日劇で歌って以来、ポスターさえ貼らないのに、レコード、ラジオで全国に広がり、「ヘイヘイブギ」「jジャングルブギ」「ホームランブギ」「買い物ブギ」(いづれも作曲は服部良一)がことごとくヒットして、笠置はブギの女王とまで呼ばれるようになった。服部は戦争中から、アメリカで流行しているブギのリズムに着目し、ジャズが演奏しにくい世相の中で、一人で書きためていた。
大阪松竹歌劇団出身の笠置がカムバックするに当たって、「輸入したリズムをこちらで作り直して、逆輸入させてやる根胆で、『東京ブギ』を書いたと」と服部はいっている。
昭和24年(1949)
■岡晴夫の全盛時代がくる。”五千人劇場”と呼ばれる浅草国際が入れ替えをやっても一回ごとに超満員。当時、司会をつとめていた西村小楽天の紹介のセリフ「岡の小鳩か、小鳩の岡か、一世を風靡した小鳩シリーズ。感激は常に新しい想い出の名曲『啼くな小鳩よ』「花の都に咲く花は、現夢見る恋の花。柳芽を吹く銀座の街に、小首かしげて、召しませ花を、ああ『東京の花売り娘』」
だが、岡の人気は20年代の終わりから下降線を辿り、ヒロポン中毒で極度の人嫌いとなった彼は、楽屋の一隅に新聞紙で囲いを作って、その中でじっと坐っていたと、西村小楽天が書いている。
美空ひばりが『河童ブギ』(作詩/藤浦洸・作曲/浅井与嘩)を吹き込んだ。笠置シヅ子、菊池章子らの持ち歌を歌っていた、この少女にとっては、初めての自分の歌である。
コロムビア文芸部長伊藤正憲が手を回して映画「踊る龍宮城」に出演させたが、この時、音楽監督をやっていた万城目正(作曲家)が『悲しき口笛」を書いた。レコードと同じく映画も封切られ、ひばりは戦争にいってまだ帰ってこない兄を忍びながら、シルクハッとにタキシードで、兄の作った『悲しき口笛』を歌うという設定だった。レコード売上は50万枚に達し、当時最大のヒットとなった。
昭和歌謡史より
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ko-w/sub35.htm.htm
子らと遊ばむ春のひとひを 京都 今西米四郎
さきはひはここにこそあれ一つ灯に
親子五人夕餉たのしむ 東京 佐藤暢一
☆昭和23年(1948)
■笠置シズ子の「東京ブギ」が熱狂的な支持を受けた。22年10月、日劇で歌って以来、ポスターさえ貼らないのに、レコード、ラジオで全国に広がり、「ヘイヘイブギ」「jジャングルブギ」「ホームランブギ」「買い物ブギ」(いづれも作曲は服部良一)がことごとくヒットして、笠置はブギの女王とまで呼ばれるようになった。服部は戦争中から、アメリカで流行しているブギのリズムに着目し、ジャズが演奏しにくい世相の中で、一人で書きためていた。
大阪松竹歌劇団出身の笠置がカムバックするに当たって、「輸入したリズムをこちらで作り直して、逆輸入させてやる根胆で、『東京ブギ』を書いたと」と服部はいっている。
昭和24年(1949)
■岡晴夫の全盛時代がくる。”五千人劇場”と呼ばれる浅草国際が入れ替えをやっても一回ごとに超満員。当時、司会をつとめていた西村小楽天の紹介のセリフ「岡の小鳩か、小鳩の岡か、一世を風靡した小鳩シリーズ。感激は常に新しい想い出の名曲『啼くな小鳩よ』「花の都に咲く花は、現夢見る恋の花。柳芽を吹く銀座の街に、小首かしげて、召しませ花を、ああ『東京の花売り娘』」
だが、岡の人気は20年代の終わりから下降線を辿り、ヒロポン中毒で極度の人嫌いとなった彼は、楽屋の一隅に新聞紙で囲いを作って、その中でじっと坐っていたと、西村小楽天が書いている。
美空ひばりが『河童ブギ』(作詩/藤浦洸・作曲/浅井与嘩)を吹き込んだ。笠置シヅ子、菊池章子らの持ち歌を歌っていた、この少女にとっては、初めての自分の歌である。
コロムビア文芸部長伊藤正憲が手を回して映画「踊る龍宮城」に出演させたが、この時、音楽監督をやっていた万城目正(作曲家)が『悲しき口笛」を書いた。レコードと同じく映画も封切られ、ひばりは戦争にいってまだ帰ってこない兄を忍びながら、シルクハッとにタキシードで、兄の作った『悲しき口笛』を歌うという設定だった。レコード売上は50万枚に達し、当時最大のヒットとなった。
昭和歌謡史より
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ko-w/sub35.htm.htm