九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「沖縄慰霊の日」とNHK      只今

2010年06月23日 15時45分47秒 | Weblog
 NHKは、『琉球新報』の広告欄に「NHkだからこそやらなければならないことがあります」と銘打って、
 6月23日の沖縄全戦没者追悼式と一連の沖縄戦ドキュメントの放映予定を掲示し、それを受けて追悼式を中継した。
 圧巻は、普天間高校三年生の名嘉司央里さんの「変えていく」と題した自作詩の朗読で、その詩はこう始った。
 
    =今日もまたはじまる いつもの日常  当たり前に食事をして 当たり前に好きなことを学んで 
     当たり前に安心して眠りにつく そんな普通の一日

     今日もまたはじまる いつもの日常  当たり前に基地があって 当たり前にヘリが飛んでいて 
     当たり前に爆弾実験が行われている そんな普通の一日
     
     一見「平和」に思えるこの小さな島 そこにいつの間にか 当たり前ではない 当たり前であってはならないものが 
     入り込んでしまった
     普通なら受け入れられない現実も 当たり前に受け入れてしまっていた これで本当にいいのだろうか(中略)
                        
     6月23日慰霊の日 あの黒い礎にはたくさんの人が訪れる そしてその一つ一つの名前に触れ 
     涙を浮かべながら語りかける
     「今年も会いにきたよ」と 手を合わせ目を瞑り祈りを捧げる (後略)=

 
 さてNHKの予告には、23日の午後に「沖縄戦 残された傷」が放送されるはずだが、その時間、この本土では「タイムスクープ」とかいう再放送番組だった。
 25日には、「伊江島 孤島の悲劇」、27日には、ETV「新たに見つかった沖縄戦の映像」との予告がある。
 この番組が放送されるかどうか、見守りたい。
 「公共放送NHKだからこそ やらなければならないことがあります」 が本当か、どうか!       



 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子達仁流スポーツジャーナリストの特徴  文科系

2010年06月23日 13時33分53秒 | スポーツ
  サッカージャーナリスト・金子達仁氏への告発を、昨日ここに書いた。その現物をご紹介して、最新の週刊朝日における同氏の関連記事を確認しつつ、サッカージャーナリズムを貶める人物ということでその特徴をまとめ、改めて告発の書としたい。まず、昨日述べたことの現物はこうだ。サイト・ サポティスタの記事からの抜粋である。          http://supportista.jp/2010/06/news21041512.html
【 2006年W杯終了後、座談会での金子達仁氏の発言
「代表チームとは、勝つためにある。だから、すごく不思議なのは、オシムにいいサッカー、日本人らしいサッカーを 期待している人達ってすごく多いじゃないですか、意味ないと僕は思うんですよ。大事なのは勝つこと。ヒディングに、韓国代表は韓国のサッカーを作ってくれと頼んだのか?違いますから。勝つか負けるか。」

2010年カメルーン戦終了後の金子達仁氏コラム
「この勝利は、日本代表の勝利ではない。岡田監督の勝利だった。勝ち点3と引き換えに、日本サッカーは大きなものを失った。日本=退屈。日本=アンチ・フットボール。この試合で張られたレッテルを剥(は)がすには、相当な時間が必要になることだろう」 】

 さて、こういう態度そのものが、週刊朝日最新号でも相変わらず続行されている。今度は、カメルーン戦の後のオランダ戦をも終えて、この代表2戦の比較の文章として。その題名にしてからが、こういうものである。『最も醜い勝利を得た日本は、最も感動的な敗北を魅せた』。この内容はいかなるものであるか。要するになんの具体的記述もなく、様々な形容文章、形容詞を駆使して題名のことを繰り返すだけのことだった。典型的な不勉強かつ単純な、「単一感想文章」にすぎない。そのことを、焦点の言葉の最も具体的な述語・記述部分を見ることによって、証明してみたいと思う。

 まず、『最も醜い勝利』について 
『勝つためには蹴っておけばいい。ボールをつなぐことなんか考えず、ただクリアしておけばいい』
『意図のないキックアンドラッシュに走るチームが病的なまでに批判されてきたのはなぜだったのか』
『カメルーン戦における日本が、泣きたくなるほど寂しいサッカーしかできなかったのは、日本だったから、ではない。気が遠くなるほどに自信が欠如していたからだった』
これに対して、『最も感動的な敗北』は
『スナイデルの一撃をくらってもなお、闘志を失わなかった。それどころか、安全地帯に足を踏み入れた気になっていた優勝候補の喉笛をえぐる攻めを見せた。こんな日本は見たことがなかった。こんな日本が見たかった』

 上記の抜粋は、断っておくが、最も具体的な叙述部分を抜き出したつもりである。「大山鳴動、ネズミ一匹」とは、こういう文章を言うのだろう。大げさな題名に、大げさかつ同語反復ばかりの記述、述語。決め込んだ抽象的テーマに、過去の知識を、連想ゲームか、判じ物のように当てはめて、売文箇所、分量を増やすだけ。対象の具体的な記述、叙述が全く欠けていて、寝ていても書ける文章の典型である。
 「勝利だけが重要」なのか「最も醜い勝利」は嫌なのか、貴方はそもそもどっちなのだ。全くの「アンチサッカー」をやったその同じチームがその5日後に、そもそも、正反対の「繋いで、攻めるサッカー」をやりおおせたなどということが、ありうるのか。これがあり得ないということを、氏自身が上記のカメルーン戦講評文章中に、こう述べているではないか。
 『この試合で張られたレッテルを剥(は)がすには、相当な時間が必要になることだろう』
 この正反対がありうると断定したとするならば、その具体的事実をこそ描かねばならないはずだ。それが何も描かれずに、テーマだけは厳然として終始存在し続けるって、どういうことなのか? 具体的事実を少しでも描写していたならテーマも多少は変わってくると、テーマに合わない部分も見えてくると、すると、同じチームの少々異なった二つのゲームの間にもこんな共通性があると、それが目の覚めている勉強家の文章という物ではないか。上の二つの文章から、彼のそういう欠陥が同様に見え透いてくるのである。

 結論。アルコール漬けになって寝ていても書ける文章。なお、ゲーム・データが何もない文章はほぼこの手の文章とみなして、間違いなし。そして、この手のスポーツライターが多すぎると思う。
「俺様は、データーなしでもゲーム(結論)がすぐに見えるのであーる」。本当に分かった人は、大げさな形容一言では終わらせないはずだろう。ゲーム、チーム表現をそれで終わらせてきた人は、その大げさな言葉の矛盾を後に激しく衝かれることになるというのも、必定であろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする