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WC決勝戦は「反則」が左右!  文科系

2010年07月11日 19時05分01秒 | スポーツ
 今夜は、サッカー・ワールドカップの決勝戦。オランダ「トータルフットボール」の流れを汲む、言わば「兄弟対決」のようなもの。「全員守備・全員攻撃」「攻撃的」「見ていて面白い」「美しいサッカー」などの形容詞が付いてきたのが、この両チーム。勝負弱くて、もろい印象までも同じだ。ところで今大会は今や、重大な相違も生まれている。ファールの多さだ。かなりダーティーに変わったオランダと、クリーンなスペイン。この違いがどう結果を分けるか、そこが今夜の最大問題! 審判の能力こそ、実に勝敗の岐路となりそう。

 さて、朝日新聞8日の16強資料から作ってみた数字だが、オランダは1ゲーム当たりファール数が悪い順で7番目。イエローカード数に至ってはワースト3番目である。対するスペインは、いずれも16強中最もクリーンなのだ。因みにこの数字対比はこうである。1ゲーム当たりファール数は、スペイン10に対してオランダ16、イエローに至っては同、0.5対2.5、なのである。これでは、審判がよく見ていないととんでもないことになりそうではないか。
「よく見ていないと、オランダのファール得!」
「よく見ているなら、オランダに退場者!」
 なお、今回の審判たちが厳しく見ていることを、オランダはよく知っている。ブラジル・オランダ戦が「ファール合戦」だったからである。このゲームを日本の西村主審がきっちりと裁いて見せて、イングランド、ドイツなどからは最高評価を受けている。そして、ファールがちょっと多かったブラジルが、負けた。ブラジル側に退場者が出るというおまけまで付いている。ドゥンガ監督がゲーム後こう述べたのには、そんな背景もあったはずだ。
「審判がゲームを止めすぎて、調子が狂った」

以上のような背景からも僕は、スペインの勝ちと見た。オランダは初めの方で笛を吹かれて、調子が狂う。ファールに過敏になっているうちに、自由にパスを回されて、得点されてしまう。もともとパス回しはスペインが上なのだ。
 ちなみに、オランダのロッベンが、こんなことを語っているそうだ。
「“いいサッカーだね”は意味がない」
「美しい試合をして負けるより、最悪のプレーでも勝つ方がいい。決勝まできたら内容なんて関係ない。結果がすべて」(以上、スポニチ)

 あとから追加ですが、同じスポニチ・アネックスのニュースに、スペイン側のこんなニュースがありました。上のロッベンの言葉とは、なんと対照的な!
『スペインの前線が見せる完成度の高さはバレンシア所属のDFマルチェナも「バルサの選手(6名 文科系)は互いを完ぺきに知り尽くしている」と認める相互理解がカギ。その様式美は現在のクライフ氏(オランダ人、スペインはバルセロナのやり方の基礎を築いた 文科系)に「オランダよりスペインが理想」と言わしめ、リバプール所属のFWフェルナンド・トーレスは「スタイルを忠実に貫くべき。死ぬ(負ける)のなら理念に従って死ぬつもり」とまで言い切った』
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 「それでもやはり」というスポーツ選手のアピール    只今

2010年07月11日 13時12分07秒 | Weblog
 イタリアのスポーツ界をめぐる「文化系」さんと「さんこ」さんの対話にコメントしましたが、舌足らずの向きあり、補完させてください。

 米国主導のアフガニスタン攻撃が始った2001年、イタリア国会もイタリア軍部隊の派遣を決めました。
 この同じ日、トッテイやカンナバロなどセリエAの選手や中田英寿の「パルマ」や「ASローマ」のサッカーチームも団体として参加署名する「平和アピール」が、246人の連名で発表されました。
 そのアピールは次のようなものでした。

 【現在、誤解を受けることなく、平和について語ることは困難ですがそれでもやはり、私たちスポーツマンは、この戦争が終わり、
 ほかの戦争を引き起こさないことを願って、人道団体エマージェンシーを通じ、アピールを発表したいと思います。
  平和を望むということは、あの襲撃によって命を落した人々の追憶を尊重しないということではありません。
  平和を信頼するということは、大勢の無垢の犠牲者のことを悲しまないということではありません。
  平和を求めるということは、あらゆる形のテロに対して断固として反対することをしないということではありません。
  平和を期待するということは、あらゆる人種あるいは宗派の人間を信頼するということです。
  対話と差別撤廃は、どのような武器よりも多くのものを達成するのです】

 以上が全文です。直訳のせいか、それとも素人の筆だからかぎこちないところがありますが
 最初の2行に、こうしたアピールをこれまでしたことのないスポーツマンの切実な気概とモラールが感じられます。
 なお、中田英寿は、イタリアの新聞のインタビューに次のように答えています。

 【相手がぼくの同国人を殺したから、ぼくも相手国人を殺す。そんなことをしたら一体どうなってしまうんでしょう。
 ミサイルや銃弾より言葉を役立たせなければ、戦争に終りはなくなる。】

 この国(日本)で、このような行動をスポーツ選手がとろうとしたら、雇い主は黙っているかどうか、そんなことを考えてしまいました。
コメント (1)
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釜山への旅⑤   釜山   らくせき

2010年07月11日 08時25分27秒 | Weblog
釜山に近づくにつれて、高層マンションが次々に目の前に。
韓国の南の玄関口、人口は380万の大都市。
港には、山が迫っており、その山は中腹までマンションや住宅がびっしり。
世界第5位の港湾都市であり、超過密都市でもある。

フェリー乗り場も国際色豊か。
入国すると、すぐにオジサンが近づいてきて、
円をウォンに両替よ、と近づいてきます。
銀行の窓口で1万円を両替、127000ウォンでした。

港のお隣は、ジャガルチ市場(シジャン)つまり魚市場。
3階建てのビルの一階や、周囲にはお店がずらり・・・
とれたての魚、貝、イカ、生きているタコなど。
おばさん(アジュンマ)の威勢のいい声が買物客に飛んでいきます。

店先に並んでいる魚を買うと、その場で料理、奥の部屋で味わうことが出来ます。
仕事が終ったサラリーマンが、夕食をかねてやってくるそうです。
ここの人々は、港町のせいか、開放的で、
言葉も日本でいえば大阪弁にあたるとのこと。

  真剣なうなぎ逃げ出す魚市場

釜山ではホテルに泊まり、朝食はパン。
魚介類の続いた胃袋は少しほっとしたようです。

街を走る車は、日本でいえば3ナンバー。軽乗用車はまったく見当たらない。
スピードを出しているうえに、割り込みなど、運転が荒い。
一旦事故が起きるとダメージが大きいので、小さな車は敬遠されているそうです。

30年前に訪れた時のウォンをガイドさんに見せたら、?・・・という反応。
みたことがないとか。
また当時、タクシーは相乗りだったが、今は禁止されているという。
今では、日本の都市よりも元気でエネルギーに満ちている。

前のガイドさんは、観光地を訪れると
「ここは秀吉に焼かれました」と説明していたのが印象的でした。
今回は「この橋は日本人が造りました」と。
インフラの整備に日本人の力があったことを解説。
時の流れを感じました。

韓国では「顔が広い」ことを「足が広い」というそうです。
旅の仲間のKさん、とても足が広く、
知り合いの知り合いというSさんが、
倭館の址を案内して下さいました。

観光名所となっている龍頭山公園一帯が倭館のあったところ。
公園のタワーにのぼって説明をうけました。

朝鮮は、対馬藩主らに官職を与え、日本国王の使として、
倭館での交易を認めました。
日本人は、倭館を出ることは許されず、
ここに住んでいたのは、対馬藩から派遣された交易官や通詞。
小間物屋、仕立屋、酒屋などの生活に欠かせない商人。
さらに医学や朝鮮語を学ぶ留学生。
400人から500人が滞在していたとか。

当時、朝鮮は医学先進国であり、医術を習ぶために倭館に来る者が多かった。
また雨森芳洲が、対馬に朝鮮語学校を設置すると、
優秀な者は、倭館留学も認められた。

交易は、日本が銀を輸出して、朝鮮人参の他、主に生糸、絹織物などの
中国製品を輸入していた。
対馬藩は、この中継貿易によって巨額の利益を上げたのです。

    

Sさんは、若い頃、日本を訪れたことがありますが、
シマチョゴリの女性が近づいてくると、さりげなく避けたという。
北の人と仲良くしていることが分かったら手が後に回ってしまった
と、・・・笑っていました。

倭館は、長崎の出島とほぼ同じ時代に建設され、明治になって廃止されている。
Sさんは、この200年あまりは、平和の時代であり、
韓国と日本の友好のシンボルとして、倭館の復元が夢であるという。
出島の現地にも出かけており、この夏、その研究結果を学会で報告するとのこと。

平和のシンボルとしての倭館、というアイデアに感服。
対馬と釜山がとても近く感じられました。

   ひとつぶの梅雨を額の倭館かな

旅の間、お天気には恵まれてきましたが、ここに来て雨。

       

市内は地下鉄工事の真っ最中。
最近、土の中から大量の頭蓋骨が見つかったという。
朝鮮に出兵した秀吉の軍が、朝鮮から逃げ出す際、殺した人たちの骨という。
400年あまり前の戦争は、決して終ったことではない、と改めて感じました。

市内には、忠烈祠と呼ばれる、倭軍と戦った英雄たちを
顕彰する施設があります。
広い公園にもなっていて、子供たちが先生に引率されて
祖国防衛に立ち上がった英雄の話を聞いていました。
幼い頃から、こうした歴史教育が行われているのが韓国なんだと
ここでも認識を新たに。
両国の間に横たわる歴史認識の違いを克服していくのは
なかなか大変な課題と感じました。
   
帰りのフェリーは、夕方に釜山を出て、翌朝、博多に着く韓国の船。
大きな荷物を3つも担いでくる「カツギや」のおばちゃん3人と一緒に。
3人とも元気一杯。乗船も人より一歩先んじ、エレベーターの順番も仕切っている。

   フェリーのなかで

博多について乗ったタクシーの運転手さん、
カツギやは、昔は日本からパンティストッキングを買い込んで売る、
稼ぎの良い商売だったけれど、今では本当に数が減ったと。

博多の街は雨。釜山に比べると本当に静かな街でした。

帰宅してから「壬辰戦争」という本に出会いました。
韓国の歴史学者が中心になって「壬辰戦争」を研究したもの。

日本では「秀吉の朝鮮出兵」「文禄・慶長の役」
韓国では「壬辰倭乱・丁酉倭乱」
中国では「抗倭援朝」と呼ばれている戦争。
私も文章にする時、ちょっとしたトマドイというか、ヒッカカリを感じました。
それは、歴史学者を悩ます大問題でもあったのです。
これまでそれぞれの国という枠組みのなかでのみ
論じてこられた戦争に共通の名前を与えること。
これが研究への第一歩でありこと。

「壬辰戦争」という名を与えたのが、韓国の学者であること。
これは倭館の復元を夢見るSさんのように、
韓国で最先端の動きが始まっていることを強く感じました。

これで旅の記録は終わります。読んでくださってありがとうございます。



コメント (3)
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