信じがたい 坂口 安子
うちには十五才ちかい大型の老犬がいる。人に例えると百歳に近いのだという。犬でも老いていく様はちょっと切ない。呆けているので昼夜逆転し、夜中に外へ出ようとドアを引っ掻く。しかたなく夜更けの徘徊に付き合っているが、ひと気のない夜道は怖いものだ。
老犬はヨタヨタと歩き、ときに立ち止まったまま長い時間ぼーっとしている。そうなると動かない。かと思うと、何かに取り憑かれたようにトットコ転びそうになりながら急に走り出す時もあり、慌てて追いかけたりもする。
その日も、途中から小走りになった。おまけに、いつもとまったく違う方向の表通りに向かう。しばらく行くと、前方の路肩寄りに何かが落ちていた。目を凝らすと男の人が仰向けに倒れている。ギョッ! としたが思い切って近づいた。目深にかぶった帽子で顔は見えにくい。「大丈夫ですか?」大声を出したつもりが声がかすれて囁くようになってしまった。無反応、ピクリとも動かない。死んでる? まさか! サスペンスドラマじゃあるまいし。落ち着けと自分に言い聞かせながら、心臓発作かなんかで倒れたのか、それともひき逃げなのだろうか。体に刃物が刺さっているふうでもないし。誰かいませんか? おろおろと周りを見渡す。人っ子ひとりいない。マンションが立ち並ぶ私の知らない場所だ。二階に灯りが点いていた民家を見つけ、チャイムを押した。
出てきた奥さんに事情を話すと見に来てくれた。どうやら男はこの近辺の一人暮らしの酔っ払いであるらしい。奥さんが男の知人に知らせたが、「関係ない」と断られてしまった。だから、このまま放っておきましょう。奥さんも関わり合いたくないと、帰ろうとする。
ええっ? ちょっと待って! どう考えてもこのままでは車に轢かれてしまう。すぐ先はカーブになっていて路上は見にくい上に、さっきまで点いていた街路灯が時間センサーでいっせいに消えた。男は闇に放り込まれた。ともかく警察に連絡しなければ。でも、奥さんは関係ないからと迷惑そう。私だって関係ない。だけど見過ごすことはできない。
運よく、マンションの住人の若夫婦が帰ってきた。彼らがすぐに警察に連絡をして一緒に男の傍に付いてくれた。パトカーが到着するまでの間に車が三台通過した。危なかった。
老犬を引っ張りながらの帰り道、人の命がかかっていても、関係ないと割り切れるものなのかと不思議でならなかった。それにしても、今宵はいつもは行かない徘徊のコースだった。考えようによっては、老犬が酔っ払いの男の命を救ったのかもしれない。それと、知らずに轢いて加害者になるかもしれない車も出さなかったのだから。
「いいことしたね」老大の頭を撫でてやった。明日からはケータイを持参しなければ。
うちには十五才ちかい大型の老犬がいる。人に例えると百歳に近いのだという。犬でも老いていく様はちょっと切ない。呆けているので昼夜逆転し、夜中に外へ出ようとドアを引っ掻く。しかたなく夜更けの徘徊に付き合っているが、ひと気のない夜道は怖いものだ。
老犬はヨタヨタと歩き、ときに立ち止まったまま長い時間ぼーっとしている。そうなると動かない。かと思うと、何かに取り憑かれたようにトットコ転びそうになりながら急に走り出す時もあり、慌てて追いかけたりもする。
その日も、途中から小走りになった。おまけに、いつもとまったく違う方向の表通りに向かう。しばらく行くと、前方の路肩寄りに何かが落ちていた。目を凝らすと男の人が仰向けに倒れている。ギョッ! としたが思い切って近づいた。目深にかぶった帽子で顔は見えにくい。「大丈夫ですか?」大声を出したつもりが声がかすれて囁くようになってしまった。無反応、ピクリとも動かない。死んでる? まさか! サスペンスドラマじゃあるまいし。落ち着けと自分に言い聞かせながら、心臓発作かなんかで倒れたのか、それともひき逃げなのだろうか。体に刃物が刺さっているふうでもないし。誰かいませんか? おろおろと周りを見渡す。人っ子ひとりいない。マンションが立ち並ぶ私の知らない場所だ。二階に灯りが点いていた民家を見つけ、チャイムを押した。
出てきた奥さんに事情を話すと見に来てくれた。どうやら男はこの近辺の一人暮らしの酔っ払いであるらしい。奥さんが男の知人に知らせたが、「関係ない」と断られてしまった。だから、このまま放っておきましょう。奥さんも関わり合いたくないと、帰ろうとする。
ええっ? ちょっと待って! どう考えてもこのままでは車に轢かれてしまう。すぐ先はカーブになっていて路上は見にくい上に、さっきまで点いていた街路灯が時間センサーでいっせいに消えた。男は闇に放り込まれた。ともかく警察に連絡しなければ。でも、奥さんは関係ないからと迷惑そう。私だって関係ない。だけど見過ごすことはできない。
運よく、マンションの住人の若夫婦が帰ってきた。彼らがすぐに警察に連絡をして一緒に男の傍に付いてくれた。パトカーが到着するまでの間に車が三台通過した。危なかった。
老犬を引っ張りながらの帰り道、人の命がかかっていても、関係ないと割り切れるものなのかと不思議でならなかった。それにしても、今宵はいつもは行かない徘徊のコースだった。考えようによっては、老犬が酔っ払いの男の命を救ったのかもしれない。それと、知らずに轢いて加害者になるかもしれない車も出さなかったのだから。
「いいことしたね」老大の頭を撫でてやった。明日からはケータイを持参しなければ。