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在特会の新しい動きと安倍政権               あんころもち

2013年01月31日 15時46分38秒 | Weblog
 以下はネットで流れている在特会デモの招請サイトから取ったものです。
 この呼びかけのひとつ一つの言葉にある卑猥ともいえるおどろおどろしさ。
 とりわけ「不逞鮮人」という言葉は、関東大震災の折のあの朝鮮人と見れば有無をいわさず虐殺した歴史をまざまざと思い出させます。
 それに連動した甘粕による大杉栄以下の虐殺もです。
 もし、「東南海地震」起こった際には、この連中は再びあのような蛮行を起こしかねないと思います。

 従来はこれらのグループは、取るに足りない少数派と思われていました。
 しかし、今は違います。
 いわゆる一般市民や青年層をも取り込んで肥大化しつつあるのだそうです。

 彼らが、安倍政権の発足により一層元気づいていることは言うまでもありません。
 さすがに安倍氏自身がこのグループと直接関連を持ってはいないようですが、安倍氏を取り巻くイデオローグの中には、彼らと緊密な関係にある連中がかなりいます。
 また、彼らからの一方的ともいえる安倍支持コールは、昨年の選挙時、選挙最終日の安倍氏の街頭演説風景をここに載せたとおりです。
 この日の丸の乱立のなかのかなりの部分が下の在特会の連中だと思われます。



 私は、一国の総理である以上、安倍氏が拙速に何かをすることはないだろうと思っていますが、今年の参議院選挙後、もし安定多数を取るようですと様相が変わってくると思います。
 私達はどのように備えたらいいのでしょうか。
 ここには比較的年配の方が多いように思いますが、私たちが経験してきた「戦後民主主義」がほぼ崩壊しつつあることを踏まえた上で問題を考える必要があるようです。



不逞鮮人追放!韓流撲滅 デモ in 新大久保

風紀を乱す5万人の韓国人売春婦を日本から叩きだせ!
いまだに韓流にハマる日本の汚物=韓流バカも出て行け!
ゴミ出しルールすら守らない韓国人の店なんていらない!

【集合日時】
平成25年2月9日(土)
14:00集合 14:30デモ隊出発

【集合場所】
大久保公園

【アクセス】
最寄駅 JR新宿駅 東口
地図 http://www.shinjuku.info/S52121.html

【現場責任者】
桜田修成 (新社会運動代表)

【主催】
新社会運動

【協賛】
在日特権を許さない市民の会 東京支部

【注意事項】
チマチョゴリなどの日本にそぐわない恰好はご遠慮下さい。
撮影が入るため、顔を写されたくない方はサングラスなどをご持参ください。
日章旗・旭日旗・Z旗 趣旨にそったプラカード、団体旗、拡声器などの持込歓迎。
現場責任者の指示に必ず従ってください。

※ 各自極力プラカードを持参するようお願いします

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文科系さんがお載せになった意図に即した応答です。      あんころもち

2013年01月31日 15時23分15秒 | Weblog
 はじめて、そのエッセイをお載せになった意図をご披露されましたね。
 それについては下にのべるとして、まず第一点。以下文字色の違いは文科系さんのものからコピペしたものです。

 そもそも僕がいつ貴方の質問に「お前の読解は違うのだからそれを説明する必要はない」と応えましたか?「説明する必要はない」などと、そんな言葉は今までのどこにあるのですか。

 これについては、以下二回にわたってほぼ同じ事をおっしゃっています。

 ついでに、文章解釈についての以上のことが決着つかないでそもそも、僕が載せた意図をどう解釈できると言うのですか? 僕はまず自分の意見を載せたのでは なく、この文章を載せたのです。この文章の内容で一致できないで、僕が載せた意図で一致できるわけがないでしょう。馬鹿馬鹿しいほどの言い分だと思います が。 

 文章を正しく理解しないで、その意図とか作者論とか、社会的影響とか、ましてやこれを僕が載せた意図とかを論議するのは無駄、無意味です。(中略) 文章 解釈についての以上のことが決着つかないでそもそも、僕が載せた意図をどう解釈できると言うのですか? 僕はまず自分の意見を載せたのではなく、この文章 を載せたのです。この文章の内容で一致できないで、僕が載せた意図で一致できるわけがないでしょう。馬鹿馬鹿しいほどの言い分だと思いますが。


 ここではお前の文章解釈は違うのだから、自分がこれを載せた意図など説明する必要がないことが繰り返されていますね。
 「この文章の内容で一致できない」からこそ、まさになぜこれをお載せになったのですかを問うているのに、こうした返事しかなされないのを日本語では「木で鼻をくくったような」というのです。

 まあ、今回はこのエッセイをお載せになった意図をはじめて披瀝されたのですが下記を読んで驚きました。

 さらに最もよくいわれるのは、歴史を先取りするようなその人だけの鋭い感性、言動。これも一例ですが、例えばキルケゴールにしても、ニーチェにしても、サルトルにしても、文学的哲学者は皆こういう特徴を持っていると読んできました。ただ、人を描いて、人生やその喜怒哀楽の深さとか、他人や社会や真善美への献身だとかを描くのは長い作品になりますから、随筆の場合はそれの軽い物、瞬間的な「悲鳴」にも似た喜怒哀楽や真善美(の感動)とか、珍奇さとか驚きとかになるようです。

 このエッセイのどこに「歴史を先取りするようなその人だけの鋭い感性」や「言動」があるのでしょう。ほとんど関連がない所で、自己顕示のためにのみキルケゴールや、ニーチェ、サルトルの名前をお出しになるのはおやめになったほうがいいと思いますよ。おそらく彼らは墓場でくしゃみをしていることだと思います。
 このエッセイにはそんな大層なことはどこにも書かれていないでしょう。

 こうした文章は、ほとんど毎日、どこかの投書欄などで「またか」とうんざりするほどお目にかかるもので、「文学的にも」そこから一歩も出ていないものです。
 合評会で出たという「奥さまロード いるいるこんな女。なんて自己中。猛者女め。」というのがこのエッセイに対する率直な感想でしょうね。

 そしてそれは、吉本の芸人たちが「大阪のオバン」をあげつらって嘲笑することとほとんど大差ないのです。どこにも書いてない「高級な服、派手な装飾品」などを引き合いに出して金持ちの奥様であることを印象付けようとなさっていますが、そんなお金持ちの奥様がファーストフードに行列なさるのも不思議な話ですね。
 たとえ相手が金持ちだろうがそうでなかろうがどうでもいいことでしょう。
 
 問題はその後で、文科系さん自身がそれを如実に語っています。
 「だからこそ同人の全女性が『自分のことではない』と読めたのでしょうね。
 この構造こそが問題なのです。社会的歴史的風景の一コマを切り取りながら、それがなぜ起こってしまったのかを思考することなく、「なるほど世間にはそんなひどい連中がいるんだ、それにひき換え自分は・・・」と自己満足や自己肯定というある種のナルシシズムやカタルシスに終わるのです。このどこにあなたの言う「感動」があるのでしょう。

 あなたが例に引いていらっしゃるキルケゴールや、ニーチェ、サルトルが、評価されるのはたえざる自己差異化の苦闘を自らに引き受けたからです。
 ニーチェは弱者を笑いましたが、決して下層階級やこのエッセイの奥様を笑ったのではなく、その時代の宗教的、イデオロギー的権威が道徳的徳目を振りかざすことしかできないことを、したがって実存的に生きるすべを知らない連中のことを「弱者」として笑ったのであって、上のエッセイとはまるっきりベクトルが違うのです。
 
 いろいろ詳細にお書きになっていますが、このエッセイのモチーフとは関係のない評価などは文体研究などでじっくりおやりになればいいことでしょう。

 ここにいたって、はじめてこのエッセイをお載せになった意図をお述べになったわけですが、できるならば今後同類のものをお載せになる場合には、ご自分の感想なり、前文なりをお添えになって下さい。それが引用に関するエチケットでしょう。

 あなたが面白いと思ってお載せになった、そのことは否定すべきではありませんね。
 ただし、私には少しも面白く無いどころか、なんか嫌な後味、はっきりいって不快感が残ったことを申し添えます。
 とりわけ、これに感動できるセンスはほとんど了解不能です。
コメント (13)
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あんころもちさんへ、僕の随筆紹介基準  文科系

2013年01月31日 13時25分39秒 | 文芸作品
 あんころもちさんへ
  
「こう読んだ」という随筆自身の内容把握が確認しあえないままで、「そこから」批評、作品論、作者論等々と進む馬鹿馬鹿しい徒労な論争を、同人誌で嫌と言うほど体験してきました。こんな徒労がかなり進んでから、こういうことになるやつね。「これの、そこを、こう読んでたのか。それじゃー、そんな不快感も出るよー。だけど・・・」という体たらくで、また一からやり直し、振り出しに戻るわけですよね。
 以下につき最初に申しておきますが、そういう体験から私見を書いてきたに過ぎず、上からとか、裁定などという、私見表明との区別も曖昧なままのレッテル貼りはやめていただきたい。例え、抽象的命題でも、です。一つの命題って一応、原理的に抽象的なものだし、断定の形を取らざるをえませんから。また、いちいち「思います」とか「敬語、謙譲語」なんかを付けるのもこれだけのやりとりをしてきたらもう、面倒くさい。なお、今回は3点へのあなたの回答もほとんどないままにあれを載せた僕の意図も説明しますから、「僕ら」の読み方をも提示せざるを得ず、長い回答になります。
 なお、以上今までの僕の態度の説明、予告も、以下の骨子、文章も昨日の昼頃には既に準備していたものだ。だからこそですが、対する貴方の今日のこの勘ぐり言葉は、実に酷い代物といわせていただきます。
『文科系さんから、私の論議の仕方が間違っているという高見からの批判をいただきました。それにお答えする形で、なぜこうしたエッセイをこに載せるのかとお尋ねしたところ、お前の読解は違うのだからそれを説明する必要はないという木で鼻をくくったようなご返事です 』
 そもそも僕がいつ貴方の質問に「お前の読解は違うのだからそれを説明する必要はない」と応えましたか?「説明する必要はない」などと、そんな言葉は今までのどこにあるのですか。それどころか、僕は何度もこう言ってきたはずだ。僕が嘘同然の空約束をやっているとでも言いたいのですか。
「僕が最初から言っている①~③を文章上直接に否定できたら、貴方がお望みの次のお答えもいたしましょう。」 

 さて、僕がある随筆をここに紹介する場合の基準は「僕が面白かったか否か」ということです。僕が面白ければ人も面白いだろうと、勝手に考えてのことです。その場合の「面白い」というのは随筆のような短い物だと、その作品のモチーフが第一になります。短い作品で面白いモチーフが面白く書けてなかったらまずだめですから。そしてどういうモチーフが面白いかというと、ある人自身を細かく描いたような物。文学が、学問や科学と正反対と言って良いように違う面があるのは、むしろその人の個性というか特殊性描写というところだと考えています。一例を挙げると、斎藤茂吉の考え方で言えば「他の一般的な『これ』ではなく、『これ』そのものを描くように」。さらに最もよくいわれるのは、歴史を先取りするようなその人だけの鋭い感性、言動。これも一例ですが、キルケゴールにしても、ニーチェにしても、サルトルにしても、文学的哲学者は皆こういう特徴を持っていると読んできました。ただ、人を描いて、人生やその喜怒哀楽の深さとか、他人や社会や真善美への献身だとかを描くのは長い作品になりますから、随筆の場合はそれの軽い物、瞬間的な「悲鳴」にも似た喜怒哀楽や真善美(への感動)とか、珍奇さとか驚きとかになるようです。

 さて、この作品は、僕らの月間冊子の去年9月号に載った一作であって、いつものように後で必ず合評されますが、それは12月例会でした。その合評内容がやはり後の月間冊子に必ずまとめられるのですが、9月号のそれはちょうどこの1月号に出ています。「奥さまロード」の合評もまとめられています。該当部分を、そのままに転載しましょう。10以上の作品合評を1500字程度にまとめるのだから短い物ですが。
『奥さまロード  いるいるこんな女。なんて自己中。猛者女め。モチーフは良いが、道路状況の描写が今いち、よく分からない。二つ目、車線を書けば納得できる』
これだけです。今回の書き手は72歳の女性でした。例会の司会も合評まとめも主宰を除いて毎回回り持ちですが、僕らの同人誌の7割が女性であって、主宰者は長い中日新聞文化部時代からプロの作家でもあった男性です。なお、上の短評文はたまたまほぼ、僕が当日語った意見が取り上げられたもの。僕は、全ての作品について寸評を書き込んで合評当日に臨むのですが、この作品の欄外には今でもこう書いてあります。
『面白いモチーフを上手く描いていると思うが、惜しい点が二つ』
 この「惜しい点」は当日口頭で語りましたが、それを文中該当箇所に書き込んで12月例会に臨んでいます。僕が気に入った作品だから、書き込みが多くなっているようですね。ほとんど書き込みがない作品もありますから。「惜しい点」の一つは、前の奥さま描写の最後に「その後どうなった?」。もう一つは、後の奥さまの部分で「路上で待っていたっけ」までの一文箇所末に、「何故?右折?狭い?」と書いてあります。作者の回答は「一車線で右折箇所近く」ということでした。それを聞いた時に参加者一同に驚きの声が上がったのを、今でも良く覚えています。

 さて、以上を踏まえた上で、僕がどう面白かったかと、この作品の難しい点一カ所とのまとめに入ります。
 僕のお応えに最初から書いてきたように、この二人に驚いたのです。信号交差点中央で右折しつつ先頭に立っているのに、右折すぐの店に入りたくて入れないから曲がらずにいて、信号が変わってしまった。その一回前の緑信号でもぐずぐずしていたとも想定されますね。そりゃ、後続車はみんな怒りますよ。もう一人は、こうです。右折直後の一車線(と、僕は初めから見当を付けていました)車道で駐車場に入るために待機して、後続車をずらーっと通行止めだ。それも、他にもいくつも駐車場があるのに、店のすぐそばの所に入りたいばかりにこうしている。面白いと言うといけないけど、この二人への細かい描写自身が僕には大変興味深かった。だからこそ合評当日、惜しい点を強力に語ったのでした。それだけのことであって、これが男でも僕は全く同じように面白いだろうし、ここまでと全く同じ対応をしたはずです。同人の7割が女性たちで自己主張が強い人ばかりですが、多分僕と同じ読み方をしたのでしょう。それは、合評まとめの文章にも現れているとおりです。もちろん、貴方のような読み方をして、ここまでのようなことを語った人は一人もいませんでした。それもあって、誤読だと僕は言い続けてきたのかも知れません。

 さて、最後です。この作品には一点、僕も解釈に迷った難しいところがありますが、それは以下の通りと考えてきました。僕の読解を書いてみましょう。
①貴方が言う「奥さまロード」と、僕が強調した「主婦でも、自己中の人が多くなった」と、作品のほとんどを締める2つの「奥さま」描写との3者間をどう読むかというのがこの作品の難しいところです。僕も貴方と同じで、「近頃の若い者は」とか「とかく老人は」式の、さらに主としてネガティブキャンペーン(随筆)が大嫌いなんです。自分のネガティブキャンペーン随筆(「世界を狭くした話」や「家出に限る」)は書いても、他人のそれは多分まず書いたことがない。「奥さまロード」も、特に最後3行の部分に目を付けて、これを最初にはそう読みかけたということも、今は白状しておきます。その上で見つけたのが「主婦でも、自己中の人が多くなった」でした。それで、この作品への僕の評価が急に変わって、上のように短評することになったという自分自身の経過があります。180度変わったと言って良い。そんなこともあったから、貴方の読み方の確認に拘ったのでした。
 以上に加えてもう一つ、この作品を見直した理由がこういうこと。
②作品名は「奥さまロード」であって、その大部分の中身は二人の主婦(らしき人)。女性一般や若い女性は含まれていませんし、単なる主婦でもないようです。お二人には以下の描写まで付いていますから。
『ハンドルをお切りくださいませ。デンッ。真っ赤な奥さまカーは、その場に張りついたまま』
『そこで奥さまは、すごすごとハンドル動かして、今度は駐車場に入る歩道でお待ちになった。そのために歩行者や自転車が通れない状態だ。でも、そんなこと関係ないわ、って顔をしている奥さまは、なんて図太い、いや、いい度胸をしていること』
 普通に読めばこうでしょう。主婦でも庶民の感じは少なく、お金持ちそうで、そういう属性を言外に含んだ「奥さま」だ。敬語の連発にも、そういう作者の「限定」が表現されていると読みますね。ここは女性読者ならすぐに、高級な服、派手な装飾品なども、あれこれと連想もするでしょう。それが例えばこの一言に凝縮されていると読むでしょう。「ハンドルをお切りくださいませ。デンッ。真っ赤な奥さまカーは」。こう読めるからこそ女性同人たちは、主婦でもかなり特殊な人と読んでいるわけです。これは、浪速お笑いが言う「(大阪の)おばはん」ではないと思いますよ。だからこそ同人の全女性が「自分のことではない」と読めたのでしょうね。あのきつい合評まとめ文はそういうことだと、僕は読みました。
コメント (2)
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