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「国連憲章の武力行使」討論を終えて   文科系

2017年08月04日 06時32分04秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
1970さんとのちょっと長い論争が、8月2日のエントリーと、ここに書かれたコメント応酬でひとまず終わった。ここまでの論議に関わる拙エントリーを改めてご紹介すると、以下のようになる。ほぼそれぞれにコメント応酬もついている。これを読むと、次のようなことが分かるだろうと愚考している。
 一つは国連憲章。その主権国家の権利、主権侵害、それに関わって、禁止されている武力威嚇、行使などなど。および、これらの事項に重大違反を重ねてきたアメリカ流の口実。ただしこれに関わっては、これを支える国連法的規定などどこにもないのだから国連法違反であって、国連憲章のどんな言葉にも引っかからない屁理屈に過ぎぬと、僕は見ている。屁理屈から「関連死含め50万人の死者」(イラク戦争)とか、「死者47万人、負傷者190万人、難民311万人」(シリア内乱)とか・・・?
 ということも含めて、色々勉強させられたけど、楽しい討論であった。誰にも覚えがおありでしょうが、モヤモヤしていた問題で頭の中がすっきりするって、久しぶりにそんな気持ちを味わった。
 いつものように根気強く付き合って下さった1970さんにも、感謝したい。


シリア政権、国連加盟国の権利  2017年07月30日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など)
 
シリア論争、僕なりのまとめ 2017年07月29日

おかしな言葉の数々から  2017年07月31日

70さん、「国際法」を論じている  2017年08月01日

「他国への武力介入」、討論のまとめ  2017年08月02日


 これらに興味を持たれた方々が多かったせいか、ここのところ連日アクセスが200前後になる日も多かった。ちなみに、最も多い日は292。読んで下さった方々、有り難うございました。
 徳川幕府によって戦国時代が終わり、300年の平和が到来し、その平和の中で発達した国内経済を土台にして明治維新、近代化日本がアジア諸国で唯一可能になったというのは一つの有力な日本近代史説だと思う。書評をしてきた「サピエンス全史」にも、統一国家というものが世界から戦争やこれに準ずるような暴力を決定的に少なくしたと書かれている。統一国家の法律、警察、裁判などの結果なのである。こうしたことから考えるに、世界平和はやはり、国連強化によってしか成し遂げられないのだろう。

 アメリカは、ケネディ大統領の六一年国連総会演説の一節を今回またご紹介して結びとしたい。
『戦争にとって代わる唯一の方法は国連を発展させることです。……国連はこのあと発展し、われわれの時代の課題に応えることになるかもしれないし、あるいは、影響力も実力も尊敬も失い、風と共に消えるかもしれない。だが、もし国連を死なせることになったら──その活力を弱め、力をそぎ落とすことになったら──われわれ自身の未来から一切の希望を奪うに等しいのであります』
 ケネディ大統領がダラスで射殺されたのは、この演説の2年後のこと。その後のアメリカの動向を見ると、産軍複合体勢力がやったこととしか、僕には思えないのである。 

コメント (7)
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書評「サピエンス全史」(3)続、現代の平和   文科系

2017年08月04日 06時05分36秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
河出書房新社、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 上下」の書評、内容紹介を続ける。終わりということにはなっていないが、今回はこれで終わっていく積もりです。


「部族社会時代の名残がある時代には、戦争は善(悪ではなかったという程度ではない)だった」という文章を紹介した。今は防衛戦争を除いては、良くて「必要悪」になっていると、コメントで書いた。だからこそ、こう言えるのであるとさえ(これは僕が)書いた。
 防衛戦争でもないのに国民が熱狂したイラク戦争などは、太平洋戦争同様国民が欺されたから起こったというものだと。

 さて、今書いたことがこの時代の真実であるかどうか? もし真実だとすれば人間の未来は、戦争が地上から無くなるか、政権とマスコミが国民を欺し続けられるか、このどちらかだということになるが・・・。


 さて、この歴史学者の本「サピエンス全史」には、こういう歴史的知識が溢れている。暴力,戦争についてのそれを、さらに続けて紹介してみたい。
『ほとんどの人は、自分がいかに平和な時代に生きているかを実感していない。1000年前から生きている人間は一人もいないので、かって世界が今よりはるかに暴力的であったことは、あっさり忘れられてしまう』

『世界のほとんどの地域で人々は、近隣の部族が真夜中に自分たちの村を包囲して、村人を一人残らず惨殺するのではないかとおびえることなく眠りに就いている』

『生徒が教師から鞭打たれることはないし、子供たちは、親が支払いに窮したとしても、奴隷として売られる心配をする必要はない。また女性たちも、夫が妻を殴ったり、家からでないよう強要したりすることは、法律によって禁じられているのを承知している。こうした安心感が、世界各地でますます現実のものとなっている。
 暴力の減少は主に、国家の台頭のおかげだ。いつの時代も、暴力の大部分は家族やコミュニティ間の限られた範囲で起こる不和の結果だった。すでに見たとおり、地域コミュニティ以上に大きな政治組織を知らない初期の農民たちは、横行する暴力に苦しんだ。権力が分散していた中世ヨーロッパの王国では、人口10万人当たり、毎年20~40人が殺害されていた。王国や帝国は力を増すにつれて、コミュニティに対する統制を強めたため、暴力の水準は低下した。そして、国家と市場が全権を握り、コミュニティが消滅したこの数十年に、暴力の発生率は一段と下落している。現在の殺人の世界平均は、人口10万人当たり年間わずか9人で、こうした殺人の多くは、ソマリアやコロンビアのような弱小国で起こっている。中央集権化されたヨーロッパ諸国では、年間の殺人発生率は人口10万人当たり1人だ。』

『1945年以降、国家内部の暴力が減少しているのか増加しているのかについては、見解が分かれるかもしれない。だが、国家間の武力紛争がかってないほどまで減少していることは、誰も否定できない。最も明白な例はおそらく、ヨーロッパの諸帝国の崩壊だろう。歴史を振り返れば、帝国はつねに反乱を厳しく弾圧してきた。やがて末期を迎えると、落日の帝国は、全力で生き残りを図り、血みどろの戦いに陥る。・・・だが1945年以降、帝国の大半は平和的な早期撤退を選択してきた。そうした国々の崩壊過程は、比較的すみやかで、平穏で、秩序立ったものになった』
 こうしてあげられている例が、二つある。一つは大英帝国で、1945年に世界の四分の一を支配していたが、これらをほとんど平和裏に明け渡したと述べられる。もう一つの例がソ連と東欧圏諸国で、こんな表現になっている。
『これほど強大な帝国が、これほど短期間に、かつ平穏に姿を消した例は、これまで一つもない。・・・・ゴルバチョフがセルビア指導部、あるいはアルジェリアでのフランスのような行動を取っていたらどうなっていたかと考えると、背筋が寒くなる』
 この共産圏諸国の崩壊においても、もちろん例外はちゃんと見つめられている。セルビアとルーマニア政権が武力による「反乱」鎮圧を図ったと。

 こうして、どこの国でも右の方々が陥りやすい「社会ダーウィニズム」思想(無意識のそれも含めて)は、こういうものであると断定できるはずだ。世界史を知らず、今の世界でも自国(周辺)しか観ることができないという、そういう条件の下でしか生まれないものと。社会ダーウィニズムとは、こういう考え方、感じ方、思想を指している。
「動物は争うもの。人間も動物だから、争うもの。その人間の国家も同じことで、だから結局、戦争は無くならない。動物も人間も人間国家も、そういう争いに勝つべく己を進化させたもののみが生き残っていく」
 この思想が誤りであるとは、学問の常識になっている。
 今の世界各国に溢れているいわゆる「ポピュリズム」には、この社会ダーウィニズム思想、感覚を持った人々がとても多いように思われる。今のこの「ポピュリズム」隆盛は、新自由主義グローバリゼーションの産物なのだと思う。
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