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安倍さんよく聞いて、じゃない次期総理聴いて   らくせき

2018年01月18日 15時41分23秒 | Weblog
「沖縄の海兵隊は日本の防衛に役立っていない。米国の防衛とも無関係」――米保守系シンクタンク、ケイトー研究所の上級研究員ダグ・バンドウ氏が1月12日に都内で講演。「中国と日本が尖閣諸島で衝突したとしても、(役割が異なる)海兵隊は何もできない。北朝鮮のミサイルを打ち落とすこともできない」と述べ、海兵隊の沖縄からの完全撤退を主張した。

 レーガン大統領(在任1981~89年)の特別補佐官を務めたバンドウ氏は外交政策の専門家。市民団体の招きで来日し、在沖縄米軍基地などを視察するとともに、翁長沖縄県知事、防衛大臣経験者の自民党国会議員らと面談した。

 講演でバンドウ氏は、沖縄の基地負担軽減の問題について「日本政府は対米関係への悪影響を恐れて、米国政府に何の要求もしていないが、日本政府が求めれば、米政府は最終的にそれに従うはずだ」との見方を示した。日米地位協定に関しても「基地は日本の領土にあり、ルールを決める立場にあるのは日本政府だ」と交渉による見直しの可能性について言及した。

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小説  ハーちゃんと俺(前編)  文科系

2018年01月18日 11時17分50秒 | 文芸作品
 二〇一〇年九月二七日、初めての孫、女の子が生まれた。生まれただけではなく、娘家族三人、ウィークデーは我が家に同居中だ。直線距離三百メートルほどのアパートに住んでいる彼ら、金土以外は母子ともに我が家に寝泊まりしている。夕食も、我が家。両家族四人で作り、食べ、後片付けも分担しあっている。「我が子とは違うだろう。そんな感情も湧かんはずだ」。連れ合いにそう言い張ってきた俺だったが、こんな同居を重ねていると、どうも勝手が違って来る。
 病院のベッドでもぞもぞしているものを見た第一印象はこれだ。「何処よりきたりしものぞ!」。山上憶良の有名な短歌「しろがねもくがねも玉も」の前に置かれた長歌の一節だが、このモゾモゾ、一体どこから来たのかと。こんな成長も想像したりするから、なおさらのこと。こんなモノが一年も経つと片言をしゃべり始め、三年も経つとぺらぺらになるなんて信じられんな、などと。ちょっと前の外出でしばらく観察していた三歳児なんて、すでに立派な人間なのである。わがままもりくつもちゃんと主張していた。我々老人の方は一~二年では何も起こらんどころか急に老けたりするのに、すぐにどんどんあんなふうになっていくモノ! そんな人間が、一体どこから現れてもぞもぞとここにいるのだ?!
 さて、今は生後二ヶ月に近く、笑い出した。モナリザみたいな意識した微笑みはちょっと前から気付いていたし、顔面がそう動いてしまった「ニカッ」は生後すぐにもあったが、今は何かちょっかいを出すとはっきりとニカッとする。人間の笑いは、類人猿にはない高度な段階の技能なのだそうだ。こんなに無力なくせにすでにそんな凄い力を持っているこいつ。生後長い間こんなに能なしの人間が地球でこれだけ栄えてきたその訳は、このニカッにあるのかも知れない。そんな風に思いながら今の俺は彼女とこんなふうにつきあっている。わざとらしく泣いている時などに抱き上げてやると、ぴたっと止まり、モナリザの微笑み。そこでもう一つ何かをやってやると、ニカッ。とても面白い。飼っている黒猫・モモのクールさに比べれば、はるかにホットなのである。

 ところで、二〇一〇年というこの年は、俺にとってどんな年だったことか。
 スポーツが大好きで小学校時代から色々やってきた俺が、六二歳で完全リタイアーした前後に選んだ最後のこれがランニングとスポーツサイクリング。後者は学生時代から続いている趣味だが、ランニングは五九歳に入門して、一年後には十キロを四十九分台という記録を持っている。それだけの体形、体力をここまで維持してきたのは一種独特のスポーツ哲学を育んできたからだと今にして分かるのだが、元々不整脈を抱えてそれを飼い慣らすためにいつも心拍計を付けて走っていた。それが、ランニング歴丁度十年のこの年、新春に不整脈が慢性心房細動へといきなり深化した。外って置けば、脳梗塞か心筋梗塞という死病である。即心臓カテーテル手術を決意した。慢性細動になったら手術と、予め決めていたのである。二月末のこれが上手く行かなかったと分かって、十月には二回目。ここまでもこれ以降も、術後落ち着きが見えたら走って良いとの許可があったから、ランナーを続けるべく速歩き、階段往復など体力維持に励みつつ、散歩中に一キロ程度の遅い走りも入れ始めていった。そして、「さすがの根治療法。治ったのだな」と言い聞かせ始めた翌十一年二月一七日。いつもの階段を十往復ほどしたあたりで突然の不整脈。きちんと脈を取ってみると最悪の心房細動である。〈同じ階段往復を一昨日には、一一〇回。それがなんで急にこうなるの?〉。さっぱり訳が分からぬままに主治医にかけこんだ。

 すぐに血圧を測ったり、心電図を取っている間も、その主治医自身が何かバタバタしている。慌てているのだと分かった。既に血液をサラサラにする薬も止めていたから、すぐに点滴が始まってこう告げる。脳梗塞、心筋梗塞の恐れがあるから、二回の手術をした拠点病院に行けと。そこに電話を入れてくれて、そのまま救急車で駆け込むことになった。拠点病院の診断結果は「すぐに全身麻酔で、AEDをやります。多分治ります」というもの。死ぬ間際の人の心臓辺りに電気ショックを与えるあの治療法である。大変きつい奴になるから全身麻酔をした上でということなのだろうと諒解した。
 そしてさてその次が、忘れもしない、問題の同月二四日。木曜日昼頃。通っているギター教室のレッスン曲を弾いていただけなのに、どうも心拍がおかしい。計ってみると期外心臓収縮の症状で、俺の今までの経験からはこんなサインになる。「今ちょっとした運動をやると、慢性心房細動になるよ」。またまたすぐに主治医の所に駆け付けると、結局こんなことが決まってしまった。今度ばかりは俺の了解は何も取らず、有無を言わせぬ命令である。
①年齢並みの心拍数を越えないように生活する。最高一二〇。できたら一〇〇~一一〇。
②突発性期外収縮だけなら、頓服的な薬を飲む。 
③心房細動になったら、以前の薬を常用の上、もう一度AEDか再手術か。
④お酒は、今までの通常範囲で。ビール換算で一本程度。

 最高心拍数一二〇では、もう走れない。速度にもよるが、俺のランニングは最高一四〇~一六〇にもなったからだ。もう七〇歳、走るのを断念して、少しでも細く長く生きる道を選ぶしかなくなったと覚悟した。ただでさえこの一年間は半信半疑でしょぼしょぼ走っていたから体質がどんどん変わって行くのが分かったが、これでさえもう年貢の納め時になってしまった。

 俺は一日二~三時間も先生に課されたギターレッスンをしたり、四~五時間コンピューターに向かっても目も大丈夫だし、肩こりもないという生活をしてきた。そして、一時間に十キロほど走れる酸素吸収力がこれらを支えているのだと解して、ランニングに励んできた。筋肉疲労物質の運び屋、血流と酸素が十二分に回る身体だからこそ、七〇歳にして無理をしても肩も凝らないし、目も疲れないのだと。掛かり付けの歯医者がまた、こんなことを言う。「走れるというのは免疫力が強いということ。歯槽膿漏にも、虫歯菌にも強いんです」。なお、有酸素運動について回る細胞老化物質・活性酸素への対策にも、当然励んできた。しかしながら、このようにランニングが活動年齢を伸ばすのに偉大な効果があるにしても、そんな理由だけで俺がスポーツを続けてこられたわけではない。

 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめることの結果と見るべきではないだろうか。
〈そんな俺にランナーを諦めろとは……〉
〈俺の生活自身が途方もなく小さくなっていく……〉

 さて、ハーちゃんが生まれたのはこんなころ。俺の二回目のカテーテル手術の一か月前の九月とあって、ランナー断念の時期には五か月になっている。そんなころの俺らは、隔週の土曜日ごとに散歩をする仲になっていた。娘夫婦に俺の散歩を一緒にやろうと提案して、合意を取り付けたのである。ちなみに、俺の連れ合いは同じ申し出を断っていた。連れ合いは連れ合いで、俺らの長男が三つの美容院をやっているその株式会社組織の経理担当取締役。子どものいないお嫁さんとともに収支一切のコンピューターや、税理士・税務署応対、店装飾などの雑事を任されていて、かなり忙しいのである。
 三人で乳母車を押し合って、あっちの公園、こっちの遊園地とか、四キロほどは離れた昔の尾張徳川藩主別邸・徳川園までの往復をしたこともある。それもほとんど外の昼食付きで真冬も真夏もという散歩。そんな折のハーちゃんは、寒くても暑くても泣かない子だった。乳母車からいつもあちこちに目をやって、寝ている暇もないという散歩ご機嫌さんだったからだろう。だからこの散歩がずっと続いていったが、八か月頃だったかハーちゃんはこんなふうに育っていた。いわゆる「ずり這い」数日のあと、普通のはいはいの最初の一歩を見て四~五日して会った時のことだ。
 娘夫婦の家、居間に僕が入って、ハーちゃんと目が合う。よく遊んでやるせいか、俺を見つけるとニカッならぬ「けっけっけ」と、手足をばたばたした大笑いになる彼女だ。試みにこの日は数メートル前に開いた脚を投げ出して、ぺたりと座り込んでみた。するとその俺目がけて、大急ぎでばたばたと這ってくる。もう、相当に速い。そしてまず俺の腿に手を置き、次いでもう一方の手を挙げて胸ぐらのシャツを握りしめ、すっくっと立ち上がる。さらに肩をくしゃっと摑んで体を支え、急激な両脚屈伸を繰り返し始める。さながらバンザーイの連続ジャンプ。その体勢のまま「けっけっけ」を振りまいて、歓待してくれるのだ。そのうち、そのままもう両手を離して立ってしまう。もっともこれは、重心が取れぬせいですぐにくしゃっと座り込むのだが、またつかまり、立ち直して、手を離し、またくしゃっ。そんなことを何度も繰り返しているのを観ていて、つくづく思った。
「人間ってやっぱり、二本脚で立つことが好きなんだな。目線が高くなるからだろうか。人間特有の直立姿勢の平衡感覚に関わって、なにか本能のようなものでもあるのだろうな」
 十か月前に歩き出したが、今度は転んでもまったく泣くということはなく、すぐに起き上がって前へ歩き出す子になっていた。


(あと2回、中後編に続きます)
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