15日の中日新聞で知ったが、高校国語の新学習指導要領による二分類国語教育が2022年から本格実施なのだそうだ。例の文学国語、論理国語とか、さらに加えて「実用国語」とかも入ってくる改定である。僕が思うにこの改定は、現代的焚書坑儒風教育とも言うべきものだ。以下のように、誰にでも分かる簡単な理由からである。何よりも、「実用的」「論理的」「文学的」と言う区分を普通の常識的思考・理解で考えてみれば分かることである。
新生児は、目に見え、手で触れるものの言語、その知覚、知識からまず発達していく。それが小学中学年になると、目に見えず、手で触れない物事の言語、知識で飛躍していく。そのころには「僕は何何しました。そして次にまたこれを・・・」等という文章をいくら長く細かく書き連ねられても良い作文とは言えず、接続詞、形容詞とか抽象名詞などがどんどん入ってこなければならない。こういう文章を因果関係に目を付けて書くのが「論理国語」の走りなのだろうが、こういう因果関係というのは、まだまだ目に見える世界に近いのである。例えば、「地面が全部ぬれているから雨が降ったのだろう」とか、小学校の算数とかは、まだまだ目に見える世界の範囲とも言える。
では、本当に目に見えない人間の世界とは、何か。その典型は人の心の世界だ。目に見え、手で触れる対象がない世界、学問分類でいえば、哲学、史学、文学など、人間文化を扱う世界である。「文学国語」らしいそれとはまさに、この人文科学領域の国語遣いを言うのであろう。心を表すどんな言葉も、目には見えないし、手でも触れない。「あれがまさに誠実を表す行動だ」などとは言えても、それで誠実という言葉が分かったことにはならない。ちなみに、旧制帝大以来の大学の学問は、この人文科学と、社会科学、自然科学の三分類があったはずだ。こうして、こんなことが言える。
論理国語がどれだけ優秀でも文学国語(の世界)に弱ければこうなる。営業が出来ない。組織を動かせない。力のある政治家にはなれない。そもそも、人育て、子育てさえ苦手になるはずだ。なお、このブログでも書いてきたが「国語科は学問であるか」というよく出る問いは、この世界のある部分の学問性を疑うものである。ちなみに、こういう問いの底深さは哲学上の大問題にも行き着いてきたものだが、それについてもこういう回答でたりると考えてきた。
文学国語の世界には数学のような答えが出ない問い、領域もあるが、それでも人はそれぞれの総合判断力によって蓋然性でも何でも、結論を出し、決断していかねばならない問題ばかりを抱えていくものである。進路、就職、職場の人間関係、結婚、子育て、離婚、・・・人生の重要なことこそ実は全て文学国語がらみである。他人を知り、自分を知る事を通して、人間に通じていくのは、文学国語を駆使していく作業そのものだと言える。
新生児は、目に見え、手で触れるものの言語、その知覚、知識からまず発達していく。それが小学中学年になると、目に見えず、手で触れない物事の言語、知識で飛躍していく。そのころには「僕は何何しました。そして次にまたこれを・・・」等という文章をいくら長く細かく書き連ねられても良い作文とは言えず、接続詞、形容詞とか抽象名詞などがどんどん入ってこなければならない。こういう文章を因果関係に目を付けて書くのが「論理国語」の走りなのだろうが、こういう因果関係というのは、まだまだ目に見える世界に近いのである。例えば、「地面が全部ぬれているから雨が降ったのだろう」とか、小学校の算数とかは、まだまだ目に見える世界の範囲とも言える。
では、本当に目に見えない人間の世界とは、何か。その典型は人の心の世界だ。目に見え、手で触れる対象がない世界、学問分類でいえば、哲学、史学、文学など、人間文化を扱う世界である。「文学国語」らしいそれとはまさに、この人文科学領域の国語遣いを言うのであろう。心を表すどんな言葉も、目には見えないし、手でも触れない。「あれがまさに誠実を表す行動だ」などとは言えても、それで誠実という言葉が分かったことにはならない。ちなみに、旧制帝大以来の大学の学問は、この人文科学と、社会科学、自然科学の三分類があったはずだ。こうして、こんなことが言える。
論理国語がどれだけ優秀でも文学国語(の世界)に弱ければこうなる。営業が出来ない。組織を動かせない。力のある政治家にはなれない。そもそも、人育て、子育てさえ苦手になるはずだ。なお、このブログでも書いてきたが「国語科は学問であるか」というよく出る問いは、この世界のある部分の学問性を疑うものである。ちなみに、こういう問いの底深さは哲学上の大問題にも行き着いてきたものだが、それについてもこういう回答でたりると考えてきた。
文学国語の世界には数学のような答えが出ない問い、領域もあるが、それでも人はそれぞれの総合判断力によって蓋然性でも何でも、結論を出し、決断していかねばならない問題ばかりを抱えていくものである。進路、就職、職場の人間関係、結婚、子育て、離婚、・・・人生の重要なことこそ実は全て文学国語がらみである。他人を知り、自分を知る事を通して、人間に通じていくのは、文学国語を駆使していく作業そのものだと言える。