九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

八十路ランナーの手記(384) 15キロ走った  文科系

2021年11月14日 09時05分44秒 | Weblog

 13日はジム(名古屋市の昭和スポーツセンター)でLSD、105分、15キロジャストを走って来た。僕として過去にほぼなかったはずのこれだけの距離を走って「明日も走れるな」という感触なのだ。ただし明日は、孫の付き合いで遠出をするから、走ることはできないのだが。
 僕の場合、ミッドフット走法よりもフォアフットの方が疲れないなと感じてきたが、こんな「どこまでも走れる感じ」を今日ほど得られたことはなかった。後の方60分ほどはほぼ8・8キロ時で通していたのに。

 この「疲れない」「どこまでも」は、フォアフット走法が板に付いてきたということだと解している。そしてこのフォアフットは、19年末からこの2年間苦労して身につけてきたミッドフット走法が「やっと完成したかな」という時のある日突然やってみて「使える。メリットも大きそう!」と分かったものだが、ミッドフット走法が出来上がると容易にフォアフットにも移行していけるのかも知れない。ミッドフットで地面をつついた時の衝撃をよりやわらげる様な走り方なのだから。

 とこうして、この13日には、11月月間目標140キロに対して72・5キロまで到達している。ジム4日、地面走りを2日でここまできて、1日平均12キロ走ったことになるし、1日15キロも楽に走れるようになったのだから、この140キロはもう達成できた様な気になっている。「12月もまた10キロ増やして、月間150キロ」
 
 ウオームアップ緩走行時間が20分以上必要などとどんどん長くなって体力そのものが急に衰えてきたかなという昨今、「後ろを蹴って跨いで走る走法」から「地面をつついてその反発力で走る走法」に換えてちょうど2年になる。こんなに長くかかるとは到底思えなかったという努力、苦労を重ねてきた分、今は本当に嬉しい時になった。まだまだ走れる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三氏は全体主義者  文科系

2021年11月13日 10時46分42秒 | 国内政治・経済・社会問題

 岩波の雑誌「世界」12月号に「異端者の政治 安倍政権試論」という論考があった。論者は朝日新聞政治部記者・二階堂友紀。僕がこのブログに書いてきた政治家安倍像と同類のモチーフで興味は深かったのだが、もっと明確に描き出せるはずと不満だった。二階堂はその異端ぶりを「情念の政治」という点に観ているのだが、その情念の中身、規定にもっと踏み込めるはずだという不満である。二階堂が立場上できなかったのかも知れないその踏み込みを、以下に試みてみよう。安倍晋三氏が、自民党最大派閥の会長に納まったこの時に当たって。

 二階堂は、どこからかこんなうまい表現を拾ってきて、書いている。
『「ドン・キホーテのような面がなければ歴史は動かない」「政治指導者には『狂』の要素が必要だ」「『使命』のある政治家と、そうでない政治家には絶対的な違いがある」。安倍氏の側近はよく、そんな宰相論を口にした』

 この「狂」、「使命」を二階堂は描き切っていないのだが、安倍晋三は近代政治理念を何も理解できていない1人の狂信者政治家にすぎないのである。近代政治理念が無視できてきたからこそ、狂信を温めてきた政治家と言っても良い。本気かどうかさえ疑わしいのだが、彼が持ち上げてきた日本会議のこんな文章を信じ、奉ってきた政治家なのだ。

『 125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。
 しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(「日本会議がめざすもの」から)

  この文章の中に、安倍の「狂」「使命」が全部入っている。この「歴史認識」「同胞感」こそ、「社会の安定を導き、国の力を大きくする原動力」だと言うのだから。この実現が政治家としての彼の使命と解すれば、「ドンキホーテ」も「狂」も初めて分かるというものだろう。

・彼は主権者の一部を「反日」と呼んでやまない。首相という公僕が、日本国の主権者を反日と呼べるわけなどないはずなのだが、そんなことも分からないのは、「天皇・日本主義」という「同胞感」にだけこの国を託しようという素朴極まる全体主義者だと解すれば、容易に理解できるはずだ。ただ、政治家としてのこんな態度、考え方は、狂っていると言うしかない。
・日本国権の最高機関・国会で嘘を連発してきたし、「関係していたら議員も辞めます」という国会答弁も簡単に投げ捨ててきた。野党の質問にはまともに答えず、関係ないことを長々と演説して答弁時間を潰してきた。民主政治の金言、「私は貴方の意見には反対である。が、貴方の発言権は命を賭けても守りたい」と正反対の態度だが、これも素朴極まる「同胞感」全体主義者の態度なのだ。大学では政治学を学んだそうだが、彼は全体主義というものが国民を巻き込んだ場合の行きつく先の怖さは学ばなかったのだろう。

 ただし、安倍晋三氏ご自身が、本当にこういう同胞感を持たれ、この力を信じているのか。これ自身も、僕には疑わしいのである。真にこれがあるならば、拉致問題も北方領土問題ももうちょっと早く解決できていたと、そんな気がする。それとも、この「同胞感」でさえも「ヤッテル振り」なのか。反対者に対する平然たる嘘八百やごまかしなどのあの「人を人とも思わぬやり方」には、普通のヒューマニズムが持っているはずのシリアスさが毫も感じられないからである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 『人新世の「資本論」』、その概要  文科系

2021年11月12日 08時22分01秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 

 このベストセラー本の内容紹介を3回にわたってやって来たが、最後に標記の通り、全体の概要を粗い箇条書きにしておきたい。

①今までのマルクス解釈は生産力至上主義であった。いわゆる生産力が生産関係を換え、この経済転換が上部構造を変えていくという命題を絶対視して、資本主義生産関係の様々な政経的諸悪現象などを指摘、批判する政党が政権も取ることができて、まともな生産関係も生みだすことができるというように。こういう考え方からは、(現に生産力が発展していた)西欧中心主義や、政治主義という特徴も出てくることになる。

②人類による地球破壊、地球環境問題、これに対するグリーンニューディール政策への期待などにも、世界的な需要拡大という形で生産力至上主義が顕れている。左翼やリベラルの間にさえ、気候ケインズ主義があるのではないか。資本主義のままで地球破壊が止められるというのは、幻想である。いまでも、地球荒廃のしわ寄せが南部に行き、先進国には見えにくくなっているだけだ。

③晩期マルクスは、資本論2、3巻の研究・構想途中で亡くなったが、世界中の農村共同体などの研究を通じて、生産力至上主義から脱皮しつつあった。その考え方によれば、今の「人新世」世界を止められるという意味で求められている方向は、脱成長コミュニズム(コモン、社会的共有財を、資本所有に抗してそれらしく確立し直していくこと)である。これには、五つの柱がある。①使用価値経済への転換、②労働時間の短縮、③画一的な分業の廃止、④生産過程の民主化、⑤エッセンシャルワークの重視。具体的なこれの形は、今世界に広がり、結びつきつつある地産地消の生産消費共同体とその世界的結合、およびそれが作る政治である。

④この典型例は、バルセロナ市。リーマンショックのあおりをまともに受けて失業率25%というスペインの苦境から、労働者協同組合を中心にしてこんな形で復興している。生協、共済、有機農産品グループなど無数の協同組合がこれと結びついて政党を作り、その政党が2016年に市長選挙に勝利した。そして同時に、「人新世」の被害をまともに受けている地球南部(アフリカ、南米など)の77諸都市と世界的連携を取りあっている。これらの諸都市は特に、グローバル企業によって民営化されてしまった水道事業を公営化する運動などに知恵を寄せ合っている。他にも、1993年から中南米に打ち立てられて来た国際農民組織、ヴィア・カンペシーナは全世界約2億人と関わりを持っている。これらの運動は、食糧主権と気候正義を柱としているが、南ア食糧主権運動もその典型の一つだ。飢餓率26%である上に、ポルトガル一国と同じ量のCO2を出すあるエネルギー資源企業を持った国だから、食料輸出が問題になっているのである。

 

(なお、三回に分けた「各章概要」というより詳しい要約が、当ブログにあります。2月21、22日、および3月1日に)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 「孫はなぜ面白くて、可愛いか」  文科系

2021年11月12日 00時43分38秒 | 文芸作品
 
 「じい、今日は満月なんだねー、いつも言うけど本当に兎がいるみたい……」。
 小学三年生になったばかりの孫のはーちゃんがしばらく夜空を仰いでいたが、すぐにまた「馬跳び」を続けていく。綺麗に整備された生活道路の車道と歩道とを分け隔てる鉄の棒杭をぽんぽんと跳んで行く遊びで、俺はこの光景が大好き。確か、四歳ごろから続けてきたものだが、初めはちょっと跳んで片脚だけをくぐらせるような下手だった……。我が家から五百メートルばかり離れた彼女の家まで送っていく道の途中なのだ。それが今では、学童保育に迎えに行って、我が家でピアノ練習、夕飯、宿題の音読に風呂も済ませて、俺は一杯機嫌で送っていく日々なのである。こんなことを振り返りながら。

 学童保育でやってくる宿題や、音読は好きだからよいのだが、ピアノ練習は大変だった。これがまた娘も俺も、勉強以上というか、ここで勉強の態度もというか、とにかく物事に取り組む態度を身につけさせようとしているから、闘争になってしまう。憎しみさえ絡んでくるようなピアノ闘争だ。はーちゃんは娘に似て気が強く、『嫌なものは嫌』が激し過ぎる子だしなー。ピアノの先生の部屋でさえ、そう叫んであそこのグランドピアノの下に何回潜り込んでしまったことか。そんなふうに器用でも勤勉でもない子が、馬跳びや徒競走となるとまー凄い執念。
と、最後を跳び終わった彼女が、ふっと、
「じいが死んだら、この馬跳びやお月様のこと、きっと良く思い出すだろうね」
 俺が死んだらというこの言葉は最近何回目かだが、この場面ではちょっと驚いた。死というのは俺が折に触れて彼女に口にして来た言葉だから?またこの意味がどれだけ分かっているのか? などなどとまた考え込んでいた時、「孫は、何故これほど面白く、好きなのか」という積年の問題の答えがとうとう見つかったような気がした。
『相思相愛になりやすい』
 一方は大人の力や知恵を日々示し、見せる。他方は、それに合わせてどんどん変化して行く姿を見せてくれる。それが孫と爺であってみれば、それまでの人生が詰まってはいるが寂しい晩年の目で、その人生を注ぎ込んで行く相手を見ているのである。これは人間関係に良くある相思相愛の良循環そのものだろう。これに対して、あのピアノには明らかに悪循環がある。憎しみにさえ発展していきかねない悪循環。という所で、ふっと気づいたのが、その証明のような一例。最近小学四年生だったかの女の子をDVの末に殺してしまった父親はどうも典型的な教育パパだったようだ。教育パパが転じて憎しみの権化になる。そう、俺らの良循環とピアノの悪循環は、あの父と子の悪循環と兄弟なのかも知れない。だから、思春期の子どもに起こって来るものと昔から言われてきた激しい家離れ、家への憎しみも、この兄弟の一方・悪循環の結果でもあるのだろう。「可愛さ余って憎さ百倍」、俺にもあった激しい家離れ、家への憎しみの時代を思い起こしたものだ。

 さて、以降の俺は、激しいピアノ闘争の後などに度々こう付け加えることになった。
「いつも言ってきたように僕ははーちゃんが大好き。だからこそ、貴女にとって大事なこととママたちと話し合って来たことをさぼると、特に強烈に、怒るんだからね」
 でも、このやり方が思春期まで成功するとは到底思えない。ゲームとか動画、録画とか、成長期にやり過ぎてはいけないものが今の世には溢れ過ぎている。今の子育てに、我々年寄りは何て不向きなんだろうとも、度々悩んできたところだ。

さて、こう言い続けてきたせいか、あるいは彼女がそういう年になったということなのか、暫くしてこんなことが起こった。自分からピアノに向かうようになったし、その時間も長くなった。そして、先日のピアノ・レッスンに久しぶりに俺が頼まれて連れて行ったのだが、初めてという光景を見ることになった。先生のいつにない静かだが厳しく、長い小言を我慢して聞いているのである。ピアノの下に潜っていかないか、トイレに逃げ出さないかと俺はハラハラしていたのだが、結局頑張り通した。そして、終わった後、帰りの車で静かに泣き出した。そう、これがちょっと大人に近づいた涙。これからはこれを一杯流して、素敵な大人、人間になってゆけ……。などと思いながら黙ってその横顔を見ていたら、俺も涙ぐんでいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 「俺の自転車」  文科系

2021年11月11日 14時34分24秒 | スポーツ
 
 今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近くランニングしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする時、連れ合いがよく口に出す言葉がある。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミアドスキンとやらの特上物なのである。なんせ、俺の人生初めてにして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に凄く愛着を感じる質としてはこの上ない幸せの一つである。よほど生地が良いらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じること。とこんなことさえも、自転車好きの一因になっているのだろう。

 初めて乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だった。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 上の息子が小学生になって、子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川をほぼ最上流まで極めたこともあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時には、文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、子ども等のあの光景! この元旦サイクリングと天白川極めとは、今でも度々思い出す俺の人生の幸せハイライトだ。元旦の川岸や平野の向こうなどに四人で観入った日の出も!
 
 この頃を含む四十代には、片道九キロの自転車通勤もあった。この距離をロードレーサーでほぼ全速力するのだから、五十になっても体力は普通の二十代だ。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五十近くになったころのこと。知多半島から伊良湖岬先端までのフェリーを遣った三河湾一周では、豊橋から名古屋まで国道一号線の苦労も加えて、確か走行距離百七十キロ。一回りよりもさらに下の今は亡き親友と二人のツーリングだった。
 その頃PTAバレーにスカウトされて娘の中学卒業までこれが続けられたのも、その後四十八歳でテニスクラブに入門できたのも、この自転車通勤のおかげと理解して来た。ただ、高校、大学とクラブのレギュラーだったバレーボールはともかくとして、テニスは最後まで上手くならず、その後はトラウマになったほど。なんせ今でも、絶好のボレーを失敗した場面などが悪夢となって出てくるのだから。

 さて、五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物になった。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな逸品である。車体のクロム・モリブデン鋼フレーム・チューブなどは非常に薄く作ってある割に、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色の車体への装着部品は、シマノ・デュラエースのフルセットだ。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。このロードレーサーが、先日初めての体験をした。大の仲良しの孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのツーリングに出かけたのである。その日に彼女が乗り換えたばかりの大きめの自転車がよほど身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十三キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいじのは、ゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」、「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか!「私もいつかそういう自転車、買ってもらう!」と、そんなこんなで、この月内にもう二度ほどサイクリングをやることになった。片道二十キロ弱の「芋掘り行」が一回、ハーちゃんの学童保育の友人父子と四人のが、もう一度。芋掘りは、農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になるのだが、彼にも六歳の女のお孫さんが同居していて、今から楽しみにしているとか。

 残り少ない人生になったが、まだまだこんな場面が作り続けられるだろう。そして、ランナーで居られる間は、続けられると考えている。自転車で作った体力が退職直前になってランを生んで、退職後はランが支えている俺の自転車人生。
 
 
(2018年10月の同人誌冊子に掲載した作品です)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(383)フォア・フットで疲労度減  文科系

2021年11月09日 00時44分51秒 | スポーツ

 標記の様な目に見えた成果があった。中1日休養は最低必要としてきたし、ジム・マシンでもほぼ10キロ内だった僕のランニングが、この11月に入って急に変わってきたからだ。2日にジムで12・2キロ、4日は同14・0キロ、7日には地面を走って10・2キロと来て、8日にもジムで10・6キロ。2日続きで走った8日夜にこれを書いているわけだが、明日も十分に走れる感触なのである。気分が良いから、多分走りに行くだろう。と思ったら、明日は同人誌のある仲間と金山のイングリッシュパブで飲むんだった。それも、昼間の12時からとあって、残念。

 これで11月に入って合計47・0キロだから、月間目標140キロ達成も当然悠々ということになる。この悠々が、9月から月間距離目標を持って走行距離を伸ばしてきた成果という以上に、フォアフット走法の取り入れがもたらしたものと理解している。その理由はなによりもこのこと。
 従来のミッドフットに比べてホアフットの方が、地面つつきの衝撃が少ない(のに地面からの反発力という効果は変わらない)から疲労度も少ないのである。足裏前部で軽く地に触った瞬間に踵とアキレス腱をトーンと弾ませる走法だから、弾ませる入力が最低限に加減できるのである。また、このやり方だと、僕の様に左右の脚に不規則性の癖があればそれがすぐ自覚しやすいというメリットもある。これは僕の場合つまり、身体の構えや腕振りなども含めて、この新しい走法にあったよいフォームを求めやすいということなのだ。

 加えてさらに、スピードアップの感触もある。ウオームアップ時間がどんどん長くなって20分も必要になるなど体力自身が弱ってきているのに、8日などは久しぶりにマシン9・5キロ時でも15分は走り続けることができていた。もう30分でもこれで走れる感触を得たが、今やっているのはあくまでもLSDだからということで流してきたのである。だからこそ、明日も走れる疲労度に留められたということだ。

 こういう時って、毎日走りに行きたくなる、スポーツをやっていて最大に楽しい時だ。19年末から2年間苦労してリアフット(跨ぎ走法)からミッドフット(地面つつき)走法に換えてきたその成果で、スポーツによくある質的変化の時期を迎えたということらしいから、特に楽しいのだ。しかもこういう僕は、この5月から新米の「八十路ランナー」。 
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「嘘も言い続ければ・・」という安倍政治手法  文科系

2021年11月08日 18時16分02秒 | 国内政治・経済・社会問題

 安倍政治のこの手法は、どれだけ大声で言っても言い足りない。

 安倍晋三の政治宣伝手法は、嘘も百回言い続ければ・・という昔ながらの「嘘八百大量スピーチ法」。流石に、桜、モリカケで、計数百回のうそを重ねてきた御仁。それもこともあろうに、この数百回の嘘連発を国権最高機関・国会でやってきたのである。なぜか? 国会で嘘を語り続ける意味が理解できなかったのだと、ごく単純にそう僕は観ている。

 「アベノミクスは就業率を高めた」「悪夢の民主党政権時代」といまだに語り続けているのも、この同じやり方なのである。民主党政権はリーマンショックの直後に発足した。百年に一度と言われた世界経済危機の直後なのだから、どこがこの赤字をひっかぶったのか分からない時代だったのだし、日本もすべてに於いて苦しかったのは当たり前で、その後回復していくのも当然のことだったのである。その負債をすべて民主党のせいにして、そこからの自然回復をすべて自分の手柄にしているわけだ。

 だからこそ、これで経済の手柄を語れる?という数字も当然存在する。国民一人当たり購買力平価GDPや、国民平均賃金がどんどん下がって来て、世界30位とかになってきた。ようやく世の中に知られ始めたこのことを、自己弁護するために、こう語ってきたのである。

「アベノミクスは就業率を高めた(のだから、給料が多少安くなったとしても良いではないか)」という文脈なのである。

 こんなのが自民党最大派閥の実質的ボスというは、日本の恥である。日本政治をこれだけ汚してきた人間が、その口で言う「美しい日本」って、一体何か? 「日本政治の恥」が使う資格のない言葉だろう。安倍政治とはこうして、ポピュリズムや「パンとサーカス」以下の恥知らず政治というものである。このことはどこまでも言い続けなければならない。よって、例えば赤木雅子さんの裁判は、日本を美しくする裁判。どうしても勝利すべきものである。雅子さん、頑張れ!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(382) フォア・フットで快調に  文科系

2021年11月08日 01時16分20秒 | スポーツ

 4日にジムで14キロ走った後、中2日置いた7日には外走りで、10・2キロになった。ウオームアップ緩走2キロ強をもここに含むランニングウオッチ記録でキロ平均6分52秒、ストライド87センチ、心拍数147bpmとあったから、僕としてはかなり頑張ったことになる。が、今はそれでも明日も走るつもりになっている。その程度の疲れ具合ということだ。それは多分、今月から取り入れ始めたフォア・フット走法のお陰だ。この7日までの11月合計が、36・4キロまで来ていることも含めて。これで明日と10日に走れば、そこまでで60キロ近くになるから、月間140キロ達成も見えている。これも、フォアフットのお陰のようであり、僕の場合特にメリットが高い理由があったようなのだ。こんなふうに。

 この走法を新たに取り入れたお陰で、自分の以前からの走法欠陥、不合理な点がかってなく鮮明に自覚されて、その修正がほぼ完成に近づいて来た感がある。2年かかってリアフットからミッドフットに換えてきたなかでこの自覚・修正が進んできて、今完成し始めたと、そんな感じがする。

 その欠陥とはこういうものだ。右のストライドの方が長く、その着地時間も長い。歩き方、その姿勢からしてそうだった。だから当然、右腰の移動が大きく、身体もうまく使えない走り方をしていた。これが先ず、2年越しのミッドフット走法への転換苦労から、次第次第に自覚・修正され始めた。ミッドフットで「地面をつつく走法」練習から、右の着地時間が長いことがよく分かり、修正してきたということだ。でも、歩き方までそうなっている「悪癖」は身体全部を狂わせているのだから分析も修正もなかなか容易じゃないという、そういう苦労を重ねてきたわけだ。同じある日の走行時に全く同じように走っているつもりでも、タイムが全く遅い時があり、すぐにあれこれとやってみるという調子だった。そのあれこれのポイントが、次第に(上記の)悪癖の根源に迫っていくことになったのだろう。結局、両脚(足も)を前に出した時の場所、形と時間を「同じにする」しかないのだが、つま先から地面に触るフォアフットがこの修正次第を最も鮮明に見せてくれることになったのだと思う。

 「右足を外側の方へ離陸させる」「左脚の地面つつきを強めにしつつ(疲れている時は逆に、右脚のつつきを弱めつつ)、左足を右足延長線近くに持ってくる」「左腰をいつも前目に構える」などが、僕の場合の修正ポイントなのだ。これらができていれば、僕の場合の上半身修正は少ない注意で済むということもわかってきた。
 
  今日の最後はこのこと。ジム走りの方が外走りよりも、走りの自覚・修正がしやすい。進路などの走行環境への注意が不要だからだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(381) 快調、フォア・フットに改変  文科系

2021年11月06日 00時46分13秒 | スポーツ

 9月の月間目標初設定120キロを走って、10月は10キロ増やして130キロを何とか達成。11月の月間目標は140キロ。その最初が肝腎とばかりに、2日、4日と12・2キロ、14キロをジムマシンで走った。僕としては、ジムマシンでもあまりないような距離を中1日置きの2日続きでやれたのは、2日に見つけたフォアフット走法のお陰のようだ。この距離をやって翌日に疲れも残らないから、1日置きで十分過ぎる以上に走れたのだし。なお、息が弾みやすいご老人の僕のフォアフット様態は、この通り。
①上半身を立てて臍から前に行くような緩い前傾姿勢で腕を軽く振って、ストライドをあまり広げずに膝から脚を出す。
②膝下が地面に直角になる寸前に足前部で地面に触れるのとほぼ同時に踵をトーンと落としてアキレス腱を弾ませ、その時生じる地面からの反発力で、素速く離陸して腰を移動させる。離陸時の後ろ足はほとんど蹴らず、親指で地面を撫でる程度。

 この走法はなんせ、以前のミッドフットよりも心拍数が少なくて済むと、4日に発見した。僕の一定持続最高心拍数は160ちょっとで、以前は8キロ時140ほど、9キロ時150弱で、10キロ時は160弱だったのが、フォアフットだと各5以上下がってきて8・5キロ時でも140を切る時が多いのだ。着地の衝撃や時間が少なくて、力が少なくて済むからだろう。おまけに、ピッチ数もかなり自由にできる感じだ。ただ、その日この走法に慣れるまでちょっと時間と気を使っている分、もっと脱力して楽に走れるようになる感触があるし、外走りではこんなに易しくはないだろうと思っている。

 そもそも先ず、立てた上半身の軽い前傾が前提になるが、これがまだ案外難しい。立った上半身を臍を前に出すように軽く前傾して進む姿勢もフォアフットはやりやすいのだが、慣れの問題があるのだろう。これに慣れないと、両腕をよく振ることを忘れたりしている。これを忘れると体幹や腰回りに余分な力が入って疲れるのだが、それに気づけばちゃんと腕が触れるから、そういう合理的なフォームなのだ。腕がちゃんと振れれば、強さが違う僕の両脚(左脚が弱い)のリズムも揃ってきて、その時は調子よくて、快調、ご機嫌で走っている。

 外走りをやってみればまた少々勝手が違うのだろうが、脚、膝を意識して前に出さず、地面ツツキを推進力とするミッドフット走法を2年間苦労して身につけてきたのだから、もうそんなに苦労はしないはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米中どっちが「反戦」か?  文科系

2021年11月05日 11時05分56秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 この10月30日エントリー『右流「戦争論」「国防論」はこう誤っている』に、こういうまとめを書いた。

『戦争論、国防論を巡る、右翼論調の誤り、盲点について述べてきたことを改めてもう一度まとめておく。
① 人間に、戦争を起こす生来の気質、闘争本能のようなものはない。ましてや、この類の議論で国家の戦争を説明するどんなやり方も、社会ダーウィニズムという学問的誤りとされた。
②すると、戦争を巡って人類が考えるべき対象は、 戦争をめぐる人類史だけである。そこでは、一例「サピエンス全史」(ユバル・ノア・ハラリ著作)が明らかにしたように、国家や大統一国家の警察権や監獄が現れて来るにつれて、内乱や戦争はどんどんなくなってきた。そして20世紀には、国家総力戦の惨劇を反省して、人類史上初めて反戦国際組織も生まれている。近代統一諸国家の国家警察権が国家内乱防止に繋がったように、国連警察権に戦争廃止が期待できる人類史時代入ったと言える。
③ なお、この議論に一言。「戦争はしないけど、戦争抑止力として軍隊は必要だ」。この手の論者にはある共通性がある。②を語らないのだ。これは人類のありうる未来に向かった議論としては、国家警察を語らず、各県警察だけを語っているようなもの。徳川幕府の国家統一、警察権の統一が、日本300年の平和と世界先進的繁栄をもたらしたことを日本人はよく知っているはずなのだが。
④ ちなみに、歴史的現在に於いて国連を無視することが急に多くなったアメリカが、世界平和に関わっては国連警察軍一本で行くと決めたら、世界はすぐにそうなるだろう。そうならないのは、この世界でアメリカこそがもっとも戦争放棄を避けたいからではないのか。これは、アフガン、イラクへの開戦、ベネズエラやイランへの戦争脅迫が示してきた通りである。平和憲法を持つ日本は、そんなアメリカとともに国防を図るのではなく、国連とともに図る道を求めていくべきではないか。』

 

 さて、この上の諸点について中国はどうなのでしょうか。明らかに、こう語っています。「戦争はなくせる」「そのためには、国連に結集することだ」「わが国は常駐の国連警察部隊を、特に今は、アフリカに常備部隊を創るべきではないかと提案したい」などと。これについて2015年9月30日の当ブログ、拙エントリーで習近平が国連演説・提案をしたというニュースを報告しています。

【 習近平・中国国家主席が国連で世界政治に関わって以下の提案をした。「中国は永遠に覇権を求めない」という説明を付けての提案だった。

①10年間で10億ドル(約1200億円)規模の「(国連)平和発展基金」を創設
②『中国が国連の新しい平和維持活動(PKO)即応体制に加わり、常駐の警察部隊と8000人規模の待機部隊の立ち上げを主導する』
③今後5年間でアフリカ連合に総額1億ドルの無償軍事支援を行い、アフリカの常備軍と危機対処部隊の設立を支持する
(中略)  
 これに対する日本マスコミの声は、例によって「中国脅威論」への見せかけ対策だろうというもの一辺倒だが、西欧からはこんな評価の声も聞こえていた。

 アメリカ合衆国政府が運営する国営放送であるボイス・オブ・アメリカは、こう述べている。
『習主席の発展観はオバマ大統領のものとは異なり、発展を強調し、かつ中国の発展方法を世界の舞台にもたらそうとした。この発展観は、非常に合理的なようだ』
 ドイツのウェブ・サイトでも、
『中国はソフトパワーを示した。習主席が国連に登場し、中国が今回の国連総会の主役になった。中国は大国として、国際事業に参与している。西側諸国は戦略を変え、国際事業で中国との協力を増やしていくべきだ』

 世界メディア・クオーツも、こう伝えている。
『習主席は国連総会に出席し、中国の考えで国連を構築しようとした。1971年に国連の合法的な議席を取り戻し、安保理常任理事国になった中国は、これまで拒否権を9回しか発動していない。同じ期間内に、米国は拒否権を78回、英国は24回発動した。中国の9回のうち6回は2000年以降に発動された。これは中国がより自信あふれる世界の大国になったことを示している』 】

 

 さて、この状況なら30日拙稿の上記④のとおりに、アメリカさえ国連警察軍に合流すると決めれば、日独も賛成するでしょうからすぐに国連警察が各国を結集した大部隊にできるでしょう。こうして、人類悲願の「戦争絶滅」、「各国軍隊放棄」は意外とすぐ目の前にあると僕は思うのですが、なんで今、「日本軍をGDPの2%まで大きくする」などとアメリカに約束したというニュースが、彼方から流れ出てくるのでしょうか。しかも、この相手、つまり「GDP2%」目指した日本軍の仮想敵として、こういう提案をしている中国がどんどんクローズアップされているのです。中国はその後もこの提案を表明し続けていますが、このことは日本ではほとんど報道されていません。対して、聞こえてくるのは、明らかに中国を念頭に置いた「敵基地・先制・攻撃論」だけなんです。僕には、アメリカサイドのニュースだけに日本マスコミ工作が成されているとしか思えません。日本国民はいつまでアメリカ軍産複合体の戦争政治、米製兵器購入を許していくんでしょうか。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

右翼国家論のある偏見  文科系

2021年11月04日 09時11分46秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 これは、2015年にある所に書いたもの。右翼思想、その国家論の本質の一つとるに至ったものです。しかも、こういう偏見を持っている人には、この論議の決着を経ないと他のどんな政治話をやっても入っていかないような論理的な壁になっているもの、とも。さしずめ安倍首相や日本会議議員などは、みな以下のように考えていると観てきた、そんな偏見だと考えています。
 ちなみに、日本でこういう思想を初めて体系化して語ったのは、明治期の東大総長、加藤弘之。戦前の天皇制国家論の理論的な柱の一つでした。では・・・


 あるブログの共同運営を大学時代からの友人に頼まれてかっきり十年やってきたが、そこでいろんなネット右翼諸氏とやりあってきた。ブログ名称に「憲法九条」が入っているゆえなのだろうが、こういう方々の訪問が絶えなかったからだ。たとえば、
『平和を願い、母国を愛する一未成年から反論させていただきたい。…………以上、反論があれば随時丁重にお返しさせていただく故、フェアに品のある議論を望む』
 これは「平成の侍」と名乗られたお方がこの八月十九日に僕の文章に寄せてきた長文コメントの前後だが、たった一回僕が出した回答に対して、もうお返事が何もなかった。僕の文章内容が彼が考えたこともないようなものだったから再回答のしようがなかったのであろうが、はてこれは「フェアに品のある議論」であったのかどうか、難しいところだ。
 こんなふうに知識も思考力も様々な方々を相手にしたこの十年、実に多領域の勉強をさせられたし、いろいろ考えさせられつつ今日まで来た。慰安婦問題は明治維新以降百年の日朝関係史学習にまで拡がっていったし、南京虐殺や「連合国史観」は「アジア・太平洋戦争史」の復習に繋がった。こちらが学んでいくごとに「これだけ稚拙な知識しかない相手が、どうしてこれだけ自信ありげに頑張れるのだろうか」と気付き始めた。その度に訝り、考え込んで来たのがこのこと。これだけ確信ありげに語るのは、世界も狭いからというだけではなく、自分を納得させ、確信させる信念を何か持っているからだろうが、それって何なんだろうかと。これらすべてにおいて、同じ人間という生き物に、どうしてこれだけ見解の相違が生じるのだろうかと、そんな哲学的問題意識をも温めつつ、相手の言い分を観察してきた。
 そこで最近になってようやく気付いたのが、これだ。

 米国は実体経済がIT産業ぐらいしかない。サービス業ばかりで、相対的貧困者と格差が大問題になっている先進国である。サブプライムバブルや九年にも及ぶ紙幣大増刷・官製バブルなどなどマネーゲームで儲けて、日本やBRICS諸国相手の現物貿易収支大赤字をその分カバーしている。がこの国、戦争が流行ればその苦手な現物経済もなかなかの物なのである。兵器産業でいえば世界ダントツの実力があるからだ。貧乏な国、地域には、本来廃棄すべき多量の中古品などの廃棄料が収入に転化する。日本や石油成金国などには第一級の高価な最新兵器などなど。世界のどこかで戦乱が起こるほどにこの商売はいつも大繁盛だ。

 ところで、戦争は無くならないと語る人は当然、こう語る。「国が滅びないように、国土防衛が国として最大の仕事」。こういう人々が世界に増えるほど、貿易大赤字国の米国は助かる。いや、助かるという地点を越えて、今の米国は「テロとの戦い」とか、以前なら「共産主義との戦い」などなどを世界戦略としているからこそ、地球の裏側まで出かけていったりして、あちこちで戦争を起こしているのである。まるで、人間永遠に闘う存在だという世界観を広める如くに。失礼を承知で言うが、「人間必ず死ぬ。貴方も間もなく死ぬ」と大いに叫べば、葬式屋さんが儲かるようなものではないか。

 さて、戦争違法化が、二十世紀になって世界史上初めてその国際組織と法が生まれたりして着手されたが、地上から戦争はなくせるのだろうか。この問題で極めて簡単な正しい理屈が一つある。戦争はずっとなくならないと語る人は「その方向」で動いていると言えるのだし、なくせると思う人はそういう方向に「参加していく」のである。つまり、戦争が未来になくなるか否かという問題とは、人間にとって何か宿命的に決まっているようなものではなく、今及び将来の人間たちがこれをどうしようと考え、振る舞うだろうかという実践的な問題なのである。世界の政治課題というものは、人間が決めるものだと言い換えても良いだろう。ところが、人間が決めるものだというこの真理を意識せずして否定する以下のような「理論」に最も多く出会えたのだと理解してから、僕の頭はすっきりした。
 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論がある。その現代版亜流の世界観が存在するようだ。「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」。この理論で言えば夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。
『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』
 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識の出発点なのである。最近、そう気付いた。対案はこれしかない。「二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれたではないか」などの歴史的事実と戦争はなくせるという世界観とを広めていくこと。その実を例え少しずつでも、粘り強く作り広げていくこと。

 以上ありふれて見えるようなことを書いたが、正面からは案外批判されてこなかった誤った戦争に関わる信念が巷に溢れていると言いたい。この日本には特に広く。集団主義ムラ社会の中で激しい競争を演じてきた団塊世代以降では、自然に持つ世界観なのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(380) フォアフット走法なのか?  文科系

2021年11月03日 00時25分14秒 | スポーツ

  10月の月間目標130キロをやっと超えられたのは、生まれて初めて31日まで3日連続で走ったその成果。そもそも、この初めての三日連続走り自身がもう、月間目標設定・達成の成果なのかも知れないという、そんな相乗作業成果なら嬉しい。それから1日おいてこの2日、ちゃんと90分で12・2キロ、ジム・マシンを普通に走ってきた。この程度の3日連続なら1日休めば普通に走れると分かったのも、今後の目標達成に向けてはとても大きいことだ。というこの11月2日、極めて大事らしい「気づき」があった。前から気になっていたフォア・フット走法なるものが自然にできてきたような気がするのである。その形、僕にとっての価値などを書いてみよう。

 ちなみにまずこのこと、僕がこれを見つけたのは、こういう次第からだった。
 2年かかって身につけた「前脚を伸ばして地面をつついたその反発力を主たる推進力にして、重心を高い位置で移動させて走る」というのは、もちろんミッド・フット走法。つまり、地面をつつく時に足裏全体でポーンとつつく。ただ、左脚が弱い僕の場合は、一瞬で地面をつつく力によって決まる左右のストライドが一定せず、これにずっと苦しんできた。これを具体的に言えば、「左右の足の置場が不安定」だったということ。ずっと苦しんできたこれがほぼ安定して来た今日、試みにこんなことをやってみたのだが、力の入れ具合、弾んだ感じや安定感など、極めて調子が良い。ストライドは今まで通りで、前足の前部分から軽く、やさしく着地して(着地というよりも、足裏の前の方で、体重は乗せずに、つまり腰が落ちる寸前に、地面を触って)、その瞬間にカカト、腰をトーンと下ろして「地面つつき」をやる。すると、地面をつつく力の入れ方、一瞬の入れ時が分かりやすく、腕など上半身の「使い所」も分かりやすくなって、いわゆる「ランニングらしい弾んだ感じ」が持てた上に、初めての走法にしては疲労感も少なかったのである。現に、90分で12・2キロ走れて、明日も十分走れるという今の感じがその証拠になる。このやり方は僕にとっては何よりも、前脚の置き場所をより正確にしてくれて、一定したストライドなど、より合理的に地面をつつく力が発揮できる感じなのだ。

 と気づいてから、家に帰ってフォア・フットの色んなサイトを覗いてみたが、例によって随分いー加減なものもある。例えば、キプチョゲをフォアフットと解説した動画があったが、彼の場合は異常な前傾姿勢によるストライドが大きすぎて、形の上では明らかにミッドフット以下なのだ。つまり、カカトから「軽く」着地した直後にフラットな足裏にしたその瞬間に地面つつきをやっている。この走りはもっとも、僕が上で言う「足裏の前の方で、体重は乗せずに、つまり腰が落ちる寸前に、地面を触って」「その瞬間にカカト、腰をトーンと下ろして地面つつきをやる」というのと原理は変わらないのかも知れない。その原理というのはこういうもの。前脚着地の瞬間にいきなり地面をつつくのではなく、腰が落ちる前に足のどこかで地面を触り、その直後に足裏全体でアキレス腱を利かせた「地面つつき」をやる、と。いきなり着地よりも衝撃や力が少なくて済んで、腕の振りなど上半身をも含めて、身体各部の最小限の力を探しやすいということではないか。

 なお、僕が最も気に入ったフォアフット解説はこちらだ。
https://yolo.style/running-style/article/615858/

 走法にまた有望な研究課題ができたって、これが、スポーツの大きな楽しさの、一つ。この走法は今まで以上に全身を使い、違う筋力が要るとすぐに分かったが、長い自転車歴や近年では階段往復を重ねてきた僕だから、何とかなるとも実感したところだ。そもそも、この2年のリヤフット走法からミッドフット走法への転換で重ねた苦労もそのまま生かせるに違いない。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京大虐殺の経過、史実  文科系

2021年11月01日 11時54分11秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 

「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」

 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

『 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日 

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。 

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(379) 10月も130キロ走れた  文科系

2021年11月01日 00時07分03秒 | Weblog

 9月からランナーらしく月間走行距離目標を初めて作って120キロとし、121キロ行った。10月は130キロとしたのだが、31日ぎりぎりに134キロ。それも、29~31日と3日連続で24キロ(8キロ前後×3日)走ってやっとのこと。なかなか苦労の多いことだったが、当初定めた目標設定法通りに11月も10キロ増やして、140キロを目標としたい。月10キロずつ増やして、どこまで行けるかというそんな趣向を初めに思いついたのだから、この調子で一度は行けるところまで行ってみようと思っている。こういうランナーらしいやり方を採れば、急に衰えてきたと感ずる走力を少しは回復できるかなーとか、淡い期待もあっての発想なのだ。ただ、スピードを落としさえすれば初体験の3日連続の24キロを無理なく走れることも分かって元気が出てきたのである。

 さて、この10月は、15日走ったことになる。その内訳は、外走りが7日、ジムが8日だ。9月も13日走って僕としては多かったのだが、月15日も走ったのは間違いなく初めてのこと。はじめてやったランナーらしい月間目標設定がなせる技である。達成月間目標がどこまで行くかという興味も含めて、結構楽しんでいて、これが思いもしなかった楽しみだと気づけた。

 さて、こういう10月だったから、いろんな学びがあった。
①何よりもこの事。タイムを取るため最高スピードを持続する日は、多くとも月に2回程度としたい。そうでないと、その後最低2日は間を置かねば「普通並み近くの調子」にさえ戻らないことが分かったのである。
②僕のランニングフォームはまだまだ不安定、不合理である。2年前から始めた走法変更以前からそうだったと、最近になって認識した。その頃も走力に大きなムラがあったが、その原因が右足の着地時間の長さにあって、さらにその原因が左脚の弱さ、ストライドの短さにあったと。2年前もこれを感じてはいたが、この2年の走法変更を経て今改めてこれが重大なことと発見し直している。
③ ②への僕なりの対策は何度も書いてきたが、こういうもの。右足の膝下振り出しを少なくする。左足が外に流れぬよう、その着地点を右足の延長線上に近づけ、疲れぬ程度に「地面つつき」を強める。

 さて、以上の留意点を正すことができれば僕現在の場合は、スピードも距離も伸びると思う。意識してこれができているときは9・5キロ時ほどで5キロは走れる感じになっているのだから。それ以上長く走ろうとすれば時速8・5キロぐらいになるが、それでも先ず20キロは可能ではないか。というそんな左脚強化トレーニングを重ねれば、はて、フルマラソンが可能なのか? というところで思うのが、これ。フルマラソンの切り捨て・制限時間には全く不案内なのだが、5時間という大会があるのだろうか。 
 と、なんやかんやを語るよりも、とにかく一度、走れるだけの距離を走ってみよう。と、そんな楽しみまで湧いてきたのは、月間目標を定めて2か月やって来たその成果なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする