たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

日生劇場にオーケストラの音色が響いていました

2020年10月17日 22時19分21秒 | ミュージカル・舞台・映画
 日生劇場『生きる』、気温急降下の中、明日にしてしまうと7日連続でバスに乗ることになるので、なんとか今日無事に観劇してきました。ホリプロ主催の国産ミュージカル、黒澤明監督の映画を宮本亜門さんの演出でミュージカル化した作品。政府の緩和策にそって客席のソーシャルディスタンスは緩和され、生演奏でした。幕がおりたあとで観客のために演奏してくれる至福のひととき。オーケストラボックスに指揮者が立ち、生の音色が劇場に響く中に身を置くのは、1月の宝塚大劇場雪組公演以来かな。9カ月前のことになりますが、もっとはるか遠い日のことのような気がします。

 30年間無遅刻無欠席で真面目に働き続けた市役所勤務の渡辺勘治が60歳で定年退職を迎えるまであと一年というとき、余命半年であることを知り、それまでの人生に反逆を企てて生きる喜びを知り、最後の半年間を生き抜いた物語。高校の卒業したあと勤めた地方銀行で定年退職を迎えた翌日胃がんで亡くなった方がいたことを思い出しました。戦争が終わって半年の日本が舞台。患者に真実を知らせることはタブーだった時代の物語。お金の使い方を知らないまま生きてきた彼が最後に自分はなにができるのかと自らに問いかけ成し遂げたのは市民の願いである公園をつくること。なぜ公園にこだわったのか。それは、妻を早くに亡くし、母親がいなくなったあと誰にも心を開かなくなった一人息子が笑顔を取り戻したのは一緒に公園に行った時だったから。その息子に真実を告げると入院させられてしまう、病院のベッドで死を待つのはいやだから公園ができたら知らせるつもりだった、自分には時間がない、このままでは死ねないと命の炎を燃やし、息子とすれ違ったまま公園再生のために命をかけて、開園式の前の日の夜出来上がった公園で倒れて最期の時を迎えた渡辺勘治。彼のそばには小説家がいました。最期の場面は描かれていなかったのですがお葬式の日、雪が舞い散る中をブランコをこぐ渡辺勘治をみんなが見守って幕。妹が亡くなった後勧められて映画をみたことがありますがそれから歳を重ねて、てんがいこどくとなった自分でみると沁みます。余命を知り、人のために動くことで生きる喜びを知った渡辺勘治。一日一日を生きる、それだけだと。

 渡辺勘治はWキャストで鹿賀丈史さん。鹿賀さん、『レ・ミゼラブル』初演のバルジャン、ジャベール。この公演が始まってから70歳の誕生日を迎えられましたがさすがの歌声。願わくば市村正親さんもみたいですが無理でこうして一度だけでもなんとか観劇できてよかったです。死なないために次の土曜日は帝国劇場で『ローマの休日』、終演後シャンテでゆっくりしてしまうと最寄り駅からのバスの時間があぶなかったですが体はきつくても翌日休みの方が気持ちはゆったりと楽ちん。土曜日夜出ているか土曜日はゆっくりして日曜日の昼出るか、土曜日かな。

 明日のことは誰にもわからないですね。一日一日を生きる。できることはそれだけ。今は今のためにある。豊かな老後を目指して生きているわけではない。老後のために今の時間があるわけではないとあらためて思ったのですがこんなこといっているとお金のない、みじめな老後が待っているだけですかね、死ぬまで働き続けなければならない見通しですが与えられた時間はわからない。神様から与えられた一度きりの人生の時間を生き抜くだけだということを渡辺勘治からおしえられました。あたたかい涙が流れた二時間でした。地方公演もあるので一人でも多くの方に今みてほしいと思いました。

 日生劇場、ロビーに市村さんをはじめとするキャストのみなさんがコロナ対策への協力と注意を呼びかける映像が流れ続けていました。緊急連絡先登録用紙に記入して箱に投函しました。静かな劇場、スタッフの案内がいちだんと丁寧で恐縮するばかり。緩和策で少し賑やかになったかな。電車の中の広告がすきすきでコロナの影響は計り知れないなと思いました。こうして日比谷で劇場の幕が上がっている、それだけでほんとに尊い。








日比谷コテージには天使のあーちゃん(綺咲愛里さん)がいました。駆け足でパネル展の写真もなんとか撮ることができました。





東京宝塚劇場には次回の月組公演のパネルも。



電車の中でタブレット端末から投稿した記事を帰宅後パソコンで書き直しました。

ささやかなブログへの訪問、ありがとうございます。


2008年『フェルメール展』より-「リュートを調弦する女」

2020年10月17日 13時22分46秒 | 美術館めぐり
(公式カタログより)

「《リュートを調弦する女》はフェルメールの円熟期の作品である。左手の壁にうがたれた背の高い窓からさし込む光、その光に満たされた部屋の一隅に人物が一人。このような構図の作品が1660年代の初頭から半ば頃に数点、制作されたようだが、本作品はそのうちの1点にあたる。前景のシルエットで浮かび上がる静物-陰になった椅子、その支柱の先端の獅子頭の飾り、そして大きな暗い布の帯-がルプソワール(引き立て役)になって、浮き立つような効果が強められている。奥行き感を出すために光と影を交互に配置するという意匠は、1650年代末期に、フリック・コレクションの《士官と笑う娘》のような作品でフェルメールがすでに得意としていた構図上の工夫であるが、ここでは、その工夫に、より洗練されたパターン化の感覚や、統一感のある色調、さらには実に巧みにかもし出された雰囲気が加わった。本作品で注意が払われているのは、光の配分と構図の幾何学性である。たとえば、窓の下枠とテーブルの端による消失戦、窓に生ずる帯状の光と影、地図の水平と垂直の線の強調、画面のちょうど真ん中に設定された消失線。しかもその消失線は、リュートの暗い首の部分と女性の髪をかき上げた青白い額を通る対角線上にある。女性はリュートを弾いているのではなく調弦しているが、窓の外の何かに気づいて、一瞬、気を取られているように見える。この点では、この女性は《中断された音楽の稽古》に描かれた少女や、手紙を届けに来た召使いによってリュートの演奏をこれまた中断される、いわゆる《恋文》中の女主人などと比較できよう。中断されたり気を取られたりする身振りは、小さいながらも注意深くつくり込まれたフェルメールのドラマにおいて、ともすれば静まりかえり完璧な均衡の中にある世界に生気を与える。

 本作品では、楽譜集と思われる本がテーブルいっぱいに広げられている。床の上にこぼれ落ちた本もあるが、打ち捨てられたままだ。ヴィオラ・ダ・ガンバは、その床の上、つまり画面右下の、まさしく摩耗した部分に見えている。小さいがゆえに容易に見過ごされてしまうこの細部こそが、この場面を活気づける。ちょうど、この女性の生き生きした機敏な表情が物語の先を期待させるのと同じようなものだ。ほとんど一切の乱れのないフェルメールのダブリン作品、《手紙を書く婦人と召使い》でも、床の上の、明らかに打ち捨てられた小さな本や手紙が似た役割を果たしている。

 本作品中の女性が身につけているのは庶民的な主婦の衣装ではない。彼女は大きな真珠のイヤリングとネックレスを着け、毛皮飾りのついた優雅でゆったりとした黄色いシルクの上着を着ている。マリーケ・デ・ウィンケルによれば、こうしたタイプの上着は、中上流階級の女性が普段着として着用していたものであった。この種の衣装は毛皮の裏打ちがなく、飾りが施されているだけのことが多い。また、実例が残っているわけではないが、毛皮は白テンではなく、白リス、あるいは猫の毛皮ということさえあったようだ。女性が着るほかならぬこの衣装は、1676年2月29日付けのフェルメールの財産目録に記された「白い毛皮飾りのある黄色いサテン地のマント」のことだろう。同様の衣装は、フェルメールの、おそらくは同時期に描かれた二つの同種の単身人物の作品、つまり《手紙を書く女》、《真珠の首飾りの女》に描かれているばかりでなく、《恋文》、《婦人と召使い》《ギターを弾く女》などにも登場する。奥の壁の右に掛けられているのは、1613年頃に刊行さsれたヨーアン・ブラウによる地図であることがジェイムズ・ウェリュの調査で判明した。

 女の期待を含んだまなざしと床の上に置かれたヴィオラ・ダ・ガンバ。この組み合わせから、何人かの研究は、女性が、ロマンチックなデュエットをしようと紳士の訪れを待っているだと推測した。オランダの風俗画家は、女性がヴィオラ・ダ・ガンバをすぐ使える状態にして音楽を奏でる姿を繰り返し描いたが、男性の伴奏者を招いているのだろう。かつて本作品の図録解説をしたO・ナウマンは、楽器の弦の共鳴を恋人たちが通わす心の琴線に関連づけたヤーコプ・カッツの寓意画像に注目した。一方リートケは、この絵画におけるヴィオラ・ダ・ガンバはそうした意味を裏付けるほど目立たないと反論した。いずれにしても、本作品中の人目をひく地図に小さな帆船が点々と描かれているところから察するに、この女性のパートナーである男性は、おそらく旅に出ていて不在なのであろう。ちょうど《恋文》に描かれた女性の頭上の海景が、届いたばかりの手紙の差出人が旅に出ていることを示しているのと同じように。」



















みりおちゃん(明日海りおさん)が音声ガイドをつとめることで話題になったのはこちらかな。

上野の森美術館、
ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵「KING&QUEEN展」
http://www.kingandqueen.jp/

レディ・ベスもお父さんもいます。
ダイアナさんはいらっしゃらないですね、離婚したから当然か。
上野はちと遠くて、毎日体をバスに乗せるだけでもきつく、休日に医者にいくのも大変になってしまいましたが、1月11日までやっているのでなんとか行きたいです。
ここに行くと書いたので行けるはず・・・。

『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』、7月に行ったきりでしゃくねつじごくの夏は日中動くことができませんでしたが一度だけでも行くことができてよかったです。絵画との出会いもまた一期一会。