「啓造は、夏枝が帰るかどうかわからないから、陽子一人留守番をさせるのもかわいそうで、早く帰ろうと思っていた。白衣を脱ぎかけているところに、院内電話がけたたましく鳴った。また急患と、あるいは往診かと思いながら受話器をとると、結核病棟の婦長越智和江の声がとびこんで来た。
「院長先生ですね。二号室の正木さんが、いま屋上から飛び降りて・・・」
「何?正木って、正木次郎か」
「はい、正木次郎さんです」
「あす退院する正木か? まちがいないね」
「まちがいありません」
啓造は脱ぎかけた白衣に手を通して院長室を飛び出した。即死だった。
啓造は正木の死に思い当ることがないではなかった。正木は病状が快方に向うにつれて無口になっていった。復職が決定しても、退院の日が決っても、何となく浮かない顔で、ぼんやりとしているようであった。
あるいは好きな看護婦でもできて、退院するのが淋しいのかと、啓造は正木を院長室に呼んだ。一週間前のことである。
もし正木に好きな女性がいれば、一年後には結婚してもいい、と啓造は告げてやりたかった。院長室に入ってきた正木には生気がなかった。
「何だか少し元気がないようだね、どこか悪いのかね」
「どこも悪くありません」
「気がふさいでいるようだね」
「つまらないんです。何もかも」
「どうして?失恋でもしたのかね」
啓造の言葉に正木はニヤッと笑った。思わず啓造はヒヤリとした。冷たい笑いであった。
「失恋なら、まだいいんです。ぼくは自分が何のために生きているのかわからなくなりました」
「何をいっているんだね。病気は完全治癒だし、職場にはもどれるし、これからじゃないのかね」
「いいえ、先生。病気の間は治すという目的がありました。しかし治ったら一体何をしたらいいんですか」
正木は絶望的なまなざしをした。
「何をって、仕事が待っているじゃないか」
「仕事って、先生何ですか。ぼくは6年もの間、そろばんをはじいあり、金を数えたりして働いてきました。しかしそんなことは機械にだってできる事じゃありませんか。ぼくはこのごろゆううつで仕方がないんです。こうして自分が二年間休んだって、銀行はちっとも困りませんでした。そればかりじゃなく、ぼくの休んでいる間に市内にだけでも支店が二つもふえて繁盛しているんですからね。ぼくが休もうが休むまいが同じなんですよ。つまりぼくの存在価値はゼロなんです。そんな自分が職場に帰って何の喜びがあるものですか」
啓造はその時、ぜいたくな言い分だと思って、笑ってとり合わなかった。その正木が今日自殺したのでる。
名あてのない遺書には、
「結局人間は死ぬものなのだ。正木次郎をどうしても必要だといってくれる世界はどこにもないのに、うろうろ生きていくのは恥辱だ」
と書いてあった。
啓造の話を、陽子は幾度もうなずきながらきいていた。
(結局は、その人もかけがえのない存在になりたかったのだわ。もし、その人をだれかが真剣に愛していてくれたなら、その人は死んだだろうか)
陽子はその人の死が、人ごとに思われなかった。
「おとうさんはね、つくづく考えちゃったよ」
啓造はソファに横になりながらいった。
「おとうさんは正木君の病気を治すことはできたが、生きる力を与えることはできないと思ったよ。正木君は魂が病んでいたんだ。ところがおとうさんは肉体の病気には最新の注意を払っても、心の病気には無関心だったのだね」
啓造は淋しい表情で陽子をみた。
「だが、よく考えてみると、たとえまさきの心の病気におとうさんが気づいても、咳に咳どめ、結核にマイシンのような、ドンピシャリの処方は、心の病気にはないと思うんだよ」
啓造は陽子がじっと自分の話にききっている様子に心をとめてはいなかった。陽子に心をとめるには、あまりに啓造自身が正木の死によって受けた衝撃が大きかった。
啓造はいま、自分も一体何のために生きているのだろうかと思っていた。医師が男子一生の仕事としている事を描いたことはない。むしろ誇りですらあった。しかし、よく考えてみると、この自分がこの世に生まれて医師にならねば、世の人々が必ずしも困るというわけではない。自分がいま突然死んだとしても、また病院が閉鎖されたとしても、患者たちは他の病院にかかればよい。
病気を治すという仕事に啓造は大きな喜びと使命感を持っていた。しかし啓造でなければ治せないという病気はないはずでる。いつのまにか啓造もまたむなしい思いに陥っていった。それは完治した正木に生きる力を与えることができなかったための絶望感でもあった。
自分の考えにひたっていた啓造は、ふと気づいて陽子をみると、陽子の輝く目が啓造をみあげていた。
「おとうさん。わたしも正木さって方の気持がよくわかるような気がするわ」
「ほう、わかるかね」
「ええ、わたしも自分がこの世でかけがえのない存在だということが、よくわからないの。本当はどんな人間だってみんあ一人一人かけがえのない存在であるはずなのに、実感としてはよくわからないの。だれかが心から陽子はかけがえのない存在だよといってくれたらかわかるかも知れないけれど・・・。正木さんて方も。だれかに強く愛されていたら、死ななかったと思うの」
( (三浦綾子『氷点(下)』昭和53年5月20日第1刷発行、朝日新聞社、189~193頁)」