『私自身のための優しい回想』より-「サルトルへの手紙」(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c966367e0856bf801e679cd2babc3760
「私たちの関係で彼が好きだったのは、と彼は言っていた。私たちが決して他の人々や私たち共通の知人について話さないことだった。彼に言わせれば、私たちは駅のプラットホームの旅行者のように話し合っていた・・・。もう彼に会えないのは淋しい。あたしは彼の手をとって支えるのが好きだった。そして彼が私の精神を支えてくれるのが・・・。私はなんでも彼が私に言う通りにするのが好きだった、彼の盲人としての不器用さなど問題にしなかった。私は彼が文学への情熱を失くしたあとまで生き得ていることをすばらしいと思っていた。私は彼の家のエレヴェーターに乗るのが好きだった、彼を乗せてドライヴし、彼のために肉を切ってあげ、私たちが一緒に過ごす二時間か三時間かを陽気なものにしようと努め、彼のためにお茶をいれ、彼にウィスキーのグラスをそっと手渡し、彼と一緒に音楽を聴くのが好きだった、そして何よりも、彼の言葉に耳を傾けるのが・・・。私は帰るとき、彼を戸口の前にたったひとり残すのがとてもつらかった、彼はぽつんと佇んで、目を私の方へ向け、すまなそうな顔をしていた。私は毎回、私たちが次に会う日時がはっきりしていて間近なのにもかかわらず、私たちはもう二度と会えないような気がした。また、彼が《いたずらっ児のリリー》-私のこと-と、その支離滅裂な会話には飽き飽きしたのではないか、とも思った。私は、私たちのどちらかに何かが起こるのではないかと恐れた。そしてもちろん、私が彼に会った最後のとき、彼が最後の戸口の前で私と一緒に最後のエレヴェーターを待っていたとき、私はいつもよりずっと安心していた。私は、彼が私に少し愛着を感じてくれていると思い、そして、彼が間もなくじつに強く生命に執着しなければならなくなるだろうとは、思いもしなかったのだ。
私はパリ第14区のいくつかの目立たないレストランで私たちが一緒にした豪華なあるいはそうでない奇妙な夕食のことを思い出す。「あなたの『愛の手紙』を人が読んでくれましたよ、一度」と彼はごく初めのころ私に言った、「とても嬉しかった。でも、まさかあなたのたくさんの褒め言葉を聞いて喜ぶためにまた読んでくれとは頼めませんかね。そんなことをしたら偏執狂だと思われちまうからな。」それで私はその愛の告白をテープに吹き込み-私があんまり吃るので6時間もかかったー、そして彼が手で触れれば判るようにそのカセットの上に絆創膏をはりつけた。その後、彼は気が滅入った夜などに時どきたった一人でそれを聴くことがあると言い張った、が、それは私を悦ばすためにそう言ったに決まっている。彼はまた、「あなたはこのごろステーキの断片を大きく切りすぎるようになったな、もう尊敬がなくなったというわけ?」。それで私が彼の皿の上で忙しくナイフを動かしていると、彼は笑い出した、「あなたってほんとうに親切な女(ひと)だな。でもそれはいい兆(しるし)でね、頭のいい人は必ず親切なものなんだ。僕は頭がよくて意地悪な男は一人しか知らないが、でも、そいつは同性愛の男で、まるで砂漠の中で暮らしていたようなものだった。」彼(サルトル)はまた、男たち、あれら元青年たち、男の子たち、元男の子たちが彼を父親(師)とみなしていることにもうんざりしていた、彼は女性と一緒にいることしか、ただそれしか好んだことのない人なのに。「ああ、じっさい彼らにはうんざりする」と彼はよく言っていた、「ヒロシマはぼくの責任(つみ)なんだし、スターリンもぼくの責任(つみ)、彼らの思い上がりも、彼らの馬鹿さ加減もぼくの責任(つみ)ってわけだろうな・・・」。そして彼は、彼を父親とみなしたがるあれら似非(えせ)知識人=孤児たちの迷路的思想の数々を笑っていた。サルトルが、父親?なんという考えだろう!サルトルが、夫?これも問題外だ。恋人なら、いいかもしれない。盲目となり、半ば麻痺状態になったときにさえ、彼がひとりの女に示したあの自然さ、あのあたたかさは、以前ならさぞかし、と思わせるものがあった。「ねえ、目が見えなくなったとき、そしてもう書くことができないと判った時(当時ぼくは1日に10時間は書いていた。50年らいそうで、それらの時間がぼくの人生で最上の刻々(とき)だった)、ぼくにとってそれがもうお終(しま)いだと判ったとき、ぼくは非常な衝撃を受けた、自殺することさえ考えた。」
そして私が無言でいると、私が彼の受難の過酷さを前にして胸ふさがる思いでいるのを感じて、彼は言いそえた、「だけどぼくは自殺は試みようともしなかった。判ってくれるだろう、ぼくは一生涯じつに幸福だったんだ、そのときまでぼくはまったく幸福のために生まれてきたような人間だった。だからいまさら急に役柄を変えるなんてことはできなかったんだ。ぼくは習慣から幸福でありつづけたっていうわけだ」。彼がそう言ったとき、私には彼が言わなかった言葉も聞こえた、彼の近しい人たち、近しい女性たち(の人生)を破壊しないために、悲しませないために・・・。それは特に、私たちが夕食から帰ってくると時どき真夜中に、あるいは私たちが一緒にお茶を飲んでいる午後に、彼に電話をかけてくる女たちのことを思ってのことだったのだろう。」
(フランソワーズ・サガン、朝吹三吉訳『私自身のための優しい回想』新潮社、168-171頁より)
→続く
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「私たちの関係で彼が好きだったのは、と彼は言っていた。私たちが決して他の人々や私たち共通の知人について話さないことだった。彼に言わせれば、私たちは駅のプラットホームの旅行者のように話し合っていた・・・。もう彼に会えないのは淋しい。あたしは彼の手をとって支えるのが好きだった。そして彼が私の精神を支えてくれるのが・・・。私はなんでも彼が私に言う通りにするのが好きだった、彼の盲人としての不器用さなど問題にしなかった。私は彼が文学への情熱を失くしたあとまで生き得ていることをすばらしいと思っていた。私は彼の家のエレヴェーターに乗るのが好きだった、彼を乗せてドライヴし、彼のために肉を切ってあげ、私たちが一緒に過ごす二時間か三時間かを陽気なものにしようと努め、彼のためにお茶をいれ、彼にウィスキーのグラスをそっと手渡し、彼と一緒に音楽を聴くのが好きだった、そして何よりも、彼の言葉に耳を傾けるのが・・・。私は帰るとき、彼を戸口の前にたったひとり残すのがとてもつらかった、彼はぽつんと佇んで、目を私の方へ向け、すまなそうな顔をしていた。私は毎回、私たちが次に会う日時がはっきりしていて間近なのにもかかわらず、私たちはもう二度と会えないような気がした。また、彼が《いたずらっ児のリリー》-私のこと-と、その支離滅裂な会話には飽き飽きしたのではないか、とも思った。私は、私たちのどちらかに何かが起こるのではないかと恐れた。そしてもちろん、私が彼に会った最後のとき、彼が最後の戸口の前で私と一緒に最後のエレヴェーターを待っていたとき、私はいつもよりずっと安心していた。私は、彼が私に少し愛着を感じてくれていると思い、そして、彼が間もなくじつに強く生命に執着しなければならなくなるだろうとは、思いもしなかったのだ。
私はパリ第14区のいくつかの目立たないレストランで私たちが一緒にした豪華なあるいはそうでない奇妙な夕食のことを思い出す。「あなたの『愛の手紙』を人が読んでくれましたよ、一度」と彼はごく初めのころ私に言った、「とても嬉しかった。でも、まさかあなたのたくさんの褒め言葉を聞いて喜ぶためにまた読んでくれとは頼めませんかね。そんなことをしたら偏執狂だと思われちまうからな。」それで私はその愛の告白をテープに吹き込み-私があんまり吃るので6時間もかかったー、そして彼が手で触れれば判るようにそのカセットの上に絆創膏をはりつけた。その後、彼は気が滅入った夜などに時どきたった一人でそれを聴くことがあると言い張った、が、それは私を悦ばすためにそう言ったに決まっている。彼はまた、「あなたはこのごろステーキの断片を大きく切りすぎるようになったな、もう尊敬がなくなったというわけ?」。それで私が彼の皿の上で忙しくナイフを動かしていると、彼は笑い出した、「あなたってほんとうに親切な女(ひと)だな。でもそれはいい兆(しるし)でね、頭のいい人は必ず親切なものなんだ。僕は頭がよくて意地悪な男は一人しか知らないが、でも、そいつは同性愛の男で、まるで砂漠の中で暮らしていたようなものだった。」彼(サルトル)はまた、男たち、あれら元青年たち、男の子たち、元男の子たちが彼を父親(師)とみなしていることにもうんざりしていた、彼は女性と一緒にいることしか、ただそれしか好んだことのない人なのに。「ああ、じっさい彼らにはうんざりする」と彼はよく言っていた、「ヒロシマはぼくの責任(つみ)なんだし、スターリンもぼくの責任(つみ)、彼らの思い上がりも、彼らの馬鹿さ加減もぼくの責任(つみ)ってわけだろうな・・・」。そして彼は、彼を父親とみなしたがるあれら似非(えせ)知識人=孤児たちの迷路的思想の数々を笑っていた。サルトルが、父親?なんという考えだろう!サルトルが、夫?これも問題外だ。恋人なら、いいかもしれない。盲目となり、半ば麻痺状態になったときにさえ、彼がひとりの女に示したあの自然さ、あのあたたかさは、以前ならさぞかし、と思わせるものがあった。「ねえ、目が見えなくなったとき、そしてもう書くことができないと判った時(当時ぼくは1日に10時間は書いていた。50年らいそうで、それらの時間がぼくの人生で最上の刻々(とき)だった)、ぼくにとってそれがもうお終(しま)いだと判ったとき、ぼくは非常な衝撃を受けた、自殺することさえ考えた。」
そして私が無言でいると、私が彼の受難の過酷さを前にして胸ふさがる思いでいるのを感じて、彼は言いそえた、「だけどぼくは自殺は試みようともしなかった。判ってくれるだろう、ぼくは一生涯じつに幸福だったんだ、そのときまでぼくはまったく幸福のために生まれてきたような人間だった。だからいまさら急に役柄を変えるなんてことはできなかったんだ。ぼくは習慣から幸福でありつづけたっていうわけだ」。彼がそう言ったとき、私には彼が言わなかった言葉も聞こえた、彼の近しい人たち、近しい女性たち(の人生)を破壊しないために、悲しませないために・・・。それは特に、私たちが夕食から帰ってくると時どき真夜中に、あるいは私たちが一緒にお茶を飲んでいる午後に、彼に電話をかけてくる女たちのことを思ってのことだったのだろう。」
(フランソワーズ・サガン、朝吹三吉訳『私自身のための優しい回想』新潮社、168-171頁より)
→続く