たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

郵便受けの鍵を紛失

2024年09月13日 01時56分02秒 | 日記

脱力、記憶喪失、呆けました。これが年をとるということでしょうか。この湿度の高い暑さで郵便受けの前は蚊がぶんぶん。2-3日前に鍵を閉めたあとリュックの決めているポケットに戻すのが面倒で巻スカートのポケットに入れたまでは記憶にあれど、それっきりスーパーで買い物して部屋に戻った時にはすっかり忘れていたっぽい。しばらく前に人に中を出された形跡があったのでずいぶん前に買った鍵をつけたはいいものの面倒くさくってたまにしか確認せず、予備をひとつ別にしておけばよかったですがそれもさぼり。同じものをネットで買えるか、壊すとなると業者に頼んで一万円ぐらいはかかるか、郵便受け自体には損害与えないはずですが・・・。

スマホを買い替えないと通話でわたしの声が相手にきこえなくなっているっぽいですがスマホショップものすごく苦手。よくできているもので今使っている物は修理受付が終わったので買い替えてください、はいクーポン券と案内がきたのはよくみると高額なものを買ってややこしいプランを申し込んだ場合のみ適用。なのでクーポン期限をあせる必要はないし、どのみち期限までにいくことは不可能。巧みに儲かるようにできているプランのからくりを理解するのが頭痛くてなんかもういいんだけど、2年間縛りとか2年先生きているかどうかわからんし終わりはみているからもういいんだけどまだこの世にいるからそんなわけにもいかんですな。美容院にもいかねばですがこれまた苦手、お金かかるしね、でもまだこの世にいるからやまんばというわけにもいかんですな。

なんとか帝国劇場を往復したあとは左の足先としびれがひどい、右の股関節の動きはより悪くなるとわかっていても行きたかったのでいったことに悔いはなし。

日曜日まで暑いしものすごい湿気。この気候でマスクしてスマホみてたら気持ち悪くなりそうですがどうなんでしょうか、なんかいろいろとおかしいなあと思う毎日。希望がどこにもなくて希望がなさすぎて、ぼっちで思うように体動かなくて生きる気力が続かないですが、まだ自分で死ぬことはできないので生きながらえていくしかないか、ないですな。ラブネバのチケットは来年の2月末、千穐楽の前日。

 


どうなる?自民党総裁選告示

2024年09月12日 22時35分24秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年9月12日安藤裕チャンネル、

(245) どうなる?自民党総裁選告示 - YouTube

 

2024年9月12日三橋TV、

(245) 【緊急鼎談】小泉進次郎は失速?混戦の自民党総裁選を徹底解説!(三橋貴明×藤井聡×saya) - YouTube

 

2024年9月10日虎ノ門ニュース、

西田さん口先だけ、選択的夫婦別姓制度に対する警鐘の声だけ参考。

(245) 【虎ノ門ニュース】2024/9/10(火) 竹田恒泰×西田昌司(高市早苗候補支持)【自民党総裁選SP月間】 - YouTube

 

 


コロナワクチン接種後の突然死について-【あとで消します】この状況、この答弁・・皆さんは、命を預けられますか?

2024年09月12日 09時21分36秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年9月11日藤江さんチャンネル、

コロナワクチン接種後の突然死について、武見厚労大臣の記者会見での答弁、

(242) 【あとで消します】この状況、この答弁・・皆さんは、命を預けられますか? - YouTube

(藤江さん作成、40歳未満の突然死認定は、なぜか全員男性。)

 

Xユーザーの宮沢孝幸(Takayuki Miyazawa)さん: 「従来型mRNAワクチンの問題点 1) LNP自身に毒性(細胞傷害性)がある 2) LNPは体内いたるところに取り込まれる 3) スパイクタンパク自身にも毒性(血管の損傷や血栓形成)がある 4) スパイクタンパク発現量と持続時間を厳密に調節ができない 5)」 / X

従来型mRNAワクチンの問題点

1) LNP自身に毒性(細胞傷害性)がある

2) LNPは体内いたるところに取り込まれる

3) スパイクタンパク自身にも毒性(血管の損傷や血栓形成)がある

4) スパイクタンパク発現量と持続時間を厳密に調節ができない

5) ロット差の問題(同じ性能のmRNAワクチンを製造できない)がある

6) 誘導された免疫でワクチン粒子を取り込んだ全身の細胞が攻撃される

7) スパイクタンパクが核内のエストロゲン受容体と結合し、細胞増殖を促進する

8) 頻回接種によりスパイクタンパク特異的な制御性T細胞を誘導する

9) 頻回接種によりいわゆる抗原原罪が起こり、適切な抗体が産生されない

10) 変異株ができると抗体依存性増強のリスクが生じる

11) 2回以上接種するとスパイクタンパク特異的IgG4が誘導される

12) 他の病原体に対する免疫が下がる可能性がある

13) 自然免疫応答に与える影響は未知

 

 

2年前、3回目のコロナワクチン接種後高熱が出たけど大丈夫やろかとツィートされていた男性キャストの方はお元気で安心しました。子供が生まれているし長期的な影響がわかりませんが多くは自然にもっている免疫力で回復していけるようなので大丈夫でしょう。稽古の半ばで降板せざるを得なくなった男性キャストもいます。検査のために全身麻酔をかけて手術されたそうです。全体の8割は接種するようにという厚労省の指導に従い舞台芸術緊急ネットワークは接種を推奨していました。おそらく多くの方が国の言うことを信じて接種すれば安全安心に舞台を続けられると2回か3回まで接種されたでしょう。4回目、5回目まで進んでしまった方もいるか。多くの方は舞台に立ち続けているので大丈夫でしょうが事実として降板を余儀なくされた方もいます。厚労省、厚労大臣罪深すぎます。

2023年9月11(水)帝国劇場

 

 


第六章OLを取り巻く現代社会-⑦マルクスによる「労働力の商品化」の発見

2024年09月12日 01時37分31秒 | 卒業論文

労働に対する関心の出発点はそもそも近代的賃労働というものであって「苦しい働き」とか「寡黙にして実直な労働」ということではなかった。「労働」という言葉自体が近代資本主義的な賃労働に当てられたものだと考えられる。[1]労働の社会性が合理的な考え方や理論によって明らかにされ、人々に広く理解されるものとなったのは、近代資本主義の成立による。ここで、近代資本主義的な賃労働というものを大雑把だが、清水正徳の記述に沿って外観したいと思う。近代資本主義の合理的な考え方や理論には、社会的労働と経済的価値との関係を合理的に説こうとする積極的な姿勢が含まれていた。この社会での経済的価値とは、もちろん商品価値であり、現象面では貨幣によって価格として表示される価値である。価値があるから価格として表示されうる。そして、社会におけるほとんどの経済的な財(富)が繰り返し商品として生産され、貨幣経済として売買され、流通する社会は、近代資本主義として定着する。

近代資本主義は純粋モデルとしては、個別的な単純商品生産者が直接労働生産したものを相互に売買するという社会である。そして現実には、こういう経済関係が資本主義経済として定着し、商品・貨幣経済が支配的な経済構造となっていく。純粋モデルでは、人間と人間との関係がそもそも原子主義的な性格の社会を構成し、この人間関係がそこでの社会的労働・生産の性格を規定する。ここでは原子のような一人一人が単位となって職業を自由に選択し各自労働して生活している。各自が主観的な判断で職業を移転し主観的な判断で自身の労働を価値づける。このような社会では、個人的な労働量による個人的な労働生産物の価値づけは、そのまま社会的な平均的な価値づけと必ずしも一致するわけではない。この社会の成員は経済にかかわる人間としてその行動は全く自由であり、相互の立場は全く平等なので、自由に職業を選択して働き、その働きの成果を売り、または労働によって得た所得によって自分の必要なものを買い消費する。ここで貨幣が一般に価値の尺度となり、流通の手段として機能してくる。そして、より多くの貨幣を持っていればより多くの商品と換えうる、やがてはどっさりもっていればどんな商品でも買える、貨幣がオールマイティになってくるのである。貨幣さえより多く持てばいつでも好きなものが買えるし後々安泰だ、という考え方が普及してきて、一つ一つの経済的な財の、使用する者にとっての価値(使用価値)よりも商品としての価値(交換価値=価格)の方が経済を考える場合のより重要な基準になってくる。貨幣それ自体が何ものよりも価値あるものとして君臨することになるのである。貨幣で表示される商品の価値が労働生産にとって、さらに一般に社会的労働をする人たちにとって共通の座標となる。商品・貨幣経済が生産の基礎をもって成立していると考えると、そこにおける成員の意欲は単に商人や金貸しの利殖欲に留まるのではなく、「働いて儲ける」ということになる。生産労働で貨幣が殖える、ということになっていくのである。生産労働は、資本家と労働者という二つの新しい社会経済的な立場を誕生させる。生産手段、生産材料、そして賃金として支払うべき貨幣をもち、労働者を雇う。労働者は、自分の労働する力を一定時間(一定量)提供することによって、この労働力を売った値としての賃金を受け取る。近代的賃労働の誕生である。労働者を雇う資本家は少ない賃金で能率的に高い価値を実現しようとし、そのため生産工程もできるだけ合理的な無駄のないものにし、分業も大いに進める。一方、賃金労働者は、直接的な生産手段との結びつきから引き裂かれてもっぱら自分の労働力を売り、その力の消費者としての労働によって商品価値を生産・実現し、自分たちの賃金に見合うだけの労働より以上の労働によって、資本家たちにとっては利潤となる剰余価値を生産することになる。労働者は自分の労働力を売り、資本がその価値を増殖する運動に、資本の一つの要素として従属的に加わる、それが彼らの労働がもたらされる意味なのである。資本家と労働者という二つの階級の関係において、労働者たちはひたすら生活のために労働力を売り、資本家のものとなった自分の労働力の消費として他律的に労働する、という枠の中に閉じ込められることになる。そして、資本の運動の中で時には景気変動によって、つまり労働力に対する需要の変動によって木の葉のように翻弄されることになる。ここに記してきたような商品・貨幣経済の社会では、労働の社会的評価が可能となる。一人一人の労働が社会的価値として表される、すなわち価値量として表されることになるのである。労働の価値を表す客観的な基準としてA・スミスは、富の源泉であることを唱えた。貨幣を唯一の富とみなす重商主義の考え、貿易差額だけを基準として貴金属を獲得することを富の増進だとする考え方を拝して、労働生産こそが富の源泉であると説いたのである。[2]  A・スミスは富を「生活の必需品と便益品」として捉えた。そして国の富とは、国民の労働によって生産されるものの総量だという。スミスは、労働こそ価値の源泉であり、交換価値の基準となるものであるという考え方を示した。鷲田清一が述べているところによれば、スミスの考え方で興味深いのは、労働が人間の生命維持のためにどうしても必要な「苦労」(toil)であり
「骨折り」(trouble)だという考え方である。「苦労」であり「骨折り」であるがゆえに、しないでよいのならしないで済ませたいというのが本当のところだろうが、しないですまされないからこそ、逆にそれを進んで行い得るようなモチベーションが編み出されなければならなかった。「勤勉・勤労」という美徳がまさにそのようなものとして生まれたのである。スミスによって、「勤勉・勤労」という観念が、より多くの価値を生み出すという動態的な財の観点と、休まずに働くことそのこと自体が意義のあることなのだというエートスの奨励という観点を統合するものとして示された。[3]

18世紀のスミスの考え方は、労働生産が進めば国の富が増し国民一人一人の富も平均して豊かになるという楽天的なものであった。しかし、1世紀を経て、度重なる周期的恐慌によって資本家と労働者という経済的な二つの階級が対立・矛盾したものであることが露呈してくると、労働に対する考え方は厳しさを増し、マルクスによって、資本主義社会における「労働力の商品化」という視点が始めて示されるに至る。マルクスはヘーゲルの考え方を継承した。ヘーゲルによって、始めて労働は哲学的に捉えられた。ヘーゲルによれば、労働において人間は自己を自らにとっての対象となる、つまりは自己を対象化することで他在のもとで自己自身と関係する。労働とはつまり、人間の自己実現ないしは自己産出のものであるはずだ。がそれが資本家によって独占的に私有されている労働現場では、賃労働者による生産物が生産手段の所有者の所有物になるのでこの自己の対象化の過程は他ならぬ対象喪失の過程として現象することになる。自己の外化が自己の疎外へと裏返ってしまうのである。ヘーゲルの自己の本質の「外化」、「対象化」という考え方を引き継いだマルクスは、労働は人間が自ら設定した目的の実現の過程としてある故に人間にとってかけがえのないポジティブな意味を持つ、と考えた。[4] マルクスの眼には、労働者の生活がただ資本家との所得の違い貧富の差というだけでなく、社会における立場が、質的な違った立場だとみえてきた。それをマルクスは、「疎外された労働」という視点から考えようとした。労働者の対象化としての労働が自己疎外となり、労働生産物が疎外されて対象喪失となるのは、資本家がいわば現実世界の神となって、働く主体を奪い取っている、という考え方に基づいて、資本家が労働者を労働から、労働生産物から、さらには彼らの類的な在り方から疎外し、人間らしさを転倒させるのだと主張した。しかし、労働からの疎外といっても、労働者を疎外させている逆倒された主体が何かといえば、私的所有のようであったり、資本家という人間であったり、明確にはつかみにくい。次第に、疎外論的主張は、哲学的・主体的ではあっても、経済的現実を客観的に解明するものとしては、きわめて不十分だということがわかってくる。疎外を克服する条件が正確にはつかめないのである。克服すべき疎外された世界をそのものとして克明に認識するためには疎外論の立場では不十分であり、不適切であることに気づいたマルクスは、労働賃金を労働の価値と考えていたところから、やがてこれを労働力の価値として捉えるに至る。例えば、一定期間における労働賃金を仮に100とする。そして生産手段のその間における摩損分と生産材料の価値の合計を200とすると、労働生産によって得られた労働生産物の価値は200プラス100に資本家にとって利潤となるべきものを加えた価値量となる。仮に利潤となるべき価値を100だとすれば、これらの関係は、200(生産手段・生産材料)+100(労働賃金)+100(利潤)=400(総価値)、という式で現すことができる。この利潤となるべき100という価値を生むのが、人間の労働だというのである。疎外論では十分に説明できなかった人間の労働の価値を、労働と労働力とを峻別することによって説明した。労働賃金は労働の価値ではなく労働力の価値である、労働者は労働力の価値としての賃金と交換に自分の労働力を商品として売る。すなわち労働力商品である。一定条件のもとに売られた労働力はその条件の範囲内では労働者のものではなく、資本家の所有するものとなる。そして資本の運動(価値の自己増殖運動)に一要素として加わり、労働力の使用価値としての労働において労働力は消費され、賃金に妥当する価値100に加えて利潤となるべき100、合計200なる価値を生むことになる。利潤となるべき100という価値を生む労働を剰余労働と名づけると、資本的生産の価値方程式は次のように表現し直すことになる。不変資本200+可変資本100+剰余価値100=総価値400。このマルクスの「労働力」という概念の発見によって、資本主義における生産の価値の基本関係が明確になった。労働者は労働力の価値を得て、その価値に妥当する労働以上の労働によって剰余価値(利潤)を生産する。すなわち、剰余価値に当たる分だけの労働を「搾取」されていることになる。では、資本家はというと、資本の本質は「自己増殖する価値の運動体」ということであり、資本家は貨幣としての価値を(「最短期間に最大限の利潤を再生産可能に」)獲得するべき運動の担い手ということである。価値増殖の形の上での主役は資本家、実質的な担い手は労働者ということになる。このマルクスの価値方程式は、現在の経済における生産構造を現象面で明らかにするものではないが、資本主義という経済構造を人間関係(階級関係)においてもっとも簡明に示すものだといえる。労働力の商品化という問題を働く人間にとっての問題として考えてみると、労働力は人間のエネルギーであり活動力である。ここで商品として売られた労働力は、売られたからといって私の身体から離れるものではないが、しかし私の所有ではなく資本ないし資本家の所有なのだから自分の自由にはならぬものである。労働力の売り手である労働者たちは売買の自由を持つと共に、「餓死への自由を持つ」という極限状態の表現をマルクスはしている。[5] マルクスの「労働力の商品化」は、純粋な一般的経済を対象として考えた概念である。現代社会においては、資本主義の構造は複雑化し捉えにくくなっている。しかし、清水が述べるように、「労働力の商品化」は現実に即した抽象であり、資本主義経済の秘密を明かす細胞形態を労働力商品だとする点において、現代社会の中で働きがいの喪失を考える時に、重要な概念だと思われる。

*********

引用文献

[1] 清水正徳『働くことの意味』81頁、岩波新書、1982年。

[2] 清水、前掲書、58-87頁。

[3] 鷲田清一『だれのための仕事』44-47頁、岩波書店、1996年。

[4] 鷲田、前掲書、42-44頁。

[5] 清水、前掲書、143-154頁。


最後

2024年09月11日 15時04分55秒 | 日記

いくつかの意味で最後。上野にいってから4日、なんとかまた歩けるようになったので不安神経症にうちかってなんとか部屋をでなければなりません。予想気温がどんどんあがってきて外はものすごく暑いし、部屋の汚れを気にしはじめるとあちらもこちらも汚れていて掃除しなければの強迫神経症になってしまうのが非常につらい。昨夜は左足がなんだか燃えるように痛くてしびれもひどいし、右をかばってきた左の方が先にダメになるのか、両方だめなのか、いずれにしろ死ぬまでトアラセットを飲み続けるしかない人生、自分がわかっていなかっただけで、おそらく死んだ親もわかっていなかっただけで、生まれる前からの右足股関節脱臼によりずっと苦労してきた人生、あのときもこのときもこのせいでおかしかったのかと思い当ることだらけ。体の中心がおかしいのだから心身共におかしいのは当たり前。半世紀以上前の医者を恨むこともできませんが根源的な治療はなされずこのまで生きてきた人生。自力であるけなくなったら終わり、自分で自分の世話ができなくなったら終わり。それがいつくるのかはわかりません。わたしが終わるのが先が、日本が終わるのが先か。みりおちゃんのファンクラブイベントに清史郎君扱いでいけることになったし、ラブネバも当選、生きる目標、そこまでは死ねないし、歩くのだという気力を持ち続ける。生きたい、歩きたいという気持ちがなくなったらもう一歩も歩けません。気力だけ、気力だけで生きているぼっちの日々。不安神経症に打ち勝ってなんとか歩き出しませう。

 

 

 


レプリコンワクチンで日本人殲滅?人類滅亡?もおかしい

2024年09月11日 14時40分31秒 | 気になるニュースあれこれ

緊急生配信】9/10 *21時〜村上康文先生Meiji Seikaファルマ&厚労省直談判 緊急オンライン報告! (rumble.com)

 

免疫学者の警鐘<特別版> どうなる?レプリコンワクチン「製薬会社と話して分かった驚愕の事実とは!?」 (youtube.com)

 

どちらも視聴回数がすごいことになっていますが、権威ある大学の名誉教授の肩書きを持った方の言うことだからと全部そのまま鵜呑みにしていいものか・・・。

 レプリコンワクチンに反対であることに違いはないけれど、中止を求めていくべきは全てのコロナワクチンであり、人から人へと伝播していく、日本だけ承認されたのは日本人を殲滅する狙いがあるからだとする東京理科大学名誉教授である村上氏の言説はおかしいと忠告している研究者がいます。村上氏の話の内容は科学的に信憑性がうたがわしいと宮沢先生、掛谷先生、新田先生らがかねてより発信しています。

 おかしな方向に誘導されてしまっていて、かえってワクチンに反対する声全般がデマ、厚労省の言う誤情報にあたるとされかねない危険な状況にみえますが、原口一博議員、我那覇真子さんら宮沢先生の声が耳に入っていないわけではないと思いますが、一度踏み入れてしまったらもう方向転換できなってしまわれたか。信憑性の疑わしい情報を拡散してしまうことは議員生命を断たれることにもなりかねないと忠告する声も通じないみたいでご自身が3回目の接種後死にそうになった経験から必死に配信されてきた動画を視聴して応援したいと思っただけに非常に残念です。コロナワクチン反対の中でも誰が村上氏の説にのみこまれてしまっているか、誰が冷静に距離をおいてみているか、だんだんとみえてきました。

 不安と恐怖を煽ることで高額な健康食品へと誘導されたりとか実際おきているとのこと、結局カネでワクチン推進と同じ穴のムジナか・・・。

Xユーザーの宮沢孝幸(Takayuki Miyazawa)さん: 「https://t.co/4zLhgBheTG」 / X


河野太郎氏にX〝ブロック〟された 新型コロナワクチン被害者が激白

2024年09月11日 12時53分42秒 | 気になるニュースあれこれ

Xユーザーの新型コロナワクチン後遺症患者の会さん: 「本日の夕刊フジに、弊会の発起人で幹部でもある2名の取材記事が掲載されております。 1名は、今回の国賠訴訟の原告でもある宍戸さんです。仕事も出来なくなり、救済も受けられず、必死の思いをぶつけブロックされております。 声が届かない悔しい思いを是非読んでください。 https://t.co/8ZruSIQWWJ」 / X

 

2024年9月10日夕刊フジ、

「自民党総裁選への出馬を表明した河野太郎デジタル相(61)をめぐり、X(旧ツイッター)で「ブロック」を多用することが議論になっている。河野氏は「誹謗(ひぼう)中傷してきた人をブロックする行為は当然だ」と説明するが、新型コロナワクチン接種後の健康被害を訴える一般女性のアカウントも〝拒絶〟している。2021年にワクチン担当相を務めた河野氏にブロックされたという複数の女性に話を聞いた。

「苦しむ被害者がいる現状を知ってほしい」

「ブロックされたことはショックでした。いまは国民の声になんて絶対に耳を傾けない総理になるんだろうなと思う。返事が来るなんて思っておらず、無視されてもいいけれど、苦しむ被害者がいる現状を知ってほしいとの思いで投稿したのですが」

そう話すのは、岩手県在住の宍戸千穂さん(47)。夫と小学生の子供2人を育てる主婦で、現在は同ワクチンの被害者として国の責任を問う集団訴訟の原告の1人だ。

宍戸さんは21年10月に初めてワクチンを接種し、1分後から手指のしびれなどの異変が出たという。最高41度の高熱が9日間続いたほか、呼吸の苦しさや心臓の痛みなど症状は多岐にわたり、歩行も困難となってパートも辞めざるを得なくなった。

河野氏宛てに投稿したのは翌年12月だった。
«1年前のワクチン接種後から体調不良で生活も苦しくもう限界です»«どうかワクチン被害者も助けてください»
 

これを正午前に送ったところ、夕方にはブロックされていたという。

宍戸さんとともに「新型コロナワクチン後遺症患者の会」を立ち上げた奈良県在住の会社員の女性(38)も、Xで複数回、河野氏に健康被害を訴えたが、今年4月にブロックされたという。

同会代表も務める女性は「もともとは河野さんが好きで応援していた。ワクチン担当大臣だった河野さんの動画を見て安心して接種した。以後は心臓が破裂しそうになるような激しい動悸(どうき)をはじめ、死を覚悟するほどの症状に苦しんだ。その後も行動力のある河野さんを信じて、被害者の存在を知ってほしいと願ってきたけれど」と話す。

宍戸さんが把握しているだけで、ワクチン接種後の健康被害を訴える当事者23人と遺族3人が河野氏にブロックされたという。河野氏は8月26日のBSフジ「プライムニュース」で、「誹謗中傷はブロックしますけど、ときどきそうじゃないのをブロックしてしまって」と述べた。

河野氏事務所「Xは本人の運用」

夕刊フジの取材に河野氏の事務所は「(Xは)本人の運用」と回答した。宍戸さんをブロックした理由については「個別の事案につきましては回答を差し控える」とした。」

河野太郎氏にX〝ブロック〟された 新型コロナワクチン被害者が激白 ショック「国民の声に耳を傾けない総理になるんだろうな」(1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト


三好春樹『関係障害論』より‐なぜ「社会」や「環境」ではなくて”関係”なのか

2024年09月11日 00時44分07秒 | 本あれこれ

三好春樹『関係障害論』より‐”関係”は感覚と身体を変える

「なぜ「社会」や「環境」ではなくて”関係”なのか

 そういう問題意識で始まった講座ですが、私は関係という言い方をしてきました。これまでも、たとえば「環境」とか、あるいは「社会」とかいう言い方で、同じような言い方がされてきたと思います。

 社会とか環境が老人をダメにしてきた、という言い方がされてきたと思いますが、私はあえて、環境とか社会とかという表現はしないで、関係による障害という言い方をしています。

 それはどうしてかといいますと、環境が悪いからとか、社会が悪いからという言い方は、どこか自分の責任を放り投げている感じがします。とくに、社会が悪いという言い方にはそれを強く感じます。社会が変わらない限り老人は元気にならないなんて言い方は、どこか自分の課題としてではなく、人のせいにしているような気がします。

 ところが、老人にとっては、介護者である私たち、とくに夜寝ていて、ナースコールを鳴らしてやって来たその人が、実は社会の代表なのです。私たちは、老人の前に、社会そのものとして現れているし、私たち自身が最も大きな影響力を持った環境そのものなのです。

 私たちがそのときにどういう表情をするか、どういうコトバかけをするのかということが、老人にとっては、環境のほとんどすべてであり、社会のほとんどすべてであるというふうなところへ、私たちは立たされていると思います。

 だからナースコールを鳴らされて、いくら疲れていても、老人の前に立つときはニコッとしてみせるというのは、そういうことです。私はそのとき、社会の代表なんです。私がそのときに嫌な顔をしていたら、この人は自分は社会から無視されている、嫌われていると思うから、私たちはニコッとするわけです。これが、現場の倫理観だと私たちは思っているわけです。関係という言い方をしたときは、自分がその中に入っている。環境や社会の大きな一員であり、実はいちばん大きな力を老人に対して与えている。権力にも成り得るし、あるいはお年寄りを生き生きさせることもできる力を自分たちは持っているのだという、責任と自覚みたいなものを込めたコトバとして「関係障害」という言い方をしています。

 ですから、社会を変えていくとか、環境を変えていくという一般的な言い方ではなくて、まず、私たち自身の見方や関わり方を変えていくということから、関係障害の治療の方法というのを考えていきたいと思います。関係の出発点は、まず私たち自身からということです。」

(三好春樹『関係障害論』1997年4月7日初版第1刷発行、2001年5月1日初版第6刷発行、㈱雲母書房、54-57頁より)

 

 

 


『KAGAYA/星空の世界 天空の贈り物』より-天空への招待

2024年09月11日 00時33分39秒 | 美術館めぐり

『KAGAYA/星空の世界 天空の贈り物』より-アンドロメダ銀河

「天空への招待

 北海道

 2019年3月10日17時49分」

 


第六章OLを取り巻く現代社会-⑥組織人としての「サラリーマン」

2024年09月10日 14時17分05秒 | 卒業論文

 巨大な企業組織に組み込まれた労働者は、いつでも取り替えのきく一片の歯車に過ぎないために、その官僚制機構のもとで閉塞感を味わわざるを得ない。自分が行っている細分化された仕事は、全体のなかでいったいどのような役割を果たしているのか見通すこともできない。そのため、彼は自分の仕事の社会的意味がわからず、仕事を通じて社会との関わりを意識することができない。どんなに勤勉に働こうとも、労働を通じて自分の人生の「意味」を見出すことは、もはやできなくなってしまったのである。とりわけ、日本型企業社会においては、「企業内人生」という言葉に端的に表されているように、自分の人生を企業に全て賭けることによってそこに「生きがい」を見出すのが、これまでの典型的な労働者の姿であった。労働それ自体を通じて充実感が得られないのであれば、「経営家族主義」により、いわば「会社人間としての生きがい」を労働者に与え、企業に積極的に帰属させ、そこから質の高い労働意欲を引き出そうとするのが日本的経営システムであった。日本の高度経済成長はそうした企業に身も心も捧げた「モーレツ社員」によって支えられた。そして彼らの「生きがい」は、かつてない物質的な豊かさがもたらされることにより実質的に裏付けられたのである。[1] ホワイトカラー従業員の特質は、同一組織における生涯雇用制度によって会社と一体化し、安定性を求めることにある。就職という会社への入り口と退職という会社からの出口は、日本的経営システムのもとでは、これまでつながっているのが当然だった。その間の会社の中での経歴のありか方ももちろんつながっていた。会社のなかでのあり方として大きな特色となっていたのが、ゼネラリストとして様々な職種を経験し、その間に一段ずつ出世していくという昇進の仕方である。多くの日本の大企業ではそういう経歴をたどって出世し、やがて定年退職するというのが建前であった。そこで新入社員を人事部が一括採用したあと、かなりの期間をかけて社員教育を行って、その後に各職場に配置する。ということは大学には職業教育について全く期待していないし、大学も職業教育はしない。それどころか「大学で習ったことを早く忘れよ」と説教する会社もあるほどだ。新入社員を白地のまま、会社人間に適したように教育するのが新入社員教育のあり方だ。日本会社には社是や社訓があるのが普通だが、そこで強調されるのが社風ということである。新入社員を早くその会社の社風に慣らせることが必要だが、言うまでもなく社風は会社ごとに違うから、こうした教育によって、会社人間はその会社にしか通用しない人間になっていく。その代わり社内のいろんな職場を経験させて、ゼネラリストになっていく。ここでゼネラリストというのは、どんな会社にでも通用するゼネラリストという意味ではなく、その会社の内部だけのゼネラリストである。ゼネラリストとしての会社人間は転勤を繰り返すことで出世するが、やがてその会社でしか通用しない人間になっていく。もうひとつの日本の大企業で強調されるのは規律を守るということだが、これは会社の組織を守るためであると同時に、大量生産、大量販売に適した人間を作るためである。大量生産、大量販売は20世紀の大企業システムの原理だったが、日本ではとりわけ高度成長期以後これが徹底していた。そこで強調されたのが規律を守るということであり、その結果画一化された会社人間が生まれた。[2] こうして日本的経営システムの下で育成された、ゼネラリストに適した会社人間、そして大量生産、大量販売に適した画一化された人間の姿は、フロムのいう「自ら意志する個人であるという幻のもとに生きる自動人形となっている」現代人の姿だと言えるだろう。

 社会の存続に必要な利益はもとより、その将来の発展に欠かせない投資が、明らかに企業の影響力を大きくしている。物質面の豊かさにかかわる当初の縄張りをどんどん拡げ、立ち遅れのいちじるしい精神世界の動向まで左右しつつある。企業に都合の悪い分野とみなされれば、兵糧攻めを仕掛けられて活動困難に陥る。勤労者がもっと積極的発言をできてよいはずだけれども、実際はまとまりのないまま企業に抱き込まれた状態である。[3] 一段ずつ昇進を繰り返し、管理職ともなれば、企業と一体化することになる。一体化ともなると身も心もまるごと会社に捧げてしまう、というイメージがある。その姿は実にカッコ悪い。OLが会社人間たる「おじさん」たちを笑いの種にするのは、こんなところにも理由があると思われる。

 これまで、会社人間について、ホワイトカラーを念頭において考察してきたが、現代の社会では、ホワイトカラー労働者の特質は、先に記したような高度なシステム化、機械化によって、ブルーカラーにも及んでいる。雇用されて組織体の中で働く、という点ではホワイトカラーもブルーカラーも同じである。そこで、賃金労働者を「サラリーマン」というカテゴリーでくくって、働きがいについて考察していきたいと思う。「サラリーマン」には、ホワイトカラー、ブルーカラーばかりでなく、デパートの店員、ホテルの従業員、地方公務員、教員、新聞記者、警察官、駅員、看護士等々、種々雑多の職業に従事する人を含む。「サラリーマン」というカテゴリーは、何らかのまとまりを備えた階級のようなものではない。これに属する人々の間には、収入、財産、職場での権力などの点でかなりの開きが見られる。にもかかわらず、彼らは自分のものではない組織体の枠の中で、自分のものではない設備や器具を使い、自分が決めたことではない規則や慣行に従って日々同じ仕事に従事し、そしてこれらの代償として一定のサラリーを受けている、という点では同じであり、またこうした職場の境遇における共通点のゆえに、彼らの生活全体はある類似性を示している。先ず、サラリーマンの生活は、必然的に職場と家庭、仕事と余暇というように二分される。これに伴い、毎日の通勤、ラッシュアワーの苦労、同じ職場での決まった仕事の繰り返し、帰宅前の小さな楽しみ、週末の一家行楽、といった一連の同じような行事が彼らの生活時間に刻み目をつける。また、彼らは服装や持ち物の点でもあまり違わない。通勤時やレジャーの際の彼らの身なりはよく似ていて、それだけからは、職業や社会的地位はわからない。また余暇の使い方も類似しているし、さらにマスコミの発達のおかげで、彼らの見解や発想方法もほとんど区別しがたいほどに平均化されてしまったのである。[4] 山岸健がフロムから引用して述べているところによれば、官僚主義的機構を持ち、中央集権的な産業主義においては、人々が大量に、しかもそれが予測可能で手前味噌な方向に消費するように趣味作りが行われる。彼らの知性や性格は、独創的で冒険的なものよりも、平凡で無難なものを選択するテストが絶えず行われ、そのため規格化されるようになる。事実、ヨーロッパや北アメリカの官僚的な産業文明は、新しいタイプの人間を創造した。すなわちそれは<オーガニゼーション・マン>(組織人間)、<オートマトン・マン>(自動機械的人間)、<ホモ・コンシューメン>(消費的人間)といえるものであり、さらには<ホモ・メカニカス>(機械的人間)でもある。それは機械的なもの全てに強く心を惹かれ、生きているものに反撥する傾向をもつ機械部品のような人間という意味である。[5] サラリーマンの画一化、規格化は、組織体の中で働く人間の組織への帰属、という視点で説明できると思われる。

 オーガニゼーション・マン(組織人間)という言葉は、ホワイトによって用いられた。会社員はもっとも顕著なオーガニゼーション・マンであると、ホワイトは述べている。『組織のなかの人間』から引用したい。

 オーガニゼーション・マンは、労働者ではないし、事務職である人という意味での、いわゆるホワイトカラーでもない。これらの人々はもっぱら組織のために働く。そのうえ組織に帰属してもいる。彼らは、組織の生活に忠誠を誓って、精神的にも肉体的にも、家郷(ホーム)をみすてた中産階級の人々である。しかも、社会の偉大なゆるぎなき諸制度の魂ともなり、中核でもあるのは、実に彼らなのだ。そのうち、ごく少数の者だけが経営者の椅子に坐り、またはいずれ、その席を占めるかもしれない。「幹部要員」という曖昧な言葉が真理的に必要とされる仕組みの中では、彼らは中枢の人でもあり、ひとしく一般列伍者でもある。そして、大部分の者は、もっと体裁のよい別の呼び名が待望されている中流の分野に、なんとか均衡をとりながら一生を過ごす運命を持っている。会社員は、オーガニゼーション・マンの単なる一例に過ぎない。会社組織に際立って認められる集団化の現象は、今やほとんど全ての分野に影響を及ぼしている。(略)彼らは全て、同舟の客である。彼らの関心を一番ひきつけるのは集団的作業という共通の問題である。[6] 故郷を離れたオーガニゼーション・マンの思想の核心は、集団の倫理、組織の倫理、あるいは官僚機構の倫理である。それは組織からの忠誠の要求を合理化するものであり、組織に忠誠を捧げようとする人々には、それを果たす上での献身の感覚を与えるものであった。[7] オーガニゼーション・マンの視点には、個人対組織という問題が含まれていると思われる。オーガニゼーション・マンの背負うジレンマについてホワイトは次のように述べている。

 個人対権威の問題を解こうとして彼が直面する決定は、いつも何かジレンマにつきあたる。それは、暗黒の圧制に対して戦うべきか否か、または愚劣な特権に対抗して新しい路を拓くべきか否か、といったケースではない。それならば、少なくとも頭の中だけならやさしい問題であろう。現実に問題になっていることは、はるかに油断のならぬものだ。なぜなら、オーガニゼーション・マンを惑わすのは、組織生活の害毒ではなくて、実にそのもたらす恩恵だからである。彼は組織から同胞として捕らえられている。戦いの場はあまりに狭く、おとし穴はあまりに世俗の利害にみちているので、彼の戦いは英雄的な振舞いに欠けている。しかし、このためにこそ、先代たちがかつて戦わねばならなかったと同じく、それは苦難に満ちている。そして、ホワイトは、集団の倫理に重きをおく、オーガニゼーション・マンの思想は、誤りであると述べる。人々は他人とともに働くべきである。まさにしかり。うまく運営される一団は、その部分の総和よりもさらに偉大な全体である。まさにしかり。これらすべては、全く真理である。しかし、現在労苦してかちうべき真理であろうか。明らかに組織の時代であるからこそ、それは特に強調さるべき貨幣の裏面となるのだ。我々はまさに、組織とうまく協力してゆくしかたを学ぶ必要がある。しかし、それゆえにこそ、組織に反抗するしかたをもさらに一層知る必要がある。(略)我々ははるかに踏み迷ってしまった。そして、組織の作業をしあげることに関心を払っているうちに、ほとんど組織を神格化線ばかりの有様に至っている。われわれはその欠陥までも美徳として記述し、または、個人と組織との間には相剋が存在する-すべきだということすら否定しようと試みている。この否認は組織にとっても好ましくはない。個人にとってはいっそう好ましくない。個人の魂を安らげるために、この否認のなすところは、彼がどんなにか必要としている知性の武器を奪いさることだけだ。組織が個人の上に権力を振るえば振るうほど、彼はますます組織に反抗すべき場を確認する必要がある。組織の社会のジレンマを認識すべきだと説くことは、組織の社会が以前のどんな社会とも同じように個人と両立しうるという、希望に満ちた前提と相容れないはずはない。我々は、ほとんど対処するすべのない強大な力の手中に握られた不幸な存在ではない。組織は人間によって作られてきた。それは人間の手で変えうるはずだ。個人をパーソナリティ・テストのデータにまで収縮してしまう事態を生み出したのは、決して歴史の不変なコースではない。この収縮を受け入れた者、それはオーガニゼーション・マンである。そして、とめうる者もまた彼なのだ。ホワイトは、個人と組織との両立を説く。要するに、過誤は組織の中にあるわけではない。それは組織によせる我々の崇敬の中にある。それはユートピアの平衡を求める我々のむなしい憧れの中にある。それはまた、社会と個人との間には相剋がないとする心弱き否認の中にある。相剋はほとんど常にあるはずである。相剋にたじろがず直面するところに、個人たることの真価がある。それを避けることはできない。心にうわべばかりの平和を与える倫理を求めるなら、彼はみずから虐げることになるのである。組織の生活の中で、個人はその運命を自分の手中にもぎとらなければならないのだ。[8] 

 しかし、ホワイトが述べる組織の中で個人たることは容易なことではない。サラリーマンで考えれば、会社という組織体の中で働くということには、人間関係の維持、という問題が伴う。通常、サラリーマンは上司とウマが合わないからといって簡単に会社を辞めることはできない。苦痛を伴いながらも、自分を押し殺さなければならない場面は日常的にある。他者との関係を抜きにして私たちの日常生活を考えることはできない。私たちは、社会的世界の中で常に他者と相互に関係づけられているのだ。互いに生きた関係を結ぶ過程においてのみ、相手と私は両者を隔てる障壁を乗り越えることができる。ともに生の舞踏に加わっている限りは。それでも相互の十全な同一化は決して達成され得ない。[9]

 人間のコニュニケーションを考えた場合、AがBの身になる、というのはAがBの役割を深く経験する、ということであって、AがBになるということではない。相手の「役割」を経験するとき、こちらにはこちらの自分というものがある。相手の身になる、親身になって相談する、といった深い共感が成立している場合も本当に相手の身になりきってしまうことはできないのだ。相手の身になる、つまりもう一人の自分の眼で自分をみる、ということは、こちら側にも本来の自分があるからこそ意味のあることなのだ。人間の内部には、「主体的な自分」と「客体的な自分」との間の会話が展開している。話を聞きながら、他人のつくった記号を人間の内部の“もう一人の自分”は解読し、その“もう一人の自分”と“こちら側の自分”は、対話し続けるのである。この対話が人間の内部で発生するゆえに、人間がいくら言葉をたくさん使っても、理解しあうことが難しい。「理解」すなわち「わかる」ということは、二人の人間の間の問題というよりも、一人の人間の内部での、“二人の自分”の間の問題であるのだ。自分の内側に取り込まれた“もう一人の自分”と“こちら側の自分”との間には緊張関係、あるいは弁証法的見解が生まれる。もう一人の自分が持ち込んできた他人の記号、そしてその背景にある他人の内部の状態、それが“こちら側の自分”とかかわりあって、もう一つの高次の内部の状態を作り出すこと-それが、人間的意味での「理解」なのだ。二人の間で進行しているように見えるコミュニケーションは実は、一人の人間の内部でのコミュニケーションでもある。組織の中で働く時、制度的に”こちら側の自分“を黙殺しなければならない場合もある。サラリーマンであれば、社長の命令は絶対である。「社長のおっしゃることはよくわかりますが、しかし・・・」などという語法は、通用しない。こうした場面は苦痛を伴う。なぜ苦痛なのか。それは、“こちら側の自分”がこの人間関係では完全に圧殺されてしまうからである。“こちら側の自分”がちょっとでも顔を覗かせたらこの人間関係は維持できない。苦痛ならやめてしまえ、というわけにはいかない。いやだ、いやだ、といいながら“こちら側の自分”を殺して職業生活を続ける。それがサラリーマンないし組織人の生き方というものなのだろう。[10] 会社に適応しようと自分をねじ曲げなければならないことも多々ある。会社という組織の中では、どうにでもさしかえのきく部品として扱われやすい。サラリーマンは偶然の連続で部を転属することを先に記したが、設計理論からすれば、例えば経理部でとにかく人が一人必要だ、となれば、設計者のなすべきことは要するに豆粒を一つそっちに回すことである。特定の固有名詞をもった個性的人間を回すことではない。組織の中では、労働力が人格抜きの抽象的な豆粒、あるいは一片の歯車に例えられるようなものになりやすい。サラリーマンの働きがいの喪失には、資本主義社会における「労働力の商品化」という問題が含まれている。

 

************

引用文献

[1] 船津衛編著『現代社会論の展開』212-213頁、北樹出版、1992年。

[2] 奥村宏「揺らぐ日本型就職システム」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』38-41頁、岩波書店、1994年。

[3] 影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』104頁、岩波書店、1994年。

[4] 尾高邦雄『職業の倫理』301-305頁、中央公論社、昭和45年。

[5] 山岸『日常生活の社会学』33頁、日本放送出版協会、1978年、E・フロム著、鈴木重吉訳『悪について』66-67頁、紀伊国屋書店、1965年刊、より引用。

[6] W・H・ホワイト著、岡部慶三・藤永保訳『組織のなかの人間』(上)、2-3頁、創元社、昭和34年。

[7] 山岸、前掲書、34頁。

[8] W・H・ホワイト、前掲書、20-21頁。

[9] E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』126頁、紀伊国屋書店、1977年。

[10] 加藤秀俊『人間関係』80-88頁、中公新書、1966年。