「台湾が日本の統治下にあった」とは「植民地」だったということだ!
NHK 「台湾は日本の生命共同体」李登輝元総統 日本への思いは… 2020年7月31日 21時15分おくやみ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200731/k10012544391000.html?utm_int=news_contents_news-main_002
台湾の李登輝元総統は2015年に来日した際、NHKの単独インタビューに応じ、日本語で日本への思いを語っています。
この中で、李元総統は、日本に対する思いの源について「22歳まで、日本人としての教育を十分に受けてきた」と答えたうえで「台湾は、日本の持っている『自由と民主』という考え方を持たなければならない」と述べています。
アジアにおける日本の役割については、中国が沖縄県の尖閣諸島や南シナ海などをめぐってみずからの領有権を主張する動きを強めていることに触れ、「日本がアジアの平和を保たなければならない。アメリカがやれないことは日本が率先して解決していくことが大切です」と述べて、安全保障などで積極的に役割を果たすことに期待を示しています。
一方、日本と台湾の関係については「日本の今までの内閣や指導者は台湾に対する考えをあまり強調していません。私もだいぶ苦労しました」と述べて、かつて病気の治療のために日本への訪問を希望した際に、ビザの発給がなかなか認められなかったことなどを振り返り「台湾と日本の関係を積極的に進めるという考え方を持つべきだと思います」と述べています。
その上で、「台湾は日本の生命共同体であり、日本に頼らなければいけないという面が非常に強い」と述べて、関係を強化する必要性を強調しています。
日本の統治下での経験 人生に大きな影響
李登輝元総統は、台湾が日本の統治下にあった1923年に台北近郊で生まれ、旧制台北高等学校を卒業後、日本に渡り、京都帝国大学、現在の京都大学に入学しました。
太平洋戦争中に旧日本陸軍に入隊し、日本で終戦を迎えました。当時は「岩里政男」と名乗り、著書の中で、「私自身、日本の教育で生まれ育ってきましたから、その価値観は骨の髄まで染みこんでいます。戦前の日本の高度な教育が、いまの私の思想・知識の基礎になったことは疑うべくもありません」と記すなど、日本の統治下での経験がその後の人生に大きな影響を与えたとしています。
李元総統は、敬愛する人物の1人として新渡戸稲造を挙げ、日本の「武士道」を世界に紹介した新渡戸の著書に関する本も出版しています。
この中で李元総統は「『日本精神』、すなわち『義』を重んじ、『誠』をもって、率先垂範、実践躬行するという『大和魂』の精髄がいまなお脈々として『武士道』精神の中に生き残っていると信じ切っているからこそ、日本および日本人を愛し、尊敬しているのです」と記し、みずからが台湾の改革を推し進めたのは、人の先頭に立って模範を示し、みずから実行するという武士道に対する崇敬や信頼の念があったからだと強調しています。
総統退任後はたびたび日本訪問
李登輝元総統は、2000年に総統を退任してからは、たびたび日本を訪れていて、最後の訪問になった2年前の2018年までにあわせて9回に上ります。
退任後、初めて日本を訪れたのは2001年で、岡山県を訪れ、心臓病の治療を受けました。
その後、2004年には名古屋、金沢、京都などを訪問し、母校・京都大学の恩師と再会しました。
また、2007年には、長年望んでいた松尾芭蕉の「奥の細道」をめぐる旅を実現させたほか、台湾が日本の統治下にあった1945年、第2次世界大戦で旧日本軍の兵士としてフィリピンのマニラ沖で戦死した兄がまつられている靖国神社を参拝しました。
最後に日本を訪れたのは2年前の2018年で、沖縄県の平和祈念公園で戦争で亡くなった台湾出身の人たちを追悼する慰霊碑の除幕式に参列しました。
一方で、李元総統は2002年、慶應義塾大学の学園祭で講演を行うことを理由にビザの申請を行いましたが、学園祭を主催する実行委員会が講演会の開催を取り消したため、一旦、申請を取り下げました。
その後、会場変更の動きを受けて、再びビザの申請を検討したものの、外務省が再申請があっても認めない意向を示したことから訪日を断念しました。(引用ここまで)
日本帝国主義の同化政策の象徴的教材
資料179 国民学校国語教科書『初等科國語三』(本文)
http://sybrma.sakura.ne.jp/179syotoukakokugo3.html
昭和十年四月二十一日の朝、臺灣(たいわん)で大きな地震がありました。
公學校の三年生であつた德坤(とくこん)といふ少年は、けさも目がさめると、顔を洗つてから、うやうやしく神だなに向かつて、拜禮をしました。神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
家を出て少し行つた時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角(どかく)がくづれて來ました。土角といふのは、粘土(ねんど)を固めて作つた煉瓦(れんぐわ)のやうなものです。
父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
少年の傷は思つたよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所(ちれうじよ)で手術を受けました。このつらい手當の最中にも、少年は、決して臺灣語を口に出しませんでした。日本人は國語を使ふものだと、學校で敎へられてから、德坤は、どんなに不自由でも、國語を使ひ通して來たのです。
德坤は、しきりに學校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。
ちやうどそのころ、學校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそがしかつたのですが、德坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあつて見まひに來られました。
德坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほつて、學校へ行きたいのです。」
と、德坤はいひました。
「さうだ。早く元氣になつて、學校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、德坤がかはいさうでたまりませんでした。
少年は、あくる日の晝ごろ、父と、母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある醫院(いゐん)へ送られて行きました。
その夜、つかれて、うとうとしてゐた德坤が、夜明近くなつて、ぱつちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらつしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これつきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
少年は、ちよつと目をつぶつて、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸つて、靜かに歌ひだしました。
きみがよは
ちよに
やちよに
德坤が心をこめて歌ふ聲は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞えました。
さざれ
いしの
小さいながら、はつきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの聲が起りました。
いはほとなりて
こけの
むすまで
終りに近くなると、聲はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつぱに歌ひ通しました。
君が代を歌ひ終つた德坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに長い眠りにつきました。(引用ここまで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE