今日4月28日は、かつては「沖縄反戦デー」などと言われた日だった。屈辱の戦後史の始まりの日だった。サンフランシスコ条約と日米安保体制によって「独立」によって、さらに繁栄できたはずの国民力をムダに使わなければならなかったことを、改めて強調しておかなければならない。
そこで沖縄と本土の新聞の社説を見てみた。沖縄の立場は日本の立場であるはずなのに、沖縄の苦しみに共感の眼差しを注がない本土のマスコミがあった。「講和条約によって敗戦国日本は占領体制を脱し主権を回復」と評価する「産経」のウソとデタラメは、その最たるものだ。わが国の「屈辱」を「独立」と称し、その「独立」を演出したアメリカに押し付けられた憲法と評価し、中国・北朝鮮の脅威に対して日米同盟の深化を叫ぶという矛盾した立場を「読売」とともに平気な顔をして宣しているのだ。そればかりか、その米軍の後押し?で「尖閣」「北方領土」「竹島」などの領土問題を「強い対抗措置」という曖昧な言葉で煽っている。また「北朝鮮工作員に拉致された問題が長年、放置されてきたのも、多くの政治家や外務官僚の主権意識が希薄だった」としているが、「産経」の論理にたてば日米安保体制が全く機能していなかったことを曖昧にしている。これも「政府の弱腰外交」にその責任を押し付けごまかしているのだ。領土問題の根幹に、あの屈辱的なサンフランシスコ講和条約があることを隠しているのだ。これはコインの裏と表の関係だ。
「東京」でさえも、「日本は戦後、最も成功した国家の一つに挙げられてもよい。 それを成し遂げられたのは、先人の努力、日本人持ち前の勤勉さ、器用さはもちろんだが、西側陣営の一員として日米安保条約の下、経済活動に専心できたことと無縁ではなかろう。 アジア・太平洋地域の局地的な紛争も、戦火が日本に直接及ぶことはなかった」と述べ、朝鮮戦争やベトナム・インドシナ戦争、アフガン・イラク戦争の犠牲者が、この国から出撃しした米軍によって大量につくりだされたことを想像できない、とんでもない「歴史認識」のたった社説を書いているのだ。
しかも「日米安保条約が日本を含むアジア・太平洋地域の平和と安定に不可欠で、日本国民が条約存続を選択するのなら、日本に提供義務のある米軍基地の負担は、国民ができる限り等しく負うべきだろう」と、「選択するのなら」などと「日本国民」に「責任」転嫁し、自分の立場を曖昧にしているのだ。日米同盟廃棄はタブーなのだ。日米安保体制を廃棄して、文字どおり「アメリカ世」を終焉させるシナリオを書くことはできないし、しないのだ。こうしたマスコミの立場が、国民にどれほどの影響を与えているか、検証しなければならない。
では、なぜサンフランシスコ条約と日米安保条約が「屈辱」か、あまり取り上げられない例をひとつあげておこう。
新原昭治「砂川闘争半世紀―米政府秘密文書が語る事件の内実」(「前衛」09年7月号)より抜粋だ。
この日米安保条約の締結の仕方を調べてみますと、国民にも報道機関にも、さらには国会にもまったくなにも知らせないで、吉田茂首相や外務省のごく一部の幹部だけしか知ることのできない完全な秘密交渉のうちにつくりあげ、サンフランシスコで対日講和条約と事実上抱き合わせで突如として締結したのでした。当時、日本全土がまだ米軍の全面占領下にありました。それに加えて米占領軍とそれに仕える吉田内閣が、事実上、いっさいの法律の効力を停止して軍隊が治安を管理する「戒厳令」にも等しい暗黒の弾圧政治を強行し、国民の言論の自由、行動の自由が完全に無視されていました。多くの労働組合活動家らが「レッドーパージ」で職場から追放された時期でもありました。
では一九五一年九月八日がなんの日であったかと言えば、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウスで、日本と戦った旧連合国諸国が日本との戦争状態を法的に終結させるための「対日平和条約」に調印した日でした(ソ連や中国、インドその他は調印または平和条約会議自体に参加せず)。この講和条約に調印するためにサンフランシスコに派遣された日本政府の全権(外交交渉でいっさいの権限を委ねるという委任状をもって海外に派遣される政府代表)が六人いましたが、首席全権の吉田首相以外のほとんどの全権にとって驚くべきことが起きました。それは前の晩(九月七日夜) 一一時ごろになって、米政府から日本全権団に連絡があり「明日、対日平和条約の調印が終わったあと、別の場所で日米安保条約調印式をやりたい」と通知してきたのです。六人の全権のうちの二人(苫米地義三、徳川宗敬)は「そんな話はまったく聞いていない」と言って、安保条約調印式への出席を断りました。八日の午前中、対日平和条約調印式が終わったら、その日の夕刻、二人を除く残りの四人の全権(吉田首席全権以外に星島二郎、池田勇人、一万田尚登)が、サンフランシスコ市の北西端の、太平洋がすぐ目の下に見える古い軍事基地プレシディオ要塞の米陸軍第六軍基地司令部に車で連れて行かれ、そこの下士官集会所に案内されました。一〇年ほど前に軍事基地が開放されていまは国立公園になっているところなので、私は最近数年間に二度そこを訪れ、現場に立ちながら、押しつけられた日米安保条約調印式について想像をめぐらせました。わずか一〇分とも一五分ともいわれるあっという間の日米安保条約調印式がそそくさとおこなわれた場所は、下士官集会所の「ボールルーム」(舞踏室)であったことを、この目で確認しました。
この調印式についてぜひ記憶しておいていただきたいのは、日本政府代表として日米安保条約に調印したのが、吉田茂首席全権ただ一人であったという事実です。アメリカ政府を代表して調印したのが次のように四人であったのとは、対照的です。
以下のサンフランシスコ講話条約の条文によって秘密裏に日米安保条約を「調印」し、米軍の継続的「占領」を「合法化」したのだ。上記の新原の論文の事実をみれば、まさに「ごまかし」の「独立」であった。
第六条
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん{前2文字強調}又は駐留を妨げるものではない。
(b)日本国軍隊の各自の家庭への復帰に関する千九百四十五年七月二十六日のポツダム宣言の第九項の規定は、まだその実施が完了されていない限り、実行されるものとする。
(c)まだ代価が支払われていないすべての日本財産で、占領軍の使用に供され、且つ、この条約の効力発生の時に占領軍が占有しているものは、相互の合意によつて別段の取極が行われない限り、前期の九十日以内に日本国政府に返還しなければならない。
日本のマスコミは、1951年9月8日、サンフランシスコで何があったか、全く語ることをせず、戦後の日米安保体制=日米軍事同盟を語っているのだ。
しかも、その日米安保条約によって朝鮮戦争が展開され「朝鮮特需」による「復興」が演出された。さらに60年安保で強調された「極東条項」すら守ることなく米軍がベトナム・インドシナに出撃し、アフガン・イラクで多くの無辜の民を殺害してきたのだ。日本は米軍の戦争に「協力加担」し、「西側陣営の一員として日米安保条約の下、経済活動に専心」し日本の繁栄を築いてきたというのだ。だが、その延長線上に3.11があったことを忘れることはできない。
さらに言えば、今日の財政赤字による消費税論議の大本に日米安保条約第2条があることを「忘れた」「知らない」とは言わせない。以下のブログにアクセスしてほしい。
1997年2月の衆議院予算委員会で当時の橋本首相は、「当時、アメリカ側が構造協議で求めてきたことは、わが国の公共投資の総枠を飛躍的に増やすことであり、同時にアメリカ企業の参入しやすいと思われるいくつかの分野に、その公共投資の相当部分をシフトせよという要求でありました。要求の背後にあったのは、当時の貿易収支でのわが国の大幅な黒字であり、アメリカ側の赤字であります」と述べているのです。
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11212083213.html#main
今後はウソとペテンの日米安保体制にもとづく繁栄論を検証していく必要があるだろう。日米軍事同盟に使われた血税の累積とそれを平和の分野で使うことによる繁栄論、さらには日米平和友好条約による繁栄論を構築することが大事なような気がする。
何故このことを問題にするか、それは266兆円もの内部留保がある反面、国民の約1割ものワーキングプワーの存在、いわゆる99パーセントと1パーセントの構図、99パーセントが1%の富を創り出し支えている事実、その事実に怒りも疑問も持たない国民の存在だ。まさに無辜の民が、長時間過密労働、非正規労働で創り出している富が彼らに還元されないという事実があるからだ。
憲法9条が歯止めになって米軍の横暴や軍事費を抑えてきたこと、だが、それでも米軍駐留経費や「思いやり予算」などに税金が使われてきたという事実、これらを国民の福祉や教育に回していたら、どんな国づくりができたであろうか、その想像力を大事にしていくということだ。
力量不足で、とてもできないことだが、問題意識は、今後も磨いていきたい。
民の富死に物狂いでつくりたり富の分配偽りなきを
それでは最後に、今日の社説を以下に一覧しておこう。ご参考までに。軍事基地の弊害に苦しむ現地沖縄の新聞が何を語っているか、本土の大新聞と超反動の新聞がどれ売国的か、その間で、比較的良心的な新聞が、その態度を曖昧にしているか、検討していただきたい。
「東京」社説 講和条約発効60年 終わらぬ「アメリカ世」2012年4月28日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012042802000099.html
日本が敗戦後の占領から独立を回復して六十年。日米安保条約で米軍は駐留を続け、沖縄には広大な基地が残る。独立国とは、を今なお問い掛けている。 今から六十年前の一九五二年四月二十八日。前年九月に結んだサンフランシスコ平和条約(講和条約)と日米安全保障条約が発効して、日本は再び独立を果たした。占領期間は六年八カ月あまり。
当日朝に発行された中部日本新聞(現中日新聞)は一面に、横山大観画伯が雲間にそびえる山頂を描いた「雲ひらく」を、当時珍しかった多色刷りで大きく掲載し、独立の喜びを表現している。
◆成功国家の一つに
同時に新生日本が歩むであろう道の険しさも指摘している。われらが先輩の筆による社説は「祖国独立の前途」と題してこう記す。 「喜びは喜びとして、どうして祖国の再建を達成するかに考えおよぶと、その前途の決して容易でないことがしみじみと感じられる。わが国独立の前途には、対外的にも対内的にもたんたんたる大道が開けているわけではない」 独立後の道のりは平たんではなかったが、一時は国内総生産(GDP)世界第二位となる経済成長を遂げた。粗悪品だった日本製は今や良質の代名詞だ。国民皆保険制度を導入し、平均寿命は男女総合で世界一位に。 先の大戦の反省から武力による威嚇、行使を放棄した日本国憲法の下、平和国家の看板を掲げる。 日本は戦後、最も成功した国家の一つに挙げられてもよい。 それを成し遂げられたのは、先人の努力、日本人持ち前の勤勉さ、器用さはもちろんだが、西側陣営の一員として日米安保条約の下、経済活動に専心できたことと無縁ではなかろう。 アジア・太平洋地域の局地的な紛争も、戦火が日本に直接及ぶことはなかった。
◆切り離された沖縄
日本本土にとって平和と繁栄を享受する転機となった講和条約の発効は沖縄には新たな苦難の始まりだった。この条約で沖縄は本土から切り離され、米軍による統治「アメリカ世(ゆ)」が続いたからだ。 沖縄では四月二十八日を「屈辱の日」と呼ぶという。米軍統治の苛烈さを想起させる。 琉球政府の上部組織である米国民政府などのトップには米陸軍の軍人が就いた。沖縄に住む人たちの人権は脅かされ続け、住民自治は著しく制限された。 米軍は沖縄占領とともに基地を拡大し、土地収用に抵抗する住民には「銃剣とブルドーザー」による強制収用で応じた。 皮肉なことに、沖縄での基地拡大の一因が、五五年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争など、本土での反米反基地闘争だ。 岐阜、山梨両県に駐留していた米海兵隊は五六年、沖縄に移駐した。安保条約発効から改定される六〇年ごろまでに、本土の米軍基地は四分の一にまで減り、逆に沖縄では約二倍に増えた、という。 住民が抵抗する本土から抵抗できない沖縄に。日々の騒音や相次ぐ事故、米兵による犯罪など基地負担の押し付けにほかならない。 七二年の沖縄の日本復帰後も、基地負担の重圧に沖縄が苦しむ状況は変わっていない。在日米軍基地の約74%は今なお沖縄県内に集中している。基地を押し付けたが故に、沖縄県民以外の多くの日本人がこの現実を忘れてしまっているのではないか。 日米安保条約が日本を含むアジア・太平洋地域の平和と安定に不可欠で、日本国民が条約存続を選択するのなら、日本に提供義務のある米軍基地の負担は、国民ができる限り等しく負うべきだろう。
しかし、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先をめぐり「北海道から鹿児島までヤマトで探してもらいたい」と訴える仲井真弘多沖縄県知事の切実な声に、政府も国民もどれだけ真剣に耳を傾けてきたというのか。 きのう発表された日米外務、防衛担当閣僚による共同文書は、名護市辺野古への県内移設が「これまでに特定された唯一の有効な解決策」と現行案を堅持した。 海兵隊基地は沖縄から動かせないという思考停止に、日米ともに陥っているのか、それとも日本側が米側に国外・県外移設を言い出せないでいるのか。
◆祖国復帰したが…
佐藤栄作首相は六五年、戦後の首相として初めて沖縄を訪問した際、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と語った。 祖国復帰は実現した。しかし、異民族支配の象徴だった米軍基地が今なお沖縄県民の生活を威圧する限り沖縄での「アメリカ世」は終わらない。同胞である日本政府がそれを変えられないのなら、本土においても同様である。
[産経主張] 主権回復の日 「領土」と「拉致」に本腰を2012.4.28 03:25 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120428/plc12042803260005-n1.htm
サンフランシスコ講和条約の発効から、28日で60年を迎えた。講和条約によって敗戦国日本は占領体制を脱し主権を回復したが、政府主催の行事は予定されておらず、関心は薄いのが現実だ。 その中で注目すべきは今月、石原慎太郎東京都知事が米国で「東京都が尖閣諸島を購入する」と発言したことだ。 これまで、都には約3500件の意見が寄せられ、9割が賛成だった。現金書留などによる寄付も約30件あったという。日本の領土、領海を守るという主権意識が大きなうねりになってきたといえ、戦後日本のありようを見つめ直す契機としたい。 反響の根底には、一昨年9月の尖閣沖での中国漁船衝突事件で、中国人船長を逮捕したにもかかわらず、処分保留のまま釈放してしまったことに象徴される政府の弱腰外交への批判がある。 中国は日本政府の足元を見透かすように漁業監視船などを尖閣周辺に派遣し、領海侵犯を繰り返している。野田佳彦政権は今こそ、尖閣諸島の有人化など、領土保全策に本腰を入れるべきだ。
尖閣諸島は講和条約発効から20年後、沖縄返還で米国から返された島だが、北方領土と竹島は、戦前・戦後を通じて一貫して日本固有の領土である。しかし、北方領土はロシア、竹島は韓国に不法占拠されたままだ。ロシア大統領の北方領土訪問など不法占拠を既成事実化する露骨な行為には、強い対抗措置が求められる。
横田めぐみさんらが北朝鮮工作員に拉致された問題が長年、放置されてきたのも、多くの政治家や外務官僚の主権意識が希薄だったことと無関係ではない。 拉致は日本人の生命が危険にさらされ、人権を奪われただけでなく、主権を侵害された北による国家犯罪である。日本政府は拉致された日本人全員を取り戻すまで、全力を尽くさねばならない。
講和条約は11条で、極東国際軍事裁判(東京裁判)などの受諾を求めている。だが、それは、戦犯として有罪判決を受けた被告の刑の執行の継続と法による適正な赦免・減刑手続きを求めた規定で、東京裁判における「南京大虐殺」など一方的な事実認定まで日本に強要したものではない。 東京裁判などにとらわれない国民の歴史を取り戻すことも、重要な課題である。
琉球新報社説 対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留2012年4月28日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190560-storytopic-11.html
60年前と一体、何が変わったのか。日米両政府が27日に発表した在日米軍再編見直しの共同文書にこんな印象を抱く県民が多いのではないだろうか。
米軍普天間飛行場の移設先について名護市辺野古が「これまでに特定された唯一の有効な解決策である」と結論づけた。知事をはじめ県内世論の大多数が県内移設に反対しているにもかかわらず、県土の利用方法を日米が県民の頭越しに勝手に決めたのだ。
連綿と続く「屈辱」
60年前のきょう4月28日は対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効された日。敗戦国の日本が完全に主権を回復し、連合国の占領状態から独立を果たした。一方でこの日を境に沖縄、奄美を含む南西諸島が日本から切り離され、米軍統治という異民族支配が始まる。その後に連綿と繰り返された住民弾圧、人権蹂躙(じゅうりん)の源流となるこの日を、沖縄では「屈辱の日」として語り継いできた。 沖縄を日本から切り離した米軍はまず、住民が暮らしていた土地を強制的に接収し、基地拡大を始めた。1953年4月、真和志村の安謝、天久、銘苅に土地収用令を発令し、その後も伊江島、読谷、小禄、宜野湾の各村に武装兵を動員し「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家屋を次々となぎ倒した。 こうして日本の国土面積の0・6%しかない沖縄県は現在、在日米軍の74%を抱えて差別的な過重負担を強いられている。
「沖縄における米軍のプレゼンス(駐留)の長期的な持続可能性を強化する」。共同文書は記す。 戦後67年も基地被害に苦しんできた沖縄に、長期にわたって基地を置き続けるという日米の狙いがはっきりした。条約発効から60年後の「屈辱の日」前日に、新たな「屈辱」が重ねられる。沖縄をいつまで日米安保の踏み台にするのか。 昨年11月に「普天間」移設作業で環境影響評価書の提出時期を記者から問われた当時の沖縄防衛局長は「犯す前に、これから犯すと言いますか」と言い放った。県民を陵辱の対象にしか見ず、沖縄の民意を踏みにじってでも新基地建設を押し進めようという政府側の姿は「銃剣とブルドーザー」と何が違うのだろう。 共同文書には「普天間」移設先で名護市辺野古以外の選択肢の余地に含みを残す文言が入った。辺野古について「唯一の有効な解決策である」とする記述の前に加わった「これまでに特定された」という部分だ。現時点では辺野古は「有効な解決策」だが、将来までは保証しないという含意がある。
理不尽な県民無視
この記述は、嘉手納統合案を主張し、共同文書の発表日程を「詰めが不十分」だと批判して延期させた米上院のレビン軍事委員長らに配慮して盛り込まれたようだ。国防予算を左右する大物議員の声には耳を傾ける日米両政府が、当事者である県民の意向を無視するのはあまりにも理不尽だ。 将来、辺野古を断念したとしても、レビン氏らの意向が反映されれば嘉手納統合案という県内移設を押し付けられかねない。今年7月に普天間飛行場に配備予定というMV22オスプレイも今年初めの時点では、県内配備の前に本州の米軍基地で先行駐機する案が浮上していた。しかし今月になって受け入れ態勢などに問題があるとの理由で断念し、沖縄が国内初の配備地となりそうだ。言語道断だ。 57年前、土地を奪われた伊江島の住民が本島に渡り、多くの人々に実情を訴えるために行脚した「乞食行進」でこう訴えた。 「乞食するのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのは、なお恥です」。戦後も沖縄だけに過重負担を強いている現在の日米両政府の姿にも通じる一文である。 民主国家を標榜する日米の下でこれ以上、人命、人権が脅かされる構造的暴力を許してはならない。
沖縄タイムス社説[講和条約発効60年]基地政策の惰性改めよ2012年4月28日 09時55分(10時間19分前に更新)
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-28_33066/
サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)は1952年4月28日、発効した。敗戦国日本が主権を回復し、国際社会に復帰した日である。
全国の多くの学校で朝礼が開かれ、学校長が講和発効の意義を説いた。講和発効にちなんで祝典歌「日本のあさあけ」を歌い、万歳を三唱した学校もあったという。
「日本のあさあけ」は、吉田茂内閣の依頼で歌人の斎藤茂吉が作詞し、「海ゆかば」を作曲した信時潔が曲をつけたものだ。
当時の吉田茂内閣は、平和条約を「寛大な講和」だと評価し、祝賀ムードを演出したが、講和条約には負の側面も多かった。「北緯29度線以南の南西諸島」の施政権が米国に委ねられたのである。
53年、奄美諸島の日本復帰が実現し、与論と沖縄の間の「北緯27度線」が新たな国境になった。
塩屋小学校の2年生が66年に作文を書いている。 「うみに、せんがひかれて、日本のうみ、おきなわのうみと、わかれているというが、ほんとうかな。ほんとうにせんがみえるかな。うみのうえで、あくしゅして、早く日本にかえるようにするそうです」
あれから60年。鹿児島県与論町と国頭村の人々が28日、27度線周辺の海上に集い、かつての海上集会を再現する。
沖縄の復帰は40年前に実現したが、サンフランシスコ体制の下で築かれた沖縄の基地群と自由使用という運用形態は、依然として清算されていない。
4月28日に海上集会を再現することは、現在の問題を考える上でも、大きな意義がある。
復帰前、米国は司法、立法、行政のあらゆる権限をもっていた。 琉球上訴裁判所で係争中の事件の裁判権を米国民政府裁判所に移送したり、選挙で選ばれた瀬長亀次郎那覇市長を反米だとの理由で布令を改正して追放したり。米国に都合の悪い状況が発生すると、米国民政府は権限行使をちゅうちょしなかった。 事件事故の米兵加害者が軍法会議で無罪になったケースも多い。 68年の主席公選が実現するまで、沖縄の人たちは、選挙で自分たちの主席(今の県知事)を選ぶことさえできなかった。
詩人の山之口貘が嘆いたように、米国統治下の沖縄は「日本みたいで/そうでもないみたいな/あめりかみたいで/そうでもないみたいな/つかみどころのない島」だった(詩「正月と島」より)。
講和条約に調印する前の1940年代後半までは、沖縄の将来について、「独立」や「国連の信託統治」を主張する人々も多かった。 沖縄戦直後の多様な政治的主張が「復帰」に収れんしていくのは、講和条約調印が現実の政治日程にのぼったころからだ。条約発効直後の52年11月、立法院は早くも「琉球の即時母国復帰請願」を決議している。
講和後、沖縄の民意が急速に変化したのはなぜだろうか。(1)日常的に「自治」「人権」が脅かされ、(2)沖縄の国際的地位もウチナーンチュの法的位置づけも不安定で、日本人なのか琉球住民なのか、つかみどころがなく、(3)基地建設のための土地接収が相次ぐなど、住民の財産権まで脅かされ、(4)米兵の事件事故も多発するようになった―からである。
72年5月15日の日本復帰は、沖縄にとって、米国統治に終止符を打つ大きな「世替わり」だった。だが、苦難の歴史に終止符が打たれたわけではない。
2010年5月、鳩山由紀夫首相が来県し、米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校体育館で住民との対話集会が開かれた。同校教諭の訴えは、今、早急に解決すべき問題が何なのかを明確に示している。 「騒音による昨年度の授業の中断は実に50時間。それだけの時間を七百人余の子どもたちは奪われているのです」 50年代、60年代に騒音に悩まされる日々を送った子どもたちの、その子や孫の世代が、今なお米軍の騒音に脅かされ続けているのである。 この現実をこれ以上放置することは許されない。
「読売社説」 海兵隊移転合意 米軍基地返還を着実に進めよ (2012年4月28日01時02分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120427-OYT1T01126.htm
米軍の抑止力維持と沖縄の負担軽減が両立できて、費用負担も軽減される。 日本にとって、満足できる合意である。 これに基づき、海兵隊の移転と米軍施設の返還を着実に進めることが肝要だ。外務、防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)が、在日米軍再編見直しに関する共同文書を発表した。
在沖縄海兵隊9000人が海外移転し、うち4000人はグアム、残りはハワイ、豪州、米本土に移る。沖縄に残るのは1万人だ。 海兵隊を沖縄から西太平洋全体に分散移転し、グアムに新たな拠点を設ける。これが、中国の軍事的台頭に対抗するための米軍の新戦略だ。アジア太平洋全体の平和と安全に資すると言える。 第3海兵遠征軍司令部や主力戦闘部隊の第31海兵遠征部隊は、沖縄に残る。米軍の抑止力が維持されることは、日本の「南西防衛」強化の観点からも評価できる。 北マリアナ諸島のテニアンなどに自衛隊と米軍の共同訓練場を整備する合意は、防衛協力を深化するうえで重要な意味を持つ。
日米の費用負担見直しでは、日本の財政支出は2006年の合意金額に物価上昇分を含めた31億ドル(約2510億円)とする一方で、出資・融資の約33億ドルはゼロとした。実質的な負担減である。 在日米軍駐留経費など資金負担を巡っては、常に激しい日米交渉となるが、今回、双方が納得できる形で決着したのは良かった。 沖縄県南部のキャンプ瑞慶覧など米軍5施設は、13地区に分割し、「速やかに」「代替施設が提供され次第」「海兵隊の国外移転後」の3段階で返還される。 返還できる土地から順次、極力早く返還するとの合意は、目に見える形での地元負担の軽減につながる。高く評価できよう。
米軍施設跡地を有効利用し、沖縄振興につなげることが重要だ。地元が積極的に案を出し、政府が側面支援するのが望ましい。 忘れてならないのは、普天間飛行場の移設だ。普天間の固定化を避ける近道はやはり、日米が「唯一の有効な解決策」と再確認した辺野古移設である。政府と沖縄県は、辺野古移設についてより真剣に協議しなければならない。 今回、米政府の根回し不足で米上院軍事委員会が異論を唱え、共同文書発表が2日遅れたのは、残念だ。日米双方がそれぞれの国内問題を抱えている。その一つ一つを克服していくことで、同盟関係はより強固になるだろう。