愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

安倍政権の資料改竄・隠ぺいは戦前から継承されている!何故か!大東亜戦争を正当化しているからだな!慰安婦・南京大虐殺などの人数を強調している輩が沈黙!そこに全てが象徴されている!

2019-02-13 | 明治150年

明治以降の大日本帝国憲法体制の歴史を俯瞰すれば

国民を大陸膨張主義・植民地主義・侵略戦争に駆り立てた装置は

情報隠ぺい・改竄・情報操作・国民の知る権利を奪う

民主主義否定によってはじめて成り立った!

「統計」=「情報」操作を繰り返す安倍政権は戦前の国家に匹敵する政権・政府だ!

一刻を争ってリセットするべし!

今や、国際的信頼も揺らいできた!

国民は鎖国的思考回路から脱却しなければならない!

さもなければ

計り知れない損害を被る!

それが歴史に学ぶということだ!

大元帥昭和天皇の開戦と終戦の聖断

http://www.geocities.jp/torikai007/bio/syowa.html

太平洋戦争とは何だったのか    日中戦争から日米開戦へ―資源争奪の末の衝突    2016年12月8日

http://historyjapan.org/pathway-to-pacific-war

第18回新聞労連ジャーナリズム大賞受賞「平和、人権、民主主義に関する一連の報道」2013年8月13日朝刊

https://www.kochinews.co.jp/18janataisho/130813taisho.html

戦争と石油(1) - JOGMEC石油・天然ガス資源情報 - [PDF]

https://oilgas-info.jogmec.go.jp/_res/projects/default_project/_project_/pdf/0/652/200601_045a.pdf

終戦時の証拠隠滅

http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/APW/APW-destroy_evidence.html

鹿児島で特高課長などを務め、内務省に戻って公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた奥野誠亮元文部大臣戦争責任など不問のまま永眠! 2016-11-17 | 戦後70年

『報道特集』が日本軍の戦犯証拠隠滅の実態を明らかに! 安倍政権の歴史修正主義と公文書改ざんの原点

リテラ  2018.08.15 08:38

https://lite-ra.com/2018/08/post-4190.html

1944年8月10日軍需省は

戦争の遂行に重大な影響を与えると分析していた!

そもそも「展望のない無謀な戦争」を起こしたのであった!

1年前に決断していれば!

多くの国民が殺されなかったはずだ! 

しかし!

しかも!

敗戦に伴って資料を焼却処分していた!

二重三重四重の背信・無責任・裏切りだった!

そんな思想を継承しているのが

安倍晋三首相だということを忘れてはならない!

名にかへて このみいくさの正しさを 来世までも語り残さむ    岸 信介

http://d.hatena.ne.jp/mie_net/20140105/p1

 

 

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急速な少子高齢化や激変する国際社会の中にある日本の現状を「国難」と位置付けた安倍首相は、「国難」をつくった責任は自民党にあることを隠ぺいして明治150年を正当化している!

2018-11-05 | 明治150年

安倍晋三派の歴史観・民主主義観を徹底的に撃ち破らなければ

日本の混迷は永遠に続く!

現在日本の「国難」の全ては

憲法を形骸化させてきた結果であることを確認すべきだろう!

そもそも

明治維新の「維新」とは何という意味だったか!

何を「御一新」するということだったか!

「明治」とはどんな意味で、どこの国の思想を使ったか!

「明治」「維新」の土台に

徳川政権下で蓄えられてきた「世直し」思想があった!

身分秩序社会から平等社会を求める民衆の運動を

天皇中心の王政復古にスリカエた!

「諸事神武創業の始まりに戻す」ことで

自由人権を否定し民主主義ではなく

天皇神格化による絶対主義の帝国主義国家をつくることだった!

福沢諭吉の「脱亜入欧」・山縣有朋の「主権線」が

大陸膨張主義を正当化し植民地主義と侵略戦争を招いた!

日本国憲法は

明治自由民権思想で謳われた

自由・人権・民主主義・平和主義を継承するものだった!

憲法9条は

世界と日本の歴史の中で

営々と構築されてきた紛争の平和的解決を具体化するものだった!

朝鮮戦争以後

日米両政府は日本国憲法の明文・解釈改憲のために憲法を形骸化してきた!

だからこそ憲法第97条を踏まえ、憲法を活かす国民的運動が必要不可欠である!

日本国憲法を活かす政権を構築することは

アジア諸国への大きな影響となる!

世界各地の紛争解決のための指針こそ憲法平和主義と言える!

  宮崎日日   明治改元150年   2018/11/3

◆敗戦に至る経緯も胸に刻め◆
今年は、1868年の明治改元から150年に当たる。東京・永田町の憲政記念館で10月下旬に行われた記念式典で、安倍晋三首相は急速な少子高齢化や激変する国際社会の中にある日本の現状を「国難」と位置付け、「明治の人々に倣い、どんな困難にもひるむことなく未来を切り開いていく」と決意表明した。安倍首相は年初来、明治維新について日本を近代化させ欧米列強の帝国主義から日本の独立を守ったと称賛、当時の人々に学ぼうと呼び掛けてきた。
民主化に長い道のり
確かに経済発展や軍事力強大化のスピードは目覚ましいものがあった。しかし一方で、政治体制の民主化には長い時間と多くの努力が必要だった。さらに政党政治の挫折が無謀な戦争を引き起こし、国家を存亡の機に立たせる敗戦と他国による占領を招いた。教訓を胸に刻まなければならない。
元号が明治に改められたのは1868年10月23日だが、政治体制の大転換は前年11月、将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上する大政奉還から始まる。68年1月以降、幕府の廃止と天皇中心の新政府の樹立を宣言する「王政復古の大号令」、戊辰(ぼしん)戦争の最大の戦闘である会津戦争での新政府軍の勝利などを経て、改元が行われた。
その後は統治体制の整備が進み、71年8月、諸藩の抵抗を押し切って廃藩置県を断行。85年12月には内閣制度が発足、89年2月には極めて限定的ながらも男性に選挙権を与える大日本帝国憲法が公布され、立憲体制が確立された。
不完全ながらも今の政治の原型といえる形を整えるのは1918年9月、米騒動のあおりを受けて辞任した寺内正毅首相の後継である原敬首相が陸海外3相以外の閣僚を立憲政友会員から起用、日本で初めての本格的な「政党政治」をスタートさせてからだ。今年は明治150年であるとともに政党政治100年でもある。
政党政治の挫折招く
原内閣の後、二大政党制も実現したが、政争に明け暮れたことで軍部につけいる隙を与え、1932年、犬養毅首相が青年将校に暗殺された五・一五事件以後は軍人出身の首相が続くなどした。
「世界恐慌が発生し、欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは歯止めたりえなかった。こうして日本は世界の大勢を見失っていきました」 戦後70年に当たる2015年8月に安倍首相が公表した談話の一節である。「国内の政治システム」とは政党政治の挫折のことだ。現代日本の基礎を築いたと位置づけるこの150年を顧みることは、国家を危機に至らしめた太平洋戦争までの経緯を振り返ることでもある。栄光とともに影にも目を向けなければならない。(引用ここまで)

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福島民友安倍首相の「新たな時代を切り開」く「薩長同盟」論を批判!当然だが、これでも安倍首相を叱咤激励の応援!これが安倍首相を甘やかす最大の要因!

2018-08-29 | 明治150年

「憲法改正」という言葉を封印して憲法改悪はオレがやる!と宣言!!

これほどの「身の程知らず人間」はナシ!

来年の皇位継承、2020年の東京五輪・パラリンピックを引き合いに

「日本は大きな歴史の転換点を迎える。平成の先の時代に向けて、新たな国造りを進める先頭に立つ決意」

最悪最低のポピュリズム!

自らの言動がどのような意味をもっているか!

ただただ自己陶酔・自己顕示欲・身勝手あるのみ!

煙を上げる桜島をバックに記者団に対して

戊辰戦争で薩長を中心とする新政府軍が会津藩など旧幕府軍を打ち負かした歴史 

津出身で明治時代の教育者・山川健次郎の「国の力は、人に在り」を引用

根底には

勝者・富裕層の利権優遇思想あるのみ!

民衆の心・苦悩は知らんぷり!

自らの正当化に利用するのみ!

靖国の「英霊感謝・尊崇の念」論は

侵略戦争で加害者として仕立て上げで殺した臣民への謝罪ではなく

侵略戦争正当化論の裏返し!

侵略戦争のアジアの被害者・治安維持法犠牲者は無視!

福島民友    首相「薩長発言」/新時代は総力でつくらねば  2018/8/28

「新しい国造り」は全ての国民が力を合わせることが肝心であることを忘れないでもらいたい。
安倍晋三首相が9月に行われる自民党総裁選への立候補を正式に表明した。これで、石破茂・元幹事長と一騎打ちという決戦の構図が固まった。
一つの政党の党首選挙、投票できるのは自民党国会議員と党員・党友に限られているとはいえ、事実上の首相選びである党員以外の国民にもよく見えるオープンな討論の場を数多く設け、実のある政策論争を展開してもらいたい。
首相は、鹿児島県垂水市の漁港で、煙を上げる桜島をバックに記者団に対して、来年の皇位継承、2020年の東京五輪・パラリンピックを引き合いに「日本は大きな歴史の転換点を迎える。平成の先の時代に向けて、新たな国造りを進める先頭に立つ決意だ」と述べ、自民党総裁の連続3選を目指す考えを示した。
これまで首相が総裁選に立候補を表明した場所は12年は党本部、15年は東京都内で、地方での表明は異例だ。地方票を意識し、地方重視の姿勢をアピールする狙いがあったとみられる。
地方を重視する姿勢は大歓迎なのだが、気になる発言が出馬表明に先立つ同県鹿屋市での講演であった。今年が明治維新から150年に当たることに触れ、「しっかり薩摩(鹿児島県)と長州(山口県)で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」と述べた。
首相は山口県が地元。幕末の薩長同盟を念頭に、講演を盛り上げるために言及したとみられる。また、薩長同盟が明治維新の道を開いたことと、自らの改革姿勢を重ねたのではとの見方もある。
150年の節目に「新たな国造り」を強調しようという考えは分からないわけではない。しかし、戊辰戦争で薩長を中心とする新政府軍が会津藩など旧幕府軍を打ち負かした歴史に思いをはせれば、節目の年だからこそ発言に配慮があってしかるべきだっただろう
首相は1月の施政方針演説で、津出身で明治時代の教育者・山川健次郎の「国の力は、人に在り」を引用して、「あらゆる日本人にチャンスを作ることで、少子高齢化も克服できる」と述べた。
しかし、首相が掲げる地方創生は人口減少の抑制がかなわず、東京一極集中は一段と進んでいる。圧勝ともいわれる総裁選であればこそなおそれぞれの地方の良さを引き出し、国を挙げて国造りに取り組むことができる戦略や政策を示し、石破氏と「骨太の議論」を戦わせてほしい。(引用ここまで)

自民党総裁選でテレビをジャックして安倍晋三首相の嘘っぱちを、さもホントであるかのように垂れ流すメディアと、その総元締のNHKの報道を検証!もはや独裁国家と同じ! 2018-08-28 | 安倍語録

主権者国民の皆さん!安倍晋三首相の無知身勝手をさらけ出した「平成薩長同盟」論に怒りましょう! 2018-08-28 | 安倍語録

鹿児島で「平成の薩長同盟」を演出した安倍総裁・首相のまさに『半端ない』上から目線は大東亜戦争正当化・靖国思想・失政と破たんを隠ぺいする身勝手思想と弱者切り捨て浮き彫りに!2018-08-27 | 明治150年

リテラ  安倍首相が『西郷どん』を利用してNHKとコラボの総裁選出馬表明! 浅薄な明治礼賛と茶番の改憲隠しも 2018.08.27

リテラ  安倍首相が終戦の日めぐり露骨! 靖国神社の源流の神社に参拝し、自民党声明から「民主主義、基本的人権の堅持」削除 2018.08.15

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鹿児島で「平成の薩長同盟」を演出した安倍総裁・首相のまさに『半端ない』上から目線は大東亜戦争正当化・靖国思想・失政と破たんを隠ぺいする身勝手思想と弱者切り捨て浮き彫りに!

2018-08-27 | 明治150年

安倍晋三総裁・首相の総裁選出馬表明記者会見は

各記者のジャーナリストとしての不勉強ぶりとプライドの欠陥を浮き彫りにした!

安倍晋三首相・総裁の思考回路は

勝利唯一主義・弱者切り捨て歴史観だということが浮き彫りに!

「薩長藩閥」政権がどんな結果をもたらしたか!

全くの無知!偏向歴史観浮き彫り!

いつまで、こんなデタラメを放置するのか!日本は!!

「明治維新」の「先進」性と「復古」性に対する大いなる無知浮き彫り!

明治維新の『維新』=『御一新』は

戦後自民党政治そのものにあてはめて考えるべきだ!

徳川政権を打倒する大義名分は

『世直し』=『世均し』思想!

日本国憲法の源流だ! 

「錦の御旗」「薩長同盟」を現代に当てはめれば

「錦の御旗」は日本国憲法!

「薩長同盟」は野党共闘だ!

明治維新の「先進」性は

自由と民主の資本主義の原理を「文明開化」として取り入れたこと!

明治維新の「復古」性は

薩摩長州中心の政権で「天皇」=「玉」の政治利用して

藩閥専制政治=現人神信仰の絶対主義的天皇制を構築したことだ!

資本主義の原理=表現・集会・思想の自由は悉く抑圧された!

民権運動弾圧・普通選挙権の否定に浮き彫り!

朝鮮に対する不平等条約押し付け!

ロシアの「脅威」を利用した軍備拡張・大陸膨張主義政策は

1945年敗戦で証明された!

そして、それらの反省の上に日本国憲法が制定された!

安倍首相の思考回路に中には、ゆがんだ歴史が植え付けられている!

もう一度、中学高校の歴史を再学習すべきだ!

時事通信 「薩摩・長州で新時代」=安倍首相 2018/08/26-19:20

安倍首相首相は、自民党総裁選への出馬を表明する舞台に鹿児島県を選んだ。首相の地元の山口との「薩長同盟」が明治維新の契機となったことにちなんだとみられる。出馬表明に先立つ26日午後、鹿児島県鹿屋市の会合で講演した首相は「しっかり薩摩藩、長州藩で力を合わせて新たな時代を切り開いていきたい」と力を込めた。

安倍首相、総裁選出馬を表明=鹿児島で3期目に決意-石破氏と一騎打ち

ただ、薩長が中心の新政府軍が戊辰戦争で会津藩などを攻め立てた歴史があり、旧幕府軍側だった地域で反発が出る可能性もある。講演で首相は、自らが鹿児島県の特産品「大島紬(つむぎ)」のネクタイを着用していることもアピール。同県出身のサッカーの大迫勇也選手にも触れ「まさに『半端ない』という感じだった。私たちもああいう風になりたい」などと語った。(引用ここまで)

朝日 「西郷どん」意識した首相 総裁選の出馬表明、鹿児島で小野甲太郎 2018年8月26日21時25分

https://www.asahi.com/articles/ASL8V6KNQL8VUTFK00P.html

国民無視の政治推進を称賛する安倍応援団の産経浮き彫り! 

【自民党総裁選】安倍晋三首相、鹿児島で「平成の薩長同盟」を演出 

「反安倍」鎮めた森山裕氏に論功行賞

産経 2018.8.26 22:17更新

http://www.sankei.com/politics/news/180826/plt1808260018-n1.html

9月の自民党総裁選で連続3選を目指す安倍晋三首相(党総裁)が、正式な出馬表明の舞台に選んだのは、森山裕国対委員長の地元の鹿児島県だった。森山氏は先の通常国会対応で尽力し、「反安倍」に傾きそうだった石原派(近未来政治研究会、12人)を首相支持でまとめた。山口県選出の首相は森山氏への返礼の意味も込めて「平成の薩長同盟」を演出したともいえる。(今仲信博)

 「ちょうど今晩のNHK大河ドラマ『西郷どん』(のテーマ)は『薩長同盟』だ。しっかり薩長で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」

首相は26日、鹿児島県鹿屋市で開かれた森山氏の後援会合に出席し、新時代の「薩長」の絆を大切にする考えを強調した。

首相は、7月に鹿児島入りする予定だったが、西日本豪雨の対応で延期していた。今回は訪問の約束を守るだけでなく、鹿児島のシンボル・桜島の雄大な景色をバックに出馬表明まで行った。

首相と森山氏の関係は蜜月といえる。

首相が「働き方改革国会」と銘打った通常国会では、学校法人「森友学園」「加計学園」問題が再発、財務省の決裁文書改竄(かいざん)などの公文書管理問題も出て、安倍政権は野党の攻撃にさらされた。森山氏は、野党の攻撃をかわしながら、働き方改革関連法やカジノを含む統合型リゾート施設(IR)実施法など重要法案の成立にこぎつけた。

石原派内では、派の創設者であり最高顧問の山崎拓元副総裁が「反安倍」勢力の結集を目指し、派内もまとめようとした。石原伸晃会長は反発しながらも、山崎氏に気兼ねして、派の判断を8月下旬まで先送りしようとした。森山氏は石原氏に早く決断するよう説得し、お盆前の9日に首相支持表明を実現させた。

森山氏は平成17年に郵政民営化関連法に反対し、自民党を離れたが、批判を押し切って復党を実現させたのは首相だった。首相はさらに、19年の第1次安倍改造内閣で森山氏を財務副大臣に起用した。

森山氏はこのときの恩義を忘れていないという。

もっとも、森山氏の厚遇は、党内でくすぶる「反安倍」勢力への見えざるメッセージという面もある。

首相は25日に宮崎県に入り、地元首長や県議らと会食した。宮崎は石破茂元幹事長が率いる石破派(水月会、20人)の古川禎久事務総長の地元でもあり、宮崎入りは党員票を意識した石破陣営への牽制(けんせい)でもある。

首相が言う「平成の薩長同盟」には、硬軟織り交ぜて「反安倍」の芽をつぶす狙いも込められている。(引用ここまで

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明治150年で国民的合意を構築しなければならない民権運動の成果と教訓!人権思想に基づく諸権利を多面的に明記した五日市憲法草案の果たした役割

2018-05-02 | 明治150年

明治10年代以降民権運動はめまぐるしい発展を遂げた!

大日本帝国憲法で鎮圧されたが、その後どのような役割を果たしたか!?

五日市憲法草案 本日5月2日付けの赤旗より(クリックしてみてください)

 

皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)宮内記者会の質問に対する文書ご回答

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html

…5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。…略

浜谷 惇 五日市憲法草案が作られた過程から学んだ4つのこと―草案誕生の郷を見学して―

http://www.alter-magazine.jp/index.php?%

日テレ 「国民の権利」重視、『五日市憲法草案』2017年1月14日 20:35

http://www.news24.jp/articles/2017/01/14/07351527.html

シリーズ“記憶”をつなぐ小さな展示館。日テレNEWS24では、戦争、震災などの記憶を風化させない取り組みをシリーズで紹介している。

130年以上前の明治時代に「国民の権利」を盛り込んだ現在の憲法に近い憲法案を作った人達がいた。その「五日市憲法草案」は、東京・あきる野市に今も残され、東京都の有形文化財に指定されている。

さかのぼること『大日本帝国憲法』制定前。憲法の制定や国会の設立を求める「自由民権運動」が高まる中、民間の人たちにより作られた憲法試案のひとつ。

あきる野市教育委員会・関根輝雄さん「まず条文が204条からなるということで、非常に長い条文を持っているということが特徴です。さらに国民の権利の内容を多数盛り込んでいまして、現在の憲法にも相通ずる点があるのが特徴のひとつです」

『公法』『立法権』『司法権』など5つの項目について、204条と細かく条文が定められていた。当時作られた民間の憲法試案の中でも、非常に条文が多いことが特徴。さらに大きな特徴として、「基本的人権の保障」については細かく定められていて、明治初期としては、とても民主的な内容の「憲法草案」になっている。

憲法草案は現在の宮城県栗原市出身で、当時、五日市で学校の教員をしていた千葉卓三郎氏が中心となり作成。憲法草案は昭和43年に見つかった。当時の五日市町深沢の土蔵の中にあった。

憲法草案の全ての内容は、五日市地域を中心に市内の歴史・民俗・自然を紹介する「五日市郷土館」で複写が展示されている。このほか、千葉卓三郎氏に援助をしていた名主の深沢名生・権八親子や地域の学習団体『五日市学芸講談会』の当時の資料など、憲法草案作成にかかわった人や団体に関する資料も展示されている。

2013年1月には天皇皇后両陛下も訪れ、後日、皇后さまは「深く感銘を覚えた」と思いをつづられた。

あきる野市教育委員会・関根輝雄さん「市民にとっては、これだけの憲法草案ということで、宝と思っていただいていると思います」

材木や絹織物で栄えた当時の五日市では、裕福な商人や農民らが欧米などの新しい文化への関心を高め、情報を集めていた。そんな土壌が、山あいの地域から「国民の権利」を重視した『憲法』を生んだのかもしれない。

五日市郷土館は火曜・水曜・祝日が休館日。水曜が祝日の時は、木曜も休館。(引用ここまで

高等学校で学ぶ自由民権運動

士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生

Contents

士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生

士族反乱・農民反乱・自由民権運動の発生

明治維新で何が行われたのか?藩閥政治

実際の改革は、2つの「1月3日」から!

士族反乱~破壊されるプライドと生活

農民反乱~「世直し」を期待したけれど

豪農や商人たち~金も知識もあったけど

明治維新~新しい可能性の広がり

明治六年の政変~征韓派の失脚と藩閥政治の進展

「民撰議院設立建白書」~自由民権運動の発生

佐賀の乱

立志社と愛国社

海外出兵と大阪会議~立憲政体樹立の詔

新聞紙条例と讒謗律

秩禄処分と士族授産

士族反乱と地租改正反対一揆

西南戦争

明治維新の終結~維新三傑の死

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 <自由民権運動の展開と松方デフレ

Contents [hide]

自由民権運動の展開と松方デフレ

自由民権運動の発展開拓使官有物払下事件

結社の結成~「大学習運動の時代」

国会開設運動と集会条例

明治14年の政変と国会開設の勅諭

私擬憲法と日本国憲法自由党と立憲改進党

五日市憲法

自由民権運動と日本国憲法

「自由民権」の時代

自由民権運動の背景~インフレと農村

インフレと農民生活

インフレと士族、政府

財政赤字の深刻化

松方財政の展開農村における深刻な不景気

松方デフレの発生

共有:

寄生地主制の成立と激化事件

Contents

寄生地主制の成立と激化事件

松方デフレ下の農民

豪農の変質~寄生地主制の成立

寄生地主制の進展

新しい土地住民の形成へ

「豪農の民権」と地方三新法

府県会と士族

激化事件の発生

運動の過激化

「困民党」「借金党」

「福島事件」

「秩父事件」

自由党の解党と「大阪事件」

大同団結運動・三大事件建白運動

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明治民権運動が起こった歴史的背景とその後の歴史の中で果たしたことは何か!

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12月8日「真珠湾」を慰霊する日米戦没者の慰霊を続ける医師菅野寛也の思いは憲法9条だな!だが、ヒロシマ・ナガサキ・ナンキンなどが、未だに残っている!その現実は「日米同盟」にあり!

2017-12-09 | 明治150年

「真の和解」とは何か!

どのような状態が「真の和解」ということか!

日米の「真の和解」とは、日米核兵器軍事同盟を廃棄することだ!

対等平等の憲法を活かす日米平和友好条約を締結することだ!

日中韓朝の「真の和解」とは、

領土問題を解決することだ!

侵略戦争責任問題の真の解決だ!

世界に向けて発した国家の最高放棄である憲法を活かす政治を具体化することだ!

両国の首脳が日米双方の犠牲者に哀悼の意を表すことで

真の和解が進み、世界平和にもつながっていくはず

12.8とはどんな日か!東京新聞と赤旗でしか書かれていない悪夢の12.8!戦争をじわじわと準備されてくる!双葉のうちに芽を摘むことが必要不可欠!マンネリを排除して! 2017-12-08 | 明治150年

米軍兵士の水稲に匹敵する戦争遺産はたくさんある!

この遺産を丸ごと捉え戦争犠牲者に報いるためには

戦争につながるすべてを否定するこだろう!

それは憲法を活かすことだ!

これには一切の妥協は認められない!

 NHK 太平洋戦争開戦の日 各地で戦争を考える催し 12月8日 20時59分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171208/k10011251981000.html?utm_int=news-social_contents_list-items_043

12月8日は76年前、ハワイの真珠湾攻撃などで太平洋戦争が始まった日です。各地で戦争について考える催しが開かれました。

昭和16年12月8日、旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸するなどして太平洋戦争が始まってから8日で76年となり、各地で戦争について考える催しが開かれました。このうち名古屋市名東区にある資料館「ピースあいち」では市民などから寄せられた戦争に関する資料をおよそ420点を紹介する展示会が始まりました。
8日は中国などに従軍した叔父の遺品を寄贈した名古屋市の小笠原淳子さんらが招かれ、講演しました。小笠原さんは叔父の軍隊手帳を見せ、生活が苦しく志願して軍隊に入ったことや、手帳には一日も欠かさず戦闘の状況が書き込まれていたことを語りました。会場にはこのほか、開戦を伝える新聞や空襲の際の国民の行動を定めたポスターなど当時を伝える資料が展示されています。ピースあいちの野間美喜子館長は、「今も戦争の遺品や資料がたくさん持ち込まれていますので、多くの人に見に来てもらいたい」と話していました。
一方、高知市の中心部にある商店街では市民団体が旧日本軍の召集令状、いわゆる「赤紙」を再現したチラシを配って、平和の大切さを訴えました。チラシは実際に高知県で使われた召集令状が再現されていて、集合場所や時間、所属する部隊などが記載されています。市民団体のメンバーは買い物客などに「きょうは太平洋戦争が始まった日です。戦争のない平和な世界を作りましょう」などと声をかけながらチラシを配っていました。チラシを受け取った高知市の60代の男性は「戦争が繰り返されないためにも太平洋戦争の開戦日に平和について考えることは大切だと思います」と話していました。市民団体の畑山佳代会長は、「若い人たちに平和な社会が続くために何をしなければいけないのか、太平洋戦争が始まった日に改めて考えてもらいたいです」と話していました。
8日はこのほか、ハワイのホノルル市と姉妹都市で、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官の出身地でもある新潟県長岡市では、花火を打ち上げて、太平洋戦争の犠牲者を追悼しました。(引用ここまで

12月9日「おはよう日本」で放映されていた!

 明日への言葉  菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】 2017年8月19日土曜日

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.html

 
菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭
84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました
平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。
元々は静岡空襲の慰霊祭で日米双方の犠牲者の御霊を安かれと言うことで始めた行事なので、日米の列席を求めて、献酒、献花、焼香が済んだあとで、B29の戦死者の遺品の水筒の中にバーボンを入れて、米軍関係者が一人ずつ献酒しています。
毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。
真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
関係者が短いスピーチをした後で、牧師さんが祈祷してアリゾナの甲板から真珠湾に向かって献酒する、小さいが厳かな雰囲気で行われます。
鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。
死んでしまえば敵も味方もない。
両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。
富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。
11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があがりました。(焼夷弾攻撃)
安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。
「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。
一機が安陪川の安西橋の近くに、もう一機川向こうによたよた飛んで行った。
町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)
防火用水の中に上半身を突っ込んで、黒こげで死んでいるのを見ました。
敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。
B29の残骸にはアメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。
それを見て中には石をぶつける人もいました。
私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから

祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。
敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら、手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。
昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。
医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落搭乗者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことが吃驚したと同時に、山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。
伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。
伊藤さんも死んでしまえば敵も味方もないということでした。
伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。
最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんに成ったと聞いています。
私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

米軍にそのことを連絡して、反応は早かった、2~3日の後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかと云うことで、昭和47年に大使館のひとを含めてバス2台で80人ぐらい来ました。
それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、なんでアメリカ兵を弔うんだと抵抗はありました。
間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。
或るおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから「有難う」と私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。
あとの懇親会で、或る人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。
亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。
それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。
B29の搭乗員の遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で指の関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう
たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

兵士の死の瞬間を記録する様な水筒でも水は漏らない。
墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事の様で献酒をしてきたことが広がる訳です。
慰霊祭のシンボルなのでこの水筒は宝物、平和の武器かもしれません。
慰霊祭を続けてきてよかったと思います。
慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事はよりアメリカでの反響の方がはっきりしている。
どんどん広がって評価してくれています。
真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。
平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。
戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。
想像は或る程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしていると言うことを知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭これが最初)
一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)
恨みつらみはあると思います、日本人のくせになにしに来やがったと、数年は突っかかって来る人はいました。
しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。
日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。
2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
段々広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。
あなたと水筒がないと式が始まらないよといわれました。

日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、吃驚したのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。
まさかアリゾナの沈んでいるところで、君が代が吹奏されるとは思わなかった。
恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。
12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。
もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。
かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか判りませんが、お互いの国の犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。
心が通じなければそれ以上は進まない。
最後は人間は心の問題だから、理屈ではなくて、お互い共通の辛さがあったと言うようなことをお互い認め合ったり、悲しみだとか、そういうものを認め合うことによって、人種の壁、宗教の壁、言葉の壁、そういうものを取り除くことが慰霊祭はできるんだと言うことで私は続けてきているし、そうなっているわけですから。
謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。
84歳になり、後何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。
国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほしいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。(引用ここまで
 
静岡新聞NEWS 真の和解、真珠湾から 日米追悼式典参列の医師、首相訪問に期待 2016/12/26 17:18
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/314184.html

 米軍兵士の遺品である黒焦げの水筒を持つ菅野寛也さん。安倍晋三首相の真珠湾訪問を「真の和解が進む」と期待する=24日午前、静岡市葵区米軍兵士の遺品である黒焦げの水筒を持つ菅野寛也さん。安倍晋三首相の真珠湾訪問を「真の和解が進む」と期待する=24日午前、静岡市葵区

安倍晋三首相が日本時間28日、ハワイの真珠湾を慰霊のために訪問する。静岡市で日米双方の戦没者を弔う合同慰霊祭を40年以上続け、旧日本軍が奇襲した真珠湾攻撃から75年になる8日(日本時間9日)に現地で開かれた初の日米合同追悼式典に参列した静岡市葵区の医師菅野寛也さん(83)は「これで真の日米の和解が進む」と期待する。
「まさかここで『君が代』が聴けるとは。身震いした」。米ハワイ真珠湾に浮かぶフォード島で開かれた日米合同追悼式典。菅野さんによると、日米双方から約80人が参列、両国旗が掲げられる中、米海軍が両国歌を演奏した。真珠湾攻撃による米側の犠牲者約2400人と、撃墜されるなどした日本側死者65人の冥福を祈った。菅野さんは「国に殉じた日本人のみ霊もようやく成仏できる」との思いがよぎったという。
菅野さんは1945年6月の静岡空襲を体験した。戦後、空襲で死亡した市民約2千人とともに、爆撃中に墜落死した米軍機B29搭乗員23人を「死んでしまえば敵も味方もない」と、慰霊を続ける元静岡市議で僧侶伊藤福松さん(1892~1979年)の姿勢に感銘を受けた。伊藤さんの遺志を継ぎ、静岡市葵区の賤機山山頂で40年以上にわたり毎年6月に日米合同慰霊祭を続けている。
91年からはほぼ毎年、日米双方の戦没者の慰霊のために真珠湾を訪れている。菅野さんは当時を「真珠湾は米国人の聖地。『日本人が何しに来た』と白い目で見られた」と振り返る。たった一人で、B29搭乗員の遺品である黒焦げの水筒から真珠湾に水を注いだ。
黒焦げの水筒を示し、静岡での取り組みを説明すると、次第に退役軍人らが協力してくれるようになった。これまで個人的に開催してきた追悼行事は今年初めて米国立公園局などが主催者になり、約200人が集まった。
菅野さんは安倍首相の真珠湾訪問について「以前から国による公式な追悼が必要だと思っていた。私の思いが通じたようだ」と喜ぶ。「慰霊し、死者の魂を鎮めることは人の心に直接訴える行為。文書上の友好とは異なる。両国の首脳が日米双方の犠牲者に哀悼の意を表すことで真の和解が進み、世界平和にもつながっていくはず」と期待している。(引用ここまで

パールハーバー「黒焦げの水筒」慰霊祭

http://www.mo-hawaii.com/category/veteran/75993

静岡空襲の犠牲者悼む 賤機山で合同慰霊祭
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/373782.html

毎日新聞 首相、真珠湾へ  米兵も弔い続け40年 医師、追悼式に 2016年12月6日11時50分

 米軍爆撃機の搭乗員の遺品「黒焦げの水筒」を手に持つ菅野寛也さん=静岡市葵区で2016年11月29日午前11時21分、井上知大撮影

安倍晋三首相が今月26、27日にハワイを訪れ、オバマ米大統領と日米開戦の発端となった真珠湾を訪れる意向を示した。日米双方の戦争犠牲者の慰霊を40年以上続けてきた静岡市の医師、菅野寛也さん(83)は以前から「安倍首相にも、ぜひ真珠湾で慰霊してほしい」と望んでいた。菅野さんは、真珠湾攻撃から75年になるのを記念して8日(日本時間9日)にハワイで戦後初めて日米両国が共催する追悼式典に招かれており、安倍首相の訪問に先立ち平和を願う。菅野さんは国民学校6年生だった1945年6月、市民約2000人が犠牲になった静岡空襲を経験した。こ…(略)

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12.8とはどんな日か!東京新聞と赤旗でしか書かれていない悪夢の12.8!戦争をじわじわと準備されてくる!双葉のうちに芽を摘むことが必要不可欠!マンネリを排除して!

2017-12-08 | 明治150年

山縣有朋「主権線」論は

過去完了形ではなく現在進行形!

キーワードは「脅威」

https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji03_outline.html

この資料は明治23年(1890年)~明治24年(1891年)にかけての衆議院の議事録の写しです。この中に含まれている「衆議院第一回通常会議事速記録」(明治23年12月7日付)に、山県有朋総理大臣が「主権線」「利益線」という用語を使って当時の日本帝国における国防の考え方を説明した場面が収録されています(32画像目、原文カナ旧字)。

「蓋国家独立自営の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主権線とは国の疆域を謂ひ、利益線とは其の主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである」
(現代語訳:そもそも国家の独立自立の道には二通りあり、第一には「主権線」を守ること、第二には「利益線」を保護することである。この「主権線」とは国の境目を言い、「利益線」とはこの主権線の安全に密接な関係がある地域を申し上げたのである

「凡国として主権線、及利益線を保たぬ国は御座いませぬ、方今列国の間に介立して一国の独立をなさんんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累ねて、漸次に国力を養ひ其の成蹟を観ることを力めなければならぬことと存じます」
(現代語訳:おおよそ国というもので主権線、利益線を保全しないものはありません。古今東西の各国に囲まれた一つの国が独立しようとするなら、当然ながら一朝一夕の話のみでなし得ることではありません。どうしても小さな努力を積み重ね、徐々に国力を養ってその成果を観察するように注意しなければならないと考えます

大陸膨張主義の始まり! 

1874年―1945年=71年に何があったか!

台湾出兵 - Wikipedia1874年5月6日-6月

江華島事件 - Wikipedia1875年9月20日 「日朝修好条規

甲申政変 - Wikipedia1884年12月4日 「漢城条約」「天津条約

日清戦争 - Wikipedia1894年7月25日-1895年3月  「日清講和条約

義和団の乱 - Wikipedia1900年6月20日 - 1901年9月7日 「北京議定書

日英同盟 - Wikipedia第一次1902年1月30日-第二次1905年-第三次1911年-1923年失効

日露戦争 - Wikipedia1904年2月8日 - 1905年9月5日 「ポーツマス条約

韓国併合 - Wikipedia1910年8月29日 「韓国併合ニ関スル条約日本の植民地

日露協約 - Wikipedia「第1次条約」1907年7月30日-「第4次条約」1916年7月3日 

対華21カ条要求 - Wikipedia1915年1月18日

山東出兵 - Wikipedia 1927年-1928年3度

柳条湖事件 - Wikipedia1931年9月18日

「満州国」の建国1932年3月 清朝最後の皇帝(宣統帝)愛新覚羅溥儀執政 

「満州国」の建国 1932年2月

盧溝橋事件 - Wikipedia 1937年7月7日

防共協定 - Wikipedia日独伊防共協定1937年11月6日

仏印進駐 - Wikipedia北部仏印進駐1940年9月23日

日独伊三国同盟 - Wikipedia1940年9月27日

南部仏印進駐1941年7月28日

大陸膨張行き詰まり!

自由・人権・民主主義を否定して反政府運動を弾圧!

皇国史観を使って国民を洗脳し協力加担させる!

情報伝達手段のメディアが政府・軍部情報を垂れ流す!

天皇制を護持・支えているのは

財閥・軍部・政治家・官僚・学者・メディア・軍国主義利益共同体!

侵略戦争を遂行する構造とは何か!

何が加害者であり、何が被害者であるか!

 中日/東京新聞   日米開戦から76年/問い直す「なぜ戦争を」 2017/12/8

日米の戦争。敗戦と占領、安全保障条約でなお結束されている日米関係−。あの真珠湾攻撃の日から七十六年たつ今、「なぜ戦争を」と問うてみたい。
<嘗(かつ)てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐(ふくしゅう)だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴(はら)すべきときが来たのである>
真珠湾での日本海軍の大勝利の知らせに評論家の亀井勝一郎は、そう書いた。古寺巡礼や仏教美術への傾倒から古典論、日本人論などの著作を通じ、戦後も活躍して、広く知られた。冒頭の言葉は作家の半藤一利氏の「『真珠湾』の日」から引用した。
米国と江戸幕府は日米和親条約(一八五四年)や日米修好通商条約(五八年)を結んだ。治外法権があり、関税自主権がなかった。確かに不平等条約であり、明治期は条約改正に苦しんだ。
真珠湾で開国からの屈辱を晴らした−。明治人にはそんな思いがよぎったのだろう。むろん条約改正を果たした間には、日清・日露の勝利がある。
英米憎しの思いは、一九二二年の海軍軍縮条約にもある。主力艦の保有が日本は英米より劣る数しか認められなかった。後の帝国国防方針の改定版では、情勢判断としてこう記す。
<帝国と衝突の機会最(もっとも)多きを米国とす>
国防は衝突の可能性が最も高い米国を目標とし、これに備える−。日米開戦の二十年近くも前からそのように軍部が考えていたとは驚きである
だが、相手は大国。四一年時の国力差は国民総生産で十二倍、石油保有量は七百倍以上も差がある。それでも幻想があったはずだ。国力差が十倍もあるロシアを破った栄光が幻影となって…。
四一年十二月九日の「新愛知」(現在の中日新聞)朝刊は「戦艦二隻轟沈(ごうちん)・四隻撃破 赫々(かくかく)たり ハワイ大空襲」と一面で大きく報じた。真珠湾攻撃はアリゾナなど戦艦八隻を撃沈・撃破した。日本中が勝利に沸き立った。「万歳」「万歳」で酔った。
冷静だった人もいる。東京帝大で国際法を教えた横田喜三郎(戦後の最高裁長官)は軽井沢(長野)で真珠湾の一報を聞いた。戦後の回想録では「わたくしの心は暗かった。(中略)敗戦は必至であるとおもった」と記している。横田は当時、真珠湾攻撃は国際法で合法かどうか、東大で講義をした。最後通牒(つうちょう)の在り方、開戦が不意打ちかどうか。その条約について学生に説明した。はっきり不法と言わなかったが、普通の学生には伝わったようだ。東大教授であった矢部貞治の当時の日記には次のように書いてある。
<横田氏は教室で真珠湾攻撃は不法だなどと馬鹿(ばか)げたことを発言している>
実際、通告文書がワシントンの日本大使館から届けられる前に攻撃が始まっていた。この問題が米国の世論を怒らせた。また、日清・日露の戦争では文明国たるべく国際法を守る宣言をしたが、太平洋戦争の「開戦の詔勅」には国際法に類する言葉もなかった。
それにしても日米開戦は回避できなかったのか。人はいう。中国などからの全面撤退などを求めたハル・ノート。決して日本が受け入れられない条件を提示してきたからだ−と。A(米国)B(英国)C(中国)D(オランダ)のABCD包囲網の経済封鎖のせいだと。米国の石油の全面禁輸のせいだと。在米日本資産の凍結のせいだと。でも、この対日制裁はどこから来たのか。
時計の針を逆回しにしていくと−。二八年のパリ不戦条約のわずか三年後に日本は満州事変を起こし、傀儡(かいらい)国家・満州国をつくった。これで日本は国際連盟を脱退せざるを得なくなり、孤立化の道を歩んだのだ。三七年には日中戦争を始める。ちょうど今年は八十年にあたる。
十二月には多くの中国人を虐殺する南京事件を起こしている。二〇〇六年から行われた日中歴史共同研究報告書が外務省のホームページに載っている。
<アメリカ人記者(中略)などが、日本軍が南京で捕虜や民間人を虐殺した残虐な行為を連続して報道した。(中略)英・米・独などの外交官がさまざまなルートを通じて日本軍が南京で暴行を続けていることを報告し、世界の世論を驚かした>
世界から孤立し侵略戦争を進めたことこそ、日米開戦に至る遠因だったろう。そして惨めな敗戦に至った原因でもある。今、負の歴史を隠す風潮がある。歴史には正直者でなければならぬ。(引用ここまで

赤旗主張 「12・8」から76年/戦争の悲惨さ繰り返さぬため 2017年12月8日(金)

朝鮮半島や中国大陸、さらには東南アジアへと侵略をすすめていた戦前の日本が、アメリカ・ハワイの真珠湾や当時イギリス領のマレー半島コタバルを攻撃し、アジア・太平洋戦争の戦線を拡大した1941年12月8日から76年を迎えます。今年は当時「満州」と呼ばれた中国東北部へ侵略を開始してから86年、中国全土に侵略を拡張してからも80年にあたります。

15年にわたる侵略戦争で戦前の日本は自国民とアジアの人々に莫大(ばくだい)な被害を与えました。戦争の悲惨さへの思いを新たに平和の叫びを上げ続けることは戦争の誤りを繰り返さないために不可欠です。

「戦争は人を狂わせる」

「戦争をなくすために大事なことはまず戦争を知ることである」。財界人の一人、丹羽宇一郎氏が今年夏出版した著作『戦争の大問題』でこう指摘したことが反響を呼びました。国内の被害だけでなく、中国や太平洋の島々での住民虐殺や飢えた兵士同士の「人肉食」を通じ、「戦争は人を狂わせる」とその悲惨さを指摘したものです。

戦前の日本が、海外に領土と利権を求めて開始した侵略戦争は、日本国民310万人以上と2000万人を超すアジア諸国民を犠牲にし、国内と侵略した国々で国土を荒廃させました。戦争を直接知る世代が少なくなる中でも、その悲惨な体験と傷痕は語り継いでいかなければなりません。

広大な大陸の中国や圧倒的に国力が勝るアメリカを相手に、何の見通しもなく開始した戦争は、たちまち行き詰まります。中国大陸やアジア太平洋の各地へ侵略を拡大した日本軍は十分な補給も得られず、「軍人勅諭」や「戦陣訓」などで投降も認められず、「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」と言われた野蛮な略奪、戦死や病死でもない悲惨な餓死、「玉砕」「転進」などとごまかした敗走を余儀なくされたのです。国内や植民地からは人も資源も動員され、人類初の原爆投下や無差別爆撃などでも大きな犠牲を生みました。

中国大陸での侵略戦争を本格化させた後、当時の中国の政府が置かれていた南京に軍を進め、投降を求めた中国兵や一般の民衆など数万とも数十万人とも言われる人々の命を奪った「南京大虐殺」が起きたのはちょうど80年前の12月初めでした。捕虜にしても食べさせる食料もなかったことが背景の一つと言われています。

アジア・太平洋戦争の末期、地上戦の舞台となった沖縄の惨状は深刻です。住民は米軍の攻撃にさらされただけではなく、日本軍によっても戦争にかり出されたうえ、「スパイ」などの不当な口実で弾圧され、「自決」や集団死を強制されたのです。敗戦後も米軍の占領下で土地は奪われ、広大な米軍基地として今も県民の苦しみは続いています。

「戦争する国」にならない

日本の敗戦の翌年、46年に制定された憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことを定めました。文字通り戦後日本の出発点です。

異常な「靖国派」の安倍晋三政権が戦争法の制定など憲法破壊を繰り返し、そのうえ憲法に自衛隊を書き込む改憲まで策しているのは、その原点を破壊するものです。二度と「戦争する国」にならないためにも、12・8を機に戦争の悲惨さを伝え続けることが重要です。(引用ここまで

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11月3日憲法公布を祝うこともせず「明治維新150年」を記念し、かつ「文化の日」を「明治の日」として憲法を否定し明治憲法復活を企む安倍政権は退場!

2016-11-09 | 明治150年

「御一新」は「世均(よなら)しのためだった」!

だが、これは悉く否定された!

だが、この思想は憲法第14条に明文化されたが、未だ果実とはなっていない!

日本国憲法は、大日本帝国憲法信奉者によって、未だ「道半ば」だ!

信濃毎日 斜面(3日)

http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161103/KT161102ETI090008000.php

「文化の日」を「明治の日」に改める。そう訴え祝日法改正を求める団体「明治の日推進協議会」が1日、国会内で集会を開いた。自民党などの国会議員が参加。稲田朋美防衛相も実現に意欲を示したと伝わる

11月3日は明治天皇の誕生日だ。1927(昭和2)年、明治天皇をたたえる日として「明治節」が制定された。紀元節などと並ぶ「四大節」とされ、学校ではご真影を前に、先生が教育勅語を読み上げた。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が廃止する

代わって1948年制定の祝日法で生まれたのが「文化の日」だ。趣旨は「自由と平和を愛し文化をすすめる」。2年前の11月3日には日本国憲法が公布された。天皇崇拝が人々を戦争に駆り立てた軍国日本と決別し、平和国家、文化国家として生きるとの思いも込められたはずだ

「明治の日」を主張する人々には明治こそが近代日本の原点との意識が強いのだろう。そこに悲惨な戦争に至った歴史への深い自省があるのだろうか。あの悲しい教訓をくみ取った憲法を原点にせねば戦後日本の平和も繁栄もなかったと、私たちは考える

政府は明治維新150年の2018年の施策を検討し始めた。「明治の精神に学び日本の強みを再認識することは重要」と菅義偉官房長官が発言すると、推進協は緊急声明を出し明治の日制定を中心に据えるよう求めた。素早い反応である。 (引用ここまで

信濃毎日 斜面 (11月8日)

http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161108/KT161107ETI090015000.php

秩父事件の最後の戦いとなった小海町東馬流では、住民の手で史跡が大切に守られている。1884(明治17)年11月9日早朝、北相木村の菊池寛平率いる困民軍が鎮圧された地だ。困民軍13人と警官1人が戦死したほか、農家の女性も巻き添えになった

井出ジャウ。当時30歳、4人の子どもがいた。埼玉県秩父地方の農民らが武装蜂起した10日間の騒乱でただ一人、一般人の犠牲である。乳飲み子をおぶって自宅から避難の途中、鎮圧軍の銃弾が太ももを貫いた

5日後の本紙は「暴徒要報」と題した記事で、ジャウが白い手巾をかぶっていたために鉢巻きをした賊と間違われたらしく、気の毒だった―と報じている。幸い無事だった背中の男児は実家に預けられた。ちょうど弟夫婦にも長男が生まれていたからだ

しかし分け与えるには母乳が足りず、2人とも栄養失調で亡くなった。この乳児も犠牲者と言えよう。事件の背景には、明治政府の重税とデフレ政策による生糸暴落がある。農民は借金にあえぎ、高利貸の横暴を抑えるように求めたが、聞き入れられなかった

先日、東馬流を訪ねると小菊が家々を彩っている。かつては「逆賊」として口に出すのもはばかられたが、地元では好意的に見ていたようだ。悲しみに暮れたジャウの実家でも「世均(よなら)しのためだった」と語られたという。農民の思いが伝わる山村の史跡である。 (引用ここまで

新政権は、スリカエ・ゴマカシ・デタラメ・大ウソつき政権だった!

「縉紳・武弁,堂上・地下の別なく,至当の公議を竭けっし」

「旧来驕惰の汚習を洗い」

「旧弊御一洗」「百事御一新」

「行諸事 神武創業之始ニ原キ」を口実にして全てが断行されたのだった!

これは安倍派によって現在進行形!

王政復古の大号令

http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/haihan0.htm
十二月九日   宮堂上へ諭告

徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条今般断然被 聞食候抑癸丑以来未曽有之国難 先帝頻年被害悩 宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決 叡慮 王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為 行諸事 神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉 公候事

徳川内府(内大臣 徳川慶喜),従前御委任の大政返上・将軍職辞退の両条,今般断然聞食きこしめされ候そうろう。そもそも癸丑きちゅう(嘉永6=1853年:ペリー来航)以来,未曽有みぞうの国難,先帝(孝明天皇)頻年ひんねん宸襟しんきんを害悩されし御次第,衆庶の知る所に候。これにより叡慮決せられ,王政復古,国威挽回の御基おんもとい立たせられ候間そうろうあいだ,自今,摂関・幕府等(を)廃絶,すなわち今先仮に総裁・議定・参与の三職(を)置せられ,万機行わせらるるべく,諸事,神武(天皇)創業の始めに原き縉紳・武弁,堂上・地下の別なく,至当の公議を竭けっし,天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮につき,各おのおの勉励し,旧来驕惰の汚習を洗い,尽忠報国の誠をもって奉公致すべく候事。


一 内覧 勅問御人数国事御用掛議奏武家伝奏守護職所司代総テ被廃候事
内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代,総すべて廃せられ候事。

一 三職人躰
 総裁
  有栖川帥宮  (熾仁親王)
 議定
  仁和寺宮  (嘉彰親王)
  山階宮  (晃親王)
  中山前大納言  (中山忠能)
  正親町三条前大納言  (正親町三条実愛)
  中御門中納言  (中御門経之)
  尾張大納言  (徳川慶勝)
  越前宰相  (松平慶永)
  安芸少将  (浅野長勲)
  土佐前少将  (山内豊信)
  薩摩少将  (島津忠義)
 参与
  大原宰相  (大原重徳)
  万里小路右大弁宰相  (万里小路博房)
  長谷三位  (長谷信篤)
  岩倉前中将  (岩倉具視)
  橋本少将  (橋本実梁)
   尾藩三人  (尾張藩3人:荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
   越藩三人  (福井藩3人:毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
   芸藩三人  (広島藩3人:桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
   土藩三人  (土佐藩3人:後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
   薩藩三人  (薩摩藩3人:岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)

一 太政官始追々可被為興候間其旨可心得居候事
太政官,始め追々興せらるべき候間そうろうあいだ,その旨,心得おくべく候事。

一 朝廷礼式追々御改正被為在候得共先摂「ろく」*1門流之儀被止候事
朝廷礼式,追々御改正あらせられ候そうらえども,摂「ろく)」・門流の儀,止められ候事。
*1:「ろく」=「竹かんむり」+「録」


一 旧弊御一洗ニ付言語之道被洞開候間見込有之向ハ不拘貴賎無忌憚可致献言且人材登庸第一之御急務ニ候故心当之仁有之候者早々可有言上候事
旧弊,御一洗につき,言語の道,洞開せられ候間,見込これある向きは貴賎に拘かかわらず忌憚きたんなく献言いたすべし。かつ,人材登庸,第一の御急務に候故ゆえ,心当りの仁じんこれ有り候者もの,早々,言上あるべく候事。

現代語訳:「旧弊一新につき言論の道を広く開くこととなったので考えがあるものは身分にかかわらず忌憚なく上申せよ。また、人材登用を急務とするので心当たりの人物がいれば早々に推薦せよ」


一 近年物価格別騰貴如何共不可為勢富者ハ益富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至リ候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大宝百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事
近年,物価(の)格別騰貴,如何いかんともなすべからず,勢富者は益々ますます富を累かさね,貧者は益々窘急きんきゅうに至り候趣おもむ畢竟ひっきょう政令不正より致す所,民は王者の大宝,百事御一新の折柄おりがら,旁かたがた,宸衷しんちゅう悩ませられ候。智謀,遠識,救弊の策これある者,誰彼なく申し出ずべく候事

一 和宮御方先年関東ヘ降嫁被為在候得共其後将軍薨去且 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被為許候処始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被為促度近日御迎公卿被差立候事 右之通後確定以一紙被 仰出候事
和宮御方,先年関東ヘ降嫁あらせられ候えども,その後将軍(家茂)薨去こうきょ,かつ先帝(孝明天皇)攘夷成功の叡願より許せられ候ところ,始終,奸吏の詐謀に出で,御詮これ無き上は,旁かたがた,一日も早く御還京(を)促させられたく,近日,御迎えの公卿(を)差し立てられ候事。

右之通後確定以一紙被 仰出候事
右の通り確定の後,一紙をもって仰おおせ出され候事。

慶応3年12月9日 (太陽暦:1868年1月3日)
「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第13

王政復古の大号令口語訳

 

http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%8F%B7%E4%BB%A4

内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた政権を返上し、将軍職を辞退したいという二つの申し出を、このたびきっぱりとお聞き入りになられた。それにしても、嘉永六(1853)年のペリー来航以来、いまだかつてなかった困難が続き、先の孝明天皇が毎年大御心を悩ませられていた事情は人々の知るところである。そこで明治天皇はお考えを決められて、王政復古、国威回復の御基本を確立されたので、今からは摂政・関白・幕府などを廃止し、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、天下の政治を行われることになった。すべて神武天皇が始められたのにもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な論議をつくし、国民と喜びと悲しみをともにされるお考えなので、おのおの勉励し従来のおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義をつくして国に報いる誠の心をもって奉公するようにせよ。

つまり、

1.(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。

2.京都守護職・京都所司代の廃止。

3.江戸幕府の廃止。

4.摂関制度(摂政・関白)の廃止。

5.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。

というものである。

土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)し、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上した。しかし、徳川家は天皇の下で、引き続き実権を手にする事を想定していた。また、大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力が奪い返す動きもあり、次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かった。それらを完全に排除するために、「王政復古の大号令」が出されたのである。

この宣言は、江戸幕府の廃絶と、天皇による新政府の成立を宣言するものであった。明治天皇は満15歳と若く、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が手していたが、形式上は天皇親政を宣言するものであった。王政に「復古」するといいながらも、伝統的な摂政・関白以下の朝廷の秩序を一新することで上級公家を排除し、徳川が新政府の主体となる芽をつみ、天皇親政の名の下、岩倉ら一部の公家と薩長が主導する新政府を成立・宣言する内容であった。 三職に任命されたのは以下の人物である。


総裁

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)

議定(皇族・公卿・諸侯から10名)

仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津忠義(薩摩少将)、徳川慶勝(尾張大納言)、浅野茂勲(安芸少将)、松平慶永(越前宰相)、山内豊信(土佐前少将)

参与(公卿・諸藩代表者20名)

岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩(3人)、越前藩(中根雪江ら3人)、芸州藩(辻将曹ら3人)、土佐藩(後藤象二郎ら3人)、薩摩藩(西郷、大久保ら3人 

参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、詳説日本史史料集(山川出版社)、ウィキペディア(引用ここまで)




 
 
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