「御一新」は「世均(よなら)しのためだった」!
だが、これは悉く否定された!
だが、この思想は憲法第14条に明文化されたが、未だ果実とはなっていない!
日本国憲法は、大日本帝国憲法信奉者によって、未だ「道半ば」だ!
信濃毎日 斜面(3日)
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161103/KT161102ETI090008000.php
「文化の日」を「明治の日」に改める。そう訴え祝日法改正を求める団体「明治の日推進協議会」が1日、国会内で集会を開いた。自民党などの国会議員が参加。稲田朋美防衛相も実現に意欲を示したと伝わる
11月3日は明治天皇の誕生日だ。1927(昭和2)年、明治天皇をたたえる日として「明治節」が制定された。紀元節などと並ぶ「四大節」とされ、学校ではご真影を前に、先生が教育勅語を読み上げた。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が廃止する
代わって1948年制定の祝日法で生まれたのが「文化の日」だ。趣旨は「自由と平和を愛し文化をすすめる」。2年前の11月3日には日本国憲法が公布された。天皇崇拝が人々を戦争に駆り立てた軍国日本と決別し、平和国家、文化国家として生きるとの思いも込められたはずだ
「明治の日」を主張する人々には明治こそが近代日本の原点との意識が強いのだろう。そこに悲惨な戦争に至った歴史への深い自省があるのだろうか。あの悲しい教訓をくみ取った憲法を原点にせねば戦後日本の平和も繁栄もなかったと、私たちは考える
政府は明治維新150年の2018年の施策を検討し始めた。「明治の精神に学び日本の強みを再認識することは重要」と菅義偉官房長官が発言すると、推進協は緊急声明を出し明治の日制定を中心に据えるよう求めた。素早い反応である。 (引用ここまで)
信濃毎日 斜面 (11月8日)
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161108/KT161107ETI090015000.php
秩父事件の最後の戦いとなった小海町東馬流では、住民の手で史跡が大切に守られている。1884(明治17)年11月9日早朝、北相木村の菊池寛平率いる困民軍が鎮圧された地だ。困民軍13人と警官1人が戦死したほか、農家の女性も巻き添えになった
井出ジャウ。当時30歳、4人の子どもがいた。埼玉県秩父地方の農民らが武装蜂起した10日間の騒乱でただ一人、一般人の犠牲である。乳飲み子をおぶって自宅から避難の途中、鎮圧軍の銃弾が太ももを貫いた
5日後の本紙は「暴徒要報」と題した記事で、ジャウが白い手巾をかぶっていたために鉢巻きをした賊と間違われたらしく、気の毒だった―と報じている。幸い無事だった背中の男児は実家に預けられた。ちょうど弟夫婦にも長男が生まれていたからだ
しかし分け与えるには母乳が足りず、2人とも栄養失調で亡くなった。この乳児も犠牲者と言えよう。事件の背景には、明治政府の重税とデフレ政策による生糸暴落がある。農民は借金にあえぎ、高利貸の横暴を抑えるように求めたが、聞き入れられなかった
先日、東馬流を訪ねると小菊が家々を彩っている。かつては「逆賊」として口に出すのもはばかられたが、地元では好意的に見ていたようだ。悲しみに暮れたジャウの実家でも「世均(よなら)しのためだった」と語られたという。農民の思いが伝わる山村の史跡である。 (引用ここまで)
新政権は、スリカエ・ゴマカシ・デタラメ・大ウソつき政権だった!
「縉紳・武弁,堂上・地下の別なく,至当の公議を竭けっし」
「旧来驕惰の汚習を洗い」
「旧弊御一洗」「百事御一新」
「行諸事 神武創業之始ニ原キ」を口実にして全てが断行されたのだった!
これは安倍派によって現在進行形!
王政復古の大号令
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/haihan0.htm
十二月九日 宮堂上へ諭告
徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条今般断然被 聞食候抑癸丑以来未曽有之国難 先帝頻年被害悩 宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決 叡慮 王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為 行諸事 神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉 公候事
徳川内府(内大臣 徳川慶喜),従前御委任の大政返上・将軍職辞退の両条,今般断然聞食きこしめされ候そうろう。そもそも癸丑きちゅう(嘉永6=1853年:ペリー来航)以来,未曽有みぞうの国難,先帝(孝明天皇)頻年ひんねん宸襟しんきんを害悩されし御次第,衆庶の知る所に候。これにより叡慮決せられ,王政復古,国威挽回の御基おんもとい立たせられ候間そうろうあいだ,自今,摂関・幕府等(を)廃絶,すなわち今先仮に総裁・議定・参与の三職(を)置せられ,万機行わせらるるべく,諸事,神武(天皇)創業の始めに原き,縉紳・武弁,堂上・地下の別なく,至当の公議を竭けっし,天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮につき,各おのおの勉励し,旧来驕惰の汚習を洗い,尽忠報国の誠をもって奉公致すべく候事。
一 内覧 勅問御人数国事御用掛議奏武家伝奏守護職所司代総テ被廃候事
内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代,総すべて廃せられ候事。
一 三職人躰
総裁
有栖川帥宮 (熾仁親王)
議定
仁和寺宮 (嘉彰親王)
山階宮 (晃親王)
中山前大納言 (中山忠能)
正親町三条前大納言 (正親町三条実愛)
中御門中納言 (中御門経之)
尾張大納言 (徳川慶勝)
越前宰相 (松平慶永)
安芸少将 (浅野長勲)
土佐前少将 (山内豊信)
薩摩少将 (島津忠義)
参与
大原宰相 (大原重徳)
万里小路右大弁宰相 (万里小路博房)
長谷三位 (長谷信篤)
岩倉前中将 (岩倉具視)
橋本少将 (橋本実梁)
尾藩三人 (尾張藩3人:荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
越藩三人 (福井藩3人:毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
芸藩三人 (広島藩3人:桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
土藩三人 (土佐藩3人:後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
薩藩三人 (薩摩藩3人:岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)
一 太政官始追々可被為興候間其旨可心得居候事
太政官,始め追々興せらるべき候間そうろうあいだ,その旨,心得おくべく候事。
一 朝廷礼式追々御改正被為在候得共先摂「ろく」*1門流之儀被止候事
朝廷礼式,追々御改正あらせられ候そうらえども,摂「ろく)」・門流の儀,止められ候事。
*1:「ろく」=「竹かんむり」+「録」
一 旧弊御一洗ニ付言語之道被洞開候間見込有之向ハ不拘貴賎無忌憚可致献言且人材登庸第一之御急務ニ候故心当之仁有之候者早々可有言上候事
旧弊,御一洗につき,言語の道,洞開せられ候間,見込これある向きは貴賎に拘かかわらず忌憚きたんなく献言いたすべし。かつ,人材登庸,第一の御急務に候故ゆえ,心当りの仁じんこれ有り候者もの,早々,言上あるべく候事。
現代語訳:「旧弊一新につき言論の道を広く開くこととなったので考えがあるものは身分にかかわらず忌憚なく上申せよ。また、人材登用を急務とするので心当たりの人物がいれば早々に推薦せよ」
一 近年物価格別騰貴如何共不可為勢富者ハ益富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至リ候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大宝百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事
近年,物価(の)格別騰貴,如何いかんともなすべからず,勢富者は益々ますます富を累かさね,貧者は益々窘急きんきゅうに至り候趣おもむき,畢竟ひっきょう政令不正より致す所,民は王者の大宝,百事御一新の折柄おりがら,旁かたがた,宸衷しんちゅう悩ませられ候。智謀,遠識,救弊の策これある者,誰彼なく申し出ずべく候事。
一 和宮御方先年関東ヘ降嫁被為在候得共其後将軍薨去且 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被為許候処始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被為促度近日御迎公卿被差立候事 右之通後確定以一紙被 仰出候事
和宮御方,先年関東ヘ降嫁あらせられ候えども,その後将軍(家茂)薨去こうきょ,かつ先帝(孝明天皇)攘夷成功の叡願より許せられ候ところ,始終,奸吏の詐謀に出で,御詮これ無き上は,旁かたがた,一日も早く御還京(を)促させられたく,近日,御迎えの公卿(を)差し立てられ候事。
右之通後確定以一紙被 仰出候事
右の通り確定の後,一紙をもって仰おおせ出され候事。
慶応3年12月9日 (太陽暦:1868年1月3日)
「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第13
王政復古の大号令口語訳
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%8F%B7%E4%BB%A4
内大臣徳川慶喜がこれまで天皇から御委任されていた政権を返上し、将軍職を辞退したいという二つの申し出を、このたびきっぱりとお聞き入りになられた。それにしても、嘉永六(1853)年のペリー来航以来、いまだかつてなかった困難が続き、先の孝明天皇が毎年大御心を悩ませられていた事情は人々の知るところである。そこで明治天皇はお考えを決められて、王政復古、国威回復の御基本を確立されたので、今からは摂政・関白・幕府などを廃止し、直ちにまず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、天下の政治を行われることになった。すべて神武天皇が始められたのにもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な論議をつくし、国民と喜びと悲しみをともにされるお考えなので、おのおの勉励し、従来のおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義をつくして国に報いる誠の心をもって奉公するようにせよ。
つまり、
1.(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。
2.京都守護職・京都所司代の廃止。
3.江戸幕府の廃止。
4.摂関制度(摂政・関白)の廃止。
5.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。
というものである。
土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)し、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上した。しかし、徳川家は天皇の下で、引き続き実権を手にする事を想定していた。また、大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力が奪い返す動きもあり、次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かった。それらを完全に排除するために、「王政復古の大号令」が出されたのである。
この宣言は、江戸幕府の廃絶と、天皇による新政府の成立を宣言するものであった。明治天皇は満15歳と若く、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が手していたが、形式上は天皇親政を宣言するものであった。王政に「復古」するといいながらも、伝統的な摂政・関白以下の朝廷の秩序を一新することで上級公家を排除し、徳川が新政府の主体となる芽をつみ、天皇親政の名の下、岩倉ら一部の公家と薩長が主導する新政府を成立・宣言する内容であった。 三職に任命されたのは以下の人物である。
総裁
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)
議定(皇族・公卿・諸侯から10名)
仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津忠義(薩摩少将)、徳川慶勝(尾張大納言)、浅野茂勲(安芸少将)、松平慶永(越前宰相)、山内豊信(土佐前少将)
参与(公卿・諸藩代表者20名)
岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩(3人)、越前藩(中根雪江ら3人)、芸州藩(辻将曹ら3人)、土佐藩(後藤象二郎ら3人)、薩摩藩(西郷、大久保ら3人
参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、詳説日本史史料集(山川出版社)、ウィキペディア(引用ここまで)