14日のNHK日曜討論で、共産党の小池晃議員に詰められて、砂川最高裁判決は米軍が憲法の「戦力不保持」を争点としていること、集団的自衛権行使などは、明記すらしていないことを認めたことを、ここにきて、またまた往生際も悪く弁明・言い訳していることが浮き彫りになりました。
2.ただ、個別事件について示されたものであっても、その中に示された一般的法理については、尊重しなければいけないということは、極々当たり前のことであると理解しています。
砂川事件最高裁大法廷判決 http://tamutamu2011.kuronowish.com/sunagawasaikousai.htm
砂川最高裁判決の中に示された「法理」とは何か!今一度確認する必要があります。
それは、憲法平和主義の原点、歴史的意義を確認せざるを得なかったことです。
もう一つは、その中で確認している日本国憲法を捻じ曲げた日米支配層に偽装・偽造の「法理」です。
更に言えば、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」(憲法第81条)という任務を自ら放棄したことです。
その理由は、第一審において、米軍を、憲法9条第2項の「戦力」として規定して、憲法違反と断罪した、いわゆる伊達判決を覆すために、そのためにだけにねじ込んだ身勝手な、スリカエ・ゴマカシ・デタラメの偽装・偽造の法理をでっち上げ、正当化するためだったからです。
その最大の根拠は、「非軍事抑止力」論ではなく、「軍事抑止力」輪にあることは、「わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである」として、主権者を黙殺した秘密条約であった旧安保条約の「目的」を憲法前文を従属させて述べていることを視れば明らかです。
「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して」行うべきは、「対話と交流」路線です。それは「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という「政治道徳の法則」を使って、国際紛争を解決するということです。これこそが、国際紛争を解決する手段に他なりません。これは国際公約です。これを捻じ曲げてきたのが戦後自民党政治だったのです。
このことは、同じ判決の中で真逆の結論=法理にスリカエたのです。以下ご覧ください。
「そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定」だということを捻じ曲げたことは、この判決文を素直に読めば如何にゴマカシか、一目瞭然です。
3.最高裁は憲法前文の平和的生存権を引いて、国の存立を全うするための必要な自衛の措置は講じうる、これは最高裁の示した一般的法理であり、それについて、特に私たち憲法尊重擁護義務が課された者は、尊重しなければならないと思っています。
そもそも「憲法前文の平和的生存権」とは、、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」すること、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ること、そのような状態を構築するために必要な権利のことです。
この「平和のうちに生存する権利」という新しい権利観を打ち出したのは、第一次世界大戦以後の戦争違法化の流れと第二次世界大戦後の世界人権宣言の到達点を踏まえたものであること、憲法97条の「基本的人権の本質」に明記されていることは周知の事実です。
この思想を使えば、「国の存立を全うするための必要な自衛の措置」が、「軍事抑止力」論優先でないことは、先に示したとおりです。
4.しからば国の存立を全うするための必要な自衛の措置は何か。これはまさに政治家が考えなければならないことであり、その必要な自衛の措置の中に、国際法的には集団的自衛権と呼ばれるものが含まれるのであれば、その限りにおいて、集団的自衛権も容認されるという当たり前のことを当たり前に、素直に言っているだけであります。
「国の存立を全うするための必要な自衛の措置は何か。これはまさに政治家が考えなければならないことで」でありません。ゴマカシです。
それは、憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という「国民主権」論、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(憲法第12条)という思想にこそあります。
高村氏は、「その必要な自衛の措置の中に、国際法的には集団的自衛権と呼ばれるものが含まれるのであれば」という「前提」そのものが崩れていることを隠ぺい、ゴマカシています。
「国の存立を全うするための必要な自衛の措置は何か」という問いかけは、「憲法平和主義を使う」「憲法平和主義を活かす」ということです。しからば、
日本国民は、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する」という国際公約を「不断の努力」で「保持しなければならない」ということを肝に銘じなければなりません。
そのためには、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」「政治道徳の法則」、すなわち、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という「普遍的な」「法則に従ふこと」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「対話と交流」を深め、発展させることです。
このことを「正当に選挙された国会における代表者」は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」することです。このことは「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という憲法前文に明確です。
5.新三要件においては、国の存立を全うするための必要な自衛の措置は何かということについて、極めて厳格な新三要件を示して、この範囲で許される、そして国際法的に集団的自衛権と言われるものであっても、国際法的に集団的自衛権という名前がついたら、国の存立を全うするものであっても、あるいは、国民の権利を覆す明白な危険がある場合であっても、平和的生存権がなくなるということは法理上考えられないことであります。
「新三要件」を正当化していますが、この閣議決定そのものが、自らが憲法解釈を変質させてきた経過すら投げ出して決定してきた経過、そしてより本質的には、国民主権主義、議会制民主主義に反していることは明らかです。
6.司法審査は個別事件についてやるものだということと、最高裁がそこで示した一般的法理を尊重するのかしないのかということは別の話であり、我々憲法尊重義務のある者は当然尊重しなければならない。学者はそうではない。学問の自由がありますから。最高裁が示した法理であろうと、それが間違っているということもできます。あくまで最高裁が示した一般的法理について憲法尊重擁護義務のある者は尊重するという、単純なこと、当たり前のことを言っていると思っています。
最高裁が「裁判所の司法審査権の範囲外のもの」であるという、いわゆる「統治行為」論に基づいて「司法審査」を行って「間違っ」た「法理」を示したことは、すでに明らかにしました。
このことは「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という憲法第73条第3項に違反して、また「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である 」という「任務」を自ら放棄して米国政府と日本国政府の意向を受けて裁判が行われていたことは、米公文書によって明らかにされていることです。
そのような「憲法違反」によって行われた「司法審査」に基づく「法理」が成り立たないこと、しかも第一審で断罪された「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」という憲法判断が、その後の日本の政治に生きていることは明らかです。
だからこそ、この伊達判決に遡って、リセットする政治こそ、憲法を活かした政治、憲法を活かした「法理」に基づく政治の具体化だと確信するものです。
以上のことを踏まえると、高村氏の主張は、二重三重、四重以上にスリカエ・ゴマカシ・デタラメ・大ウソのトリックと言わなければなりません!
7.この法案は、日本人の平和とくらしを守るための法律であり、危機はいつ起こるか分からないので、できるだけ早く成立させた方が良い。
これこそ、欺瞞そのものです。ポツダム宣言の趣旨・本質を理解しない、いや認めない安倍首相が、その「危機」論の相手である中国や北朝鮮との「対話と交流」を挑発的言動を繰り返すことで、相手の責任に転嫁することで、自らが拒否し続けていることをゴマカシ、スリカエながら、その「危機」を放置し、泳がせ、それを口実に「脅威」なるものを扇動して「新三要件」なるものをでっち上げていることは明らかです。
そもそも安倍政権が憲法平和主義を使う政権であるならば、「危機はいつ起こるか分からない」などと、「傍観者」であることはできません。積極的に「対話と交流」に持ち込む外交政策が必要不可欠です。こうした立場に立つのではなく、ひたすら「危機はいつ起こるか分からない」などと「傍観者」的立場から、「脅威」を扇動しているのは、自らの政権の無能無策ぶりを浮き彫りにするだけです。
8.一方で、これだけの法案なので十分な審議が必要であるということはその通りであると思っていますので、会期は十分な審議をするに必要な時間を取ってもらいたいと、私個人としては思っています。私はいつまでということは、内部的にも言わないことにしています。この法案を審議するに十分な時間を取ってくださいと、会期を決める立場にある人達にそういうお願いをしているということです。
この立場をそのまま昨年の閣議決定に戻していくことが必要不可欠です。そうして閣議決定の前に戻し、今一度憲法平和主義を活かした「対話と交流」の外交政策を検討することです。
「傷口を広げるので、これ以上言わない方がいい」
日本の政治を
違憲の砂川最高裁判決前にリセットせよ!
ボタンの掛け違いは糾し、正せ!
自民内部からも異論 憲法学者「違憲」「無視は傲慢」 2015年6月9日 夕刊 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015060902000250.html
自民党総務会で九日、衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者三人がそろって他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を「憲法違反」と明言したことをめぐり、安全保障関連法案に対してあらためて疑問の声が上がった。谷垣禎一幹事長は、法案採決にあたっては党議拘束をかける意向を示した。総務会では、村上誠一郎衆院議員が「憲法学者の言うことを自民党だけは聞かなくていいという傲慢(ごうまん)な姿勢は改めるべきだ」と指摘。法案採決では党議拘束を外すよう、執行部に求めた。木村義雄参院議員は、砂川事件の最高裁判決を根拠に集団的自衛権の行使を認めるという憲法解釈に対して「短絡的すぎる。そういう主張をしていると傷口を広げるので、これ以上言わない方がいい」と忠告した。一方、谷垣氏は安保法案が国会提出に先立つ事前審査で了承されていることを踏まえ、「党としてばらばらの対応は取れない」と強調した。二階俊博総務会長はその後の記者会見で、党議拘束をかけるかどうかについて、「大きな問題でもあり、国会審議の状況を見ながら方向を定めていきたい」と述べるにとどめた。(引用ここまで)