2019年3月11日(月)雨 10.4℃~4.6℃
「3.11から8年を迎えて」
三月十一日がまた巡ってきた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から丸8年となった。亡くなられた方々に祈りを捧げる。
福島県立博物館では”平成30年度震災遺産を考える”特集展を開催している。会期は平成31年2月16日~4月11日。
3.11 博物館に出かけた。入口に特集展について次のようなあいさつが掲示されていた。
「平成23年3月11日に発生した東日本大震災は、今年で8年を迎えます。あの日を境に私たちの暮らしは一変しましたが、徐々に日常を取り戻し始めています。一方、年月を重ねるなかで震災の記憶は少しずつ色あせ、いちどこで何を経験したのかすらわからなくなっていることも確実に増えています。
震災が生み出した困難な状況や、それに立ち向かってきた人々の努力をどのように共有し、後世へと伝えていけばよいのでしょうか。
当館では、平成26年度から毎年この季節に、多くの方々と一緒に震災を考える展覧会、特集展「震災を考える」を実施してきました。今年度は、避難生活の長期化について考え、東日本大震災と向き合う機会としたいと思います。略・・・・・。」
会場にはいると富岡町「いがり理容室時計看板」のパネル。午後2時53分を指して止まったまま。まさに震災遺産だ。この時刻に自分はどうしていたのだろいうか。北会津公民館2階でパソコン教室を終えたばかりだった。震度5で揺れの大きさに立ちすくんだ。
富岡町や浜通りでは大変なことが起こっていた。津波が襲い、家屋倒壊、流失、死亡、行方不明の大被害。当時の様子がパネルと説明版で展示されて心打つものであった。特に、パトカーで避難誘導にあたっていた2人の警察官のうち1人が亡くなり、1人が行方不明となっている。殉職された方に合掌。
東北地方太平洋地震に続いて沿岸に到達した津波は、福島第一原子力発電所を襲い、原発は外部電源を失い緊急停止した。地震発生翌日3月12日早朝、国から「第一原発10km圏内避難指示」が発令され大規模な避難が始まり、国が手配したバスに乗り込んで西に向かった。その後も避難区域は拡大していった。
津波の威力と破壊のエネルギー、災害対策本部の再現をとおして全町避難決断に至る緊迫感、長期化する避難生活、避難先から故郷へ通い続けて記録した風景写真など。
この特集展をみて、仮設住宅から災害公営住宅、防潮提や土地のかさ上げなど、復旧にむけて着々と進んでいる。放射性物資の取り除きも進み、ふるさとへ戻ることもできるようになってきている。会津若松市に役場ごと全町避難した大熊町は新庁舎ができ間もなくふるさとへ戻る。
しかし、双葉町のように帰還困難地域があり復旧復興が達成できたとは言えない。
廃炉作業はいつまで続くか、その技術はあるのか。日本の電力は原発からの脱却に舵をきるべきだとおもう。
だが、安倍首長や経団連の会長は原子力推進を掲げている。世界の大きな流れはドイツのように再生可能エネルギーにむかっているというのに・・・・。
「3.11から8年を迎えて」
三月十一日がまた巡ってきた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から丸8年となった。亡くなられた方々に祈りを捧げる。
福島県立博物館では”平成30年度震災遺産を考える”特集展を開催している。会期は平成31年2月16日~4月11日。
3.11 博物館に出かけた。入口に特集展について次のようなあいさつが掲示されていた。
「平成23年3月11日に発生した東日本大震災は、今年で8年を迎えます。あの日を境に私たちの暮らしは一変しましたが、徐々に日常を取り戻し始めています。一方、年月を重ねるなかで震災の記憶は少しずつ色あせ、いちどこで何を経験したのかすらわからなくなっていることも確実に増えています。
震災が生み出した困難な状況や、それに立ち向かってきた人々の努力をどのように共有し、後世へと伝えていけばよいのでしょうか。
当館では、平成26年度から毎年この季節に、多くの方々と一緒に震災を考える展覧会、特集展「震災を考える」を実施してきました。今年度は、避難生活の長期化について考え、東日本大震災と向き合う機会としたいと思います。略・・・・・。」
会場にはいると富岡町「いがり理容室時計看板」のパネル。午後2時53分を指して止まったまま。まさに震災遺産だ。この時刻に自分はどうしていたのだろいうか。北会津公民館2階でパソコン教室を終えたばかりだった。震度5で揺れの大きさに立ちすくんだ。
富岡町や浜通りでは大変なことが起こっていた。津波が襲い、家屋倒壊、流失、死亡、行方不明の大被害。当時の様子がパネルと説明版で展示されて心打つものであった。特に、パトカーで避難誘導にあたっていた2人の警察官のうち1人が亡くなり、1人が行方不明となっている。殉職された方に合掌。
東北地方太平洋地震に続いて沿岸に到達した津波は、福島第一原子力発電所を襲い、原発は外部電源を失い緊急停止した。地震発生翌日3月12日早朝、国から「第一原発10km圏内避難指示」が発令され大規模な避難が始まり、国が手配したバスに乗り込んで西に向かった。その後も避難区域は拡大していった。
津波の威力と破壊のエネルギー、災害対策本部の再現をとおして全町避難決断に至る緊迫感、長期化する避難生活、避難先から故郷へ通い続けて記録した風景写真など。
この特集展をみて、仮設住宅から災害公営住宅、防潮提や土地のかさ上げなど、復旧にむけて着々と進んでいる。放射性物資の取り除きも進み、ふるさとへ戻ることもできるようになってきている。会津若松市に役場ごと全町避難した大熊町は新庁舎ができ間もなくふるさとへ戻る。
しかし、双葉町のように帰還困難地域があり復旧復興が達成できたとは言えない。
廃炉作業はいつまで続くか、その技術はあるのか。日本の電力は原発からの脱却に舵をきるべきだとおもう。
だが、安倍首長や経団連の会長は原子力推進を掲げている。世界の大きな流れはドイツのように再生可能エネルギーにむかっているというのに・・・・。