銅像・江川英龍と反射炉
江川 英龍(ひでたつ・1801-1855)は
江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。
通称の太郎左衛門 号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。
韮山代官は 伊豆、駿河、相模、甲斐、
武蔵にある幕府直轄地の支配を担当していた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航で
江戸湾海防の実務責任者であった
江川英龍は 洋学とりわけ近代的な沿岸防備の
手法に強い関心を抱き、
大砲の鋳造法の洋書のみを頼りに
大規模な反射炉の建造に取りかかる。
しかし 1855(安政2)年 完成を見ることなく病死してしまった。
後を継いだ 江川英龍の三男・江川英敏は
反射炉の建設を行なっていた佐賀藩に協力を求め
1857(安政4)年に完成した。
「鉄砲方」とは 江戸幕府の職名の一つ。
若年寄の支配下にあって、銃砲の製造や射撃の教授などにあたった者。
井上・田付両家が世襲している。
ほかに長崎鉄砲方・大坂鉄砲方があった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます