あかない日記

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ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 117 6号棟「生活」

2018-08-15 | ポーランド紀行

 

 今日8月15日は 日本の終戦記念日

ここアウシュヴィッツ収容所は
1940年5月20開所から4年8ケ月

1945年1月27日 
ソビエト連合の赤軍によって解放された。

 

3段ベット

 

第6号棟のテーマ「被収容者の生活」

 

床に直に敷かれたワラ布団

これで氷点下に下がる厳しい冬を過ごしていたとは。
 

 

  

トイレ室を見ると、そこには仕切りもなく 
便座も付いていない洋式便器が並んでいる。

 このトイレはポットン式ではなく
水洗になっている点は衛生的なようだ。

 

 

  洗面台

 

 

被収容者の日々の食事

朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物
(コーヒー豆から抽出されたものではない)。

昼食:ほとんど具のないスープ。

夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど 


労働力として 殺さぬよう
「10人に1人を生かしておく」ということで

カロリー計算がされていたという。

さらに その食事も 特権階級の
”カポた”ちが横取りしたりして

十分には行き渡らなかったという。

 重労働と飢えにより 体力は完全に衰弱し
多くの被収容者は 栄養失調となり餓死していった。

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 116 5号棟「犯罪証拠」

2018-08-14 | ポーランド紀行

 約40kgのメガネ

  第5号棟のテーマは「犯罪証拠」

私物は、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収された。

与えられたものは唯一 縦じまの服だけであった。

 

 

460本の義手と義足 松葉杖

義手・義足などつけた者は 
労働力にならないと 判断され

   即 ガス室送りとなった。

 

 
     3800個のトランク(そのうち2100個に文字がある)

「収容所は良いところ」「しばらくすれば帰れる」と思い、
日用品や手で持てる程度の財産をカバンに詰め込んできた。


被収容者を安心させるために 後で分かるようにと
大きな字で名前や住所などを書かせていたという。


決して本人戻ることはなかった。

 

8万足以上の靴

 ユダヤ人(110万人)ポーランド人(15万人)
ジプシー(2.3万人)ソ連軍捕虜(1.5万人)

その他(2.5万人)が 履いていただろう靴



                                  * 数字は博物館所蔵数

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 115 4号棟「絶滅」

2018-08-13 | ポーランド紀行

 

 

 収容棟内部の見学開始 

  第4収容棟は「絶滅」をテーマとしている。

ガス室に送られる前の被収容者から
強制的に切り取られた 膨大な量の髪の毛もあり
その髪の毛は
1kgあたり半マルクで販売され
ドイツ本国で靴下や毛布用の職布として利用されたという。

あまりにも生々しいとし
この部屋は写真撮影禁止になっていた。

 

 地下ガス室のジオラマ

 

 


食用の空き缶ではありません。

殺人ガスに使われたという「チクロンB」の空き缶という。

表向きは“殺虫剤”として納入されていたが
製造元の会社は虐殺に使われていたことは知っていたようだ。

収容所開設の当初は 銃殺が主な手段だったが
銃だと当たり所により即死とはいかず
また 泣き叫ぶ声が神経に障るということで
毒ガスによる “処理” が基本方針となったという。

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 114 収容棟

2018-08-12 | ポーランド紀行

 

 



正門ゲート(A地点)から

有刺鉄柵の中 恐る恐る負のゾーンへ 

レンガ造りの収容棟が整然と並ぶ。

  各ナンバーがふられて その数 28棟 

最大時 28000人が収容されていたという。


ドイツ軍は 撤退して行く時に

証拠隠滅のため破壊していったが
 

今は 復元するなどして13棟が公開されている。

 写真  赤い線のとおり見学する。

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 113 各地から連行

2018-08-11 | ポーランド紀行





ヨーロッパ各地と鉄道で結ばれて
交通の便が良いという理由と
たまたま広大な土地があったという理由から
ここに収容所が建てられた。


 

1940年から1945年の間に
少なくとも130万人の人々が
ハンガリー(43万人) ポーランド(30万人)
 フランス(6,9万人) オランダ(6万人)
ギリシア(5.5万人)・・・などの各地から
貨車でここまで運ばれてきた。

                     ナチスがどれほど強大だったかがよく分かる。



 


正面ゲートをくぐった人々は
 「収容理由」「思想」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などに
区分された後
「労働者」「人体実験の検体」「価値なし」に分けたという。


そして「価値なし」となった場合はガス室送りなり
そのほとんどが女性や子供、老人たちだった。


110万人 すなわち85%が犠牲者となっており
犠牲者の90%がユダヤ人であるとされている。

 

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 112 正面ゲート

2018-08-10 | ポーランド紀行

 

 

正門ゲートに
”ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になる)
という言葉が掲げられている。


しかし この言葉とは裏腹に過酷な労働と
不衛生な環境 ガス室 銃殺 拷問などにより

自由を手にできぬまま ほとんどの人が亡くなっていった。



 


左からの「ARBEIT」の ”B” の字が
頭でっかちの逆さ文字になっている。


このスローガンを作らされた被収容者が

せめてもの抵抗の証を残したのではないかという説がある。

 

 

 
 表向きに強制収用所でないことをアピールするため、
     毎日音楽隊が行進曲を演奏していたという。

 


正門ゲートをくぐって振り返る。 

 見張り台のある建物は 
SS隊員(アドルフ・ヒトラー武装親衛隊)の
警備本部・収容所事務室。

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 111 世界遺産

2018-08-09 | ポーランド紀行

  

 

高圧電流が流れる有刺鉄線で二重に囲まれ
ナチスの目が光る監視塔からは銃口が・・・。

    
絶望のあまり 自ら鉄条網に触れて 自殺する者もいたという。


 

  ユダヤ人だけでなく 政治犯 障害者 同性愛者 聖職者など
   あらゆる分野の人が年齢関係なく 小さな子供までも収容された。

1947年 ポーランドは
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を
後世への教訓のために保管することが決定し
「アウシュヴィッツ博物館」を設立した。


1979年に強制収容所の遺構は
第二次世界大戦における人類の過ちを
象徴する悲劇の証拠であり 後世に語り継ぐべきものとして
ユネスコの世界遺産(負の遺産)に登録された。


因みに ポーランド政府は「ポーランド人が
設置したかのような印象を与える」として
登録名称の変更を要請していた結果
2007年に「アウシュヴィッツ強制収容所」から
「アウシュビッツ・ビルケナウナチス・
ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945年)」
と名称を変更している。


*最近のポーランド政府の情報

 

(2018/3/1 読売新聞)

「ポピュリズム」とは
一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して
大衆の支持のもとに既存のエリート主義である
体制側や知識人などと対決しようとする政治思想
または政治姿勢のこと。(ウィキペディア)


 

 (2018/7/23 朝日新聞)

 

 更に 政府は 愛国主義を打ち出し
 賠償請求を主張し 難民受け入れを拒止している。 
 

 

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 110 アウシュヴィッツ収容所 

2018-08-08 | ポーランド紀行

 

 ビジターセンター

 



クラクフの西 54kmの町オシフィエンチムにある
ナチス・ドイツの強制収容所へ。


収容所は 1941年に造られ 1945年までの
短期間に100万人以上のユダヤ人が
虐殺されたといわれている。

跡地は 収容者の遺物や収容棟
ガス室 死体焼却炉などが残されて
現在 国立の博物館となっており
 当時の惨劇を今に伝えている。

 なお「アウシュヴィッツ」は この地のドイツ語の地名。
正式名称は「国立オシフィエンチム博物館」。


博物館になったのは 1945年の解放後
元被収容者であったポーランド人たちが
犠牲者の追悼と 家族の手がかりを求めて訪れる人々のため
施設の保護に動いたのが始まりであった。


1947年には最初の展示が行われ、
以来 戦争の悲惨さを後世に残すための記憶の場として

また 墓標を持たない多くの犠牲者の
墓地としての役割を果たし続けている。

この博物館を訪れる人は 後を絶たず
2016年の訪問客数は 200万を超えた。


このアウシュヴィッツは
入場料は徴収していない。


その保存・維持・修復・教育活動は、ポーランド政府
外国からの資金援助 ユダヤ人組織などからの
寄付金で すべてまかなわれているそうだ。

 2006年 ドイツ出身のローマ法王ベネディクト16世が
本人の強い希望で訪れ 犠牲者への祈りを捧げている。

 

                     


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 109 第3層ホール

2018-08-07 | ポーランド紀行

 

 

ツアー最終地点 地下3層 125mまで降りてくる。

休憩所 土産物店があり 博物館も併設されている。 



結婚式などのイベントも行われるというレセプションホール

 

 フードコート

 

 聖ヨハネ礼拝堂

このような施設の他にも
ミネラル分を含んだ塩には殺菌作用があるため
坑内の空気が浄化されて 気管支喘息や
アレルギー疾患に効果があるといわれ 
地下211mには呼吸器系疾患の療養所があり
「岩塩坑セラピー」が行われているそうだ。

 

 

 
1時間半の見学を終え 
 地下135m地点
エレベーターで
いっきに地上へ

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 108 キンガ礼拝堂

2018-08-06 | ポーランド紀行

 

 

階段を下りて 地下101mの場所にある
「聖キンガ礼拝堂」へ

 手前でここから先は、
坑内でもっとも美しい場所といわれることから
写真撮影が有料となり10ズロチを払って
許可のシールを渡される。

 階段下に 奥行き54m 幅18m
高さ12mもある 堂々たる空間が広がる。

 

 

天井から下がるシャンデリアがまぶしい。

 

  ロバに乗ってエジプトに逃避する聖母子とヨセフの像。

 聖キンガ礼拝堂には祭壇と祈りの空間があり
それだけでなく、壁面には「最後の晩餐」や
「エジプトに避難する聖家族」
「ヘロデ王の幼児虐殺」のレリーフや
イエスや聖母マリア像
「イエスの誕生」といった彫刻をはじめ、
「新約聖書」の様々な物語が
岩塩によって表現されている。


坑夫たちが作業の合間に
あるいは作業の安全を祈って
こつこつと仕上げたが 
1896年から彫り始め
完成までに30年以上を要したそうだ。


シャンデリアをはじめ これら全部
 芸術家が彫ったのではなく 

名もなき坑夫たちが精魂込めて
芸術作品までに仕上げており

それにしても これが岩塩からできているとは・・・。

 

 

これらの作品を彫り上げた 坑夫のプレート 
一つ まだ刻まれていないのは 存命中とか?

 

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 107 キンガ姫

2018-08-05 | ポーランド紀行

 

「ヤノビツェの部屋」(地下2層 90m)


当時の坑夫たちは余った時間を利用し 
殺風景な地下空間にいろいろな岩塩の彫刻を
創って
心いやすなどしていた。

場面は 坑夫が採掘した岩塩(指輪ではなさそう)
「キンガ姫」が受け取るところのようにみえる。

この人形たちも岩塩で作られている。

10世紀ごろの伝説では
「ポーランドの王ボレスワフ5世と婚約した
ハンガリー王女キンガ姫は
一生独身でいるつもりであって気乗りがしなかっため
結婚指輪を泉に捨てしまった。


その後 ポーランドに嫁いできたキンガ姫は
 ヴィエリチカのある場所に強く惹かれ
その地に井戸を掘る事を命じたところ
岩塩層にぶつかり さらに掘り進むと
捨てた指輪が出てきた。」という。

その当時 塩が手に入らないために貴重であって
同じ重さの岩塩と金は
同等の価値があったころの話。

 キンガ王妃は 1999年ヴァチカンによって
列聖(聖人と認定)されている。


 

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 106 天文学者と大王

2018-08-04 | ポーランド紀行

 

 

「コペルニクスの間」(地下1層)

ポーランドの有名な天文学者
コペルニクス
生誕500年を記念して製作され
この間に像が置かれている。

 

台座には偉業が彫られている。

 

 

「カシミール大王の間」(地下1層)


岩塩で出来ているカシミール大王(1310-1370年)の胸像

カシミール3世は 14世紀のポーランドを治め
在位中 軍事・外交・内政のいずれにおいても
大きな成果をもたらし国民生活を大幅に向上させ
ポーランドを中欧の大国として強化発展させた。
 
このことから有能な統治者として
讃えられ「大王」とも称される。


また、法典の整備、通貨の発行など
統一国家としての体裁を整えた。
1364年にはクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を設立している。

1368年の法典の整備から600年を記念して
1968年に大王の像がここに置かれた。
と像の後ろのプレートにある。

現在ポーランドで発行されている
50ズウォティ紙幣の肖像にもなっている。

 

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 105 馬・貨車

2018-08-03 | ポーランド紀行

 

  

坑夫の作業は 塩を背負っての

重労働で また危険でもあった。

16世紀ごろには 馬を使うようになった。

木製の巻き上げ式搬出機やトロッコなど

次々と 新しい技術が取り入れられた。

 

馬は 数十頭いて 重要な働き手だが

坑内に大きな馬を入れるのは難しいため 

 

仔馬のときに坑内に入れ育て

成長し大きくして働かせたという。

 

 

 
 

馬の力をかりて 滑車を動かし

岩塩を地上に運びだしていた。

 

 

 
  2002年頃 馬車に代わり 貨車が導入された。

 

 


使われなくなった線路

 当然線路も塩岩盤の上に敷かれているので
 
手入れがないと湿気と塩ですぐに腐食状態に。

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 104 坑夫

2018-08-02 | ポーランド紀行

 

 

開けた空間には当時の坑道内の作業の様子や
ここで働いていた鉱夫たちの様子 

実際に使われていた梯子や
トロッコなどが展示されている。

 

岩塩を35kg入りの樽に詰めている様子

 


坑内にはメタンガスが発生することがあったため

長い松明でメタンガスの発生場所を
確認し ガスが微量なうちに燃やす坑夫の様子が
彫刻され再現されている。

メタンは 空気よりも軽い気体で無臭
空気中におけ容量 5~15%が爆発範囲になる。

 

 

 

 


ポーランド・ヴィエリチカ岩塩坑 103 岩塩

2018-08-01 | ポーランド紀行

 

 

天井には地下水とともに

染み出して固まった結晶は

  鍾乳のように見えるが これも塩。

 

 

 

レンガを積み上げた壁のように見えるが

 塩の岩盤をレンガのように削っている。

当然天井も 床 そして 壁も全部 岩塩。

 

 

 

地下2層 100m に地底湖がある。

人工のもので、地下水をここに集めて処理していた。

深さ9mもあって 塩分濃度は30%にもなり、

岩塩だけでなく ここからも食塩 バスソルト

工業用などの生産に使われているとのこと